There is no heaven.

一野 蕾

【苛立ちも消えるほどの】


 冬が終わって、暖かな夜だった。


(ああ、本当にイライラする!)


 深夜一時を回ろうかという時間、街中を一人の女が駆けて行った。

 息を弾ませ、ハイスピードのおかげか脚の筋肉は悲鳴をあげつつある。それでも女は走るのをやめようとはしなかった。苛立った舌打ちが置いていかれる。ランニングシューズがコンクリートを削る。

 女は会社員だ。日々代わり映えのない労働の中でも、ハプニングはある。社員間での情報共有がうまくいかないことも、思考を凝らし寝る間を惜しんで考えた企画が先方に受け入れられないことも、多々ある。今日はそれが続いた。おかげで彼女は、今までの人生の中で──思春期の頃を除いて──一番、苛立ちを感じていた。流れが悪いと、元運動部の勘で感じ取っていた。ギクシャクとして居心地の良くないオフィスを残業を終えて去り、直帰した女は、黒で揃えた気に入りのウェアを身にまとい、煮え立つ腹をおさめるために夜の街中を走り出したのだった。

 静まり返った住宅街を抜け、近くの森林公園に差しかかる。木の葉の擦れる音と、一定の足音と、荒い呼吸だけが響く。

 それ故に、頭の中が必要以上にぐるぐる回っていた。


(私がちゃんと言っとけば良かった、でもあそこは言わなくても分かるはずだった。いつもなら通じてた! それもこれも上司が、違う先方の、違う違う別部署の、違う、違う違う!)


 過ぎだことをうだうだ考えていても意味のないことは理解していた。しかし夜の静寂が彼女をそうさせた。走る以外に、このやり場のない熱を帯びた感情をどうにかする術を知らない。寝静まった真夜中は彼女の苛立ちを拒まなかった。

 ただひたすらに脚を動かす。足の親指が地面を蹴る。前に前に進む。池の水に月明かりが反射している。夜空に白い月が浮かんでいる。女を見下ろしている。長い息を吐く。そして吸う。生ぬるい風に汗が流れた。草を踏む。花が揺れる。自然の甘い香りが鼻をくすぐる。足を動かす。暖かな風が吹く。青空に雲が見える。


「──は?」


 ずっと回り続けていた足が止まった。

 女は眼前に広がる風景に絶句した。


「今は夜なはずだ……」


 青く澄み渡った晴天の下に、ずっとずっと奥まで、果てがないほど広い花畑が横たわっていた。非現実的な光景だった。遠くには建物らしき白んだ影も見える。目線を下ろすと、配色の整った色鮮やかな草花たちが、女の足元にも咲いていた。死にかけると花畑が見えると言うが、ここはまるで、絵に描いたような楽園のそれだった。

 動いたことによる汗ではない、別の意味の汗が頬を流れた。


「幻覚……? やだ、酒だって今日は飲んでないのに、もしかして私、どっかで寝落ちしたの? 夢……?」


 口にしておきながら、女は内心かぶりを振っていた。透き通った空気にまじる花の香りが、あまりにも現実的すぎた。ただこの楽園がどこかだけは、皆目見当がつかなかった。

 ゆく宛てもなく歩き出す。気怠い疲れをまとった体は、ゆっくりと花畑を進んだ。


「犬……うさぎもいる」


 花畑にいるのは女だけではなかった。白い毛並みの犬やうさぎ、白い鹿なんかが点々と花に埋もれていた。可愛らしいと頬を緩めるものの、やはりその光景に見覚えはない。白い動物から連想されるものと言えば、正直、一つしかなかった。

 しばしの間歩くと、そこに女の待っていたものがいた。


「あ」


 花畑の中、うさぎを抱いて座り込んだ少女が、つと音をこぼした女を振り返った。ブロンドの髪がはらりと肩を滑り降ちる。十五かそこらの少女の、女性としては不完全な美しさ、子供にしてはやや熟した可愛らしさに、女はたじろいだ。明らかに外国の血が混じった見た目になんと声をかければいいのか迷う。

 女が口をはくはくさせていると、少女はうさぎを離し──うさぎは花に埋もれてどこかへ行った──女の方を向いて立ち上がった。


「あの、あなた……」

「駄目だよ、ここでそんな真っ黒な服なんか着てちゃ」

「え?」


 少女は控えめに、女の格好を指さした。


神様・・は白い服以外許してくれないの。髪とか肌の色は変えなくてもいいけど、服は白しか着れないんだよ」

「そ、そうなの。……天国、って?」

「……お姉さん、もしかしてまだ生きてる人?」

「死んだ覚えはないけど。病気もしてないし……?」

「じゃあ迷い込んだんだ、大変。早く帰ろ」

「ま、待って。天国って? ここって何?」


 慌てて問う女に、少女は辺りを見回して語る。


「文字通り。ここは天国。死んだ後、来る場所」


 花びらが舞い上がった。桜の花びらに似ているが、全く違う名も知らない花だった。花びらの群れは空に浮き上がり、そのまま雲の影に消えていった。気候は暖かな春なのに、空の高さは冬のようである。


「……あなたは、死んでるの?」


 沢山聞きたいことがあったのに、女がついぞ口にできたのはその問いだけだった。少女は暗い金色で縁取られた瞼で一度まばたきし、笑みをたたえて頷いた。


「うん。ここに来て、もう長いよ」

「そう……」


 口をつぐんでしまった女に、少女は声をかけあぐねているようだった。手を後ろに組んで、白いスカートの裾をひらひらさせていた。が、やがて何かに勘づいたように後ろを振り返ると、突然女の手首を掴んだ。


「お姉さん、走るよ!」

「えっなに!? そんな急に」

「来た、神様・・が! 捕まったらお姉さんどうなっちゃうか分かんない!」


 ハッとして女もそちらを見た。

 小さな輝きを含んだ闇が、こちらに向かってきている。二人は手を繋ぎ並んで走り出した。神様と呼ばれたそれは明確に二人を追ってきていた。花を巻き上げ、風を起こし、時折、小さな光を生む。そしてまた暗闇を作り出して追走してくる。まるで極小の嵐に襲われているかのようだった。

 少女の揺れる金髪に目を奪われながら女は必死に走った。花を踏んでも、気にしてはいられなかった。

 少女は神様をく算段があるようだった。彼女が走った先には、いくつか建物があった。

 ツタの這った、白い壁の建物だ。教会であったり、家であったり様々だったが、どこも一様に崩れかけていた。

 少女は教会の裏手に回り込むと、そのまま隣の廃屋の裏側に近寄った。勝手口の部分が小上がりな階段になっており、隠れられる程度に囲われていた。しゃがみ込み、二人は息を鎮める。闇が遠ざかるのを待つ。やがて荒ぶる風が、花を巻き込んでどこかに去っていったのを感じた。


「……はあ。神様もう行ったみたい」

「良かったあ」


 焦った。あの神様・・に捕まったらどうなつていたのか、女はそれを想像して体を震わせた。


「ごめんなさい。わたしがお願いしても、神様は聞いてくれないと思うから。走って疲れたでしょう?」

「いいえ。走るのは慣れてるから……それにしても、神様って身勝手なのね」

「神様ってそういうものなのよ」


 少女がどこか大人びているのは、神様の理不尽に慣れたからなのかも知れない、と女は思った。花畑に目をやりながら、今さっきいなくなった暗闇を思い出す。蒼穹の下をさすらう闇。花を踏み潰す小さないくつもの光。まるで突如やってくる自然災害のようであり、必ず来る夜のように無慈悲だ。


「──でも、やっぱり驚いたわ」

「?」


 首を傾げる少女に、女はずいと顔を寄せた。


天国ここは鮮やかでキレイで、白い服以外認められないのに、神様本人は夜みたいな姿なのね!」


 小さく固まった夜空みたいに、真っ黒だったと。女は表現してみせた。

 少女はぽかんとして、そしてややあって、口元をにやつかせた。


「ほんと。ほんとだ。神様って夜みたい。ふふ」

「でしょう! いつもああなの?」

「うん。ほかの神様も、みんな白くないよ。天国はいつも日が沈まなくて、季節も春だけど、神様はいつも冷たくて、冬の星空みたいなんだ」

「不思議だな……逆に神聖なのかも知れないけど」

「でも怖いよ。ちょっぴりね」


 ひとしきり楽しそうに笑った少女は、床に手をついて立ち上がった。


「他の神様も来ちゃうかもしれないし、お姉さんは早く帰った方がいいよ。まだ生きてるんだから」

「そ、そうだよね。私帰るよ」

「着いてきて。向こうに繋がってる場所があるの」


 少女は再び花畑に足を踏み入れ、進み出した。白亜の廃墟群の間を、躊躇なく歩んでいく。女はそれをしばし見つめて、遅れて後に続いた。


「そう言えばあなた、日本語上手よね」

「日本育ちだったのよ。わたしクウォーターなの」

「あ、そうなの。ちなみにどこの?」

「イギリス。おじいちゃんがね。日常会話だけなら話せるよ」

「へえ。かっこいい」

「それくらいしかやる事なかったもん」


 金髪の毛先を弄びながら、少女は花畑の見えない果てを見る。見つめる場所を探すような眼差しだった。


「わたし、生きてる時はずっと病院暮らしだったんだ。学校もね、ほとんど行けなくて」

「あ……ごめんなさい。無遠慮だった」

「気にしないで。病気で体は辛かったけど、今はこの通りだし。それなりに楽しい十四年だったから」


 十四歳。中学校も卒業していない年だったのかと、女は少し物悲しくなった。自分が十四だった時、自分は何をしていただろう。部活で先輩として、後輩や同級生と学校でじゃれ合っていた記憶ばかり出てくる。少女は同じ十四の年、病室で息を引き取ったのだ。


「もっと、楽しい天国だったら良かったのにね」


 あんな怖い神様なんていなくて、と言外に言っていることは確かだった。少女は女をちらと見、笑って首を振った。


「充分楽しいよ。友達も、可愛い動物もいっぱいいるもん」


 元気に花畑を走っていた白い犬が、少女の足をふわっと毛で包んだ。少女の腕に抱かれた犬は、真っ白な柴犬だった。差し出された女の指先をぺろっと舐める。


「可愛い」

「病院には犬とかうさぎとかいなかったから、正直ここに来れたのはこれだけで充分意味があるかな」

「そうかもね」

「ね? ……あ、着いたよ」


 少女は立ち止まり、とある場所を指さした。

 花畑の中に、薔薇の咲いたアーチがぽつんと置かれていた。アーチの向こう側が、水面のように歪みゆらゆらと揺れている。


「ここをくぐるとあっちに行けるの。今までにも紛れ込んじゃった人たちはこれで帰ってたし、神様もたまに通ってるよ」

「ちゃんと繋がってるんだよね……?」

「間違いないと思うよ」


 細い腕がアーチへと伸びる。色白の手がたゆたう空間に触れるも、そこを通り抜けるには叶わない。見えない壁に阻まれているようだ。


わたしたち・・・・・はここを通れないしね」

「なるほどね」


 正直信じがたいが、気付いたときにここに迷い込んでいた身としてはこういった形のほうが分かりやすい。試しに女が手を伸ばしてみると、アーチは女を拒まず、その腕を飲み込んだ。


「うん。いけそう」

「良かった」

「ありがとね。私、あなたに会えなかったら、今頃神様に捕まってた」

「ううん。わたしこそ楽しかった」


 胸に抱いた犬を、少女はきゅっと抱きしめる。


「お姉さん、さっき走るのは慣れてるって言ってたでしょ。あれ、ちょっと羨ましかったんだ。わたし、生きてるうちに走ったことないの」


 息を詰まらせる。この可憐な少女が病床に伏せてい姿など、女には想像できなかった。


「お姉さんは元気でいてね。早死にしちゃ駄目だよ」

「……うん。しない。絶対しない」

「うん。じゃあこの子お土産! 連れてってあげて」


 抱えていた柴犬を少女はずいっと女に差し出した。


「え?! この子はコレ通れるの?」

「お姉さんが抱っこしてたら通れるはずだよ」

「え、それならあなたも──」


 その細腕からは信じられないような力で、少女は女の背中をぐいぐい押した。犬は女の胸の内でハッハッと楽しそうにしている。

 女の体がほとんどアーチの向こうに出た時、少女は腕を引っ込めた。


「ここのこと、わたし天国って言ったけどさ」


 景色がかすみ始める。

 少女は静やかに笑ってみせた。


「天国なんて、ほんとはないんだと思う。だからお姉さんは、向こうで長生きしてね」

「あなた……」

「元気でね」


 積もった雪が崩れ落ちたように、視界が白で埋め尽くされた。






 頭がうすらぼんやりと覚醒している。

 誰かに声を、かけられているような……。


「……っと。お姉さ……ちょっとお姉さん、大丈夫?」

「…………え?」

「こんな夜の公園で居眠りなんてどうしたの。危ないでしょ」

「あ……」


 すぐそばに警察官がいることを理解するのに、数秒を要した。頭をあげると、女は自分がベンチに座っていたことに気付く。


「あれ……?」

「ランニングするのも良いけどね、女性一人で夜歩くのは危険だから。身体はどこも悪くない?」

「え、ええ」

「ならいいけど。この犬が連れて来てくれなかったら、僕も見つけられなかったよ」

「犬?」


 警察官は、足元のそれを抱え上げた。


「この犬、お姉さんの犬?」


 真っ白な綺麗な毛並みの、可愛らしい柴犬だった。

 まさしくあの少女にお土産にと渡された、天国の犬だ。


「あ……! ……は、はい」

「じゃあ今日はとにかく家に帰って。ゆっくり寝なさいね」


 何かあったらすぐ110番しなさいよとつけ添えて、警察官は去っていった。女の元には、白い柴犬だけが残された。やはり柴犬はハッハッと舌を出しながら、大人しく女を見上げている。


「……夢、じゃなかったんだ」


 犬の頭を撫でる。甘えるように手の平を押してきた。

 ふと、脳裏をあの金髪の毛先がよぎる。


「私は長生きするよ。あなたの分までね」


 あんな天国には、できるだけ行きたくないもんね。

 女は犬を抱え、家へと帰って行った。






『There is no heaven.』/終

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