推しメーカー【深夜の散歩で起きた出来事】

沖綱真優

第4話

 夜のカムクラ公園は、冷えている。吐く息が、LED電灯の白々とした明かりの下で溶けていくような寒さは脱したものの、薄手のコートで座っているには寒い。

 三月も半ばになろうという頃、近くのアパートの桃の花が咲くころである。一般的には三月下旬から四月初旬といわれる花の開花時期を、アパートの脇に立つ桃の花は無視しているのか、慌てものなのか。

 午後十一時半。フジタはスマホにおやすみと囁いて、通話を切った。壁の薄いアパートの部屋で夜中に長電話するのは憚られた——長電話するつもりだったから、公園に来たのに。もう少し声を聞いていたかった、なんて。ついニヤけてしまった顔を隠すマスクはもうない。


「また明日、か」


 夜の公園にひとりニヤけているのは不審者かと繕った真顔が、切断間際のひと言をリフレインして再びニヤけてしまった。我ながら簡単な男だと思う。

 すぅ〜と。柔らかな風が吹く。冬の強風でないものの、最低気温はまだ六度ほど。遮るもののない公園のベンチで座っているには、まだ寒い。

 フジタは立ち上がり、伸びをひとつ。ふぅっ。耳に触れた気配に振り返る。

 目の前に真っ赤な包み紙が広がった。黄色い文字。独特のフォントの英字。読み取る間もなく、弾けて——。


「あれは、何味だったんだろう……」



 *



 一ヶ月ほど前、同じ場所、同じ時間に。誰かと出会った、のかもしれない。その日から、『推し』を推すようになったのだから。

 誰にもいえない趣味——趣味とは違うか。ココロの栄養素、『推し』。推しを愛で、推しを尊び、推しに癒される。アイドルやキャラクターなどが主な対象である推し活の、フジタが推している相手は、会社の先輩たちだ。

 毎日が楽しい。仕事に励んでいるだけで、自然と息抜きまでできてしまう。オレの推しは直属の先輩ミカミさん、そして、別の部署のヤマノウチさん——ミカミさんのダンナさんだ。一緒に行動することの多いオレが最近まで知らなかったくらいだから、ご夫婦は会社でイチャイチャしているワケじゃない。それでも、知ってしまえば時折、ふたりの視線は絡み合う。目の動きだけで会話しているような濃厚な一瞬。その場面に立ち会えた時の悦びといったら。何に例えられるだろう。


 しかし、オレの大切な推し、ミカミさん夫婦の仲が険悪になった。きっかけは本当に犬も食わないような夫婦ゲンカだ。

 ヤマノウチさんの部下、ハヤセさんによる再現ドラマはこうだ。


 ヤ『さっきのアレ、どうなの?』

 ミ『アレ?なに?』

 ヤ『ウチ、電カルなんて作ってないし。よその製品、ウチの関わったモノじゃないのに、なんか手柄というか……』

 ミ『同じエンジニアの話だし……相手もそこまで深く考えてないのだから、話を合わせるのは当たり前じゃないの?』

 ヤ『ありがとうございます、は違くね?』

 ミ『私が作ってないので知らないです、関係ないですって言ったら、話が終わっちゃうじゃないの。営業トークよ……中しか知らないんだから、ゴチャゴチャ言わないのよ』

 ヤ『は?』

 ミ『あ?』


 我が社はシステムの設計、開発、保守管理を業務としている。ミカミさんはエンジニア、ヤマノウチさんは事務方だ。うちは営業部も一応あるが、契約前から必ずエンジニアが同行して発注元の要件定義に対する費用や納期の説明を行う。細部の食い違いで納品不可となる事態を避け、エンジニアの労働時間を守るためでもある。

 ミカミさんは優秀なエンジニアである一方、優秀な営業でもある。できるヒトはなんでもできる見本みたいなヒトだ。サッパリした性格で、服装も一見何でもないジーンズとシャツスタイルでもパリッと着こなしていて格好良い。仕事の邪魔になると指輪は付けていないけれど、プラチナのチェーンのペンダントトップにしてて、これもオシャレだ。

 一方のヤマノウチさんも優秀な裏方で、納期の管理や仕様書とのすり合わせ、プログラミングやテストの外注管理など、かゆいところに手が届く綿密さでエンジニアを補助してくれている。


 で、ケンカの原因となった会話だが——ハヤセさんの想像も含まれるトコロが若干ややこしい——本当にどうでもいい雑談だったらしい。

 休日、街のカフェで営業のコと友だちとご夫婦がバッタリ出会って、あいさつと短い会話を交わした。

 営業のコの友だちは大学病院の医局でパートしていて、


『電カルのシステムってありがたいですよね。病院ごとにカスタマイズされているんですよね。エンジニアの方ってすごいですよね』

『そう言っていただけるとすごく嬉しいです。ありがとうございます。実際に使っている方の声はなかなか聞けないので。頑張っている甲斐があります』


 褒め言葉に、お礼を返した。

 ……いや、これ、ヤマノウチさんが悪いな。絡む必要、ないよな?

 ともかく、そこから夫婦の冷戦が始まり、双方とも仕事に持ち込んで、部下にイライラをぶつけるとかするタイプではないものの、元気が足りない。推しの元気が足りないと、オレの元気も足りない。


『フジタさん、何とかしてくださいよ』


 面識はあったものの、特に仲の良いわけでもなかったハヤセさんに声を掛けられた。


『私のお……先輩が悄げてると、アガラナイじゃないですか』

『オレもお……バディで指導役ブラザーがアレじゃぁ、調子狂う』


 同じ空気を感じ取ったオレたちの活躍、というか、運というか成り行きで、ふたりの仲は元に戻り、ついでに、オレとハヤセさんも親密になった——まだ夜に電話するくらいの仲だけれど。



 *



「推ししか勝たん、……」


 私は推しのおかげで、幸せを掴みました、みたいな。

 フジタは独り言に吹き出した。真夜中に出会った誰かとの出来事は、もう、頭から消えている。

 公園の入口に一本だけ立つ桜も、あと一週間ほどで咲くだろう。周辺にあるほかの木よりも早く。桜の木の満開を思って、フジタから笑みが溢れた。

 夜のカムクラ公園の寒さが少し和らいだ。

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