夜桜
旗尾 鉄
第1話
私はすべてを失い、生まれ故郷の田舎町へ帰ってきた。
大学進学を機に都会へ出た私は、故郷には戻らず、そのまま都会で就職した。自分の力を、都会で試してみたかった。
あれから三十年。脱サラして始めた事業は、最初は順調だったものの三年で行き詰まり、倒産した。妻とは十年前に離婚した。子供はいない。そして半年前、医師から余命宣告を受けた。
後悔はない。結果として私が知ることになったのは、努力が必ずしも報われるとは限らないという現実だったが、私は精一杯、頑張ってきたつもりだ。
私は入院してはという医師の勧めを断り、この町へ帰ってくることに決めた。両親は既に他界して、家族はいない。だがなぜか、人生の最期をこの故郷の町で過ごしたい、そんな気持ちになったのだ。
空き家になっていた実家を必要最小限にリフォームして、先月、引っ越してきた。小さな町だ。幼なじみの友人たちや知り合いも多い。みな、私を温かく受け入れ、昔と変わらず声をかけてくれる。ありがたいことだ。
スマホのアラームが時を告げた。今日は金曜日、深夜十二時だ。私は立ち上がり、出かける準備を始めた。
私は毎週金曜日、深夜に散歩をする習慣がある。もうだいぶ前、脱サラした頃からの習慣だ。別に、人目を避けたいわけではない。ただ、夜の静寂の中を、誰にも邪魔されず、自由に歩きたいのだ。
外に出ると、三月の夜はまだ寒かった。暖かい服装は正解だったようだ。私はゆっくりと足を踏み出した。
この町へ帰ってきてから四度目の散歩だ。自分でも、徐々に体力が落ちているのを感じる。この深夜の楽しみを続けるのも、そろそろ限界だろう。
私はあえて、繁華街とは違う方角へ向かう。どの道をどう行ったらどこに着くのか、私には鮮明に思い出すことができた。子供の頃、友人たちと毎日のように駆け回った道だ。懐かしさが込み上げてくる。
人通りも街灯も無い真夜中の風景の中にいると、この風景を独り占めしているような、世界が自分のためだけに存在してくれているような、そんな不思議な感覚に浸ることができる。私はその感覚を味わいたくて、この散歩を毎週続けてきたのかもしれない。
だが、そんな深夜の風景が、今日は少し違っていた。町はずれの公園のほうで、何か大きなものがぼんやりと光っているのだ。こんなことは初めてだった。私は興味をひかれ、光のほうへと足を向けた。
公園に着き、光の正体を知った私は、ただただ美しさに感嘆し、見とれていた。
光っていたのは、満開の桜だった。満開に咲いた桜の巨木が、夜の闇の中で浮かび上がるように光を放っていた。
光る、というのは比喩ではない。薄紅色の花びらの一枚一枚が、淡く発光しながら舞い散っている。
私はベンチに座り、桜に見とれた。美しい、という言葉では到底足りないが、かといって、この幽玄の光景を表現し尽くせる言葉を、私は持っていなかった。ここの桜はもうだいぶ前に枯れてしまっているはずだったが、そんなことは思い出しもしなかった。
「美しいでしょう?」
いつの間にか、私の隣に男が座っていた。中年で、黒いスーツと黒いネクタイ。帽子とマスクで顔はよく見えないが、どこかで聞いたことのある声だった。
「ええ。こんなきれいな夜桜は初めてです」
私が答えると、男は微笑んだ。
「人生を卒業する者のためにだけ、咲いてくれる桜ですからね。普通の人には見えないし、本人はたいてい病床にあるから見に来ることができない。あなたは幸運だ」
男の不思議な言葉に、私は悟った。そして、男の声が誰の声なのか、はっきりとわかった。
「私が誰だか、わかったようですね」
「あなたは、私だ。ドッペルゲンガー、そうでしょう?」
男は帽子とマスクを外した。毎日、鏡の前で見る顔がそこにあった。
「ドッペルゲンガーの伝承をご存じなら、私が現れた理由もご存じでしょうね」
「ええ」
「思ったとおりにはならない人生だった」
「確かに、成功者にはなれなかった。だが、私はやれるだけのことはやった。いいかげんな人生ではなかった」
「他人よりも、使える時間が二、三十年短かった」
「長さは問題じゃない。そのぶん、濃密だった」
強がりや、自分を慰める言葉ではない。偽りない本心だった。
「わかりました。朝までまだ時間がある。どうぞ良い夜を」
男は立ち上がった。去り際に振り向き、最後に私に向かって言った。
「私はあなたを誇りに思います」
桜吹雪が一段と強くなった。舞い落ちる花びらが緩やかに渦を巻き、私を優しく包み込む。その幻想的な景色を、私はいつまでも眺めていた。
とある田舎町の公園で、一人の男が亡くなっているのが発見された。
男の死に顔は、眠るように穏やかだったという。
夜桜 旗尾 鉄 @hatao_iron
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