ばあばのご飯

凪野海里

ばあばのご飯

 最近、本当に何もかもうまくいかない。駅から自宅までの帰り道をトボトボ歩きながら、生早みはやは大きなため息をついた。

 今年の4月に新卒で入った会社は、小さな町工場。目まぐるしいまでの忙しさはあるものの、もともと物を作ることが好きだった生早には、ぴったりの職場といえた。職場の人たちも、新卒でなおかつ女性である生早に対してとても優しく接してくれて、まだ不慣れなことはあるけれど、充分にやりがいを感じ始めていた。


 ただ一つの不安を除いて。


 生早はその会社では、表向きは事務員として働いている。不安要素は、その事務員の先輩にあたる女性。御年80。もはや隠居生活を送った方が良いのではというくらいのご高齢。生早は陰で彼女のことを「お局」と呼んでいた。

 会社が創業してからずっといる大ベテランのため、会社やその関係周りにおいて、彼女に知らないことは1つもない。

 工場の経営、納期管理、同業他社に知り合いも多いため、たとえ社長であっても彼女には頭が上がらないそうだ。生早も、初めて彼女の仕事ぶりを目の当たりにしたときは、その判断の素早さと手腕っぷりにただただ圧倒された。


 だが、彼女は困ったことに欠点があった。相手が自分より格下だと判断するや、徹底的に馬鹿にしてくるのである。

 今日も生早は散々馬鹿にされた。


「あら、新垣にいがきさん。まだその仕事終わってないの? 私だったらそれ、5分もかからないのに」

「いつまで事務所で仕事してるの! そんなのは後回し。さっさと現場行って、みんなを手伝いなさい!」

「さっきの仕事まだ終わってなかったの? 現場にばかり行ってるからよ。たまには事務所の仕事でもしたらどう?」


 お局は事あるごとに生早につっかかっては、様々な言葉を悪気もなくぶつけまくる。おかげで生早はお局の言葉のサンドバッグ状態にさらされ、今ではストレスのせいで胃が痛いし、耳鳴りもひどかった。

 仕事は嫌いじゃない。けれど、お局のことは好きになれそうにない。

 一度、事務所に用事があって戻ったとき、お局と社長が立ち話をしているところに出くわした。


「新垣さんったら、ひどいのよ。口を開けば『今やろうと思っていたんです』って言い訳ばかり。最近の若い子は言い訳が多いったらないわよね」


 そんなことを言うお局だって、このあいだ。営業の人に頼まれた仕事をやり忘れたとかで、言い訳をしまくっていた。


「新垣さんの指導で忙しくってね。それどころじゃなかったのよ。今やるわ。まったくもう、新垣さんが余計な手間を増やさなければ」


 80にもなって働けているのはすごいと思う。年を感じさせるような場面はところどころあるにしても、両足でしっかり立って歩き、頭の回転だって早い。それでも最近、たとえばテレビなどで、高齢者が自分の足でしっかり立って、せっせと働いている姿を見ると、「ああ、この人も会社のお局なんだ」と思うことが多くなった。昔だったら、「この年でも働けるなんてすごい!」と思っていたのに。


 ――そんなこんなで、お局にがっつりしごかれた挙句、残業をすることになり。生早は夜の9時頃に自宅へとたどり着いた。ちなみにお局は定時の5時に帰っている。それなのに「仕事が終わらない!」と叫んでいるのだ。終わらないのはこっちの方だというのに。

 家に帰るとすぐにシャワーを浴びて、パジャマに着替えた。帰り道にコンビニで買ってきた、朝には日切れになる弁当をつまんで、それが終わったら歯磨きをして。ベッドに飛び込む。最近こういう生活ばかりを送っていた。たまには誰かの手作りの温かいご飯を食べながら、ホッと一息つきたいものだ。明日も仕事。そしたら明日も、お局のしごきが待っているのかと思うと憂鬱さが増す――。



 気が付くと、生早は歩道を歩いていた。どうしてこんなところに? 空を見上げると、星と月が輝く夜空である。スマホの時間表示を確認すると、深夜2時。

 その時刻を見て、生早は「ああ」とようやく納得した。そうだ。ちょっと空気を吸いに外に出ようと思って、そのまま歩いてきちゃったんだ。服装はパジャマと適当につっかけてきたサンダルという、花の20代にしてはあるまじきダサい格好。でもいいや、どうせ夜だし。誰も見ていないだろう。生早は行く当てもなく、トボトボと歩き出した。

 夜も深い頃とあってか、道を歩いている人はおらず、電気も街頭のみ。なんとなく寂しい、脇の道からひょっこり何かがでてきてもおかしくないような不気味さもあった。

 さっさと家に戻るべきかなと考える。だって明日も、早いもの。


 だが、生早の足は不意に止まる。一つだけ、明かりがついている家があったのだ。平屋建ての小さな家。表札はなく、庭は手入れがされていないのか、雑草が伸び放題で歩道にでていたり、家の門にからまったりしている。

 けれどたしかに中に人はいるのかもしれない。その家からはあったかい光が漏れていたのだ。生早は誘われるように、その家の門を開け、玄関の扉を開いた。

 すると中から割烹着を着た白髪の女性が現れた。背丈は、生早の胸あたりまでしかないから、140前後だろうか。こぢんまりとした女性である。生早はあっけにとられた。

 彼女は深い皺の刻まれた顔に、ますます皺を刻むようにくしゃっと微笑むと、生早を見て「おかえんなさい、みーちゃん」と言った。


 その声、その呼び方。生早は途端になつかしさに駆られた。


「ばあば!」


 叫んでいた。父方の祖母だ。間違いない。生早の呼びかけに、彼女は「うんうん」と目を細めてうなずくと、生早の手をとって中へと案内してくれた。

 そうだ、この家。生早の良く知っている家だ。父の生家で、祖母が祖父と共に暮らしていた家。最近行くことは滅多になくなったけれど、その間取りは良く覚えていた。家に入って最初に通される部屋は決まって、台所。2人も入ればぎりぎりのその場所で、小さな祖母は、夏休みを利用して遊びに来た生早のためにと、彼女の好物ばかりをご馳走してくれたっけ。


「ここに、座んなさい」


 小さな祖母は生早を椅子に座らせると、すぐに火が点けっぱなしのコンロに向かい、てきぱきと作業を始めた。生早は慌てて席から立ち上がる。


「手伝うよ」

「いいの、いいの。みーちゃんは、そこに座ってれば、いいの」


 小さな祖母はそう優しく言うと、おぼんの上に白いツヤのある炊き立てのお米、湯気のたったワカメと豆腐の味噌汁、それから生早の好物である唐揚げと切り干し大根を載せて、生早の座る席に置いた。


「さ、たんとお食べ」

「いただき、ます……」


 生早は両手を合わせてつぶやいた。


 ――いただきます、は食材とそれを作ってくれた人、料理をしてくれた人に感謝をするための言葉。今の時代、食べ物がたくさんあるのだから、好き嫌いなんてしちゃダメよ。いつでも、どんなときでも。家族みんなでご飯を食べられる。今の時代に感謝するのよ。


 当時はまだ大きな存在だった祖母が、幼い生早の頭を撫でながら伝えた言葉である。

 最初に味噌汁に口をつけてから、米を食べるというマナーも、彼女から教わった。味噌汁に口をつけた直後、生早の目にはじわりと涙が浮かんでくる。ああ、あったかい。美味しい。これは、ばあばの味噌汁だ。市販の出汁入り味噌は楽だけど、みーちゃんが来たときは特別といって、煮干しから出汁をとって作ってくれた、ばあばの特製味噌汁。

 炊き立てのお米は、口のなかにいれてよく噛むと、ふわふわとした噛み応えがした。レモンがかかった唐揚げを頬張り、ピリッとした辛味のある切り干し大根はコリコリとした歯ごたえが良かった。

 昔、生早は大根が嫌いだった。けれど、ばあばの作る切り干し大根だけは別だったのだ。甘味とちょっとした辛味。それが美味しくて、何杯も何杯もお代わりをしたのだ。

 ご飯を食べていくうちに、懐かしさとそこに込められたばあばの心のあったかさを思って、涙が止まらなかった。ばあばは生早の食べっぷりと泣きはらした顔を見て、にこにこ微笑んでいる。


「ごちそうさまでした……っ」

「はい。お粗末様。ね、みーちゃん」


 涙で視界がぼやけていたが、ばあばがこちらを見る眼差しは優しいものだとわかっていた。


「つらいことは無理して耐えなくて良いの。今の時代、つらいことがあったらそこから逃げられるんだから」


 ばあばは、学生の頃。空襲に怯えながら毎日を過ごしていたという。明日も知れない身。1日1日を生きるのに精一杯で、食べる物も少なく、本当にひもじいときは、遊び道具のお手玉のなかに入っていた小豆を取り出して、食べていたそうだ。


「無理して頑張らなくて良いの。みーちゃんにはみーちゃんの、生き方があるんだから」

「ん……っ」


 頭を撫でられて、また生早は涙を浮かべる。幼い頃大きな存在だと思っていた手。けれど、大人になった今でも、やっぱりばあばの手は大きいと感じた。


「ありがとう、ばあば」

「さ、いってらっしゃい。みーちゃん」

「いってきます!」


 生早は席から立ち上がり、玄関から外へでる。家の門を閉じ、最後にばあばの方を見ると、彼女は玄関の前でにこやかに手を振っていた。

 生早も手を振り返し、それからは振り返らずに走りだした。走って、走って、走って、走って――。



 気が付くと、そこはベッドの上だった。起き上がって、枕元の時計を見るとまもなく6時。いつもなら、起きて会社に行く支度を始めている頃合いだ。

 そうか、今のは夢だったのか。そうだ、当たり前だ。だってばあばは、生早が社会人になってすぐの頃に老衰で息を引き取った。享年80。憎らしいことに会社のお局と同い年だったのだ。


「そうだよね、無理して頑張らなくても良いんだよね」


 ばあばの言葉を思い出しながら、生早はつぶやく。

 本当につらいなら、その場所に無理にいる必要なんてない。大事なのは自分自身。自分がこの先、どうありたいか。

 生早はベッドから立ち上がり、閉じられたカーテンの隙間から漏れる朝日に向かってゆっくりと伸びをする。


 さあ、1日の始まりだ。生早は気合をいれるため、自分の頬を両手でぺちんと叩いた。

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ばあばのご飯 凪野海里 @nagiumi

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