落屑注意
高黄森哉
痒み
俺の上司の顔はかさぶただらけで、表皮は真っ赤に変色している。彼は痒そうに顔をほじりながら、俺に資料を渡した。俺は剥けたかさぶたが体にくっつかないように細心の注意を払う必要があった。
新種の黄色ブドウ球菌のせいだ。この厄介な突然変異のブドウ球菌は、落屑やかさぶたを引き起こし、そのフケに乗って人人感染をする。人類は進化史上、こんな変哲な伝播の方法をする細菌に出会ったことはなかったので、防衛機構を持ち合わせておらず、つまり歯止めの利かない爆発的感染を経験する事となった。
だが、俺がかさぶたを避けるのは潔癖のためであり、感染を危惧しての行いではない。なぜなら、俺は既に、俺の同僚のようにこの病気に感染しているからだ。つまり、こういう涼しい顔をしてはいるものの、心中はこのようである。
痒い。痒い痒い痒い。痒み神経が皮膚の表面に張り巡らされている。その細かい枝状の先っぽがじんじんと痒みの信号を送り、強度は痒みの脈動と共に加速していく。皮膚をえぐるべきだ。
痒い。漆に体を浸したようだ。蕁麻疹が出ていて、つぶつぶの先っぽの先っぽが尋常じゃない痒み成分を蓄えている。その先端を潰すと液体がぷちっと滲出し、痒みは治まるという仕組みだ。なのだが、問題は、俺が掻爬すると、その部分の痒み神経が破壊されるということだ。厄介なことに再生する際、神経はもっとずっと敏感に変化してしまうのだ。
痒い。痒いが掻くともっと痒くなる。だが、今、搔きむしらないと気がふれてしまう。焼けるように痒い。まさに炎症、火炎のような痛痒感覚。タスケテくれ、この体を走り抜けるジレンマから俺を開放してくれ。
掻けばいいのである。掻けば、さらば救われる。のだが、見た目を大きく損なうことになる。同僚を見て見ろ。体中が浸出液とかさぶたで覆われている。瞼が固くなって一重瞼になり、おでこから黄色い液体がたらたらと汗のように流れ落ちている。そのため、机にはかさぶたが生成されていた。
また彼らは頭皮も掻きむしり、禿頭にしてしまった。旧来の禿頭なら、むしろこの病気の流行った世界では、ぜんぜんいいどころか素晴らしい見た目であり、この意味での禿頭とは、かさぶたの球体のような見た目を指す。
「君は凄いね。僕なんかとっくに諦めたよ」
表面がボロボロのゾンビみたいな同僚の野口が、俺を称賛する。
「僕は君が羨ましい。俺も初期のうちに掻き始めていたら、こんな地獄の努力をする羽目にはならなかった」
「じゃあ、掻いてあげようか」
「それはよしておく。俺は潔癖症なんでね」
「僕の見た目は吐き気がするかい」
「触りたくない。見る分には不思議と不快ではないな」
へへへと、彼は頬を掻いた。
「山田のやつは、最近あきらめたらしいぜ。なんでも一度書くとなし崩し的に掻爬に対する精神的抵抗力が衰えていくらしい」
彼は俺と同じく掻かないことをモットーに生きていた人間のうちの一人だ。彼の知識は大いに役に立った。彼は脱落したか。無理もない。掻かないことを維持するのはそれだけ大変なのだ。
まず気が遠のくような掻爬への欲求を断ち切る必要性がある。これは隔靴掻痒どころではない拷問だし、人を辞める気合がなければなかなか達成しえない。また、風呂に入ると体温が上がり、痒みが加速するので、冬でも水風呂でなければならない。寝ている間、無意識に体へと爪を突き立てることを防止するため、手足を縛って就寝する必要がある。この方法を試し、自らの首を絞めて死んだ人間は、俺の知る限り四人いるが、俺はそれでも掻きむしるよりはるかにましだと、寝る前に必ず手足を拘束しているのだ。
「あとは営業の水谷だけか」
「あいつは元からアトピー性皮膚炎だからな。この病気が流行るまで、彼の病気を軽んじていたが、四六時中漆の痒み、またハンセン病並みに見た目に影響が出る、特効薬がない、ことを考慮すると、難病に指定され、国から援助が出てもよさそうなくらいだ」
俺は気の毒に思った。彼等アトピーの人間はこんな痒みに日々曝されていたというのか。
「橋上ちゃんも諦めたらしいぜ。最近テレビに出てこねえ」
橋上は彼の応援するアイドルグループのセンターなのだか、彼女も感染して、二目見れぬ様態と化してしまったのだろうか。
「だが最近はかさぶたがあっても活動できるようになってるそうじゃないか。多様性がどうとかだぜ」
俺はその運動については、うすら寒さを感じていた。それは、同性愛者とそれを容認してこなかった社会が、同性愛が普通だとめくら滅法に押し付けて、言い訳的に無理に納得しようとする、あのうすら寒さだ。あれだけアトピー性皮膚炎のことを差別しておいて、いざそちら側に回ると途端に擁護する日和見感染症的、勢力変化の愚かしさ。あきれてしまう。
「俺は結婚するなら普通の女がいいね」
野口は言った。彼はそういった風潮にはかぶれていないらしい。
「今時いないぜ。いたとしても、この痒みを乗り越える女なんてきちがいだ」
「お前の妻のことか」
と、俺は定時になったので帰宅することにする。暗がりの帰宅途中のことだった。
「おい、まちな」
俺は最初、強盗かと思った。だけど、それは違かった。彼らの仲間の一人は、ゾンビのような顔をゆがめながら言った。
「お前もこっちにこい。な、お前だけ綺麗な顔で変だ」
「変ではない」
「いいや、変だ。なぜならば少数派だからだ。かさぶたのない人間は少数派になったのだ。私たちは本気でお前がおぞましいと感じているのだ。どれ、治してやろう」
「嘘をつくな。俺は知っている。それはすべて自分を納得させるために思いついた暗示でしかないことを。人の価値観は短期間では変わらない。そうすることで自分を肯定しているんだ。痒みを我慢することが出来ない自分の弱さを。ルマンチサン」
「ひ、っひっひっひ」
彼はストレスを感じたのか、顔をぼりぼりぼり! と破壊した。膿と滲出液が指に絡みつく。こいつは重症だ。
俺は逃げよう、と思うが時すでに遅し、囲まれていた。八方から突進され、顔を引っかかれる。顔に焼けるような痒みが蘇った。掻けば掻くほど信号を増幅させる、負の連鎖回路。
「ぎゃ!!! 痒い痒い痒い痒い!!!」
俺は夢中になって掻いた。掻いたら気持ちが良かった。掻いて描いてそれで天にも昇る気分だ。爽快感だ。耳をほじり巨大な耳くそを取り除いた感覚だ。脳みその奥をほじられてるみたいだ。
すでに暴漢は居なかった。俺は顔がどうなっているかスマホを使って確認した。ああああ、ああああ。ああ。怪物だ。俺の妻はどう思うだろう。俺はもう、家に帰れない。それに会社にも帰れない。今さら掻いたことを知れば、どういわれるかわかった者じゃない。そら、見たものかとと。そういう、ストレスはどんどん痒みに昇華されていく。痒い痒い痒い痒い!!!! ばり、ばりばりばりばり。
突然痒みが消えた。どうやら神経より深く皮膚を掻き潰してしまったらしい。俺は今、人体模型みたいになっている。でも、他の人間の容姿はもっとひどいから、痛くもかゆくもない。
落屑注意 高黄森哉 @kamikawa2001
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