フミカ、真夜中に出撃す。
アリサカ・ユキ
フミカ、真夜中に出撃す。
引きこもっていて、運動はしてない。これまでは、大丈夫だったのに。
明るい時間に外に出る勇気はなかった。真夜中の2時にあたしはバッグを持ち、そっと玄関の戸を開けて散歩に出撃した。
耳に当たる空気の流れというものを、ずいぶん久しぶりに感じながら、あたしは、マンションのエントランスホールを抜けた。
高校を卒業してから、8年間という月日、ずうっと部屋に引きこもっりぱなしたったわけではない。親が買い物に行くのに付き合わされたり、引きこもりの人たちが集まる集会? みたいなのに参加させられたりした。そんなものは嫌いだった。美容院行くのも化粧品や服を買いに行くのも、億劫といえば、そうだ。あたしは、部屋の中で乙女ゲーをしながらずっと安心感に包まれていたい。
ホントは、安心感が得られるのでなく、不安感を紛らわしたいのだ。
どうであれ、こんな由々しき事態でなければ、外に出たくはなかった。
ずっと引きこもっていて、たまに外へ出ると、いつも戸惑う。街灯に照らされた道に連なる、静かなビルやスーパーや木々が、こんなに細密なものに見えるのだから。
部屋の中と空気の透明度が違うのだと思う。
誰の姿もなかった。時折、音を立てて過っていく車があるばかり。ライトが私の身体を刺していく。
心細い気持ちになる。
そして、その老人が向こうから歩いてきた。あたしは、地面に目を落とし、やり過ごそうとした。
「あ、危ない」
すれ違いざま、その人が、何かにつっかかって身体のバランスを崩したから、あたしは思わず助けた。
摩滅しているはずの反射神経は、健在だった。
「すまんね」
パリッとした服装にコインの留め具のポーラータイを身につけた老人は、杖を、地面に打ち鳴らした。
そのまま歩き出したから、あたしも頭を下げて別れを告げた。
「ちょっと、娘さん」
前のめりになっていたあたしは、そのままの姿勢でしばらく停止していた。
娘さん、という歳ではないと思うのだが。
「はい?」
老人は、杖をかつんかつんと地面に当てた。
「この辺で探し物をしとるんだが」
「は、はい」
そのまま聞く態勢でいたが、老人は黙ってしまった。
「何か失くしましたか?」
「それが何かわからんのだ」
「いつ頃、でしょうか」
「ずいぶん、昔だったような気がする……」
あたしは、後ずさった。認知症の人? 救急車を呼んだほうがいいのか。
ゲームをするためだけのスマホを、バッグの中に持っている。
「娘さんも、探し物か?」
言葉にしたくないことを、言わなきゃならないのだろうか。あたしは、誤魔化す機転もなく、正直に話した。
「いかん、いかんな」
老人は首を振った。
「そうです。女の子には大問題です」
「ばあさんが、若いころ、よー歩いとった。家事で疲れていても、必ずな。なんでそんなに歩くのか、儂ゃあ、聞いた。あなたがいるからよ、と言いおった。娘さん、誰かのために?」
「あたしには、好きな人すらいません」
「ふむ、それでも人は愛されなくてはいけないからな」
何。
「娘さん、夜に歩いとるが、暗がりが好きなのか?」
「人が嫌いなのです」
「ほう、どうしてまた」
「いじめられてきたから」
昔のこと。もう、思い出すこともないが、傷が癒えたわけではなかった。
「いかん、いかんな」
「ひどいですよね」
突然、咳き込み始めた老人は、苦しそうにしばらくゴホゴホしていた。涙が出たのか、ズボンからハンカチを取り出して、目を拭く。
「息子が、小学生の時に、いじめられておった。儂ゃあ、知らんかった。毎日、学校に行きたがらんあいつを引っ叩いて、登校させていた。娘さん、親に伝えたか?」
「あたしは、諦めてましたから」
「息子の辛さを思えば、儂も信用されなくて悲しかったことを、伝えられんかった。しかし、娘さん、それは諦めではないのだ。恐れなのだ。分かり合えないかもしれないという恐れが、常に儂らにある。」
何。
「お爺さん、昔って素敵な時代でしたか?」
話をふられてばかりでは申し訳なくて、あたしも返してみた。
老人は杖を少し地面から持ち上げて、考えるような顔をする。
「ふむ。儂ゃあ、戦争を経験したことはないから、それはどうこういえないが、どんな時代も、それぞれ輝いとるもんだ。今、という時代も儂にとっちゃ、けっして青春時代に劣るものではない」
「自殺をした人だっていますよ……」
「そうだな……。娘さんもまた、そうしたいのかな」
「あたしは生ぬるく生きてるだけです」
「けっこう! 生きることの基本は、生ぬるい絶望と激しい絶望のたゆたいでしかなくて……」
老人は、背筋を伸ばした。何かに気を取られたのか、ぼうっとした目をして、街灯を見つめていた。
何。
「ああ、儂ゃあ、思い出した。息子を探しとるのだ。30年前に交通事故で亡くなった息子を」
救急車がサイレンを鳴らしながら、あたしたちの横を走っていった。その音が、耳に嫌に残る。
そうして、老人はフラフラと歩き始めた。カツッカツッと杖が鳴る。あたしは、どうしていいかわからず、そのまましばらく彼を目で追っていたが、やがて角を曲がり見えなくなった。
その日以後も、夜の散歩は続けたが、彼を見掛けはしなかった。
奇妙で捉えどころのない、幻想的な夜の、理由の曖昧である痛みとして、あたしの中にそのことは残った。
〈フミカ、真夜中に出撃す。 了〉
フミカ、真夜中に出撃す。 アリサカ・ユキ @siomi
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