夜を彷徨う者

阿々 亜

夜を彷徨う者

 え? 私がロンドンにいたときのことを聞かせろって?

 いささか面倒だが、まあいいだろう。


 あれは1888年の11月のことだ。

 当時のロンドンはJack the Ripper(切り裂きジャック)の噂で持ち切りだった。

 別名ホワイトチャペルの殺人鬼、レザー・エプロンなどと呼ばれていた。

 何があったかというと、その年の8月頃から、ロンドンのイーストエンドのスラム街に住む娼婦たちが次々に殺害されたんだ。

 被害者は喉を切られた後に、腹部も切られており、少なくとも3人の被害者からは内臓が取り出されていた。

 事件はその年の8月から始まっていたが、9月から10月にかけてこれらの事件が同一犯によるものとという噂が広まった。

 同じころ、メディアや警察には犯人を名乗る人物から多数の手紙が届いた。

 その手紙の一つにJack the Ripper(切り裂きジャック)という名称が記載されており、それをメディアが流布し、Jack the Ripperの名はロンドンを始めイギリスじゅうに轟いたんだ。


 まあ、私にとってそんな噂はどうでもよかった。

 その日も私は夜のロンドンの街に繰り出した。

 え?殺人鬼がうろついているのに危険じゃないかって?

 ふふふ、何を言いだすかと思えば........

 だって、そもそも、私がジャ........

 おっと、話が脱線するところだった、その夜の話を続けよう。


 私がその夜散歩していたのは、イーストエンドのホワイトチャペルだった。

 当時のイギリスはアイルランド系移民やユダヤ人難民などの流入で人口が増加しており、とくにホワイトチャペルは過密状態で、労働条件や住宅状況は劣悪を極めた。

 そうした背景もあって、ホワイトチャペルには売春宿が乱立し、夜の道には娼婦が何人も立っていた。

 皆身なりはみすぼらしいが、美しい女ばかりだった。

 私はホワイトチャペルの道を歩きながら、一人ひとり物色していたが、目移りして仕方がなかったよ。

 できることなら、全員を手にかけたかったが、さすがの私も後のことを考えるとそういうわけにもいかなかった。

 もっとも、そんな美しい女たちを前にしても、私の脳裏に浮かぶのはいつも生まれ故郷のオーストリアで別れたローラだった。

 あんな美しい少女はこの世にいない。

 できることならば、またローラの元に帰りたい。

 だが、命からがら逃げてきた故郷にはもう二度と帰ることはないだろう。


 おっと、また脱線してしまった。

 その日の話に戻ろう。

 そうして女たちを物色していた私に、突然声をかけてきた女がいた。


「あんた!! こんなところで何をやってるんだ!?」


 見ると、20台前半の女だった。

 赤毛の長い髪で気の強そうな目をしていた。


「あんたみたいなヤツがこんなところに何をしにきた!?」


 余計なお世話だと言ってやろうかと思ったが、私はその女に興味がわいた。


「人を探しているんだ」


 嘘は言っていない。

 私の欲望を満たしてくれる人間を探しているのだから。


「いいから、こっちに来な!!」


 女は私の手をつかみ、ぐいぐいと引っ張って歩き出した。

 どうやら客引きというわけでもなさそうだったが、私はとりあえずその女についていった。


 そして、ホワイトチャペルのはずれの一軒家に連れ込まれた。

 中にテーブルと椅子があり、座るように勧められたので、椅子に腰かけた。


「悪いけど水くらいしか出せない。こちとら今日食べるのも精一杯なんでね」


 女はそう言いながら奥の台所にひっこみ、ごそごそと水を汲んでいるようだった。


「あんた、切り裂きジャックの話は知ってるだろう?あんたみたいなやつが一人でホワイトチャペルをうろつくなんて危険極まりないよ」


 女はそう言いながら、水の入ったマグカップを私の前に置いた。

 私がマグカップに口をつけようとした矢先、不意に私の喉に激痛が走った。


「ほら、切り裂きジャックに襲われた.........」


 女は私の背後から、ナイフで私の喉を切り裂いていた。

 私はマグカップを落とし、床に倒れた。


「切り裂きジャックはあんたみたいなが大好きなんだよ」


 女はそう言って、私の長い金髪の端を掴み、自分の鼻元に持っていって、すうっと匂いを嗅いだ。


「いい匂い。薄汚い娼婦にはもう飽き飽きしてたの。私、本当はあんたみたいなかわいい女の子のほうがいいの。今夜は最高。きっと、神様の贈り物ね」


 女は気持ち悪い笑みを浮かべながら、私の小さな体をまさぐった。


「くくくっ、いや、参った。まさか、こんな形で時の有名人にお目にかかるとは」


 私が声を発したのに驚いて、女は飛びのいた。


「お前、なぜ喋れる!?確かに喉を切り裂いたはずだぞ!!」


 私はゆっくりと立ち上がって女の方に向き直った。

 私の切り裂かれた首からは黒い血が流れ続けていたが、私が右手で一撫でするとぴたりと血が止まり、傷口はふさがった。


「お前は、いったいなんなんだ!?」


 その光景に女は恐れおののき後ずさる。


「失礼、そういえば、まだ名前を名乗ってなかったな。私の名はカーミラ。出身はオーストリア。故郷では、美しい少女たちをとっかえひっかえ楽しくやっていたんだが、あるとき、隠れていた墓を暴かれ、心臓に杭を打ち込まれ、首を切り落とされ、燃やされた上に灰を川に流されてしまったんだ」


 女は後ずさり後ずさり、どんと背中が壁にぶつかる。


「お前は、何を言っているんだ!?」


「それで命からがらこのロンドンまで逃げてきたというわけさ。おっと、命からがらといっても最初から死んでいるがね」


 私はくすくすと笑いながら女に近づき、女の首に手をかけた。


「お前は、いったいなんなんだ!?」


「あー、回りくどい説明をしてしまってすまない。こう言えばわかってもらえるかな..........吸血鬼と」


 私は女の首に咬みついた。

 女の断末魔の叫びがその場に響き渡り、数秒後、女は息絶えた。




 というわけで短かったが、これが私とJack the Ripperとの出会いと別れだ。

 そう、そもそも私がJack the Ripperを吸い殺したんだよ。

 まあ、なかなかいい女だったが、私はもう少し若い方が好みだ。


 え? 私が今、どこで何をやっているかって?

 あー、それはだな.........


「あ、いたいたー!!カーミラちゃーん!!」


 あー、すまない、待ち合わせ相手が来てしまった。


 大混雑の人込みをかき分けて、一人の少女が私に向かって手を振った。

 歳は10代後半、20歳手前くらいでかわいらしい魔女のコスプレをしていた。

 対する私はシンプルに黒い大きなマントを羽織っていた。

 そして、まわりの群衆もゾンビやら狼男やら、はたまた流行りのアニメキャラまで様々コスプレをしている。

 もう夜も更けているというのにこの街はとても明るい。

 目の前のビルには巨大な映像が映し出されており、少し遠くには109という赤く大きく光る文字が見える。

 今日の日付は2023年10月31日。

 ケルト人起源で、アメリカで発展したあの祭りの日だ。

 本来子供中心の祭りのはずなのだが、この国のこの街では、いい大人が夜通しバカ騒ぎする日だ。


「お待たせー。カーミラちゃん」


「うんうん、全然待ってないよー」


 私は見た目相応の口調でそう答えた。


「カーミラちゃんのそのコスプレ、ドラキュラ?」


 想像はしていたが、やはりこう言われてしまった。

 私のもともと鋭い八重歯とこのマントで吸血鬼に見えるだろうと思ってあつらえたのではあるが、吸血鬼といえばドラキュラと言われるのは心外だ。

 アイツより私の方が早く世に出ており、私の方が先輩なのだ。


「ドラキュラじゃなくて、オーストリアの吸血鬼で“カーミラ”っていうの」


「へー、カーミラちゃんと名前一緒だからぴったりだね」


 少女はそう言って微笑んだ。

 同名じゃなくて当人なのだが、もちろんそんなことは言わない。


 この少女は1か月前にクラブで一目ぼれして声をかけ仲良くなったのだ。

 私は今この少女に恋をしている............

 まだ、血は吸っていない..........

 吸いたい衝動に常に駆られているが、そうしてしまったらこの恋は終わってしまうのだ..........

 今はただ、この少女と一緒にいる時間を大事にしたい...........

 

 私は少女の手を引いた。


「いこっか」


 さあ、今夜も街に繰り出そう!!



夜を彷徨う者 完


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