せめて秘めやかに花を愛でよう

一葉 小沙雨

せめて秘めやかに花を愛でよう

「やっぱり、あの薔薇の和名……」


 いつものように昼休みにわたしの席に座り、優雅に本を読んでいた彼女が小さくそう声を零した。

 わたしの席は窓際で、教室の後ろの端っこの方にある。今日みたいにあたたかい日などは外からの風がとても心地良くて、わたし自身も「今回の席替えは当たりだったな」なんて思ったほどだった。

 しかしそんな席だからかうっかりすると、休み時間などには断りもなく、他の生徒がわたしの席を勝手に占有していたりする。

 たいてい、そうやって人の席を我が物顔で座っているのはクラスの中でも何だかエラそうにしている生徒たちで、何か言うと睨んでくる人たちだったから、昼休みごとに席を取られていたわたしは何だかいつも少し悔しい思いをしていた。

 ……のだが。

 いつからか、彼女――が、わたしのいない間には一人、わたしの席に座っているようになってから、わたしがそんな風に悔しい思いをすることはなくなった。

 彼女はわたしのクラスメイトで、学内では数少ないわたしの友人だ。

 このクラスで彼女に敵う生徒はいない。

 彼女は恐ろしいほどに美人だった。黒い髪に黒い瞳。きめ細やかな白い肌とスラリとした背筋をした、細いからだ。長く伸ばした髪はつややかで、目は吸い込まれそうなほどに大きい。はじめて彼女を見た人は、かならずと言って良いほど誰もがその端正な顔立ちに目を見張る。それくらい、彼女は他より容姿が優れていた。

 そのうえ頭も良くて弁も立つ。普段は静かにしていて、どこかツンとしているけれど、彼女の前では教師ですら舌を巻くことがあるくらいだ。

 彼女はわたしが今までの人生で出会った誰よりも、美しくて強くて賢く、気高く自信たっぷりで、……誰よりも、優しかった。

 わたしは彼女と友人であることが、何よりも誇らしかった。


「……それ、図鑑?」


 本に夢中になっていた様子の彼女は、今の問いかけでわたしが席に戻ってきたことに気がついたらしく、ようやく顔を上げてわたしの方を見た。


「おかえり。今日のお昼ごはんは無事に買えたかい? ……そうだよ、薔薇図鑑。薔薇ってこんなに種類があるものなんだね、知らなかったよ」


 わたしは購買で買ってきた惣菜パンを「おかげさまで」と見せる。それを目にした彼女は「それは良かった」とどこか殊勝に笑った。

 いつの間にかすでに図鑑は閉じてしまっていた。

 彼女が読んでいたのは植物図鑑、それも薔薇専門の薔薇図鑑だった。


「わたしも、薔薇はあまり詳しくないわ。……何か調べ物?」


 わたしは聞きながら、いつもこの時間は空いている椅子を拝借して、彼女と向かい合うように腰を下ろす。

 薔薇だなんて、才色兼備を絵に描いたような、それこそ周囲に薔薇の香りを振りまいていそうな彼女にこそ相応しい花の一つのように思えるが、それでも彼女が学校で小説以外の書物を読んでいるのもめずらしかった。

 彼女は律儀に質問に答える。


「うん、ちょっとね。私のおじいさんが薔薇を育てているのは知っているだろう? 先日遊びに行って庭を見せてもらいながら話しを聞いていたら、なんだか私も興味が湧いてきてしまった」


「薔薇を育てるのは難しいってよく聞くけれど」


「そうらしいね。『星の王子さま』のはなしでもそんなことを言っていたな。おじいさんも、それはとてもよく薔薇を愛でているよ」


 そこで彼女はふとわたしへと顔を向けた。薄い水膜の張った彼女の大きな瞳に、わたしが映り込む。そのはっとするような整った顔は、すぐに淡く微笑まれた。


「難しいけれども、愛をきちんと向ければ応えてくれる花のようだ。私にぴったりだと思わないかい」


「そうね。でも……ふふ、あなたが育てたんじゃ、薔薇も蕾のまま、ずっと咲かないんじゃないかしら」


 薔薇の方が萎縮してしまう気がする。彼女はたしかに薔薇が似合うが、彼女の輝かんばかりの美しさを前にしてはさすがの薔薇も戸惑うだろう。

 私の冗談を耳にして、彼女はおかしそうに声を上げて笑った。


「あはは! それは困るな。私は花を愛でたいのに、肝心の花が咲いてくれなければ困ってしまう。……せめてあの薔薇が実を結ぶものならばなぁ」


 あの薔薇はそうもいかないだろうからなあ、と、彼女は淡く微笑んだ顔のまま、どこか寂しそうに目を伏せた。

 彼女の長い睫毛が、濃い色の瞳を陰らせた。

 窓辺から風がやわらかく吹き込んで、彼女の髪をさらりとなびかせる。

 図鑑の表紙には堂々と咲き誇った大きな薄紅の薔薇が、じっとこちらを向いていた。


「あなたがそんなに興味を示すなんて、めずらしいわね」


 彼女は普段からとても涼しい顔をして、何にも興味を示さないような、そんなきらいがある。周りの女生徒たちがうわさ話や色恋沙汰にどれだけ騒いでいても、彼女だけはいつだってどこ吹く風だ。

 風というより、まるで淡水だ。ひやりとつめたい。それでいて、さらさらと流れていく。

 きっとそこには、不純物など存在しないのだろう。

 彼女はわたしの言葉を受けて、ただ「そうかな」と小首を傾げた。

 そして一拍置いて、


「そうでもないさ」


 と、付け足した。


「そうかしら? あなたが興味あることと言ったら、駅前の喫茶店のパフェくらいな気がするわ」


「君だって好きだろう。あそこのパフェは絶品だ」


「その絶品パフェと同じくらいの興味を、あなたが他に示しているのはわたし、初めて見た気がするの」


 少しだけ呆れ顔でそう言うと、彼女は「そうだろうか……」とまた繰り返すように呟いて静かになった。

 しばらくして、彼女は思い出したように疑問を口にした。


「欲しいと思っている、薔薇の品種があるんだ。近くの花屋にあるだろうか」


 彼女はどうやら本気で薔薇の栽培に手を出したいらしい。

 わたしは町にある唯一の花屋を思い出して、「う~~ん……」と悩みあぐねた。その花屋はお世辞にもお洒落な花屋とは言い難く、年中仏花と胡蝶蘭とパンジーのプランターが狭い店内を占めている。品数もあまり多そうな印象ではない。


「品種にもよると思うけれど、この町の小さな花屋にはあまり期待できないかもね。たぶん取り寄せか、バスで隣の街まで探すことになるんじゃないかしら。……そんなに欲しいの?」


「ああ、欲しいな。……でもそうか、ここでは手に入れるにも手間がかかるんだな。まずはおじいさんに相談してみようか」


「それが一番良いんじゃないかしら。いろいろ教えてくれるかもしれないわよ」


「そうだね。たしかに知識も大切だ。せっかくの薔薇を枯らしてしまっては、悲しいからね」


 彼女は途端に嬉しそうな、うきうきとした気持ちが見て取れるような顔になった。

 一体何が、彼女の心にそんなに響いたのだろう。普段の彼女からはなかなか想像できない事例だった。

 ……絵画のように美しい彼女には、たしかに『薔薇の栽培』など、似合うと言ったら似合い過ぎてはいるのだが。

 初めて耳にしたときは驚かされた、彼女の男の子みたいな喋り方だって、どこか彼女の品位を上げている要因にしか思えなくなった。

 彼女はわたしがたくさんの努力を要するようなことも、いともたやすくやってのける。それもとっておきの優雅さで。勉強もスポーツも、ちょっとしたお喋りの仕草だって。彼女に魅了されない生徒はこの学内にはいないと、そんなことを思ってしまうほどに。

 だから薔薇の栽培の趣味など、彼女はすぐに、自身の気品の内に纏い込んでしまうのだろう。

 わたしは、見事に咲き誇った薔薇の花に微笑む彼女を想像した。

 彼女をそんな風に幸せそうにできる薔薇の花が、少し羨ましく思った。

 またカーテンがふわりと舞ったときに、ちょうど予鈴の鐘が鳴った。

 生徒たちが各々の席に戻り始め、彼女も椅子から立ち上がった。わたしの席が空く。

 去り際に、彼女は図鑑を大事そうに胸に抱きながら、わたしに向き直った。


「きみ、明日の土曜は時間あるかい? 良かったら、一緒におじいさんの家に行かないか」


 彼女の祖父宅には、わたしも何回かお邪魔させてもらったことがあった。手入れの行き届いた広いイングリッシュガーデンがある、素敵なお屋敷だ。

 彼女の祖父はとても穏やかで優しい人で、礼儀正しい人だった。孫である彼女のことをとても可愛がっていて、その友人であるというだけでわたしにもいつも良くしてくれる。

 明日の土曜日はとくに用事も入っていない。

 わたしは彼女へ「ご迷惑でなければ」と返事をして、その誘いに乗ったのだった。


***


 彼女の祖父宅は、いつ見ても大きい。

 西洋造りで色とりどりの薔薇が咲いていて、まるでおとぎの国の世界のようだ。

 彼女の祖父は、わたしたちを快く迎え入れてくれて、前回のように庭へと通してくれた。

 侍女らしき女性がお茶とお菓子を運んできてくれたのを合図に、テーブルに座った彼女が「おじいさん」と切り出した。


「おじいさん、あのね、今日は少しお願いがあって来たんだ」


 彼女の祖父はゆるやかに「何かな」と聞き返した。

 彼女は一拍置いて、自らの祖父へと申し出た。


「その……、私も育ててみたい薔薇が……あるのだけれど」


 庭いっぱいに咲き誇る薔薇の香りが、わたしの鼻腔を刺激していた。

 隣の彼女はどうしてだかもじもじとして、自らの祖父の反応を不安そうに待っていた。

 それはまるで何か恥ずかしい話でもしているかのような、そんな様子だった。

 私は不思議に思いながらも、彼女の初めて見せるような弱々しい瞳に胸がぎゅっと悲しくなって、今すぐにでも彼女をここから連れ出して抱きしめてあげたいような、そんな気持ちにさせた。

 テーブル越しで、彼女の祖父が手にしていたティーカップを静かに置いた。


「先日薔薇の話を聞かせたときから、そう言うと思っていたよ。……そうだな、ここにある薔薇でよければ、一つ二つくらい譲ろうか」


 彼女の祖父はそう言って、目の前の孫娘に優しく微笑んだ。

 祖父の言葉に彼女は一瞬きょとんとして聞き返す。


「……貰っていいの?」


「ああ、お前なら構わないよ。……それで、どの薔薇が欲しいのかな」


 それを聞いた彼女はみるみる目を輝かせて、すぐさま庭の一角を見て指差した。


「あの薔薇……!」


 そこには鉢植えに植えられていて、まだ蕾の、一輪の薔薇の苗木があった。


「あの薔薇が欲しいんだ。あの蕾の薔薇。私にも育てられるかな」


 彼女の祖父は示された薔薇を見、そしてなぜかわたしの方を見てから、彼女へ視線を戻して「そうか、あの薔薇か」とまた微笑んだ。


「もちろん譲っても良いが……、ただあの薔薇はつる薔薇で、花も咲くと大きめだ。最近手に入れたからまだ小さくて苗木なんだ。育てられる場所はあるのかな?」


 祖父の言葉を聞いて彼女は声を詰まらせた。

 わたしの視界の端に、立派に仕立てられたつる薔薇のアーチが映る。

 わたしたちは先ほど、そのアーチをくぐってここまで案内されて来た。

 彼女自身の生家はマンションの一室にある。新しくとても綺麗なマンションなのだが、そのバルコニーの面積はごく一般的な印象だった気がする。

 わたしは他を知らないのであまりはっきりとはわからないが、マンションのバルコニーそのものとしては決して狭いというほどでもないのだろう。しかしあのバルコニーの中で、つる性の薔薇の栽培を楽しみたいとなると、やはり少し話は変わってくる。彼女の家のバルコニーは、すぐにそんなことを考えてしまうくらいの広さだった。

 隣の彼女も同じことを思ったのか、周りで旺盛に咲いている花々に気圧されるようにしてどんどん表情を曇らせていってしまった。


「他の薔薇じゃだめなの?」


 そのあまりの曇り具合に見かねたわたしが思わず彼女に聞くと、


「あの薔薇じゃなきゃ、嫌なんだ」


 と、彼女は首を横に振って、まるで小さな子のように口を結んで目線を落としてしまった。

 このように拗ねた顔をする彼女もめずらしかった。

 はたして彼女の中に何かこだわりでもあるのだろうかとわたしが不思議に思っていると、彼女の祖父が「お嬢さん」とテーブルの向こうから優しげに声を掛けてきた。


「お嬢さんの下の名前は、たしか千早ちはやさんでしたかな?」


「……? は、はい。わたしの名は『千早』ですが……」


 唐突な問いにわたしが戸惑いながら答えると、彼女の祖父はそこで何度か頷いてから「いや失礼。歳のせいか物忘れがひどくなりまして。大変、素敵なお名前ですね」と、どこか仕方がなさそうに微笑んだ。わたしにはその表情の意味すらも汲みかねた。

 途端彼女が、らしくもなく一層俯いてしまったのも少し気になった。

 彼女の祖父は、すっかり下を向いてしまった孫娘へ「……提案なのだが、」と、静かに切り出した。


「この庭で、あの薔薇の世話をするというのはどうかな? この庭の一角を貸そう。道具もある。ここで好きに育ててみると良い」


 祖父の台詞を聞いて、彼女はようやく顔を上げた。

 彼女の瞳がみるみる輝き出す。

 そんな彼女を見て、彼女の祖父は愛おしそうに目を細めてさらに付け加えた。


「私も、可愛い孫娘が頻繁に遊びに来てくれるようになるのは、嬉しいからね」


 その言葉に彼女は飛び上がるように喜んだ。

 はしゃぐ孫娘に「おじいさん、ありがとう!」と抱きつかれ、彼女の祖父は今日一番柔らかく表情を崩したのだった。


 ……かくして彼女の薔薇栽培の趣味は、無事に一歩を踏み出すことができたのである。

 それにしても。


「あなたには、あの薔薇に特別な思い入れがあるのね」


 わたしは彼女の喜びようを目にして、ついそんな言葉が口をついて出る。

 やはりほんの少しだけ、あの薔薇が羨ましく思ってしまったのだ。

 すると彼女は何かを言おうとして、しかしどこか迷うような……何かに少し怯えるような……、そんな笑みをもって言うのを止した。

 わたしが首を傾げていると、彼女は困った顔でぽつりと独り言のように応えた。


「あの薔薇には、和名があるんだ」


 ああ、そういえばそんなことを、……薔薇の和名について、彼女が学校で図鑑を見ながら呟いていたのをわたしはぼんやりと思い出した。

 ささいな言葉だったような気がして、流してしまった。

 とても真剣な顔をして、薔薇図鑑を見つめていた彼女の姿が思い起こされる。

 ……そのときは思いもしなかったが、彼女にとってはそれがとても重要なことだったのだろう。




「……ねぇ、もしかしてだけど、その薔薇の和名が好きな人の名前と一緒とか?」


 夕方。あのおとぎの国みたいな庭園から出て、彼女と二人だけの帰り道。

 結局あれからなかなか彼女が真意を教えてくれなかったので、わたしは薔薇への嫉妬に煽られてしまい、ちょっとだけからかうようなかたちで、つい彼女にそう聞いてしまった。

 隣を歩いていた彼女の足がふと止まる。

 そのとき。

 わたしの不躾を神様が叱ったのか、少しだけ強い風がひと筋、わたしと彼女の間に吹き込んだ。途端、彼女に纏い込まれていた薔薇の残り香がわたしの身を炙るように撫でた。

 目を伏せた彼女の唇にほんの一瞬だけ、秘密という大輪が咲きこぼれて彼女の口を塞いだように見えて、わたしは思わず息をのんだ。

 しかし彼女は、そんなわたしと目が合うとその大きな花すら飲み込み代わりに笑みを浮かべて、


「……――うん、そうだよ、千早」


 と、たくさんの花片で包んだような声でひどく優しく、わたしに返したのだった。

 その声に濁りはなく、たくさんの愛しさで満ちているような、それでもどこかどうしようもない寂しさを隠したような、そんな静かな白露のような声だった。

 噎せ返る薔薇の匂いにあてられていたわたしは、彼女のその声を耳に入れてから今日はじめて息をした気分になった。



 ……わたしはそれを以降、大切な友人の想いを気安く知ってはいけないと、その薔薇の和名を自ら調べることをしなかった。

 彼女に大切にされた薔薇が見事に大輪を咲かせたのは、そう遠くの未来ではなかったのだけど。

 その薔薇の和名をわたしが知るのは、その薔薇が何度も何度も花咲くのを繰り返すくらい、随分と時間が……かかってしまったのだった。




〔了〕

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