でま

香久山 ゆみ

でま

 バス停に着くと、彼女はベンチに座っていた。

 板壁で囲まれた停留所はさいわい屋根がある。彼女の隣に腰を下ろす。彼女は大きな瞳をじっと前方へ向けたまま、表情を変えもしない。ここは駅からずいぶん離れた閑散とした場所で、道に迷ったせいもあり予定していた時間よりも大分遅れてしまった。来る途中に雨脚は強まり、スニーカーの中まで水が入ってぐちゃぐちゃだ。一気に冷えてしまった。

「ちょっと、トイレ行ってくる」

 いちおう声を掛けたが、やはり彼女の反応はない。怒っているのかどうか、感情が読み取れない。そのまま席を立ち、すぐ近くの公園の公衆便所へ寄って、用を足す。

 はあ、どうしたものか。手を洗いながら、溜息を吐く。鏡を見ると、目が赤い。ばしゃばしゃと顔も洗ってから、バス停に引き返した。

 戻ると、彼女は先程の姿勢のまま、すんと座っている。再び隣に座ろうとすると、さっき俺が座ってた場所に、尻の形に濡れた跡がついている。

「はは。幽霊の跡みたい」

 指差して笑うも、ウケなかった。すごすご隣に腰を下ろす。濡れたシャツとジーンズが重い。雨は弱まる気配もない。驟雨に降りこめられて、バス停の中はやけに静かだ。

 さて、どうするか。じっと彼女を見つめるも、反応はない。彼女は背中まで伸びたストレートの黒髪に、白いワンピースの定番姿。皆が噂するような怖い印象はない。人の噂など当てにならないもんだ。

 そういえば今日、あの子も白い服を着ていたな。あの子は彼女と違って、温かいんだよな。そんな風に思い出すと、また泣けてきた。さっき俺は振られてきたのだ。あの子に。本屋をしている子で、いつも一生懸命で健気なところを好きになった。ふだん本など読まないのに、まめに本屋に通った。あの子を狙う男も多かったけれど、親父さんと面識あるのは俺だけだ。けっこう自信あったのに、「困ります」と振られてしまった。

 仕事前に告白なんてしてくるんじゃなかった。友人から「絶対大丈夫だ」とけしかけられたのを、真に受けたのが悪かった。恨んでやる。いっそ俺もここで地縛霊になってやろうか。そんなことを考えながら、ずずっと鼻を啜る。いかん、想像以上にショックを受けているようで、頭の中がぐちゃくちゃだ。

 仕事仕事と念じて、改めて隣の彼女に向き直る。

「バス停の地縛霊をなんとかしてほしい」というのが、今回の依頼だ。幽霊の噂が広まって、このバス停の利用者がいなくなってしまったため、バス停撤去の話が出ているらしい。

 とはいえ、俺はただ視えるだけだ。

 そこから汲みとったもので何とかできればいいのだけれど、彼女はなかなか手強そうだ。事前に彼女に関する噂を聞き込みしたものの、

「告白しに行く途中で事故に遭ったらしい」

「親友に恋人を奪われて恨んでいる」

「事故で失った足を捜してずっと彷徨っているらしい」

「生き別れた我が子を探している」

 様々な噂話があるものの、どれも当てにならない。

 肝心の彼女自身もじーっとただ座っているだけなので、何のヒントも得られない。

 仕方がないので、俺も隣でぼーっと座ってる。何も考えたくないけれど、どうしてもあの子のことを考えてしまう。

「……けど、振られたら、もう会いにも行きづらくなくなるな……。元気に働いている姿を見てるだけでもよかったのに」

 はあ、と溜息混じりに独り言つ。

 ふと気配を感じて振り返ると、隣から彼女が熱い視線をこちらへ向けてうんうんと頷いている。

 あれだけ降っていた雨は、いつの間にかやんでいた。


「幽霊はいなくなった」

 という噂はあっという間に広まった。

 間もなく、バス停を利用する人が戻ってきた。

「あーあ、マジでもう幽霊いないじゃん。オレ、幽霊とか見たかったのにさー」

 お調子者の男子高生が仲間に軽口を叩く。その隣に、白いワンピースの彼女がじっと座っている。けれど、誰にも見えない。通勤通学で混雑したバス停、ベンチに一人分だけ不自然な空席がある。なのに誰も座ろうとしない。不自然にも思わない。いつもと変わらぬ朝の喧騒。

 バス停に人が戻ってきて半月程して、ようやく本当にそこから幽霊はいなくなった。たぶん、待ち人の元気な姿を見届けることができたのだろう。それが一体誰だったのかは、俺の知るところではない。

「さすがですね! 依頼してよかったです!」

 報告すると、依頼人は手放しで喜び、俺は苦笑を返す。

 依頼人の元をあとにして、足早に帰路を行く。

「待って!」

 後ろから女の子の声がする。聞こえないふりして早足で歩くも、追いかけてきた彼女が俺の前に立ちはだかる。白いワンピースに長い黒髪。

 確かに幽霊はバス停からいなくなった。そして今、俺に憑いている。

 さらになぜだか声まで聞こえる。

「あたし、行く所ないから、あなたに憑いてくね」

 しかもよく喋る。

「感謝してるんだよ。途方に暮れてたから。バス停に幽霊出るって噂流したのあたしなんだけどさ、軽い冗談のつもりだったのに、利用者減ってさ。嘘だって言う前に、あたし事故で死んじゃって。責任感じて成仏できずにいたら、ますます人がいなくなって、ついには撤去の話まで出るからさ。すごい落ち込んでたんだよ。けどあなたのお蔭で利用者が戻ってきたのを見届けられて、安心した!」

 嫌な真実だ。聞きたくなかった。

「ねえねえ、また恋話聞かせてよー」

 しつこく纏わり憑いてくる。これは悪夢に違いない。俺はがくりと肩を落とす。

 俺の気も知らず、抜けるような青空が広がっている。梅雨は明けた。これから暑苦しい日が続くらしい。

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