ライヴ・ルツボ
隠井 迅
第1話 感染症前のライヴ・ハウス
「シューニー、僕が〈現場〉に行き始めたのって三年前からなので、その前の、オール・スタンディングのライヴって、どんな風だったのか、まるで想像がつかないんだよね」
そう冬人は、兄、秋人に問い掛けたのであった。
「そりゃあ~、もう、オルスタのライヴってのは、ぐっちゃぐちゃのめっちゃくちゃだったよ、フユ」
そして、秋人は、かつて自分が参加したライヴについて語り出したのであった。
*
入場開始時刻になると、スタッフから番号が告げられ、入り口付近に並ばされていたライヴ参加者達は、ようやくライヴ・ハウスに入れる運びとなる。
入口で、ライヴ・チケットの半券をもぎられ、ドリンク代として六〇〇円を支払うと、代わりにドリンク引き換え券が手渡される。
秋人は、ドリンク・コーナーで列を為している、何人もの自分よりも整番が早い参加者を追い越して、まっすぐにライヴ・フロワに向かう。
ドリンクは、ライヴが終わってからでも引き換えられる。
それよりなにより大切なのは、少しでも早く観客フロワに入って、ステージが観や容易く、自分にとって身体が動かし易い、少しでも良いポジションを取る事なのだ。
ライヴは、開演前から始まっているのだから。
その日の秋人は、下手側の五列目に陣取った。
二列目には、およそライヴに相応しくない格好、つまり、ライダースに厚底靴の男性と、ひらひらのスカートを穿いている女性のカップルがいて、彼氏の方は、その日にライヴをする演者について熱く語っていた。
「わたし、ライヴって始めてだから超不安」
彼女の方は、床に鞄を置きながら、こんな事を言っていた。
「大丈夫、俺、前にも一度来た事あるし、今日は俺が君を守るからさ」
そんな事を語りながら、開演までの待ち時間の間、その彼氏は、携帯を弄っている彼女にペンライトの使い方を教えていた。
あんな事を言っちゃって……。しかも、ライヴ・ハウスにスマフォやペンラを持ち込んでいるよ。知んないよ、俺は。
そんな事を考えている秋人は、半袖に短パンにバッシュというスタイルであった。
そして、財布もスマフォもロッカーに入れ、ポケットに入っているのは硬質のカードケースに入れたチケットの半券と、持参したドリンクだけであった。
やがて、開演時刻になり、開始を予告するSEが鳴り出した。
SEが鳴り止むや、一曲目に激しい曲が歌い出された。
その瞬間、後方から、ものすごい圧力と共に人波が押し寄せてきた。
開演前のポジションなど、もはやあってなきが如しで、フロワは、参加者達で混乱状態になって、いつの間にか、秋人は上手まで流されていた。
ライヴが始まった後、あのカップルがどうなったのか秋人は知らない。
彼だって、自分の身を守りつつ、ステージのパフォーマンスにノルだけで精一杯だったのだ。
終演後、フロワの其処彼処には、踏み潰されたペンライトや、ディスプレイが割れたスマフォの残骸が転がっていた。
*
「まあ、感染症の前のライヴ・ハウスって、いつでもどこでもこんな感じだったよ」
感染症になってからイヴェンターになった冬人は、かつてのライヴ・ハウスの熱狂を知らない。
「今だと、ソーシャル・ディスタンスもあって、人間距離もとるし、そんな風に後から人が押し寄せてくるなんてあり得ないよ」
「そうだな。今は、床に整理番号が書かれていたり、四角い升で、パーソナル・スペースが指定されていたりするしな。でも、徐々に様々な制限が解除されて、ライヴ・ハウスも、昔のグチャグチャな状況に戻るんじゃないの、近いうちに」
「なんか、キツそうだね」
「でも、そのヲタクの坩堝のような状況こそが、ライヴ・ハウスの本来の姿だぜ」
この翌日に、冬人は、ライヴ・ハウスでのオール・スタンディングの声出し可能ライヴに初めて参加する事になっている。
「フユ、これからが、本当の意味での、お前のイヴェンター・ライフの始まりだな」
そう言いながら、秋人は弟と肩を組んだのであった。
ライヴ・ルツボ 隠井 迅 @kraijean
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます