第5話

 星の声が聞こえない。

 このところ、聴谷ナノカを憔悴させていたのがそれだった。


 視界が薄桃色に染まり出してから、何かとノイズが走る。

 雨の中で視界がぼやけるように、星々の位置が分からなくなった。

 カレンダーと腕時計を見て、頭の中で地球の位置を計算し、補正をかける必要があった。不要な手続きだ。しかし、そうして、実際に「夏の星座」などと検索をかけ、感覚と暗算結果が正しいことを確認する。そうしてようやく、彼女は落ち着きを取り戻すことができた。


 物心ついたときから、彼女は星に取り憑かれてきた。

 宇宙飛行士という仕事を知ったとき、幼い聴谷は激しく嫉妬した。特定の誰かにではなく、もっと大きなものに対してだった。自分の住んでいる区から出ることも困難なのに、その外には別の市とか町とか村があって、それらを乗り越えていったところで、この国から出ることすら叶わない。


 小学三年生の頃、彼女は隣の市に行こうとして、挫折した。

 山道の細い国道を歩いているところを警察に保護された。

 どうしてそんなことをしたのか――なんとなく、隣の市に行けるなら、その先には太陽の自宅があって、その向こうには星々が眠っていると思っていたのだ。「太陽はパパやママと同じように、日中は働いていて、それ以外のときは自分の家に帰るんだ」と彼女は思っていた。「そこには、ヤキンの星たちが住んでいるから、こっちからも会いに行ける」。

 そう語ると、両親との通話を終えた警察官は、彼女に言った。

 移動する方向を間違えたね。

「横じゃなくて、縦なんだよ」

 なるほど。

 彼女はジャンプの練習をした。毎朝の練習の末、二重跳びができるようになり、跳び箱の七段も超えられるようになった。父にせがんで、できるだけ高い山にも連れて行ってもらった。山頂付近で一泊し、夜中に起こしてもらって、星空を見上げたとき、全然届かないことにショックを受けた。一ミリも近づいていない気がしたし、むしろ遠ざかった気すらした。


 彼女は藁にもすがる思いで、図書館に駆け込んだ。宇宙への行き方を調べてもらい、そして宇宙飛行士という職業があることを知った。


 四年生の頃、道徳の授業で、将来の夢を発表する機会があった。彼女は「宇宙飛行士」について語り、ボイジャー一号の素晴らしさについて語った。これからベンキョーを頑張って、将来はNASAとかJAXAに所属するのだとも言った。

 当時のクラスメイトは、全然理解してくれなかった。いいんじゃない? がんばって! それの何が面白いのか分からないけれど。はい、では次のひと……

 だからといって、聴谷は傷つかなかった。

 なぜなら、彼女自身、とうの昔に分かっていたからだ――自分は宇宙飛行士になんてなれない。特別賢いわけでもないし、身体能力に優れているわけでもない。

 自分より優れている人間なんて、ゴマンといる。

 彼ら彼女らは、聴谷が一生懸命がんばって理解したことを、瞬間的に把握することができた。努力は才能の前に打ちのめされた。しかも、何がひどいって、彼ら彼女らは、宇宙飛行士を目指していないのだ。給食のゼリーを賭けて闘争する。せっかく覚えた事柄を、テストが終われば忘れている。


 もっとも、聴谷自身も、ひとのことを言えなかった。漠然とした夢があったところで、それを熱意に変換して、生活を律することができるほど、心が強いわけでもない。ついつい寝てしまったり、宿題を疎かにしたり、遅刻だってした。

 たしかに、他の子がゲームやテレビや共同作業に専念している時間、彼女は自分の趣味に精を出した。けれども、それはどこまでいっても趣味留まりで、実践の機会なんて得られなかった。当然だった。彼女の場合、実践の機会とは、すなわち宇宙に出ることだったからだ。


 小学生は、宇宙に行けない。

 かといって、二十年後をリアルなものとして想像できるほど、彼女の熱意は温度を保てなかった。一日ごとに、1ページごとに、ひとつの物事を知る度に、憧れは摩耗していった。宇宙は遠のくばかりだった。

 子どもの――ひょっとしたら人間の体では――宇宙には届かない。


 目を瞑っていても、星の正確な位置が分かるからと言って――結局は、どこにでもいるフツーの女の子なのだ。月例のあの日に苦しみ、低気圧に打ちのめされる。

 むしろ、フツーの女の子にも届いていない、と彼女は分析する。

 恋についてのイメージを固める前に、全ての憧憬は星空に吸い上げられたから、身支度は適当だ。基本は制服、あるいはジャージ。もしくは母や叔母が買ってきた適当なものの内、一番動きやすいものを選ぶ。運動をする予定なんてないけれど、突っ張るのが嫌だった。

 過度な装飾は好まない。アクセサリーなんて持っていない。体が重くなるからだ。

 髪型だって、邪魔にならなければ、それで良い。実際、目にかかっている前髪だって、本を読むときは遮光カーテンになるし、星を見るときは左右に流せば支障はない――うん、ズボラだ。


 ともかく、そんな人間には、ワープ航法が必要になってくる。

 しかし、そんなことができるのか?

「できる」と答えたのは、天文台を所有している叔父だった。「人間には想像力がある」

 それは三次元を超え、時間も飛び越えて、君を宇宙に連れて行ってくれる。

 なるほど。

 そういうわけで、聴谷ナノカは、理論の方を追求することにした。

 幸運なことに、彼女には宇宙コンパスがある。物心ついた頃から、星の声は聞こえていた。誰がどこにいるかは把握できていた。目を瞑っていても、南半球の星座のを指でなぞることだってできた。方角を間違えたことなんて一度もない。どんな入り組んだ場所の地図だって、一発で覚えることができる。

 道に迷ったことはない。

 すべて星が教えてくれる。

 逆に言えば、星々の興味がないことは、分からない。彼らのスケールから見れば、認識できないほど小さな誤差となる、人間の機微というやつについては、自分で推し量るしかなかった。そして、彼女はそれをサボってきた。経験値不足――というよりも、無関心。

 あるいは、こう言うこともできるかもしれない――彼女は、自分が傷つくのが怖かったのだ、と。自分より優れているのに、微塵も星を目指そうとしない彼ら彼女らの在り方は、聴谷を揺さぶった。隙間を作って、空転させた。まるでささやくようだった。自分おまえは何をやっているんだ? そう考えると、次に続くフレーズは決まっている……

 宇宙に行っても何にもならないし、そもそも宇宙なんて存在しない。なくても困らないじゃないか、我々はこの大地に、もっと言えば、この街に生きている。誰もここから出ていこうだなんて思っていない。


 宿題をしろ、歯を磨け、恋をしろ。そして死ね。

 星々のことは忘れろ。幻聴は無視しろ。

 君は星の仲間ではない。


 ――別に、自分が星の仲間だとは思っていませんよ、と彼女は何度も思っていた。嘘だった。そうだったらいいな、と思っていた。煌々と照っていて、周りに惑星を従えていて、くるくる回る恒星になりたかった。

 そういう世界をかっ飛ばしてみたかった。

 そんなことができないことは、承知していた。

 でも、確かに星の声が聞こえるのだ。自分が宇宙のどこにいるのかも常に分かる。こんなにも星空に魅力を覚える。

 それなのに、意味がないっていうのか?

 じゃあ、わたしはなんでここにいるんだよ。

 聴谷ナノカには、何も分からない。

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シリウス・ウォーカー 織倉未然 @OrikuraMizen

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