汚部屋の女神
稲荷竜
第1話
チラシ。
ダンボールの切れ端。お菓子の包み紙。
いつのものかわからない黄ばんだタオル。高校の学園祭で作ったクラスTシャツ。
空のペットボトル。惣菜パンの包み紙。
……下着。
これはワンルームという面積的制約のせいではなくって、部屋が広くてもきっと彼女はそのすべてをなんらかの物体で埋めてしまって、布団の上だけを自分以外が入れない聖域にするのだろう。
聖域。
うっかり思い浮かんだ言葉だった。でもだいたい合ってる気がする。
頬杖をついて寝転がりながらこちらをじっと見る彼女の姿は新興宗教の女神像でもやれそうなほど様になっていた。顔がいい。ひたすら顔がいい。さらさらの黒髪にキリッとした目つき。だぼだぼのスウェットトレーナーという姿もなんだかそういう神官服みたいに見えてきた。
「
「……今やってるところでしょうが。というか、何をしたら一週間でここまで床を隠せるんですか?」
「生活」
僕の中に女性、というか他者を殴ろうという欲求がわくことはまずないのだが、たまに『この人なら殴っても許されるんじゃないか』と思う瞬間がある。
たとえばこうして、一生懸命にこの人の部屋を片付ける僕を、女神像のごとき不動っぷりでただ見ている瞬間とか。
そもそも僕がなんで彼女のぐちゃぐちゃな部屋を片付けているのかといえば、それはもう、『弱みを握られているから』に他ならない。
彼女がこうして大学生になる前、僕は彼女に告白した。
そして保留されている。
だから彼女が大学生になっても高校生のままの僕は、こうして彼女の好感度を稼ぐために、涙ぐましい努力をしているというわけだった。
……思い返せば『なんでそうなる?』という点があまりにも多い。
ちょっと因果関係を整理してみよう。
どうして僕は、彼女のワンルームに毎週入り浸ることになってしまったのか。それは━━
◆
「中堂くん、私は世界でたった一つだけ苦手なことがあるの」
普通の人が言えば『はいはいそういうギャグね』と思えるような発言でも、佐伯先輩が言うとみょうな信憑性が出てきてしまう。
僕は『いや絶対にもっとあるでしょ』とも『世界で一個だけなんてすごいです』とも言えずに、「はあ」と述べながら彼女の整いすぎた顔を見るしかなかった。
何せ卒業式で、僕はたった今、彼女に告白したところ……の、はず……たぶん……きっと……
どうだろう、自信がなくなってきてしまった。
だって告白直後に校舎裏に連れ出されて壁ドンされて、この感じだ。告白直後の後輩への態度じゃない気がする。
相変わらずムカつくほど顔がいい先輩は、ムカつくほどキリッとした表情で、僕とあまり変わらない、女性にしては高めの位置にある顔面から、吸い込まれそうなほど黒い瞳をちょっとだけ上げて僕を見ていた。
「中堂くん、私が弱点を告白する前に一つ聞いておきたいんだけど、私のどこが好きで告白したの?」
「顔です」
「告白成功の勝算はどのぐらい?」
「五割ぐらいかな……」
何を告白させられてるんだ?
佐伯先輩にはかなり
なんというのか……………………『変わっている』。
僕の告白成功率五割という目算も、この顔面だから彼氏がすでにいる可能性とか、この性格だから友達がいない可能性とか……
実際に彼女が同級生だの下級生だの、とにかく学内で『友人』みたいな人とつるんでいたシーンを目撃したことのない経験が、かなり成功率を底上げしての数字だ。
佐伯先輩は「なるほどね」と頭良さそうな雰囲気であごに指を添える。
手の甲から指先、爪にいたるまでこうまで『美人』を表現してる人はこの世に二人といないだろう。
僕はさっき先輩に聞かれてつい『顔が好き』と答えてしまったけれど、実際のところ見た目がまるごと好きだ。顔だけじゃなくて全身好き。
「
「はい?」
余計なことを考えていたところに耳慣れない言葉をかけられたせいでうまく聞き取れなかった。
すると先輩はうっかり見惚れるほど綺麗に微笑んで言葉を繰り返した。
「
「……あ、
「ナシなの?」
「いやまあ、どうなんでしょう?」
「あなたはどう思うの?」
「ナシではないのかな……」
「じゃあアリでしょう」
「そっすね。それで……」
「中堂くん、私には世界でたった一つだけ苦手なことがあるの」
「そこに戻るんですね。それで?」
「もしもあなたが、私の苦手なことを私に代わってやってくれるなら、結婚を前提にお付き合いしてあげてもいいわ」
この超上から目線よ。
普通の人がやるとたとえ『こっちが告白した側』であっても冷めてしまうものだと思う。でもこの人、むちゃくちゃ顔がいいからな……やっぱ最高だわ、顔がいいの。
「わかりました。なんでも言ってください。努力します」
「私が苦手なものはね……『生活』なの」
「はい?」
「生きて活動することが苦手なの」
思わず額に手を当てた。
「熱はないわ。正気でもある」と返ってきた。
そうは思えなかった。
「大丈夫ですか、人生」
「ダメかもしれない……だから助けを必要としています」
「どうしてこんなんになるまで放っておいたんだ、ご両親」
「そしてそのご両親から、大学進学と同時に一人暮らしをさせられることになったの。でも……できないのよ、生活」
「はあ」
「だから、あなたが私の生活の面倒を見てくれるなら、私はあなたと付き合ってあげてもいいと思っているわ」
どう? と言われた。
どうしようかな、今の話、自信満々にキリッとした顔で『どう?』って言える要素が一個もなかったんだけど、なんか顔がいいせいでものすごく格好いい選択肢を投げかけられたように感じる……
やっぱり僕はこの先輩の見た目が大好きで、長くそばで見ていたいと思えた。
それに、生活の面倒を見るとか言われても、そこまで大変なことには思えなかった。想像がついていなかった、とも言う。
だから僕は承諾した。
そして彼女は「よく言ってくれたわね」と僕を褒め称えた。
そうして僕は、ぐちゃぐちゃな部屋に週一で通っている。
僕の高校三年生の春の暮らしは、詐欺罪の告訴も辞さない話の延長線に存在した。
◆
ようやく部屋の床が見え始めたころ、時刻はとっくに夕方になっていた。
信じられない。始めたのはお昼なのに。しかも先週片付けて、この生活できない先輩でもどうにかなるように整理整頓のための棚など用意したのに。なぜ毎回昼から夕方までかかるんだろう。
僕はこのワンルームがもしかしたら一見六畳に見えるだけで実際にはもっと広く、体育館ぐらいのサイズの空間の清掃でもさせられてるんじゃないかという可能性を疑った。
しかし綺麗に整頓されたワンルームはどう見ても六畳かそれ未満の空間で、このあとコインランドリーに持っていく洗濯物が端っこにまとめられて、ゴミ袋が出す日に備えて玄関に置かれ、相変わらず部屋の中央の聖域では女神然とした彼女が頬杖をついて横になっている。
「佐伯せ……さん」
彼女は大学生で僕は高校生。
だから『もう、先輩はいいでしょう』と言われてしまった。
大して呼び方にこだわりはなかったつもりなんだけれど、いざ『佐伯さん』と呼んでみると、どうにも呼び慣れないで、たまにまごついてしまう。
まあ、きっと、夏ごろには慣れているのだろうけれど。
「僕の告白はまだ保留ですか?」
「あなたこそまだ保留でいいの? 取り下げは?」
「僕が佐伯さんを嫌いになるわけないじゃないですか」
恋愛は正直よくわからない。
告白されたこともあって、付き合ったこともあるけど、長く続かなかった。
というか……『女』に興味がないんだと思う。
ただ僕は、美しいものが好きなのかもしれない。
そして彼女は美しい。だから僕は、見ているだけで、だいたいの汚点は許せてしまうのだろう。汚点というか、
ただ……
「あなたの生活が本当に冗談にならないレベルで『やばい』のは実感しました」
「ふふ。でしょう?」
「なのでお願いがあります。どうか僕に、もっとお世話しやすくさせてください。具体的には週一じゃなくて泊まり込みで」
「いいけど」
「いいのかよ」
「だって中堂くん、私のこと好きじゃないでしょう?」
「いや、好きですよ」
「どこが?」
「顔」
「体は?」
「好きですよ。っていうか見た目全部好きです。だから汚ねぇ部屋で栄養状態の悪い状態で過ごしてほしくないんですよ。僕にあなたの美しさを守らせてください」
「いいわよ」
「いいのかよ。大丈夫ですか? 大学で変な男に言い寄られてたりしません?」
「大丈夫。私、身持ちが固いから」
「身持ちが固い人の言動じゃないです、さっきから」
本当に大丈夫なんだろうかこの先輩。
というか……
「泊まり込みを許可するのに、僕の告白はまだ保留なんですか?」
そうたずねると、佐伯さんは笑った。
「だって、それが私たちにとって心地いい関係でしょう?」
なんか告白を保留したまま僕を掃除夫として使おうというクズ発言のようにしか思えないのだけれど、顔がいいのですごく深いことを言われたような気がする。
でもたしかに、僕も保留が心地いいのかもしれない。
よく考えたら、僕は確かに先輩のことを好きじゃないし、先輩もたぶん、僕のことは好きというほどでもないのだろう。
それでも僕らは同棲みたいな関係を決めた。
僕らのあいだに恋愛はない。
ただ心地よさだけがある。
告白して付き合うよりもよっぽど心地がいい関係は、恋愛のような、友情のような……あるいはそれら全部が入り混じったもののような……
相互利用でもあり、依存でもあるのかもしれない。もしくはこれこそが恋愛と世間で呼ばれるものかもしれない。
僕らはこの関係性につける名前をゆっくり探していくことにした。
とりあえず今は、なんだかわからない、ぐちゃぐちゃした関係の、僕ら。
汚部屋の女神 稲荷竜 @Ryu_Inari
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