No.5 冬来たりなば春遠からじ

風白狼

冬来たりなば春遠からじ

 彼女は誰に名を尋ねられても「フユミ」としか名乗らない。粗野な客たちはそれで皆彼女のことをフユミちゃんと呼ぶが、彼女の本当の名は「冬海ふゆみ」で、そしてそれは苗字で、下の名前は水游みゆうであるということを彼女の夜の周辺で俺だけが知っている。

「ハルキくーん、四番の卓アツシボおねがいねー」

 と、フユミさんから声がかかる。これで俺の名前が春樹とかだったら話が出来過ぎていると思われるところだが、あいにくうちは角川一家じゃないので、俺は浩輝はるきである。上の名前? 田中。な、別に何にも面白くないだろ?

「名前なんてさー、普通が一番だよ。ねぇハルキくん。そう思わない?」

 と言うのはフユミさん。いま、常連のナツメさんの代走で卓に入って牌を摘まみ始めたところだから、むやみに話しかけないでもらえませんか?

「はいはい。あ、アタシにもおしぼり頂戴。ツメシボで」

 だから代走中だっつーに……さて、用語が分かる人には既にお分かりのようにここは雀荘で、フユミさんは店のオーナーである。ここ『春来荘しゅんらいそう』はそれなりに繁盛しているから、フユミさんは「名前が店の名前に似てるから」というだけの理由で雇った俺にそこそこの給料を出せるくらいには儲かっている。俺は一応麻雀プロとしての資格を持っていたりもするが、麻雀プロというのはそれで喰えるという性質のものではないので、実質的にはただの雀荘メンバーであるに過ぎない。さて、棗さんはリーチをかけてトイレに行っただけなのだが、俺がそのリーチを和了あがって一本場に入っても戻ってこなかった。そして、次に入った手牌が問題だった。九種九牌、だ。ルール上、手を倒して再シャッフルを要求することができるのだが、メンバーのやることではない。仕方がないから、手なりで国士無双を作っていく。

「ハルキ君、ありがとー。じゃ、卓に戻るわ」

 と、言われて棗さんが座ったときには、割れ目の国士、南待ちが完成していた。それをおくびにも出さず、当たり前のような顔をして着席できる棗さんは流石に肝が据わっていると思う。

「カン」

 と発声したのは、アキラ君という、最近店によく来るようになった大学生。

「ロン。4万8000点。悪いね、その南だったんだわ。いやぁ、ったかい風が吹いたもんだ。そういや今日は春分だし、これまさに春一番だねぇ」

「え? 暗槓ですよ?」

「知らなかった? 国士無双だけは暗槓をロンできるんだわ」

「し、知らなかった……」

 俺はもちろん知ってはいたけど、実際にそれが成立するのを見るのは、どっぷりこの世界に漬かっているこの人生でもこれがようやくの二回目であった。アキラ君のトビで、卓は割れた。他のお客さんはそれで帰ってしまい、店にはアキラ君と棗さん、そして俺とフユミさんだけになった。

「フユミさんも入ってもらっていいですか?」

「はーい。お手柔らかにお願いしますねー」

 フユミさんはこのような名前だが、春の陽気のように朗らかな人である。どっちかというとキャラクター的には俺の方が冬であり、彼女の方が春なのだが、人間の名前というのはそういう風には決まらないから、人生というものがある。

「冬海水游。冬の海で水に遊ぶ。さむざむしー名前だよねぇ。ねぇ、そう思わない? ハルキ」

 二人きりの時には、彼女は俺のことを呼び捨てにする。

「名前が寒々しくても、フユミさんの身体があったかいのは、俺がよく知ってるから」

「えっち」

「しょうがないだろ。俺、フユミさんの身体しか知らないしさ……」

 俺の人生に初めて訪れた春。それが、フユミさんだ。俺の人生がいま大詰めを迎えているのか、それともまだプロローグなのかはよく分からないが、彼女と出会えて、この、今という冬の終わりを、この女と過ごせて、良かった。俺は、そう思う。そして、そう思いながら、煙草をふかす。

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No.5 冬来たりなば春遠からじ 風白狼 @soshuan

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