たとえ心がぐしゃぐしゃになっても

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例え心がぐしゃぐしゃになっても

 屈強な体つきをした三十代の男が一人、夜の森の中を走っていた。男の脚には、一ヶ所貫通した様な跡が付いており、そこから赤黒い液体が漏れ出している。それでも男は歯を噛みしめながら走り続ける。


「御免なさい、御免なさい」


 微かに声が聞こえたのと同時に、破裂音が男の鼓膜を刺激した。

 男が気が付いた時には、既に手遅れだった。


「ぁぁあ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙!!」


 男の右肩に、金属で殴られた様な痛みと激しい熱が襲い掛かる。その痛みが銃によるものだと男は叫びながら理解した。先程も同じだった。突如声が聞こえたら、体を打ち抜かれていたのだ。


「なんで……なんでえ゙!!」


 男は慟哭しながら土に顔を押し付ける。まるで土下座をしている様な姿になった男は、目の前に近づいてくる足跡に対し、「来るな! ぐるなぁっ!!」と叫び続けた。


「御免なさい、御免なさい」


 声の主は、ぼそぼそと呟きながら男の前までやってくる。その時、男は一つのことに気が付いた。相手が幼げな少女と言う事だ。確証は無くとも、男が今までやってきた罪からそう推測出来た。


 これは断罪なのか。男は初めて理解した。

 つむじに冷たい感触がはしる。銃口がのせられたのだろう。

 土下座のような格好になったのは悪手だったと男は感じていた。


「御免なさい――さようなら」


 それが、男が最期に破裂音と同時に聞いた言葉だった。


「これで、また、私は――変われたのかな」


 金色こんじきの長い髪の毛を風に揺らめかせながら、少女はぽつりと呟く。

 空を見上げると、満月浮かぶ夜空で星々が輝いていた。


「ありがとう、星々さん」


 柔らかな煌めきを数分眺めた後、少女は骸から踵を返す。


「帰ろう。あの人が、待っている」


 暗い森の中を、少女は一人で戻っていく。

 少女の名は、ローレンシア。

 薄汚れた罪を家業に生きている。


 少女はまだ、気が付かない。


 穢れた両手の重さに――


 数年後。ローレンシアは襟にかかる程度の金髪に、エメラルドの様な輝きを放つ瞳。目鼻立ちのきりっとした美しい顔を持った女性に成長していた。

 そんな中でも、彼女は仕事に生きていた。


「良いですか、ローレンシア。殺す時は――」

「はい、分かりました」

「良いですか、ローレンシア。殺す時は――」

「はい、分かりました」

「良いですか、ローレンシア。殺す時は――」

「はい、分かりました」


 彼女は何時も、人を殺める技術を教えられ続けていた。

 その知識の中には、側近として近づき相手を殺すという手段も教えられていた。


「相手に情を持ってはなりません。情を持ったならば、その場で自害なさい」

「分かりました」


 所詮は拾われた命。飼い主に従わないなら生きる価値が無い。

 ローレンシアはそんな風に考えていた。


 そんなある日、ローレンシアは屋敷に潜入し、所有主を暗殺する命令を下された。

 所有主を殺す為に、彼女は一時的に屋敷の女性使用人として働くことになった。

 しかし、彼女の女性使用人の能力はお世辞にもあるとは言えなかった。


 失敗続きの日々を送り、身も心も削られる。

 このままだと、暗殺するすら出来ないのではないか。

 そんな心配すら押し寄せてきていた。


「大丈夫。落ち着いてやっていけば何とかなるよ」


 そんな時、ローレンシアに優しく声をかけた人物がいた。

 白狼の様な髪と黄色いつり目、額に九という痣が付いているのが特徴的な男だった。男の名は、ユーリン。ローレンシアと同じように使用人として働いていた。


 ユーリンは他の使用人とは違い、ローレンシアに積極的に話しかけてきた。そんなユーリンに対して、次第にローレンシアも惹かれていった。

 そんなある日、2人はこんな話をした。


「ローレンシア。苦手な物ってある? 僕はね、月が苦手なんだ」

「そうなんだ。けれど、私、月は好きだけどな」

「なんで?」

「月を見てると今迄の罪が浄化される気がするんだよね」

「浄化、かぁ」


 ローレンシアの発言に対し、ユーリンはどこか悲しげな表情を浮かべていた。その真意を、ローレンシアは理解出来なかった。けれども、彼女にとってユーリンと一緒にいる時間はとても幸せだった。


 ユーリンといると、心がぽかぽかとするのだ。

 それがどんな感情なのか、ローレンシアは気が付いていなかった。

 それでも、ずっとこんな生活が続けばいいのにと思っていた。

 

 しかし、そんな生活は長く続かなかった。


「こいつだ! こいつが私を狙っている刺客だ!」


 ローレンシアが暗殺者だと屋敷の所有主に感づかれてしまったのだ。

 原因は、所有主が持っていた拳銃が示していた。

 一体誰が見つけたのか。今となっては知る由が無い。


「ふふふっ、私を殺そうなんざ片腹痛いわぁ! 死ねぇ!」


 所有主が銃の引き金を引こうとする。その時だった。部屋の奥から、大柄な狼が現れたのだ。毛並みは白銀の美しさを持ち、瞳は黄色かった。


「お前ら、こいつを殺せ!」


 汗を額から噴出させている所有主がそんな言葉を吐いた後、狼から逃げていく。その姿を見たローレンシアは、今が逃げ時だと感じた。


 ローレンシアは窓を開け、下を眺める。二階の高さはあり、下は森だ。

 このまま落下すれば、逃げられるかもしれないが失敗する可能性もある。

 けれども、逃げなければ死んでしまうだろう。


 ローレンシアは、身を投げ出した。

 風を身体で浴びながら、木々の中をがさがさと音を鳴らしながら通っていく。


「いててててて……」


 幸い葉がクッションとなってくれたためそこまで怪我はしなかったが、やはり痛いものだ。そんな風に感じつつ、ローレンシアは屋敷を後にした。


 その後日――


 町の中で、とある生物が晒し首にされていた。

 その生物は、昨日見た白狼だった。


「こいつは私の屋敷を襲った化け物だ! だが、私達は勝ったぁ! もしお前たちが襲い掛かってくるならば、こうなると思え! がははははははははぁ!!」


 ほくそ笑んでいる所有主は既に息絶えている白狼の鼻を勢いよく殴った後、屋敷に帰宅していった。そんな姿を見たローレンシアは心の中で苛つきつつも声に出さないように気を付けていた。


 人混みが狼から去っていく中、ローレンシアは白狼に近づいていく。


「もし君が居なかったら、きっと私は殺されていたよ。助けてくれてありがとう」


 ローレンシアは頭を下げてお礼を言った後、何となく白狼の額を右手で上にあげた。その瞬間、彼女の手が止まった。


「……嘘だ」


 嘘だ、嘘だ、嘘だ!


 ローレンシアの中で、そんな言葉が木霊する。

 否定したいという彼女の思いを、現実が批判する。

 彼女の見た光景は真実だと、ただただ突きつける。


 白狼の額には、九という痣が付いていたのだ。


「あぁ……あぁぁぁ……」


 ローレンシアは、目の前にいる亡骸に対して泣き崩れた。

 もう二度と、あの温もりは戻らないと理解出来たからだ。

 感情がぐちゃぐちゃに潰れていくのを感じる。


 胸が潰されるのはこんな気分なのかと彼女は感じていた。


「……どうやら、嫌な事があったようだねぇ」


 帰宅したローレンシアの心情を、彼女の師は見抜いていた。

 ローレンシアは何にも言わず下を向いたままだった。


「まぁ、いいさ。それよりも仕事だ」


 師はそう言いつつローレンシアに拳銃を手渡した。


「最も、今回はどちらでもいいよ。あんたの好きなようにしな」


 それは師が初めて言った優しい言葉だった。



 鳥の囀り一つすら無い森の中を、黒色の折襟おりえりの服や黒色の編上靴を身に纏ったローレンシアが歩いていた。

 少し欠けた月が、森の中を優しく照らしている。


「御免なさい、御免なさい」


 ローレンシアは幼少期に呟いていた言葉をまた口にする。

 昔は意味が分からず、ただただ呪文のように唱えていた。

 けれども、今は違う。


 今の彼女にとって、この言葉は短い間だったが共に生きてきた仲間への言葉だ。

 

「穢れた両手を持つのは私だけでいい。だから――私が敵を討つよ、ユーリン」


 ローレンシアはそう呟いた後、屋敷を目指し歩いて行った。

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