第2話

 新井は城端駅近くのホテルで2025年の大河ドラマ『武田勝頼』を見ていた。主演は綾野剛だ。

 天文15年(1546年)、武田晴信(信玄)の四男として生まれた。生誕地や生月日、幼名は不明。母は信虎後期から晴信初期に同盟関係であった信濃国諏訪領主・諏訪頼重の娘・諏訪御料人(実名不詳、乾福院殿)。武田信玄は草刈正雄が演じている。草刈正雄は『真田丸』のときは真田昌幸を演じていた。


 武田氏は勝頼の祖父にあたる信虎期に諏訪氏と同盟関係にあったが、父の晴信は天文10年(1541年)6月に信虎を追放する形で家督を相続すると諏訪氏とは手切となり、天文11年(1542年)6月には諏訪侵攻を行い、諏訪頼重・頼高ら諏訪一族は滅亡する。晴信は諏訪残党の高遠頼継らの反乱に対し、頼重の遺児・千代宮丸(寅王丸)を奉じて諏訪遺臣を糾合し、頼継を制圧する。


 晴信は、側室として諏訪御料人を武田氏の居城である甲府の躑躅ヶ崎館へ迎え、天文15年(1546年)に勝頼が誕生する。頼重遺児の千代宮丸は諏訪惣領家を相続することなく廃嫡されており、同年8月28日には千代宮丸を擁立していた諏訪満隆(ケンドーコバヤシ演)が切腹を命じられており、反乱を企てていたと考えられている。


 躑躅ヶ崎館で母とともに育ったと考えられているが、武田家嫡男の武田義信(小泉孝太郎演)や次男・海野信親(斎藤工演)に関する記事の多い『高白斎記』においても勝頼や諏訪御料人に関する記事は見られず、乳母や傅役など幼年期の事情は不明である。なお、『甲陽軍鑑』では勝頼出生に至る経緯が詳細に記されているが、内容は疑問視されている。信玄が諏訪御料人を側室に迎えることには、武田家中でも根強い反対があったとも考えられている。


 武田信玄は信濃侵攻を本格化して越後国の上杉氏と対決し、永禄4年(1561年)の川中島の戦いにおいて信濃平定が一段落している。信玄は信濃支配において、旧族に子女を入嗣させて懐柔する政策を取っており、勝頼の異母弟である仁科盛信(城田優演)は信濃仁科氏を継承しているが、勝頼も同年6月に諏訪家の名跡を継ぎ、諏訪氏の通字である「頼」を名乗り諏訪四郎勝頼となる(武田氏の通字である「信」を継承していない点が注目される)。勝頼は跡部重政(鈴木亮平演)ら8名の家臣団を付けられ、従弟の武田信豊らと共に親族衆に列せられている。


 諏訪勝頼は城代・秋山虎繁(世良公則演)に代わり信濃高遠城主となり、勝頼の高遠城入城に際しては馬場信春(反町隆史演)が城の改修を行う。勝頼期の高遠領支配は3点の文書が残されているのみで、具体的実情は不明であるものの、独自支配権を持つ支城領として機能していたと考えられている。ほか、事跡として高遠建福寺で行われた諏訪御料人の十七回忌や、永禄7年(1564年)に諏訪二宮小野神社に梵鐘を奉納したことなどが見られる。


 新井はドラマを見ながら、鏡を見ているような不思議な気持ちになった。

 明日は1月15日、30代もそろそろ終わりだ。


 朝はすぐやってきた。彼女もいないさみしい誕生日。喫茶店で雷童若狭、蒲生ザックスに誕生日を祝ってもらった。新井は親友、佐伯の仇を討つ為に雷童探偵事務所に転職した。ザックスがエクレアとまるごとバナナをプレゼントしてくれた。

「新井君、誕生日おめでとう」と、ザックス。

「勝頼って呼んでくれよ」

 弟の万里ばんりがファミマで使えるクーポンをくれて、おふくろからも『誕生日おめでとう。体に気をつけて頑張って』とラインがあった。図書館で石田衣良の本を借りた。ファミマでTVerを見た。『GTP』という新番組だ。CHATGTPで創作したドラマを一般公募から募るという企画だ。タカアキって勇者が最強のイモフライを探す旅は面白かった。

 ファミマを出ると洋服屋でパジャマを買った。スーパーで豚肉を買って、ザックスのアパートにやって来た。居候させてもらうことになった。

 豚肉をオーブンで焼いてから、フライパンでさらに焼いたらメチャクチャ美味くて、ザックスも感心していた。

 ザックスはフリスクナイフって全長、18.5Cmの小さいナイフをプレゼントしてくれた。服の下に隠しやすい。ザックスはバックルガンという、ベルトのバックル部分がピストルになっている暗器を所持していた。

「ナチス・ドイツの高官が使用していたもんだ」

 バックルガンの使い方はバックルのフタを開き、左側のバレルを起こし、トリガーを押して射撃する。

 

 1月20日

 北条氏照は新井をおびき出すために北杜市の住民を無差別に処刑していた。

「勝頼はどこじゃ!」

 氏照は勝頼と三増峠みませとうげの戦いで激突した。

 三増峠の戦いとは、永禄12年(1569年)10月8日に武田信玄と北条氏により行われた合戦である。本項では、合戦に至るまでの経緯として、小田原城包囲戦も合わせて解説する。駿河侵攻の二正面作戦の一つとも言える。

 

 戦国期に領国を接する武田氏と北条氏は武田信虎・北条氏綱期には甲斐都留郡において抗争を続けていたが、やがて両者は和睦して甲相同盟が結ばれ、これに駿河今川氏との同盟を結び甲相駿三国同盟の締結に至り、武田氏は信濃侵攻を行い北信地域において越後の長尾景虎(上杉謙信)と抗争し、北条氏は北関東侵攻を行い同じく越後上杉氏と抗争し、両者は相互に協調して上杉氏に対抗していた。


 武田氏の信濃侵攻は、5回の川中島の戦いを契機に収束し、武田氏は方針を転換し永禄11年(1568年)12月には同盟を破棄して駿河今川領国へと侵攻を行う(駿河侵攻)。武田氏の駿河侵攻は甲相同盟の破綻をも招き、北条氏は上杉氏と越相同盟を締結し、武田氏に対抗した。


 翌永禄12年(1569年)1月に北条氏政は駿河薩埵峠へ着陣し、興津において武田勢と対峙している。同年8月24日に武田信玄は2万の軍勢を率いて甲府を出立、碓氷峠から上野国を上杉謙信をけん制(越中の戦国時代の永禄12年の上杉謙信の越中出兵の項参照)しつつ南下、廿里古戦場にて小山田信茂1000人が北条氏方2000人を打ち破り、滝山城(包囲のみ)などの後北条氏の拠点を攻撃したのち、犬越路を通って10月1日には北条氏康の小田原城を囲んだ。当時の小田原城は有名な惣構えが着工前であったが、かつて上杉謙信が10万以上の兵力で落とせなかった堅城であったため、城攻めはせず小田原城を包囲し3度にわたって挑発した。しかし後北条氏は小田原城を出ることはなかった。武田軍は包囲を開始して4日後の10月5日に城下に火を放ち軍勢を引き上げた。


 北条氏は後詰めであった甲州街道守備軍の北条氏照、秩父方面守備軍の北条氏邦の軍勢2万が要所である三増峠(相模原市緑区根小屋 - 愛甲郡愛川町三増)に着陣し、甲斐に帰国しようとする武田軍相手に有利に戦端を開いた。さらに北条氏政が2万余りを率いて氏照・氏邦の部隊と武田軍を挟撃、殲滅する作戦であった。10月6日には武田軍と北条軍が対陣することになった。


 氏政本隊は到着前であったが、氏照・氏邦の部隊は先手を打って奇襲攻撃を仕掛けようとしていた。これを察知した信玄は部隊を3隊に分けた。北条軍の攻撃を正面に受けつつ、1隊は津久井城の抑え、1隊は山中に隠れ北条軍を横から急襲する作戦であった。10月8日に両軍は本格的な交戦を開始する。緒戦では北条軍有利に合戦は経過した。そのため武田軍は損害を受け、北条綱成が指揮する鉄砲隊の銃撃により左翼の浅利信種や浦野重秀が討ち死にしている。


 しかし、志田峠 (三増峠南西約1km) に機動した山県昌景率いる武田の別働隊が、より高所から奇襲に出ると戦況は一気に武田に傾いた。北条軍は背後の津久井城守備隊の内藤隊などの予備戦力が、小幡信貞、加藤景忠ら武田軍別働隊に抑えられて救援に出られず、大きな被害を受けている。武田左翼大将である浅利信種が戦死した左翼では、軍監であった曽根昌世が代わりに指揮をとり、綱成の軍勢を押し戻すことに成功している。緒戦では苦戦したものの、最終的には武田軍の勝利とされている。


 また、武田軍が千葉氏が在陣しているところに向かって「千葉氏と言えばかつて北条と対し、互角に渡り合った衆であろう。それが北条に僕として扱われることに不満はござらんのか」と大声で呼びかけ、これにより千葉氏が勢いを鈍らせたとも言われている。


 合戦が終わる頃、小田原から追撃してきた氏政の北条本隊2万は荻野(厚木市)まで迫っていたが自軍の敗戦を聞きつけ進軍を停止、挟撃は実現しなかった。もし氏政の部隊が到着していた場合、武田軍は挟撃されて逆に大敗していた可能性もあった。


 自軍の勝利を見た信玄は軍勢を反畑(相模原市緑区)まで移動させ、そこで勝ち鬨を挙げた。その後武田軍は甲斐に撤退した。この戦いで武田方では西上野の箕輪城代・浅利信種が戦死し、信種戦死後に箕輪城代は浅利氏から内藤昌秀・昌月親子に交代している。


 この合戦では、双方の軍の武士の自刃にまつわる、似たような複数の逸話が残されている。


 武田軍の武士の一部が甲斐国に撤退する際に北条軍から追い討ちを受け、落ち伸びるべく山中を甲斐国へと向かっていた。しかし彼らは、甲斐国への道中では見えるはずのない海を見る(峠から甲斐方面と海とは逆方向であり、近辺の海といえば相模湾である)。これは彼らの見間違いで、村の蕎麦畑の白い花が海に見えただけであったのだが、道を誤り敵国へ深く踏み込んでしまったと思った彼らはその場で自刃してしまった。以来、自刃を悼んだ村の人々は蕎麦を作ることをしないのだという。


 また、同様の伝説は北条軍側にも残されている。戦いに敗れた北条軍の落ち武者が山中を逃げていた最中、トウモロコシを収穫した後の茎を武田軍の槍のひしめき合う様と見間違え、逃げる術のないことを悟り自刃した。自刃した落ち武者を供養するため、この土地ではトウモロコシを作らないという。


 またこの地では合戦の死者の怨霊伝説が広く語り継がれ、近隣で三増峠の戦いに付随した戦いがあったといわれているヤビツ峠では餓鬼憑きの伝説が残っている。

 

 氏照はどこからともなくやってきたタイムマシンに北条綱成、原胤栄はらたねひでと乗り込み2025年にやって来た。


 同じ頃、歴史小説家の春香は南砺図書館で調べものをしていた。

 

 📖北条氏照

 天文11年(1542年)に、北条氏康と瑞渓院の子、氏康の三男として生まれる。


 弘治元年(1555年)11月に下総葛西城で行われた古河公方・足利義氏の元服式に、兄弟で唯一、父・氏康と一緒に参加している。


 弘治2年(1556年)5月、大石家の領国である相模国座間郷に所在した神社の再興にあたって大檀那を務めており、この頃、大石家の領国支配に関与し始めたとみられている。また、同年に元服したとされ、仮名の源三と諱の氏照を名乗ることになる。


 永禄2年(1559年)11月、大石家の本城・由井城に入り、自ら由井領の領国支配を開始する。この年大石定久の娘・比左を娶り、養子縁組をして大石源三氏照と名乗り、家督を譲られる。


 弘治元年(1555年)頃まで、大石氏の当主は大石綱周という人物であったことが分かっており、綱周は定久の息子で比佐の父親、つまり氏照の養父であったとする説が近年有力視されている。弘治元年頃に綱周が隠居もしくは死去に伴って新しい当主を立てる必要が生じていたが、大石氏の一族の家臣の中にはいまだに上杉氏などと連動して北条氏に叛旗を翻そうとする勢力がいたため、氏康は大石氏を確実に掌握して西武蔵を安定化させるために、自分の息子を養子として送り込んだとみられている。


 大石家に養子入りした後もしばらくの間、具体的な領国支配は、氏康が管理し、家老としてつけられた狩野泰光(後の法円宗円)と庄式部少輔が当たっている。


 自領であった現・相模原市方面の各村への文書では「油井源三」を名乗っている。


 永禄4年(1561年)2月、氏照は滝山城に入城したとされている。しかし、永禄4年6月まで続いた上杉謙信の関東侵攻で滝山城が使われていないことから、少なくても永禄4年7月以降の入城でないとおかしいと指摘され、さらにそもそも永禄4年当時まだ滝山城そのものが存在していなかったとする説も出されるようになり、現在は後者が有力視されている。また、天正2年(1574年)初頭、足利義氏が古河城、氏照が栗橋城に在城していることが確認できることから、滝山城ではなく、栗橋城に入城した可能性が高いとされている。


 永禄5年(1562年)3月、前年に北条氏に滅亡させられ、由井領に北接して展開していた国衆・三田氏の領国であった勝沼領を与えられて由井領に併合した。それにともなって永禄6年から永禄10年までの間に、新たな本拠として滝山城を構築し、移ったと考えられている。


「涌井文書」によると、永禄4年(1562年)の下野国の佐野氏との外交を皮切りに、永禄12年(1569年)には、氏邦と共に上杉氏との越相同盟の実現などを画策、伊達氏とも濃密な外交関係を築くなどした。伊達政宗、蘆名氏との外交も担当している。氏照の外交相手は、下野国の国人、古河公方足利氏の勢力圏、そして奥州の大名達が中心であった。


 永禄10年(1567年)からは北関東・南関東の取次を務めるようになり、北条家の外交・軍事において重要な役割を担い始めた。


 永禄12年(1569年)、武田信玄の軍勢が小仏峠・碓氷峠を越え武蔵国・相模国に侵攻した。氏照は中山家範・横地吉信らに迎撃を命じたが、高尾山麗の廿里(現、八王子市廿里町、廿里古戦場)にて敗退。その後余勢を駆って押し寄せた武田勢に攻め立てられ、滝山城は三の丸まで陥落し氏照は二の丸で指揮をとったという。


 氏照本人が同年10月24日に、越後の上杉輝虎の家臣・山吉豊守および河田重親に宛てた書状(上杉家文書)には、滝山城の城下町である宿三口で戦いが行われたと書かれており、実際に三の丸まで攻め込まれたかは不明である。


 その後、武田の軍勢が小田原城を囲んだ。撤退する武田勢を氏照・氏邦の軍勢が迎え撃ったが、小田原から追撃してきた本隊の動きが遅く挟撃体制は実現しなかった。この間に武田別働隊が氏照・氏邦の陣よりさらに高所から襲撃し戦局は一転、氏照・氏邦は敗北した。戦国最大規模の山岳戦として知られる三増峠の戦いである。


 この年の12月までに大石から北条姓に戻している。

 スマホが鳴ったので読んでるページに栞を挟んだ。

 

 

 

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武田勝頼 10万以上 短編長編両方化 鷹山トシキ @1982

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