武田勝頼 10万以上 短編長編両方化
鷹山トシキ
第1話
暴行傷害の罪で服役し、6年間の刑期を終えたばかりの新井和幸と5年越しのヘルパーから足を洗った佐伯達行が出会うところから物語は始まる。
新井は綾野剛、佐伯は伊藤淳史にそれぞれ似ていた。
新井はガソリンスタンドを始めるために山梨県の北杜市へ、佐伯は一度も会ったことのない自分の子どもに会うために富山県南砺市へ向かう。2人の出会いはヒッチハイクの途中だった。喧嘩っ早く、どこか神経質な新井。陽気で人なつっこい佐伯。正反対の2人がふとしたきっかけで意気投合し、道中を共にしていくことになる。新井が「俺はいつか武田勝頼みたいになりたい」というのに佐伯は「メチャクチャ頭の悪いおまえならなれるかもな」という。
2人は新井の妹の家に寄り、皆で行ったバーで宴を始めるが、そこでの新井は喧嘩で再び更生施設送りになる。新井は牢名主の中里に暴行を受けケガを負う。中里はどことなく上島竜兵に似ていた。新井は刑務作業中に中里を叩きのめし、2人は1ヶ月後に出所する。
南砺市に着く。佐伯は妻の春香に会うために洋服屋に寄り、イメチェンする。さらに彼女の家の前で電話をする。しかし春香は2年前に再婚しており、「子どもは死んだ」と嘘をつく。それを聞いた新井は本屋で錯乱状態に陥り病院に担ぎ込まれる。「お前の面倒は俺が見る」と眠り続ける佐伯に語りかける新井。1人で福光駅へ向かった新井は城端駅行きの切符を買った。
福光駅は富山県南砺市荒木にある西日本旅客鉄道(JR西日本)城端線の駅である。また、かつては国鉄自動車名金急行線、太美山線および井波線の自動車駅であった。
城端方面に向かって右側に単式ホーム1面1線を持つ地上駅(停留所)である。ホーム途中まで15‰の勾配が続いている。
北陸広域鉄道部管理の無人駅で、ホームに待合室があるが駅舎はない。1987年(昭和62年)に無人駅としては全国で初めて鉄道少年団が結成された。
城端は山地と平野の双方を有し、自治体域の標高は1000m弱から100mまで幅広い。坂の町としても知られる。「越中の小京都」と呼ばれる。
山:袴腰山、高清水山
河川:山田川、池川
湖沼:桜ヶ池、縄ヶ池、城端ダム湖
城端駅近くの『松永書房』へ事務員としてやってきた新井は、店長の松永康晴と出かけたきり、行方不明となる。松永は柄本明にどことなく似ている。松永の正体は、殺人鬼『蠍男』だったのだ。やがて、新井は石膏像に塗り込められたバラバラ死体となって発見されたうえ、佐伯も殺害されて水族館の水槽に浮かべられてしまう。この事件を調べていた私立探偵の
雷童は大杉漣、蒲生は勝地涼、大文字は木之元亮に似ていた。木之元亮は『太陽にほえろ!』にてロッキー刑事を演じていた。
冥界にやって来た新井は武田勝頼に命じられ影武者となる。「そなたなら信長を倒せるやも知れぬ」 新井には妖怪を倒すと様々な時代の人間をタイムスリップさせる能力が備わっていた。
勝頼の通称は四郎。当初は母方の諏訪氏(高遠諏訪氏)を継いだため、諏訪四郎勝頼、あるいは信濃国伊那谷の高遠城主であったため、伊奈四郎勝頼ともいう。または、武田四郎・武田四郎勝頼とも言う。「頼」は諏訪氏の通字で、「勝」は信玄の幼名「勝千代」に由来する偏諱であると考えられている。父・信玄は足利義昭に官位と偏諱の授与を願ったが、織田信長の圧力によって果たせなかった。そのため正式な官位はない。信濃への領国拡大を行った武田信玄の庶子として生まれ、母方の諏訪氏を継ぎ高遠城主となる。武田氏の正嫡である長兄武田義信が廃嫡されると継嗣となり、元亀4年(1573年)には信玄の死により家督を相続する。
強硬策を以て領国拡大方針を継承するが、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍に敗退したことを契機に領国の動揺を招き、その後の上杉氏との甲越同盟、佐竹氏との甲佐同盟で領国の再建を図り、織田氏との甲江和与も模索し、甲斐本国では躑躅ヶ崎館より新府城への本拠地移転により領国維持を図るが、織田信長の侵攻である甲州征伐を受け、天正10年(1582年)3月11日、嫡男・信勝とともに天目山で自害した。これにより平安時代から続く戦国大名としての甲斐武田氏は滅亡した。
元の時代に戻って来た新井は南砺市にやって来た。砺波平野南部にあたる平野部(福野・井波・城端・井口・福光地域)では、市街地を除き散居村の景観が見られ、西部の両白山地、東部の高清水山地、南部の飛騨高地によりU字型に山地に囲まれている。飛騨高地の北端にあたる五箇山(平・上平・利賀地域)は起伏の激しい地形である。
日本海側気候であり、年間日照時間が少なく、一年を通して曇天・雨天が多い。冬季は降水量・降雪量が多く、福光・城端・平・上平・利賀の各地域は特別豪雪地帯に指定されている。平野部の最深積雪量は150cmに迫る年もあれば20cm程度の年もあるのに対し、山間部(五箇山)は暖冬でも1m程度、多い年では3m台の積雪があり、県内の居住地では最も積雪量の多い地域である。 また、平野部は北を除く三方が山地に囲まれているため、フェーン現象の影響により猛暑日を記録することがある。
センポクカンポクという妖怪が現れた。
大きなヒキガエルのような体と、人間のような顔を持つ。家に死人が出ると、死んだ者の掛けむしろのもとに現れ、死後から1週間経つと大戸の外に出て番をする。3週間の間はその家にいるが、4週間経つと死者の霊を導いて墓場へと行く。死者の霊魂の番をし、その道案内をする役目を持つ者と考えられている。南砺市付近では、子供向けの昔話によくセンポクカンポクが登場したという。
この地方では大きなカエルのことをカサゴットの神、またはテンテンゴットの神と呼び、人が死に瀕しているときに名を呼ぶと、この神の妖術によって助かるという言い伝えもある。カサやテンテンは疣や瘡などの出来物を意味するらしく、ゴットはカエル(特に蝦蟇)を意味する方言である。
また、氷見郡では、立山に登ろうとすると大きな蝦蟇が手を繋ぎ道を遮るという言い伝えがあり、立山は死者が集まるとされたので、これも霊と蝦蟇の結びつきが強いことを示していると考えられている。
新井はセンポクカンポクと対峙した。新井はカムドノツルギを手にしていた。神度剣は阿遅鉏高日子根神(あぢすきたかひこね)が持っていた
葦原中国平定において、高天原の命を受けて葦原中国を訪れた天若日子(あめのわかひこ)は、8年たっても高天原に戻らず、 逆に高天原から派遣された雉を射殺してしまう。 雉を殺した天羽々矢は高天原まで届き、高木神が矢を投げ返すと、その矢にあたり天若日子は死んでしまった。
葦原中国では、天若日子の葬儀が行われることになった。天若日子の妻である下照姫命(したてるひめ)には、阿遅鉏高日子根神という弟がいた。 阿遅鉏高日子根神は天若日子の葬儀に参加したが、その時に「阿遅鉏高日子根神が天若日子にそっくりだった」ために、 天若日子の父である天津国玉神(あまつくにたま)から間違えられ、「天若日子は生きていた」と勘違いされてしまう。
死人(天若日子)と間違えられた阿遅鉏高日子根神は怒り、剣を抜いて喪屋を切り倒し、蹴り飛ばしてしまった。この時に使われた剣が大量であり、亦の名を神度剣とする。
新井はカムドノツルギでセンポクカンポクを真っ二つにした。
妖怪を倒した新井は旅を続けた。岩瀬家住宅にやって来た。
岩瀬家住宅は、富山県南砺市西赤尾町にある合掌造り家屋。重要文化財に指定されている。
岩瀬家住宅は江戸時代後期に加賀藩の塩硝上煮役である藤井長右エ門により8年間の歳月をかけ建てられた。現存する合掌造りとしては最大級の規模である。江戸時代末期に藤井家は絶え、以来岩瀬家の所有するところとなった。往時には35人もの人が住んでいたという。岩瀬家住宅は1958年(昭和33年)5月14日に重要文化財に指定された。現在も住居として使われているが、一部を除き内部を見学することが出来る。
合掌造り。屋根は切妻造茅葺。
入口は「平入り」(屋根の長辺側に出入口を設ける)である。
準5階建てであり、3階から5階では養蚕が営まれていた。1階の囲炉裏から暖をとり、また風通しを良くする目的で2階から上の床板には隙間がある(そのため下の階が見える)。
大きさは間口14.5間(26.4m)、奥行き7間(12.7m)、高さ8間(14.4m)である。間口はかつては今より2間半(4.5m)長かったという。
1尺角(30cm)の大黒柱、24畳の出居(応接間)の床板などには当時武士階級以外には通常許されなかったケヤキ材が使われている。塩硝上煮役と言う役職ゆえに、加賀藩から特別に許されたという。
加賀藩の役人が毎年巡視に訪れたため、その宿泊に供するための書院、奥書院(武者隠しの間)がある。
その後、高瀬遺跡にやって来た。富山県南砺市高瀬にある遺跡。1972年(昭和47年)3月22日、国の史跡に指定された。
1970年(昭和45年)富山県西南部、八乙女山山麓に展開する砺波平野の複合扇状台地の高瀬地区で、水田整備事業中に発見された床張りの掘立柱建物の遺構を中心とする遺跡で、翌1971年(昭和46年)に発掘調査を行った。時代は出土品等からして平安初期と推定される。建物遺構は5間×4間の一辺10m前後のものをあわせ3棟が確認され、土師器・須恵器坏片や木簡・大型坏蓋硯・浄瓶・漆器・曲物のほか多数の木製器具・瓦塔を出土した。建物周囲の打込み板列や雨落溝などからして、官衙風建物であったことはほぼ確実である。なお中心の建物群を囲むように蛇行した小川(曲水)がある。さらにこの地点より300m東に集落址が検出された。この建物群を東大寺の杵名蛭庄の荘家とは認定できなかったが、少なくとも当時の荘家の実態を多用的に考察しうる貴重な遺跡である。
1973年(昭和48年)より1974年(昭和49年)にかけて遺跡後は史跡公園として整備された。その際小川(曲水)に沿って約4万株のハナショウブが植えられ、毎年6月には「高瀬遺跡菖蒲まつり」が開催されている。
もうじき、16時になるところだ。
南北朝期に南朝方の有力者として活躍した越中国守護・桃井直常の家臣であった田中貞行が拠っていたという。またその後に彼の縁者と思われる田中太郎兵衛なる者が拠っていたともいう。その後寺家新屋敷館の名前が史料に登場する事は無いが、近年の発掘調査では江戸時代初期辺りまで使用されていた形跡がある事が判明している。
曲輪があった場所は神明社の境内となっている。神明社の北側には土塁が残っており、東側にもその痕跡が見られるが、堀があった場所は耕地されておりその面影は無い。石碑、案内板が建てられている。
翌日、城端に戻って来た。新井は喫茶店に入った。
珈琲を飲んでると美しい女性が話しかけてきた。
奈良時代からタイムスリップした女性がその時代の城端について教えてくれた。
奈良時代 東大寺の開墾田が越中の砺波に置かれた際に、砺波志留志(越中石黒氏の祖)が砺波郡に広大な墾田を持っていた(現在、南砺市岩木に前方後円墳 利波臣志留志の塚がある)。基本的に古代(飛鳥-白鳳-奈良-平安)には、集落としての遺構等は確認されていない。中世に入り源氏により武家政権が誕生することをきっかけに、鎌倉幕府の支配下に組み込まれ石黒党を中心とした在地領主連合の武士団が勢力を持ち、耕地の開発が進んでいった。いずれ、開発に伴って力をつけていた庶子家の自立化が進み、武士団の分裂も見られた。戦闘に備えて有力武士や土豪が山城や土塁、堀で囲まれた居館を構え、また、流通の拠点などの集落が発達していった。これが城端町の起源である。
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