たまには、思い出してもいいかな

綺瀬圭

理想的なせいかつ

 シンクに洗い物は一つも残されていない。


 いつも置かれている、コーヒーが半分入ったマグカップも当然あるはずがない。


 昨日洗濯した衣類はもうタンスにしまってある。ゴミも出したし、新しい袋もセットした。


 裏返った靴下が床を転がっていることも、食べかけのままのトーストがテーブルに取り残されていることもない。


 きれいだ。陽の光が差し込むワンルームを見て、久々にそう思った。

 

 

「何度も言わせないでよ」


 残すぐらいなら、コップいっぱいに注がなきゃいいじゃない。コーヒーがもったいないでしょ。


 脱いだらカゴに入れてよ。なんで床に散らかすの。


 洗濯物くらい畳んでよ。なんでタンスにしまわないで置いとくの。


 この前、あの子に夜ご飯あげるの忘れてたでしょ。一晩中、お腹すいたって鳴いてたのにどうして放ってたの。信じられない。



 あの頃、毎日のように血管が切れそうなほど血を沸騰させていた。


 私の理想とはかけ離れた、無秩序で散らかった部屋を作り出す彼がたまらなく嫌だった。


 どうして変わらないのだろう。どうして変えられないのだろう。

 理解不能なことが増えては、不満が募った。


 思いはついに爆破し、私は彼を追い出した。


 あれから実に快適だ。


 やりたいようにやれるし、なんせ、少しも部屋が散らかることはない。不必要な不満も生まれない。



 ……ただ、あまりにもきれいすぎて。


 ああ、彼はもういないんだな。たまにそう思ってしまいそうになる。部屋を見るほんの数秒だけ、彼を思い出しかける。


 思い出したくなんかない。忘れたい。あんな人。早く忘れてしまいたい。早く、早く……。



「……え?」



 混乱した。朝きれいだったはずの私の部屋。


 なぜか床にコーヒーが散らばり、ティッシュもビリビリに破かれた状態で散乱している。


 どういうこと。仕事に行っているわずかな数時間で、何が起こったの。


 蘇る一人の顔。もしかして。


 思い出した時、不意に泣きそうになった。


 玄関で立ちつくしていると、犯人が私の脛をそっと撫でた。


「……そっか。あなただったの」


 私がその丸く柔らかい背中を撫でると、つぶらな瞳がゴロゴロと喉を鳴らした。


 部屋のずっと奥。この子のゲージが開いていた。朝、きちんと閉めるのを忘れていたんだろう。


「もう、ぐちゃぐちゃじゃない」


 安堵すると同時に、涙が溢れた。彼が恋しかったのだろうか。彼がいた、荒れた空間にもう一度浸りたいと、心の中で思っていたんだろうか。


 もう戻らない時間。私の人生の黒いページ。手に入れた自由。

 

 今を手放すつもりもないし、またやり直したいとは思わないけど。


 たまには、こうして思い出してもいいかな。

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たまには、思い出してもいいかな 綺瀬圭 @and_kei

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