・2t 「大学に行こう!」

 

 わたしは今、一度新宿方面に出た後に再び郊外方面に向かう、某私鉄の電車に乗っています。

 

 都心からは離れていくのに、東京の街はいつまでも雑居ビルに溢れて、とにかく看板だらけだな。電車は広告だらけだな。けばけばしいな。資本主義だな。


 田舎と違ってこの電車は10両もあって、それが数分おきに忙しなく駅に駆け込んでくる。10両もあったら、多分数千人以上も乗れるんだと思うんだけど、それでも過密過ぎる。空中の雨粒よりも、いつかニュースで見た家畜小屋よりも、匿名掲示板で踏んだグロ画像の、猫のはらわたに湧いたうじ虫よりも満員だな。うっぷ、オエッ、思い出しちゃったよ。


 気持ち悪い話をしてごめんなさい。でもさ、わたし、うじ虫と蝿については一家言あるんだよね。


 わたしはうじ虫が羨ましいし、よく考えた結果わたしはうじ虫以下だなって思ってる。だって、うじ虫は頑張って餌を食べて、大人になろうとしてる。大人になったら、「蝿」っていう、何者かになれる。蝿になったら、翔ぶことだってできる。そのために、うじ虫は生きようとしている。わたしはどうだ? 「大人」になんて、ずっと、なりたくなかった。家族から食事を与えられても、少食で、ろくに食べたくなかった。何一つ自分で何かを得ようともせず、それでも先進国の恵まれすぎた中流階級の現代人として、身体だけは大人になれてしまった。大人になったけど、結局何者にもなれてない。うじ虫が蝿になって翔ぶことができるような、大人になってできるようになったことがあるわけでもない。それに、生きていたくすらない。ずっと死にたかった。死にたいって唱え続けて、でも死ねなくて、ついに大人になっちゃった。


 はい、わたしは年中こういうことを考えて生きてる人間です。正確に言えば、生きているんじゃなくて、死んでないだけかもしれないけど。ついでに、性格だって悪い。例えばさ、日本では貨物列車が廃れてるなんて聞いたけど、それは嘘じゃん。東京では貨物は毎日ぎっしり送られてるじゃん。東へ西へ、ドナドナドーナードーナ。ハハハッ。悪趣味で下手くそな皮肉屋だね。今すぐ死んだほうがいい。


 嗚呼、哀れなヤク中の子羊は冷たい金属のドアに押し付けられて、首の向きさえもろくに変えられず、知らない風景が流れる車窓を眺めるほかに何もできません。ただ規則正しく流れる架線が滑らかに、夢のように波のように揺れているのを見ているだけ。浮かんで、沈んで、浮かんで沈んで、不意にグラリと揺れて視界から外れた。電車の中の誰かが姿勢を崩したのかな、人間の荷崩れのしわ寄せがわたしの方にまでやってきた。後ろの人の背中に押しつぶされるようになって、ぎゅっと窓に頬が押し付けられた。


 はぁ。ため息をついたら窓が白く曇った。わたしの髪の毛で細い筋が細かくついている。なんだかそれが嫌だなあと思って、息を飲み込んで、止める。すると曇りは端っこからゆっくりと晴れて引いていく。引いて、小さくなって、なんだかその曇りが人の顔みたいになった。


 人の顔、人の顔、あっ、これは「キリスト」のご尊顔だ。奇跡だ。奇跡を見た。……奇跡を見るってことはシラフじゃないんだな。


 目をぎゅっと閉じると、まだ幻覚の残り香が見える。百列くらいのスロットマシンが猛烈に回転している。柄はすべてラッキーなセブンちゃん。でも永遠にジャックポットにはならない。止まらないし止められないからね。人生みたいだね。ヤバいな、正気なのかな、わたし。あいうえお。かきくけこ。さしすせそ。たちつてと。次なんだっけ。四つ言えた。すごい。1+1は2。2+2は5。固定観念を捨てろ。ざ・どーあず・おぶ・ぱーせぷしょん。論理とは世俗の産物だ。非論理的な形而上の矛盾した神秘こそがこの世の中の真理だ。頭の良い人たちによる説明不可能な世界を一つ一つ解き明かす試みは21世紀の現代に至ってもついに人間自身の正体を暴けていないのだから。だからみんなラリって浮かぶ曼荼羅を見ろ、禅の心が分かる。あらゆる文明の古代人はみんなラリっていた。それが薬物であれ瞑想であれ。だから現代人もラリれよ。さあ、目を開けなさい。太陽が、使い古された講堂を照らしても暮れても本質は変わらないことが分かる。世界は思っているほど複雑ではないが単純でもないことを、わたしは偉大なるサイケデリックの力によって知っている。Turn on, tune in, drop out. さぁ、見事に真理を知ったあなたは幸せですか? そんなわけないでしょ。まともな思考ができているな。よし。正気過ぎるくらい正気だ。


 ガタガタゴトゴト走行音が鳴り響くだけでみんな黙りこくった通勤電車、耳をすませば「ゴホン」とか「エフッ」とか、咳とか、喉を鳴らす音が少し聞こえる。それが、なんだか無性に可笑しくなって、わたしは口の中で小さく、声をこもらせて笑う。


「ハ、ハ」


「ハ」


 三つ目のハはわざと声に出す。たぶん誰も気にしてない。都会の無関心が心地よい。




「次は四縫、四縫。お出口は左側です」


 ようやく目的地にたどり着いた。ずっと押し付けられていたドアが、死刑台の床みたくガタン! と開いて、後ろから押し寄せる、まるで慈悲のない人波でわたしはホームに打ち捨てられる。派手に転びそうになったのを、なんとか踏ん張った右足を起点に慌てながら、左、右、左と道化のように間抜けにステップしてホームに立つ。ふらついてぐったりとした身体にとっては、いやみったらしいほどに階段的な階段を登って南口に向かう。


 ふと入試の時にこの駅に来た時のことを思い出した。この駅は、四縫しぬいと言う、大学の最寄り。エスカレーターが無いんだよね、ここに毎日来るんだよね、やだな。四縫駅、大学の最寄りとは言うけど肝心の大学までは歩いて10分と少しかかるんだったっけ。もっとも、わたしが十数年間住み慣れて慣れすぎて嫌になった田舎だったらむしろ近い距離感ではあるんだけど。けど田舎だったら距離があれば車を使っちゃうよね。わたしは運転なんてしたら、たぶんそれが死因になるから免許証なんて持ってないけど。だいたいわたしは高校時代、自動車学校だって不登校になっただろ。


 自動車学校の教官はね、インチキ野郎しかいないんだ。当時のわたしはホールデンみたいな思春期的潔癖性正義感を発症してたから、それが嫌で嫌でたまらなかった。生理的嫌悪すら覚えた。だからわたしは二度と免許なんて取らない。あの時より、わたしは1ミリくらいは大人になれたのかなあ。なれてないな、ちっとも。歳だけを重ねて身体だけは大人になった。この、「どんなクズでも身体だけは勝手に大人になれる」という、恵まれた現代文明はありがたくも間違っていると思う。


 こんな風に、わたしはしみったれて、あの時の下手くそな正義感らしきものは失った。代わりに性格が悪くなったから、物申したい癖は治ってないけど。思春期、かあ。モラトリアムからは当分脱出できそうにないし、アイデンティティは欠片も確立できてないな。


 それにしても、アパートを出発して、大学まで、結構時間がかかっちゃうんだな。マップアプリの計算上では大学までは累計30分くらいで着くはずなんだけど、現実には40分以上かかりそう。駅から大学までは路線バスも走っているらしいけれど、お金が勿体ない。今貰ってるちょっと多めの仕送りは何ヶ月かしたら減らします、だからそれまでにバイトか何か見つけるように、と親に言われていた。歩きながらぼーっと家計を考える。えーっと、つまり、まずお薬代が第一でしょ? それから家賃、光熱費に通信費、あとは無意味に衝動買いして、結局なんかキメてないとろくに消化できない本とかゲーム代、最後に余ったお金が食費ね。食べなくていいなら食べたくない。


 あー、バイト、かぁ。高校も予備校も自動車学校も不登校になった娘にそういう期待を寄せるのは、なんていうか、ギャンブルはやらないほうがいい性格だね、うちの親は。




 そんなこんなを考えながらたどり着いた駅前広場の真ん中には、待ち合わせに便利そうな、一度見たら忘れなさそうな奇妙な色彩をした長方形の塊の柱があって、その上に時計が据えてある。現代アートってやつかな。わたしそういうの嫌いなんだよね。なんで嫌いなのかを語らせたら長いから割愛するけど、要するにわたしは、世界中の何もかもに対して、何かしら文句を考えないと気に入らない、かなりウザい一言居士だということだけ覚えてくれればいいよ。


 ついでに言えば雑居ビルも好きじゃない。駅前にはわたしをあざ笑うようにそいつらが並ぶ。牛丼屋に歯医者に学生塾にコンビニに不動産屋に消費者金融の金貸し屋に、ああみんな頑張っているんだねって、それでわたしが頑張ってないことが分かるから雑居ビルが嫌い。そういうところ。クソ面倒くさいわたしは色々なものが嫌いだけど、世界で一番嫌いなのはわたし自身なんだ。それだけはずっと、絶対に、死ぬまで変わらない。だから無闇やたらに色んなものを嫌うんだ。心は愛の畑、自分の心をないがしろにする人間は分け与えるだけの愛を育めない。


 こんなドロドロしたネガティブ思考が溢れるのはこの曇天模様のせいだと、また一つ責任転嫁する。なんだか全てがモノクロにくすんで見える。わたしが酔っているからかもしれないけど。でも薬は悪くないんです。薬が悪いんじゃないんです。だって薬が無くても鬱期のわたしはこんなんだから。幸せの前借りっていうけど、シラフで過ごしていたっていつまでたっても幸せなんてやってこない。ということは、薬をやった時の幸せってどこから前借りしているの? 不思議だね。


 駅の出口の、冷たい石の壁にもたれかかってウダウダと世界を憎みながら、ぼーっと駅前の風景を眺める。自己主張の強い看板だらけの雑居ビルへ、上、下、上、下と視線を動かしていると、オレンジに青字の看板の「それ」を視界に入れた途端に、ドキリ、と大きく心臓が鼓動を鳴らした。


 それは某ドラッグストア。一瞬で心がジャンキーモードに切り替わった。さっきの鬱々としたモヤモヤはどこへやらへ吹っ飛んだ。ドラストは心の鎮痛剤を売っている場所。ドラストを見るとわたしは少し元気になる。そして、背中から頭にゾクリとした冷たい依存衝動が走る。そうなったら、もうわたしはわたしを止められない。チラリと腕時計を見る。


「……イケるな」


 まだ時間には余裕がある。仮に余裕がなくたって、こうなったらわたしは行く。行くったら行く。ジャンキーだから。わたしは「幸せ」を買うことにした。


 安売りの洗剤やティシュボックスが、今にも崩れそうなほどに山積みに陳列された、狭い店の入口をくぐり抜けて、「せき止め薬コーナー」に直行。すでに買うものは決まりきっているんだけれど、こういう時、わたしはちょっとだけ隣の「風邪薬」コーナーや「鼻炎薬」コーナーを見るフリをする。この行為に意味があるのかはわからないけれど、いきなり薬を手にとってレジに直行するよりは、「なんか薬を探しに来たんだけど迷ってます」感を演出した方が良いんじゃないかっていうね、演技みたいな。


 それで、数分ウロウロするフリをした後に、予定調和に1本のせき止め液を手に取る。1本手に取る、というか最近はこの手の薬は1本ずつしか買えない。面倒くさい世の中だなあ。わたしはあらゆる方向から迫害されているんだな。そうだ、そうなんだ、精神障害者を治療ではなく弾圧する姿勢はライシャワー事件から精神衛生法の成立に始まりああそもそもヴィクトリア朝時代だ正常が定義されるようになったのはそしてホモセクシュアルを始めとするマイノリティは病理と化しそこには当然のごとく精神病が含まれてそれで帝国主義と化学物質は世界を統一してマラリアに守られていたアフリカはキニーネに征服されて云々かんぬん……


 訳の分からない思考がフラッシュバックのように過る。気にしないでください。いつものことです。


 それでレジに行くわけだけど、やっぱりこういうものを買う時の会計は毎回ちょっとだけ緊張する。最近は「使える」薬を買うのに、レジでのチェックもかなり厳しくなってて、緩い所はまだ一言二言嘘つけば良いだけってレベルなんだけれど、厳しい所は、それはもう尋問みたいなやり取りをしなくちゃいけない。「この薬を買う理由、何の症状のためか」とか聞かれるからね。余計なお世話だ。ワッザファックファックファッキンユーファック。幸い、このドラストはチェックが甘かった。特に何も言われずに事務的な会計を終えることができた。「当たり」だ。ヘッ、甘ちゃんめッ!。アッ!アッ、アッ! リュックのファスナーが噛んだ!


「ぅぅぅぅぅぅぅ…………」


 ガシガシガシガシガシガシ。買った薬を入れるのにひたすら手間取る。レジ待ちの人の気配が増えていくのを感じる。待たせることへの罪悪感の焦り、この行為を人に見られたくないという焦りの二重の焦燥で、視界がぐるぐる回ってきた。わたしは八つ当たりのようにレシートを握り潰して、最終的に強引にファスナーをこじ開けた隙間に、ようやく薬を放り込んだ。ああ、ふぁっきゅうー……。


 だいたい、このドラスト、品揃えは豊富だけれど狭すぎるんだよ。かなり小柄なわたしでさえ、棚と棚の間の通路は人とすれ違えないくらいだし。だから雑居ビルは嫌いなんだ。狭いくせに無責任になんでも店舗を受け入れて。逃げるように早足になって出口に向かっていると、誰かとぶつかって、小心者のわたしは申し訳なさといたたまれなさがピークに達して、嫌な汗をかきながら逃げるように店を出た。わたし、人生で何回逃げることになるんだろう。惨めだなあ。


 駆け足でドラストから離れ、ビルの谷間の細い商店街にたどり着く。早足に歩いたせいか両脇の商店はすぐに途切れて、あとはマンションにアパートに、小学校や家屋。建物の背が縮んで閑静になっていく。ようやく落ち着くと、ふらふらと酔いにまかせて歩いてみたり、電線をぼんやり見ながら転びそうになったり、ふいにめまいがしてだれかの家の塀にもたれて吐きそうになったりして、10分歩けば良いはずの道を、おそらく無駄に時間をかけて歩いた。地球の重力に耐える以上の体力はほとんど無いから、歩くだけで息が切れてくる。これから毎日ここを通ったら、少しは体力が付いて立派な地球人になれるのかな。


 細い道路が交差点に差し掛かった途端、視界がだいぶ開けた。道が広くなって、二車線道路の通りに出た。「正保通り」と標識にある。わたしがこれから通う大学、正保大学しょうほうだいがくの名を取った道。


 高く立派な大学の塀に重圧を感じる歩道を少し歩くと、ぱっと、過密な東京の街には似つかわしくない、すごく開けた空間が姿を表した。広々とした大学の入口、そこにどっしりと構えた大きなレンガ造りの校門は、綺麗に切り出された石造りの半円形アーチになっている。なんて言えば良いんだろう、大正ロマン風? アーチのキーストーンには、アサガオに「學」のマークがあしらわれた大学の校章が掲げられている。そんな重厚な装いに気圧された、というほどではないけれど、わたしは校門の前で少しの間立ち尽くしていた。


 これから──希望的観測では──四年間通う大学の、この、きっと大学のホームページに堂々と画像を飾って自慢にしているのであろう象徴的な校門を目にしたわたしの感想は、第一に「お金がかかってそうだなあ」、第二に「また親にお金で苦労かけちゃったなあ」、第三に「やっぱり死んどけばよかったなあ」だった。校門一つで現れる希死念慮にわたしはいつまで付き合っていけばよいのだろうか。そんな病み感情を溢れさせていたら後ろから学生が次々自分を避けて入っていくのに気付く。 


「アッスミマセン……」


 こういうキョドった謝罪が頭で考えるより先に出てくるのが悲しいな。平身低頭になって、門を小走りで駆け抜ける。学生としてのわたしの始めての大学入門は、まるで大国の王様にわずかばかりの貢物を持ってどうか滅ぼさないでくれと懇願する使者のごとく涙ぐましいものでした。試験の時は二徹してエフェドリン入りだったからよく覚えていない。この校門は、ヤク中をもうすでに2度受け入れてしまって、今後さらに受け入れ続けるのだろうか。門として失格じゃないか? 






 門を抜けると、視界いっぱいにキャンパスが広がる。外部の雑然とした住宅街とはまるで別世界だ。「学生会館」と書かれたレンガの壁が印象的な建物の入り口には、コンビニそっくりの大学生協が賑わっている。その奥には食堂があるらしい。


 よく手入れされた青々とした芝生、まっすぐ広がる、正方形の石が整然と敷き詰められた真っ平らな通路、新入生向けの案内の手書きの看板──色とりどりの画用紙にマジックで、下手くそなものから綺麗なものまで──が、あちらこちらに生えている。そんな大学の独特の空気が漂う空間を、空の重い曇天のねずみ色が蓋をして、地上の万物のコントラストを低くしている。酔いが立ち止まったわたしに変な離人感を与える。わたしの感覚がわたしから広がって、広大なキャンパスの空間を、わたしはわたしの身体の存在を忘れて、眼前を認識する両の目の存在すらも忘れて、ただ意識だけが宙に浮かんでいるような、そこに在る空間を知覚するだけの存在になったような、不思議な思いに駆られた。


 現実感が薄れて、夢を見ているみたいだった。現実。現実。現実。……わたしは、たまにふと考えることがある。この、目の前にある現実は本当に現実なのかなって。ひょっとしたらわたしは、精神病院の閉鎖病の真っ白な部屋に押し込められて、ゆらゆらと歩きながら、「現実」という幻覚を見ているんじゃないか、って。要するに「水槽の脳」的妄想。きっと普通の人でも、こういうことをたまには考えるんだと思うけど、わたしの場合は、それが妄想を越えて徐々に信奉のレベルになってきている。この現実は、現実じゃないんだって。サイケデリックをやりすぎると、この手の思考が強くなる。自我が肥大して、悟りを開いたような錯覚を起こすんだ。


 頭の中がぐるぐるしてきた。思考に溺れる。不安と不安と不安が頭によぎる。わたしはこれから、ここでいったい何をすれば良いんだろう。わたしはここでいったい何ができるんだろう。何にもせずに卒業しちゃったら、本当にどうしよう。そうならないためには、何をすれば良いんだろう。?、?、?、????、?


 わたしは、キャンパスの広場のド真ん中で、馬鹿みたいに呆けて突っ立っていた。後ろからは次々と学生が歩いてゆく。自分が邪魔じゃないかって、さっきまで気にしていたことすら気にしなくなっていた。だいたい、これからオリエンテーションがあるんだから、さっさと動いて会場に向かわないと。そう頭では思うけれど、動けない。動きたくない。なんでだろ。


「おい、君」


 不意に、わたしの耳は、斜め後ろ方向からの明瞭な日本語を知覚した。わたしに言ってるのかな。


「君だよ、君」


 振り返る。3、4mの距離に、首からカメラを下げた女の人がいた。驚いて、わたしの身体はビクッと、傍目から見てもわかるだろう、というくらいに震えた。


 青いインナーカラーの長髪。たぶん、身長は170cm以上。スキニージーンズを着こなす長い脚。すごくスタイルが良いけれど、綺麗な人だと思う前に、まず怖かった。わたしより頭一つ分も高くて、物理的にも精神的にも見下されている。


 何よりもその目が印象的だった。大きな吊り目で、それで、オッドアイって言うんだっけ。その右目は色々な色が混ざった琥珀のような色で、瞳孔が白っぽい灰色なのが、この距離からでも見えた。それだけなら綺麗だと思えるのに、目つきがとにかく悪い。それが、まっすぐわたしを捉えて睨みつけている。


「そこ、邪魔」

 

 極めて簡潔に叱られた。普通に正論だし、自分でも懸念していたことだった。なんで叱られるまで突っ立っていたんだわたし?

 

 女の人はカメラをトントンと叩いた。第一に、自分が撮影するのに邪魔、ということなんだろう。それから、女の人は「周りを見ろ馬鹿」とばかりに指を動かした。頭の足りないわたしにだってとっくに気が付いているはずのことなんだけど、とても邪魔な位置にわたしはいる。気付いているはずのくせして、わたしは大学に来てからちょくちょく足を止めてしまって、何度も邪魔者になっている。運が悪いというか、たまたま足を止めただけ、という場所でも客観的に考えて振り返ってみると、毎回通行人にとって絶妙にウザい位置に立ってしまって。


「すみません……」


 素直に謝罪する。そのまま、そそくさと移動しようとしたら、「ねえ」と呼び止められた。振り返って、改めて見たその顔の表情は多少和らいでいたけれど、相変わらず威圧的な印象。わたしあんまりこの人と関わりたくないんだけど……。というか邪魔だからさっさとそこどけって言ったのはあなたじゃないですか?


「あんさ、君、顔つきヤバいね。病気とかだったらすまないけど、すごいオバケみたい。ヤク中みたい」


 あ? 調子こいてんじゃねえ、死ねよクソ女、なるべく苦しんで死ね。わたしの頭が一瞬で沸騰する。でも、それを口にする勇気は決して無い。それに、「ヤク中みたい」だって。良い勘してるなあ。大当たりだよ。口の悪い冗談なんだろうけど、わたしにとては紛れもない事実をピシャリと言われて、わたしは何と言葉を返せば良いのか分からず、口の中で言葉になってない言葉をモゴモゴと小さく呻く。


「君、新入生でしょ。ほらさ、みんな2年生以上になると、そういう雰囲気って勘で分かるようになるんだよね。今日はオリエンテーション?」


「……あっ、はい……」


「オリエンテーション、2号館だっけか、あっち。マジで2号館とそっくりな3号館がさ、なぜか手前にあんだよね、気をつけて。アレ双子館とか呼ばれててね」


 その女が指で指し示した方向に、まるで特徴が無いことが特徴、みたいな建物があった。そしてその奥にチラリと、高さから壁の色までそっくりな建物の姿が端だけ見えた。確かに、事前知識が無いと間違えそうな紛らわしい双子だった。……この人、口が悪いだけで、案外良い人、なのかな。わたしは極めてチョロい女なので、人への評価がコロコロ変わる。


「あ、ありがとうございます」


「ん。さっさと行ったほうがいいよ」


 なるべくこの場をさっさと離れたかった私は、足早に2号館と呼ばれる建物に向かった。


「あー、ちょっと」


 また背後から呼び止められる。何だよ。


「一応名乗っとくわ。あたし、薬袋 永理みない えいりって者ね、また会うことがあったらよろしく」


「あ、はい。よろしく、薬袋さん」


 薬袋と名乗った女は、手をひらひらさせながらどこかへと歩き出した。……もう会いたくないなぁ。でも、暴言を吐かれた時には反射的にカッとなったけど、わたしの中では、なぜか薬袋という女の印象はそう悪くないものだった。たまにそういう人いるよね。粗暴なカスなのに、なぜかそれが似合っちゃって、ちょっと許せちゃうような人。DVとかしてそう。


 今度こそ解放されて、ため息をついて腕時計を見るともう時間はギリギリ。今日、これまでだけで余計なことしすぎだし、余計なことに会いすぎだなあ、ホント。


 わたしは、もう早足では間に合わないと思って、駆け足でオリエンテーションの会場に向かった。嗚呼、もう今日はこれ以上手間かけさせられる目に会いませんように……。……フラグ、かな。





 

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きらきらやみやみ 物述 @Ohtaki

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