・1t 「なぜわたしはわたしなのか?」
寝たような寝てないような分からない、4時間ほどの睡眠を経てわたしは起きた。
フランツ・カフカの言葉を借りれば、「頭を見当違いの穴に突っ込んで、紙一重のところで寝ていた」。目を開けて、ぼやけた天井の染みにピントが合うはずだった。でも合わない。天井が丸く回っている。吐きそうになって目を閉じても回っている。くるしい。
4月1日、朝9時。亜麻色のカーテンから淡い陽光が漏れる。やけに眩しい。視界のもやもやが取れない。鬱陶しい前髪をかき分けた。上半身を起こすとひどい目眩と怠さを感じた。ああ、深夜一時に飲んだ幻覚剤の二日酔い。大丈夫、合法です。しかもその辺で売ってます。
わたしの名前は、
わたしの名前、それは両親から与えられたものでしかありません。わたしの本質を表すものではなく、わたしを縛るものです。でもわたしは「天谷地 蓮奈」をやらなきゃいけない。今日も、明日も、死ぬまで。……あれ、何言ってんだ、わたし。とにかく閑話休題だ閑話休題。
さて、わたしはとにかく「合法」にこだわるジャンキーです。「違法」には手を出さないって、決めてる。…………うっかり手に入ったら、わからないけど。その代わり、わたしは「合法」だったら何をやっても良いと思ってます。「脱法ドラッグとか危険ドラッグとかほざくけどさ、「合法」のうちは「合法」なんでしょ? じゃあ何の問題もないじゃん」的なね。うん。反社会的思想だ。
「ああ、あー」
あ。喉がおかしい、せき止め薬を飲み過ぎるほど飲んだのになんでだろうね。お母さん、何で起こしてくれなかったの。
ああ、そうだ。そうか。わたし一人暮らしを始めたんだった。だから誰にも気兼ねなく薬飲んだんだった。二度寝しようかな。あっ駄目だ、駄目だった。今日は大学の入学のオリエンテーションじゃん。11時半から。行きたくないなあ。馬鹿だなわたし、何で予定ある日に薬飲んじゃったの。
でも、薬やるおかげで久しぶりにお風呂入れたんだけど。それはなぜって、良いトリップのためには身を清めないといけないんだよ。こういうのを「セッティング」って言うんです。お風呂入るのは面倒くさいんだけど、薬のおかげで偶然外出する日に綺麗になれてる。これも薬の賜る恩恵でしょう、ありがとう。
べッドから起き上がった途端にめまいがする。これは薬が賜る試練でしょう、くそったれ。気に入らなくて、奇行をした。わざと四つん這いになって転げ落ちるようにベッドから落ちてみた。痛い。何やってんの。
天谷地、大地に立つ。地球と壁を支えにして、何度も転びかけて、やっとようやく。わたしはポンコツロボットです。壊れてます。身体も、心も。わたしはチビロボットです。身体も、心も。わたしの身長は数値にすれば、サバ読んでもだいたい150cmくらいで、やせっぽっち。薬をやり始めてから、もともと薄かった食欲がますます減ったから、まるで枯れ木。
そのわたしよりも、ちょっと背の低い冷蔵庫を開ける。なんにもない。吐き気がして怠いから食べるつもりなんて無いんだけど、眠気覚ましに冷たい飲み物くらいは欲しかった。しょうがないから、テーブルに転がっている、飲み残しの生暖かいスポーツドリンクを手にとって、嫌な甘さを我慢して喉に流し込む。飲み終わったペットボトルはいつも通りその辺に投げた。そのうち片付けるよ、今はその時じゃないから。
果たしてわたしはまず何をやるべきなんだろうか、としばらく考え込んだ。時間感覚がまだバグっているので、悩んでいたのが数十秒なのか数分なのか、いまいち分からない。どうやらわたしというホモ・サピエンスはそのうち外出するらしい。わたしは大学に行くらしい。わたしは……。自分のことが他人事に思える離人感を覚えながら、身だしなみを整えないと、という常識にようやくたどり着いた。それで、着替えて、リュックサック持って、やることはそれだけだ。頑張れわたし。
ユニットバスの洗面台へ、ゾンビのような動きで向かう。薄い傷と水垢が邪魔な鏡を覗き込む。オバケみたいな女が立っている。それがわたし。くすんだ真っ黒の髪の毛がボサボサ。美容院とか、もう何ヶ月も行っていない。この髪型になってない髪型を、なんとか分類して形容するならば、ボブヘアーらしきもの。それからギョロッとした、瞳孔が開いた生気のない真っ黒な目。瞳孔がガン開きなのは薬のせい。そもそも、わたしの目は生まれつき死人のように、黒い。だいたいの日本人の目の色ってよく見るとブラウンなんだけど、わたしの目は本当に真っ黒。それと、目元の黒い隈は何しても取れない。中学くらいの時からずっと。それは多分不眠のせい。
寝間着の黒いジャージの、ダボダボに伸びた首元にはよだれの跡がついて、胸からお腹の当たりには汗と何かのシミが付いている。ひどい有様だぁ。こういうのを人に見せられない姿っていうんだろうか。世間一般の常識をよく知らないから分からない。別にこの姿で外に出て、コンビニに行くことだって平気な人間だもん。
「ハ、ハ、ハ」
笑顔の練習をする。上手くないな。鏡の中のオバケの顔が歪んで、くしゃってなった。思ったより大きかった「ハ」が静寂に吸い込まれていく。
「誰かいない?」
いるわけがない。一人暮らしなんだから。寂しいな。なんで一人暮らしなんて始めたんだろう。なんでわざわざ上京して大学なんかに入ったんだろう。去年、不登校になった高校を卒業式ごと放り出して浪人した春は、もう何もやりたいことなんて無かったのに。でも、家庭の中の重苦しい空気を読んだら晴れて予備校生になっちゃって。
予備校に入るお金を使っちゃったのなら、両親の中ではいずれドミノ倒しみたく大学に入ることも半ば自動的に決定していたわけで。その予備校も3ヶ月で不登校になってずっと引きこもって。ああ、駄目だな。さっさと首でも括っていれば良かったんだけど、実家でぶらさがり健康器買ったらバレるし、国有林は遠かったし。それで今は賃貸のアパートだし。事故物件にしたら、悪いから。
それにしても、よくわたし大学に入れたな。
日本にはいくらでも大学はある。本当に選びさえしなければ、お金があれば成績が酷くても入学はできるようになっている。けど、わたしに関して言えば、勉強がどうとか、というよりもっと根本的な気力の問題として、こうして大学生になれたということは今でもちょっと信じがたい。
大学生になったこと、それは一から十まで望んでそうなったのかと言えばやっぱりそうじゃない。わたしが予備校に入ってから案の定また不登校になった時、親にどこでも良いから大学には入りなさいと懇願するように言われた。大卒だと、就職するのに全然違うからって。でも、わたしが就職して働いているところなんてまるで想像できない。どころか、大学をきちんと卒業できる気もしない。自分がリクルートスーツなんかを着て就活してる姿も、卒業式に出て花束とか持って友達とかと別れを惜しんでる姿も想像できない。頭の中で卒業を祝う友達(仮)の顔は真っ黒なのっぺらぼうだった。友達なんて、ずっといないから。
人間が想像できることはすべて実現可能だなんて誰かが言っていたけど、逆に言えば想像できないなら絶対に不可能なんじゃないかなあ。
話を戻すね。大学入学の話だっけ。結果的には、わたしは自分が思っていたよりは良い大学に入れた。良い大学と言っても、上を見ればいくらでももっと良い大学はあるんだけれど、なんとか中の中…… いや、中の下という辺りに収まれたのかな、と思う。昔からなんとなく国語と歴史が得意で、ほとんどそれ頼りだったな。受験前、最後の二か月ほどの期間でぶっ壊れた躁状態になれたというのも大きい。あとエフェドリン。それとエフェドリン。わたしは薬が無かったら大学になんかとても入れないという事実はすでに証明されているのだ。Q.E.D.
……とまあ、色々愚痴を言ったんだけど、実際のところはそれほどひどく落ち込んでいる訳でもない。だって、なんだかんだずっと憧れていた、大都会の象徴の東京という街に来られたんだし、引っ越しが済んで数日、初めての一人暮らしはやっぱり寂しいんだけど、薬をやるには気楽だし、大学生活も全く楽しみじゃないって言ったら嘘になる。
都会で一人暮らし、キャンパスライフ。こんなまっさらな新鮮味なんて、人生でそう何度も味わえるものじゃない。何でも慣れちゃったら、空気みたく無味無臭で、無いのと同じになるからね。「慣れ」、なんて発明した脳みそはクソ無能だな。世の中、仕事をする人は危険に慣れちゃうからミスや労災が起きる訳だし、わたしの脳みそは慣れて耐性が付くから薬を連用できなくて迷惑なんだよ。
ともかく、このピッカピカに綺麗なまっさらさ。この空気に悪い方に慣れて怠惰で無気力で白紙の生活になってしまう前になんとか、人生を変えたい。大学デビュー、とにかく、この白紙で、無気力で、鬱屈として、後から思い出すと何も無い、そんな生活から抜け出したい。別にキラキラした陽キャになんかになりたい訳じゃない。なるつもりもない。そうじゃなくてさ、ただ、気が合う友達、数は少なくても良いから、本当に気が合う友達と中野ブロードウェイの、特に4階とかに入り浸りたい。入試のときについでに行ったけど、あそこの空気は好きだ。
ぼんやりと、比較的わたしにしては前向きなような、でもやっぱり後ろ向きなようなことを考えながら支度をしていたら、もう時間だ。時刻表のアプリの通知がそろそろ出発しやがれと告げている。スマホの画面を指で叩いて天気をチェック。
曇天、最高気温11度。4月にしては肌寒い、幸先が悪い。凶日だ、そうに違いない。空模様の予報が発明されたのになんでわたしの心模様の予報は無いんだろう。分かったら、だいぶ楽になるのに。今日以降数日は躁、その後は鬱転、みたいな。
乱雑にハネていた髪の毛はなんとか、人目に晒しても大丈夫だろうという程度に収まった。艶を失ってボサボサな横髪は、安っぽく髪飾りというにはあまりに飾り気のないヘアピンでなんとか誤魔化した。一応化粧もした。キレイになるために、というよりは病んだオバケを人間の顔にするための化粧。ヤバいヤク中の顔はギリギリヤバくないと思われるヤク中の顔になった。
この部屋にはアイロンすらない。買うのを忘れた。しわくちゃになっていたブラウスをクローゼットから引っ張り出した。灰色のカーディガンを羽織って、やっぱりしわくちゃな黒いロングなスカートを履く。暗すぎるファッションだな。陰気だな。この服、全部高校の時から更新されてないね。多分、この服装は陰気な上にダサいんだと思う。でも、ダサいと言っても、何がダサくないのか、やっぱり世間一般の女子の水準が分からないからアレだけれど。
すっかり履きつぶしたローファーの潰れたかかとを人差し指で引っ張り出して、最低限の荷物を収めたリュックサックを背負う。どこかで買ったお守りが二つ三つぶら下がっている。病気平癒病気平癒病気平癒、全く効かないね。詐欺かな? それとも神様に見捨てられたのかな?
少し深呼吸をして、軽くだけど、外に出る覚悟をする。意を決して、背筋を伸ばした。
細かい傷が築年数を物語っているような、建付けの悪い玄関扉を開ける。薄暗いアパートの床がほのかに陽で照らされた。
「行ってきます」
わたしは誰に言ってる? いったいこれからわたしはどこに行く? 分からない。
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