【KAC20233】借りる女

無雲律人

借りる女

「ね~え、この家のWi-Fi借りて良い?」


 近所に住む女、真理恵まりえが屈託なくそう言った。


「えっ……いいけど……今パスワード教えるわ」


 パスワードというプライバシーを教えるのは嫌だったけど、これからのご近所付き合いの事も考えて、私は渋々了解した。


 私、高坂たかさか彩智さちは、夫のたかしと結婚して三年目になる。去年、東京郊外に一戸建ての家を建てて、白猫のグミも加えて、二人と一匹で生活をしている。


 真理恵は、いつも強引だった。


「ねぇ、今日スーパーの安売りなのよ。一緒に行かない?」


 そう、親切面で声を掛けて来るが、実際はうちの車に乗せて連れて行ってもらいたいだけだ。


 今日だって、半ば強引に押しかけてきて、『お茶会』という名の、真理恵の実母に対する愚痴聞き大会になっている。


「だからさー、うちのババアったら、私に早く就職して家に金入れろとか言うのよー」


 真理恵は、二人の子供を連れて実家に戻って来た、アラサーのシングルマザーだ。職には就いておらず、還暦間近のお母さんのパートのお金で暮らしていると聞いた。


 この愚痴大会が始まってもう三時間が経っている。養ってもらっておきながら、よくもこんなに文句が言えたものだ。時刻は十八時。そろそろ夕ご飯の支度をしないと貴さんが帰って来ちゃうのに。


「あ、あのさ、真理恵さん、そろそろお夕飯の準備しなくて良いの? ご家族待ってるんじゃない?」

「えー、めんどくさーい。ババアったら、私に働きに行かない代わりに家事くらいしろって言うのよ~。今日はババアのパート休みなんだから、自分で作ればいいのにねー。……って、そうだ! 彩智ってお料理得意じゃなかったっけ? うちの分も作ってよ! ほら、ちゃちゃっと出来るもので良いからさ!」

「えっ……!?」


 どこまで図々しいのかこの女。私は声に出してそう言いたくなったが、グッとこらえた。


「今からじゃ、時間掛かっちゃうわよ。それに、私そんなにお料理得意じゃないし……」

「そんなことないでしょー! いつもお宅の旦那さん、嫁のご飯が美味しくて太っちゃったって惚気のろけてるわよー! 年寄り向けに煮物でも作ってくれればいいからさ! ねっ! お願い! この通り!」


 こうまで言われると、作らざるを得なかった。


 私は、急いで肉じゃがを作って、真理恵に持たせてやった。


***


 それから二日後、また真理恵は我が家に現れた。


「ねぇねぇ、ちょっと猫のグミちゃん貸してくれない?」

「えっ!?」

「うちの下の子が、猫と遊んでみたいんだってー」


 真理恵には六歳の女の子と四歳の男の子がいる。それは知っていたが、猫を貸せってどういう事なの? 生き物を何だと思っているの?


「さすがにグミは貸せないわよ。だって生き物だし……」

「えー、なんでよー! 子供が遊びたいって言ってるのよ! ケチ臭い事言ってないで貸しなさいよ! あっ。グミちゃんいた! こっちにおいでー」


 真理恵は、様子を見に来たグミを強引に連れて行ってしまった。


「どうしよう……グミに何かあったら、どうしよう……」


 私は不安でならなかった。真理恵が猫の世話なんて出来るわけがないし、あの家の子供は親に似て粗暴さが目立つ。グミに何かあったらどうしよう。


 私の心は今にも張り裂けんばかりだった。


 ────六時間後、真理恵がグミを連れて戻って来た。


「グミ────!!」


 私は真理恵に抱かれたグミに駆け寄った。


「グミ、グミ、お帰りグ……えっ……?」


 グミはあちこちに傷を負っていて、動かなかった。


「えっ……どういう事? グミ!! グミ!? 真理恵さん、これはどういう事なの!?」


 私は真理恵に詰め寄った。すると、真理恵は悪気も無くこう言い放った。


「ごめんねー。うちの息子がグミちゃんを庭で遊ばせてたらさ、急に道路に飛び出してって、車にかれちゃったのよー」

「!!??」


 私は声が出なかった。ショック過ぎて言葉が喉から上がって来ないのだ。ああ、何故私はあの時強引にでもグミを連れ戻さなかったのだろう。


「猫なんてさー、また飼えばいいじゃん?」


 そう、真理恵は笑っている。


 許せない──許せない、許せない、許せない。


「所でさ、明日の土曜日、お宅の貴さん貸してくれない?」

「……は?」


 今、何て言ったの? 何を貸してくれって言ったの?


「うちさー、シンママじゃん? 子供達ったらパパが欲しいっていうのよー。それでさ、貴さんに一日お父さんになってもらって、遊園地でも行こうかと思ってさー」


 声が……声が出ない……。この女は何を言っているの? 自分の言っている事がどういう事か分かっているの?


 私の心はぐちゃぐちゃになっていた。感情が乱れて、呼吸も上手く出来ない気がした。


 それでも、やっと声を振り絞った。


「だ、ダメよ……そんな事出来るわけないじゃない……」


 それだけを、振り絞った。でも、真理恵はひるまない。


「いいじゃーん。離婚して私に頂戴って言ってるわけじゃないのよ? 一日貸してくれって言ってるだけなのよ?」


 私は、ついに感情のタガが外れた。


「何言ってるのよ! 貴さんを貸せだなんていくらなんでも非常識だわ! 貴さんは私の夫なのよ!?」


 そうすると、真理恵が意地悪く笑ってこう言った。


「分かってるわよ。だから貸してくれって言ってるんじゃない」

「だからってどういう意味よ?」

「あんた、まだ分かんないの? あんたはいつでも幸せそうで腹が立つのよ。稼ぎの良い旦那に一戸建て買ってもらってさ、悠々自適に専業主婦なんてやっちゃって。呑気に幸せオーラまとってるのが気に食わないのよ! それにね、この間、あんたの旦那にモーションかけたら、あの人、まんざらでも無かったわよ? ふふ、あんたみたいな地味な女より、私みたいな色っぽい女の方が好みなんじゃない?」

「!!!!!!!!!」


 そこから先は、夢の中にいるようだった。


 私は、玄関にあったコンクリート製の傘立てを掴むと、それで真理恵を殴った。


 何度も何度も殴った。


 真理恵の顔が、ぐちゃぐちゃになるまで殴った。


 あの忌まわしい口も、目も、鼻も、全てがぐちゃぐちゃになるまで殴った。


「はぁ……はぁ……これでもう……あんたは口が利けない────」


***


 あの日から、私の心はぐちゃぐちゃのままだ。


 今、殺風景な刑務所の部屋の窓から外を眺めていても、ずっとぐちゃぐちゃのままだ。


 私の心は、きっと永遠にぐちゃぐちゃだ。



────了


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