【KAC20233】借りる女
無雲律人
借りる女
「ね~え、この家のWi-Fi借りて良い?」
近所に住む女、
「えっ……いいけど……今パスワード教えるわ」
パスワードというプライバシーを教えるのは嫌だったけど、これからのご近所付き合いの事も考えて、私は渋々了解した。
私、
真理恵は、いつも強引だった。
「ねぇ、今日スーパーの安売りなのよ。一緒に行かない?」
そう、親切面で声を掛けて来るが、実際はうちの車に乗せて連れて行ってもらいたいだけだ。
今日だって、半ば強引に押しかけてきて、『お茶会』という名の、真理恵の実母に対する愚痴聞き大会になっている。
「だからさー、うちのババアったら、私に早く就職して家に金入れろとか言うのよー」
真理恵は、二人の子供を連れて実家に戻って来た、アラサーのシングルマザーだ。職には就いておらず、還暦間近のお母さんのパートのお金で暮らしていると聞いた。
この愚痴大会が始まってもう三時間が経っている。養ってもらっておきながら、よくもこんなに文句が言えたものだ。時刻は十八時。そろそろ夕ご飯の支度をしないと貴さんが帰って来ちゃうのに。
「あ、あのさ、真理恵さん、そろそろお夕飯の準備しなくて良いの? ご家族待ってるんじゃない?」
「えー、めんどくさーい。ババアったら、私に働きに行かない代わりに家事くらいしろって言うのよ~。今日はババアのパート休みなんだから、自分で作ればいいのにねー。……って、そうだ! 彩智ってお料理得意じゃなかったっけ? うちの分も作ってよ! ほら、ちゃちゃっと出来るもので良いからさ!」
「えっ……!?」
どこまで図々しいのかこの女。私は声に出してそう言いたくなったが、グッとこらえた。
「今からじゃ、時間掛かっちゃうわよ。それに、私そんなにお料理得意じゃないし……」
「そんなことないでしょー! いつもお宅の旦那さん、嫁のご飯が美味しくて太っちゃったって
こうまで言われると、作らざるを得なかった。
私は、急いで肉じゃがを作って、真理恵に持たせてやった。
***
それから二日後、また真理恵は我が家に現れた。
「ねぇねぇ、ちょっと猫のグミちゃん貸してくれない?」
「えっ!?」
「うちの下の子が、猫と遊んでみたいんだってー」
真理恵には六歳の女の子と四歳の男の子がいる。それは知っていたが、猫を貸せってどういう事なの? 生き物を何だと思っているの?
「さすがにグミは貸せないわよ。だって生き物だし……」
「えー、なんでよー! 子供が遊びたいって言ってるのよ! ケチ臭い事言ってないで貸しなさいよ! あっ。グミちゃんいた! こっちにおいでー」
真理恵は、様子を見に来たグミを強引に連れて行ってしまった。
「どうしよう……グミに何かあったら、どうしよう……」
私は不安でならなかった。真理恵が猫の世話なんて出来るわけがないし、あの家の子供は親に似て粗暴さが目立つ。グミに何かあったらどうしよう。
私の心は今にも張り裂けんばかりだった。
────六時間後、真理恵がグミを連れて戻って来た。
「グミ────!!」
私は真理恵に抱かれたグミに駆け寄った。
「グミ、グミ、お帰りグ……えっ……?」
グミはあちこちに傷を負っていて、動かなかった。
「えっ……どういう事? グミ!! グミ!? 真理恵さん、これはどういう事なの!?」
私は真理恵に詰め寄った。すると、真理恵は悪気も無くこう言い放った。
「ごめんねー。うちの息子がグミちゃんを庭で遊ばせてたらさ、急に道路に飛び出してって、車に
「!!??」
私は声が出なかった。ショック過ぎて言葉が喉から上がって来ないのだ。ああ、何故私はあの時強引にでもグミを連れ戻さなかったのだろう。
「猫なんてさー、また飼えばいいじゃん?」
そう、真理恵は笑っている。
許せない──許せない、許せない、許せない。
「所でさ、明日の土曜日、お宅の貴さん貸してくれない?」
「……は?」
今、何て言ったの? 何を貸してくれって言ったの?
「うちさー、シンママじゃん? 子供達ったらパパが欲しいっていうのよー。それでさ、貴さんに一日お父さんになってもらって、遊園地でも行こうかと思ってさー」
声が……声が出ない……。この女は何を言っているの? 自分の言っている事がどういう事か分かっているの?
私の心はぐちゃぐちゃになっていた。感情が乱れて、呼吸も上手く出来ない気がした。
それでも、やっと声を振り絞った。
「だ、ダメよ……そんな事出来るわけないじゃない……」
それだけを、振り絞った。でも、真理恵はひるまない。
「いいじゃーん。離婚して私に頂戴って言ってるわけじゃないのよ? 一日貸してくれって言ってるだけなのよ?」
私は、ついに感情のタガが外れた。
「何言ってるのよ! 貴さんを貸せだなんていくらなんでも非常識だわ! 貴さんは私の夫なのよ!?」
そうすると、真理恵が意地悪く笑ってこう言った。
「分かってるわよ。だから貸してくれって言ってるんじゃない」
「だからってどういう意味よ?」
「あんた、まだ分かんないの? あんたはいつでも幸せそうで腹が立つのよ。稼ぎの良い旦那に一戸建て買ってもらってさ、悠々自適に専業主婦なんてやっちゃって。呑気に幸せオーラ
「!!!!!!!!!」
そこから先は、夢の中にいるようだった。
私は、玄関にあったコンクリート製の傘立てを掴むと、それで真理恵を殴った。
何度も何度も殴った。
真理恵の顔が、ぐちゃぐちゃになるまで殴った。
あの忌まわしい口も、目も、鼻も、全てがぐちゃぐちゃになるまで殴った。
「はぁ……はぁ……これでもう……あんたは口が利けない────」
***
あの日から、私の心はぐちゃぐちゃのままだ。
今、殺風景な刑務所の部屋の窓から外を眺めていても、ずっとぐちゃぐちゃのままだ。
私の心は、きっと永遠にぐちゃぐちゃだ。
────了
【KAC20233】借りる女 無雲律人 @moonlit_fables
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
誰もあいつを疑わない/無雲律人
★68 エッセイ・ノンフィクション 完結済 1話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます