でく

香久山 ゆみ

でく

「男の子なんだから、いつまでもぬいぐるみを持つのはやめなさい」

 母さんにそう言われて、幼い僕はいっそう頑なにぬいぐるみを抱きしめた。ふわふわのウサギのぬいぐるみ。そんな様子に、母さんは何度も金切り声を上げた。それでも僕は聞かなかった。

 そうしてついに、僕が眠っている間にぬいぐるみを取りあげて、勝手に捨ててしまった。

 目が覚めて、すでに収集車が持っていってしまったと聞かされた時には、大いに泣いた。

「うわーん、うわーん。パパからもらった大事なぬいぐるみだったのにぃ」

 なのに、父さんは困り顔で、そんなぬいぐるみは知らない、と言う。当然母さんでもない。訳が分からなくて、小さな僕はいっそう泣いたんだけど、それもしばらくでやんだ。ぬいぐるみを捨てたことで、母さんの機嫌が良くなったから。

 当時、母さんはノイローゼみたいな感じで、始終イライラしていた。昼間でも部屋はカーテンを閉め切って真っ暗だし、電話やインターホン、郵便受けがカタンと鳴る音にさえ過敏に反応していた。それが、ぬいぐるみを捨てたらすっかり治まった。僕としてもそもそも、母親が不安定なためにぬいぐるみに固執していたんだろうな。母さんが落ち着いて、笑顔を見せてくれるようになると、僕もそれ以上ぬいぐるみを求めることはなくなったんだ。

 

 遥斗がそんな話を俺にしたのは、目の前のぬいぐるみが発端だ。

「母親の様子がおかしかったのはぬいぐるみが原因だと?」

「うん。ぬいぐるみに悪いものが憑いていたんじゃないかって、僕はそう思ってる」

「それで、これ?」

 座卓の上のぬいぐるみ――いや、これはキーホルダーサイズだからマスコットというべきか――を手に取って、遥斗に尋ねる。

「……ああ。知らない間に俺の通勤鞄にぶら下がってた」

「彼女がつけたとか」

 遥斗には同棲している彼女がいる。

「いや、知らないって。同僚かもしれないとも思ったんだ。何人かには、彼女が妊娠したから近々結婚するつもりだと話したから、その祝いとかお守りのつもりなのかもと。けど、誰も知らないって」

「へえ! 子供ができたのか。おめでとう」

 遥斗はさらりと言ったが、初耳だ。聞き返すと、嬉しそうにはにかんだ。

「ありがとう。まだ安定期に入っていないんだけどね。けど、彼女年上だし正直妊娠は諦めてたから、マジうれしい」

「一回り離れてるんだっけ」

 もうちょっとかな、と遥斗はいたずらっぽく返す。なら、四十くらいか。先程お茶を出してもらった時に挨拶したが、スタイルのいい美人だった。出産という点では高齢かも知れないが、女性として十二分に魅力的だ。

「結婚式は挙げるの?」

「いや、まだうちの両親にも紹介できてなくて。齢が離れてるから反対されるんじゃないかって、彼女が気にしてて」

「大丈夫だろ」

 と言いつつ、彼の親は五十くらいのはずだから、彼女は遥斗よりも親の方に齢が近いのか、とぼんやり思う。

「僕も大丈夫だって言うんだけどね。うちの両親も姉さん女房だし、……もちろんここまで離れちゃいないけど。それに、父さんの方は俺と趣味似てるから、絶対彼女のこと気に入るはずなんだよ」

「はは。女の趣味も一緒なのかよ」

「そうそう。顔も僕にそっくりの父親。――ちょうどあのぬいぐるみの騒動があった頃の父さんが、今の僕と同じ容貌だった」

 遥斗が声を落とす。話が戻ってきた。

 わざわざ父親の話をしたのは、何か引っ掛かる点があるらしい。

「僕は確かに父さんからあのぬいぐるみをもらったような気がするんだけど、本人は違うという。確かに、父さんは堅物でぬいぐるみを買ってくるような性格ではないんだよな」

 遥斗がお手上げのジェスチャーをする。

「それと今回の件が繋がっていると?」

「そのウサギのマスコット、調べたけれど何かのキャラクターとか一般に販売されている商品ではないようなんだ。手作りっぽい。……それで、二十年前のぬいぐるみも、それと同じデザインだった」

 もちろん僕の記憶の限りだし、単純にネット検索で該当の商品を見つけられなかっただけって可能性もあるけれど。遥斗が肩を竦める。けれど内心では、これがいわくつきのシロモノだと思ってる。だから俺を呼んだのだろう。

 とはいえ、俺は視ることができるだけだ。

 手にしたウサギのマスコットはあまりいい感じがしない。集中してじっと見つめる。どろどろしたものが纏わり憑いている。――うっ。

「悪い、トイレ借りていい?」

 遥斗に断って、トイレに入る。ちょっと吐いてしまった。水洗を流しながら溜息を吐く。――気持ち悪い。

 ウサギに憑いているもの、確かに怨念のようだが、あれは、生き霊だ。

 生き霊は苦手だ。生きた人間が怨念を飛ばすほど思い詰めていると、考えるだにぞっとする。先のウサギも、目を凝らすと、念が一点に集まっていた。どろどろした赤黒い塊は、ウサギの中心に、ちょうど心臓が脈打つみたいに集中していた。それも二十年越しの念といったら相当だ。

 やだなあ……。

 正直放り出して逃げたい。けれど、高齢出産はただでさえリスクが高いというし、アレを放っておいて出産に障りがあっては大変だ。仕方ない。結婚祝いだと思って引き受けよう。部屋に戻ることにした。

 改めてウサギを掌に載せる。やはり念は一箇所に集中している。思い切って、その赤黒い塊をぐっと指で押してみると、何かに触れた。――やっぱり。

「どうだ?」

 遥斗が尋ねる。彼女もドアから顔を出し、不安そうな顔を覗かせている。

「うん……、やっぱりよくないものだと思う。俺が引取っていくから」

「いいのか?」

「おう。任せとけ」

 にかっと親指を立てると、遥斗はよかった~と表情を緩め、彼女もほっと息を吐いていた。

 遥斗の家を出て、通り掛ったゴミ集積所の前で立ち止まる。ウサギの腹の縫い目にぐっと爪を立てる。こんなものとは早くおさらばしたい。中から取り出すものはここに捨てて、ぬいぐるみ本体は寺ででも供養してもらおう。いや。思い直して指を引く。やはりこのまま寺へ持っていこう。送り主にも読経を聞かせたら、多少なりとも魂が浄化されるやもしれん。

 ――ぬいぐるみの中には盗聴器が埋め込まれている。今も、そしてたぶん二十年前も。

 犯人は父親の不倫相手だと思われる。柄にもないぬいぐるみは、女から「息子さんへ」とでも託されたのだろう。ぬいぐるみ一つ増えたところでどうもないと思っていた。けれど、思わぬことで騒動になったため、しらばっくれたのだろう。

 不倫相手は仕掛けた盗聴器をもとに、電話や手紙で母親を脅した。どこかで監視されている――、その恐怖は母親をノイローゼに至らしめた。そして、盗聴器に気付いてかどうか、ぬいぐるみを捨てたことで、ストーカー的な脅迫は治まり、母親も平静を取り戻したのだろう。

 両親の間に話し合いがあったのかは分からないし、父親と不倫相手の仲がどうなったのかも知らない。ただ、二十年間も執着するのが恐ろしい。

 しかし、なぜ今さら父親でも母親でもなく、遥斗に――。あっ。思いついた理由にぞっとする。。だから遥斗に執着している? 

 こわ。鳥肌が立った。五十を超えてなおこれほど思い詰めるとは、女の執着は凄まじい。いや……、不倫相手が同年輩とは限らないか。姉さん女房に尻に敷かれる父親が、若い女に手を出した可能性もある。もしも、女が当時二十歳だとしたら、今は……。

 とっととウサギのぬいぐるみを手放すことにして、俺は考えるのをやめた。

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