第一章 入学編
第一話
柔らかな日差しが差し込むマンションの一室。
浮腫んだ目を擦りながら起き上がったノアは、枕元で鳴り続けるアラームを止めると、そのまま腕と背筋を大きく伸ばす。
よく眠れなかったように感じるのは、母国との時差にまだ身体が追いついていないからなのか。それとも家族が一人もいない事による喪失感からなのか。
どちらにせよあまり良い目覚めではなかったが、二度寝をするわけにもいかないと無理やり布団を剥がし、洗面所へと向かう。
いつもと変わらない朝のルーティンを済ませてキッチンに戻ると、おもむろに冷蔵庫を開ける。
「うわ、買いに行くの忘れてた」
思わず漏れ出た言葉が、脳内を反芻する。
冷蔵庫内には水が入ったペットボトル2本と、昨日立ち寄ったコンビニで買ったゼリー飲料しかなく、ノアは仕方なしにそれをひとつ掴み取ると、キャップを回して口の中に流し込んだ。
簡易的に摂取したブドウ糖が、徐々に思考回路を整理していく。
(そういえば昨日、ひどい乗り物酔いで何も食べずに寝たんだっけ?)
諸事情で入国が直前になったことで、まともな食事も出来ずに飛行機に乗ったところまではまだ良かった。
結果、空腹に加え、乗り物酔いも合わさった事で、降り立った先のトイレで吐く物もないのに数十分嘔吐に苛まれていた事を思い出した。
個人的には二度と体験したくない出来事である。
「日本は時間に厳しいって言ってたし、少し早めに準備するか」
真新しいブレザーに袖を通し、鏡に映る自身の姿を見て———やめた。やはり柄にもないことはするものじゃない。
羞恥による熱を感じながらネクタイを締め直し、必要なものを几帳面に鞄へと詰めて、部屋を後にする。
これからノアが向かう
半年ほど前、その高等部への編入試験を無事に突破したノアは、母から入国前に手渡された地図資料を頼りに電車に乗り、ちょうど空いていた座席に腰掛ける。
(そういえば兄さんが、日本には『通勤ラッシュ』っていう独自の文化があるって言ってたような・・・乗った時にその時間じゃなかったのは幸運だったなあ)
停車するごとに増える乗客を物珍しそうに見ていたところ、息を切らしながら目の前に乗車してきた少女に、ノアは散漫としていた意識を向けた。
桜の花弁に飛び立つ鷹の後ろ姿があしらわれたピンバッジが、朝日に反射してキラリと輝く。
(同じ制服・・・リボンが赤いから二年生の先輩か?)
「はぁっ、はぁ・・・ごめ、なさ・・・」
満員に近い車内で未だに息を整えられず、途切れながら小さく謝罪の言葉を口にした少女に、ノアは静かに席を譲る。
「どうぞ」
「えっ? あ、ありがとう・・・」
少女は困惑しながらも譲られた席に腰掛け、十分に深呼吸をして、ようやく息を整えた。
こちらとしても、隣のスーツ姿の女性に何度か視線を向けられていて、正直居た堪れなかったので、代わってもらえたのは少しありがたかった。
『———ご乗車ありがとうございます。まもなく、嶺桜学園前。2番線に到着致します。お出口は———』
しばらくして、降車予定の駅を告げるアナウンスが聞こえてくる。
降りる時に揃って道を開けてくれる乗客に少しの感動を覚えつつ、改札への道を探して辺りを見回しながら歩いていると、後ろから付いて来る足音に思わず振り返った。
「あっ・・・」
「はい?」
先ほどの少女だった。既に呼吸は整っているが、首筋を伝ってシャツの内側に吸い込まれていく汗に視線が集中してしまい、ばつが悪くなって顔を明後日の方向に逸らす。
「さっきはありがとう。おかげで助かったわ」
「・・・お礼には及びません」
「そんなことないわ。実際にあの場面で行動できる子って少ないもの」
あまり慣れない感情を向けられ、こそばゆさを感じる。
「ところで君、もしかして嶺桜の新入生かな?」
「はい。少し早いんですが、初めて来る場所なので迷ったら困ると」
「そうなのね。ならまだ時間もあるし、お礼も兼ねて私が案内しても良いかしら?」
「では、お言葉に甘えて」
歩き始めた彼女の後を追い、エレベーターに乗る。
ふと下を見下ろすと、自分が乗って来たものとはまた違う電車がホームに入ってくる。回転率もそうだが、乗降車で統率されているかのような人の流れに、再び感嘆の吐息を漏らす。
「そういえば、まだ名乗っていなかったわね? シルヴィよ。良ければ、君の名前を教えてくれるかしら?」
「ノ———蒼森 希空です・・・それで先輩、地図とは別の方向に向かっているようですが」
「まだ入学式まで時間はあるもの。言ったでしょう? お礼もするって」
改札を抜け、学園へと続く道———とは違う方向を進むシルヴィの後を、ノアは大人しく付いて行く事にした。
朝早くで未だにシャッターを下ろした店舗が多い中、その店の扉には既に『OPEN』の文字が吊るされていた。
先輩に促されるまま、店内へと足を踏み入れる。
「おう、嬢ちゃんか・・・っと、こりゃあえらい男前を連れてきたな」
店主らしき老爺の言葉に後ろを振り返ると、店内に豪快な笑い声が響く。
「あんたの事だぞ。嬢ちゃん、もしかしてコレか」
「違いますよマスター。あまり変な事言ってると、奥様に言いつけますからね?」
「そりゃあ勘弁だ」
会話が弾む二人を他所に、周りを注意深く観察する。
木目調で統一された店内には、ほんのりと珈琲の香りが漂っており、自然と気分が落ち着くような音楽もかけられている。
「さぁ、
「あ、すみません」
促されるままカウンター席に腰を下ろすと、店主から差し出されたメニュー表を受け取る。
「あの・・・?」
「あ、もしかして朝ご飯は家で食べて来ちゃった?」
「いえ、そう言うわけでは・・・」
「ならちょうど良かったわ。ここは私がご馳走するから、遠慮しなくていいわ。おすすめはこれね」
先輩は『モーニング トーストセット』を指差し、ひと足先にそれを注文した。遅れて同じものを注文し、待っている間、少し話をすることにした。
蒼森ノアの望み事 音色B @es-chamali
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