蒼森ノアの望み事
音色B
プロローグ
『ノア、留学してみる気はない?』
窓の外を吹雪が覆い尽くしていたある冬の夜更け。
薪のパチパチと燃える音が鳴るリビングで、いつものように父の書斎から持ち出してきた小説を静かに読み進めていたノアは、その中の一文で偶然にも『留学』の文字を見つけてしまい、日中に母親から打診された内容を思い出していた。
『留学? 急になんで?』
欧州のとある学校の中等部に通い始めて二年になる今の時期に、そんな突拍子もない話を持ってきた事が、当初は怪しく思えて仕方がなかった。
『だって貴方、最近また酷いいじめを受けているんでしょう』
母親の言葉に、『何で知ってるんだ?』と言う言葉を飲み込む。
別に本気で隠していた訳ではない。でも、だからと言って心配して欲しい訳でもなかったから、何となく黙っていただけだった。
『母さんが心配するような事じゃないよ。結局、俺みたいな育ちの人間は遅かれ早かれこうなる———』
『ノア』
『・・・ごめん。少しヤケになってた』
あまりの語気の強さに、ノアはハッと我に返る。どうやら自分でも気付かないうちに、根は深くまで伸びていたらしい。
『けど、それだけで留学っていうのも変な話だと思うんだけど』
『じゃあ、今のままでも良いの?』
『・・・・・・』
知られてしまった以上、今後はそういった出来事が起こる度に、家族に要らぬ心労をかけてしまうだろう。
その事を考慮すると、迂闊に答えを出すことができなかった。
考え込んでいる事がバレたのか、母親がいつものように優しく微笑んだ。
『ごめんなさい。少し意地の悪いことを言ってしまったわね。本当はこの話、私が学生時代にお世話になった方から提案された事なの』
『それって、母さん達が通ってたっていう日本の学校の?』
この家に来た頃、退屈そうにする自分に見かねた祖父母が、自分達や母さんの昔の話を沢山聞かせてくれた事があった。
その中でも当時、特に興味を惹かれたのが、その日本にあるという学校の話だった。
『その人、貴方に凄く興味があるらしくてね? 仕事の関係でしばらくはこっちにいるみたいだから、もし良ければ話だけでも聞いてみて欲しいの』
結局、母親の押しに根負けした形で、数日後にその人物との面会予定日が来週に決まったのがつい先ほどの事。
「———はぁ・・・」
章をひとつ読み終えた所で、疲れが波のように押し寄せて来た。
別に留学自体に気が進まない訳ではない。改めて整理しても、現状が自分にとって好ましいものではない事は理解しているし、留学の話そのものに魅力を感じているのもまた事実。
その上でノアが思い止まってしまう理由はただひとつ。
『差別に屈し、海外に逃げた臆病者を引き取っていた家』
という悪評が広まって、家族に迷惑を掛ける可能性がある、という事だ。
身寄りの無い孤児だった自分を引き取り、十四歳になるまで何不自由ない生活を送らせてくれた両親には、言葉だけでは表せないほど感謝しているし、彼らの期待に応える為の努力を惜しんだ日は一日として存在しないと言い切れる自信がある。
だからこそ、そんな事で家族に迷惑を掛けるのが怖いのだ。
「臆病になったな、俺も」
カップに注がれたホットミルクにぼんやりと映った自分の影が、ゆらゆらと揺れる。
幸いにも、面会の日まで時間はある。今はまだ揺れているこの心の波も、しばらくすれば凪いで穏やかになるだろう。
表紙の裏から取り出した栞を挟んで綴じ、寝室がある二階に向かった。
「ん?」
ドアノブに手を掛け、少し開けた所で違和感。何故か電気が点いている。
夕食の前に消したはずだったが、こういう時の原因は我が家では二つくらいしか思いつかない。兄と寝る前に少しだけ話をする時か、姉が勝手に入り浸っている時だ。ちなみに前者なら大当たり、後者なら大外れだ。
意を決して扉を開け放つ。
「おーそーいー」
「待ってたよ、ノア」
まさか二人ともいるとは思わず、安堵と呆れの混じった溜め息を吐く。
姿勢良く椅子に掛けているのは一回り近く年上の兄・アダン。穏やかで面倒見が良く、頼り甲斐のあるところはノアにとっても理想の兄であるが、婚約者との惚気話が吐きそうになるくらい長いのが玉に瑕だ。
その一方で、ノアのベッドにだらしなく身を投げ出しているのが、同じく一回り近く年上の姉・ジャンヌである。初等、中等、高等教育を全て飛び級で終えるほどの才媛だが、見ての通り私生活に関しては残念な面が多い。
「あっ、今お姉ちゃんのこと残念とか思ったでしょ?」
「その姿で残念以外の感想が出てくると思った?」
「え、『お姉ちゃんが魅惑的すぎる』って?」
「遂に会話機能にもエラーが出たかこの姉は」
全く以って話の通じない姉に気力をごっそりと奪われつつ、兄に視線を向けて助け舟を要求する。
アダンはそんな事を考えるノアに微笑みながら、脱線しかけた話を本筋へと戻した。
「まあ冗談はここまでにして、ジャンヌも座りなよ。今夜はノアを祝う為の席なんだから」
「分かったわよ〜」
アダンに促され、ノアも壁際に寄せていた椅子を持ってくると、三人は向かい合うようにして腰掛ける。
「ノア。改めて、十四歳の誕生日、おめでとう!」
「おめでと〜!」
「・・・ありがと」
頬が緩むのを我慢しながら、祝いの言葉を受け取る。
その後もしばらく談笑を続けていた三人の話題は、ノアの進学先の話へと移っていく。
「兄さん、姉さん。話があるんだ」
話がひと段落した所で、ノアは大きく深呼吸をすると徐にそう切り出した。二人は何も言わずにただノアがこれからする話に耳を傾ける。
「俺がもし留学したいって言ったら・・・二人は止めてくれる?」
唐突に投げかけられた問いに、アダンは少し驚いたように瞬きを二、三度繰り返し、ジャンヌは口に運ぼうと摘んでいたナッツを落とし掛けた。
ノアは母親と話した事を要点だけ押さえて説明すると、二人は一度顔を見合わせてから、もう一度ノアの方に向き直り、ノアの話に真剣に耳を傾ける。
「止めて欲しいのかい?」
「・・・分からない。ただ行かない理由があるならどんな事があるか、知りたかっただけ」
「ならノアはお姉ちゃんの助手として雇うので、行っちゃいけませーん!」
後ろから姉に抱きつかれて面倒くさそうな表情を浮かべるノアに、兄は再び質問を投げかける。
「行きたくない理由があるんだね?」
「・・・・・・」
一番答えづらい質問に押し黙るノアに、今度は姉から鋭い指摘が飛んでくる。
「どうせまた虐められてる時に何か言われたんでしょ? だから学校は選びなさいって言ったのよ」
「うるさい、関係ないし。そもそも姉さんが勧めてきたところ、今の俺でも受かるか怪しいし・・・」
「じゃあなんなのよ?」
「・・・虐められたまま逃げたって思われるのが、なんか嫌」
ノアの口から飛び出した子供っぽい理由に、二人は一瞬の沈黙の後、同時に吹き出して笑い出す。
「そんな笑わなくたって良いじゃん・・・」
「いや、ごめんよ。まさかノアの口からそんな言葉が出てくるとは思わなかったから、つい」
「普段あんなに大人びた雰囲気醸し出しといて、そんな細かいこと気にするようになったのね」
「むぅ・・・」
年相応に頬を膨らませて不機嫌になるノアの頭を、アダンはポンと優しく叩く。
「きっと僕らの事も考えてくれての事なんだろう? ノアは優しいからね。でも———」
「馬鹿ねあんた。子供がそんな事気にするんじゃないわよ」
兄が紡ごうとした言葉を、姉が代わりに、一切取り繕わずに普段通りの口調で吐き出す。
「いい? あなたはまだ十四歳なの。二十そこそこの私たちみたいに難しい事考えてないで、目の前の事に集中しなさい。末っ子は黙ってお姉ちゃんを頼るのが、最高の姉孝行なの」
「もし僕らに迷惑がかかると思ってるなら、それは大きな間違いだよ。その程度の事で屈するほど、弱く育てられた覚えはないからね」
「兄さん・・・」
その言葉で、自分がいかに自惚れていたかを自覚する。そして、心を覆っていた靄が少しだけ晴れた気がした。
「あれ? なんでお姉ちゃんの言葉には微塵も感動してくれないのかな? 結構頼れる事言ってたよね?」
「そういうところが多いからだと思う」
「ひっどーい!」
「まぁ、その・・・ありがと、二人とも」
俯いて恥ずかしそうに零したノアの感謝に、二人は目頭が熱くなりながらもそれぞれ笑みを溢す。
姉が毛布を抱え上げ、再びノアに襲い掛かる。
「ようやくデレたなこの弟めぇ〜!」
「痛っ!」
「なんだかこうして腹を割って話すのは、久しぶりかもね」
毛布とジャンヌに絡まれるノアを見て笑うアダンは、感慨深そうに呟いた。
「兄さっ、見てないで助けてっ」
「うーん、ノアは僕の事を信じてくれなかったから、お仕置きが必要かもしれないなぁ」
「そんなぁ・・・」
アダンは、『話も済んだ事だし、僕はもう寝るよ』と言い残し、部屋から出ていった。
「姉さんももう良いだろ? 早く出てけっ!」
「いやでーす! 今日は一緒に寝るって言うまで離しませーん」
「ああもうっ・・・!」
しばらく小競り合いをした後、ノアは今夜は毛布なしで寝る決意をし、毛布ごとジャンヌを包んで部屋の外へと追い出した。
————同時刻、ポートレイ家の私室にて。
「・・・入れ」
弟の部屋を後にしたアダンは、目的の部屋に向かい扉を叩く。低く唸るような返事を確認すると、静かに扉を開けて室内に足を踏み入れる。
室内では椅子に腰掛けた父と、その傍らで不安そうに父と自分を見る母が待っていた。
「余計な話は不要だ。・・・して、ノアはどうすると?」
「まだ確定した訳ではありませんが、おそらく留学する方向に気持ちが傾いているかと」
「そうか・・・」
背もたれに身体を預けて深く息を吐いた男は、悩ましげに窓の外に映る雪景色を見つめる。
「息子を騙す・・・というのは、やはり気が乗らんな」
「父上、それは言っても仕方のない事かと」
「貴方、それを言うなら私たちも同罪だわ」
今回の件は、度重なる偶然によって、彼と、その周りが欲していた状況が上手く噛み合った結果生まれたものであり、彼を救う方法の中で唯一、現実的に実行できる方法だった。
「万が一上手くいかなかったとしても、まだノアは十四歳です。あの子ならいくらでも機会を作れます」
「出来る事なら、そんな機会は今回だけにして貰いたいものだ」
「僕もそう願っています」
互いに自嘲するかのように苦笑いを浮かべる親子を横目に、母・櫻子は部屋を後にする。
「全く・・・少し強引に話を進めすぎですよ———ねぇ、先生?」
ここに居ない人物に向けて小さく恨み言を呟いた。
(これからあの子の進む道に、どうか幸多からんことを———)
吹雪の止んだ窓の外から、その願いを強く込めて握りしめた両手に、白い月明かりが一筋。
まるでその願いを聞き入れたかのように、ほんの瞬きの合間だけその両手を照らしたのち、再び雲の陰に隠れて消えていった。
そうして祈りを終え、廊下を歩いていると、
「寒いよぅ・・・ノアぁ・・・お姉ちゃんも中に入れてよぅ・・・」
廊下の先で何故か毛布に包まって泣き言を呟いているジャンヌを見つけ、「全くもう・・・」とため息を吐きながら向かうのだった。
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