夢喰い天使とポチョムキン

わなび

第1話



 少しでも気を抜けば睡魔に魂を売ってしまいそうになる定時の一分前、パソコンの前でその長い長い六十秒間をウトウトしながらもきっかりと数え続けていたわたしは、ついに訪れたその瞬間に左クリックをかまして、PCの電源を落とした。

「あれ、美月、今日は定時?」

 向かい側のディスプレイからぴょこんと顔を出したのは、同期のサトミナ。これを略さずに言うと佐藤みなみとなり、つまりわたしのなかでザ・普通の名前ランキング一位を堂々と冠する親友であり、

「今日ぐらいは正々堂々と帰らせてもらいます。いつも残業多めだし今日ぐらい」

 とかなんとかを、ペロリと舌を出しながら言い合えるような間柄の人である。

「言うほど多めか?」

「サトミナよか多いよ」

 そうだっけー、おちゃらけた調子でサトミナは頭を揺らす。この人はすこぶる要領がいいくせに如何にも自分がパッパラパーですよとでも言いたげな振る舞いをする。  ほかの同期や上司からも、若干の変人扱いを受けている程度には。

「ま、それはいいけど。今から予定あるとか?」

 それは、ニチャァっていう擬音がほぼそのまま当てはまるぐらいの破顔だった。

「別にー。まっすぐ家に帰るけど」

「なーんだ。イイ男引っ提げて夜の街ぶらつくぐらいしているものかと」

「出会いをください」

「こっちが言いたい」

 部署柄、周りには同性ばかりがうろうろしている目下、社内恋愛なんて想像もつかないのに、ましてや社外なんてもってのほかだ。探せば出会いの場なんていくらでもあるのだろうけど、こちとら新卒一年目、まだまだシンデレラになれると信じきっている。すなわち、若さというアドバンテージだけで無条件に男を惹きつけられるものと思い込んでいる。

 というか、そうであってほしい。

 現実は非情であるのだけども。

「それじゃ、お先に」

「挨拶回りも忘れずにね」

 意地悪な助言は聞こえなかったふりをして、わたしはコソコソとフロアから退出する。面倒な上司に見つからないように、足音さえも忍ばせながら会社を出た。

 

     *


 秋の夕方は、小麦畑。

 それはわたしの、この季節に対する強い印象だ。

 中層のビルたちが居丈高に並んでいるこの街でも、それは変わらなかった。むしろガラスに反射したこがね色は、幼少期に駆け回った黄昏の田んぼ道よりずっと、わたしを色濃く照らしている気がする。都会というのは孤独なものだけど、ふとした時に郷愁を、そしてそれに付随する安心感を与えてくれる。夕刻のスクランブル交差点だってそう。

 道行く人に投げかけられる広告のバーゲンセールも、そんな都会の日常だった。いくつも並んだ大型の屋外ビジョンのなかで、渋谷駅へと向かっていたわたしの目をひときわ惹くプロモーションがある。有名な化粧品ブランドものの広告。

 ビジョンにデカデカと映されたのは、しなやかな髪と、淀みのない白皙の肌に、ぱっちりと開いたあどけなさの残る瞳をもった女性。全体的に色味が薄くて、それは多くの人が求める透明感に直結し、男女問わず多くの若年層に支持されている若手トップ女優だった。

「……かわいいなぁ」

 ため息が出るほどかわいいのだった。同性のわたしでさえこうなのだから、男の目にはどんなに映えていることだろう。サキュバスがそっぽ向かれるレベルかもしれない。

 ため息ついでに、自分の過去に、不意に向き合ってみる。……あまり思い出したいわけじゃないけど、なんとなく。

 ――わたしには、確かにあの子と同じ可能性を秘めた時期があって。

 ――その時期のわたしたちは互角だった……と、わたし自身は思っている。

 ただ一つの差は……今、あの子がこちらを見下ろしているということであり、あるいはわたしがあの子を見上げているという、たったそれだけの事実だ。


     *


「あの子がなの、ポチョムキン?」 

「うん。あの子だ」

 黒猫が頷いた。

 少女は目を凝らして、教室の窓ガラス越しに映る女子生徒をじっと見つめる。彼女もまた、真剣なまなざしを自分の机へと向けている。

「どうだい。視えた?」

「うー……ん、もうちょっと観念移入が必要かも」

「じゃあ、出直したほうがいいだろうね。彼女はどうやら試験を解くのに手一杯らしい。思念ベクトルが記憶領域へ集中している」

「……視えないわけね」

 息をつき、地上三階のガラス面から手を放した。

 彼女たちはそのまま落下……することはなく、ふわふわと浮かび上がっていく、やがて校舎の屋根にある、ちょっとしたスペースに腰を落ち着けた。

 少女――『夢喰い天使』――は、大事そうに抱えた黒猫をそっとコンクリートの上に下ろしてやった。黒猫はすぐに夢喰い天使のほうに向きなおり、ちょこんと座る。

 麗春の柔らかな風が、さらりと彼女たちの頬を撫でていく。

「メグ、ここは風が気持ちいいところだね」

 少女の名前はメグ。

 本来、夢喰い天使は名を持つことがないものだ。

 でも彼女は、たった一匹の相棒のために、自らそう名乗っている。

「空を飛んでいる時のほうが、気持ちいいでしょ」

「そうかなぁ、僕は怖いよ。少し慣れはしたけど」

 黒猫はそう言って、前足を丹念に舐めた。

 ポチョムキンというのが、その黒猫の名前である。

 メグが彼をパートナーとして選んだときに、彼はその名前を付けてもらった。

「ねぇ、ポチョムキン」

「なに?」

「人間ってさ、不思議だね」

「それを君が言うのかい。メグだって、昔――」

「まーた。覚えてないよ。わたしはわたし、それだけだもの。すなわちこうやって、人間たちの夢をひたすら食いつぶしていくだけの……、」

 メグは遠くに浮かんだ雲を眺めながら、少しナーバスにつぶやいた。

「……そういうメグの感情のぶれは、実に人間くさいと思うけど」

「わたしが人間だったころの血が流れている、ってこと?」

 言うまでもなく、メグは実体としてそこに在るわけではない。観念的なものに、外見と少々の自己意識を与えられ、ただ一つの目的のために働くよう仕込まれた存在――世界を動かしていく大きな力の、限りなくミクロな単位での動力。いわば細胞のようなものだった。

「いろいろな部分で、君は僕のご主人にそっくりだよ。そのあどけない顔立ちとかも」

「ふふっ、天使の風貌はみんな一緒だよ。この味気ないドレスだってそう」

 言いながら、メグは飾り気のない純白のドレスをひらひらと動かしてみせた。それ以外は何も身に着けていない。素足を無遠慮に放り出して、メグは高い空を見上げた。

「天が決めたことだからね。なにもかも」

「僕がメグに出会って、こうして一緒にいることも?」

「そうなんじゃないの? ……いずれにしても、わたしが考えるべき領分ではないけど」

「その先を考えようとはしないんだ」

「だって、考える必要がないもの」

「メグが人間と決定的に違うとしたら、そこなのだろうね」

「うん?」

「人間はその先の先まで考えようとするから。どれほど無駄と悟っても」

「分かったような口をきくのね、あなたって」

「間近で見ていたご主人は、そういう人だったから」

「そう」

 風に流され、わずかな動きを見せる雲たちを目で追いかけながら、メグは生返事を返す。

 彼女たちはこの世界に、たった二つの仕事を行うためだけに存在している。

 人の夢を破壊する――夢喰い天使。

 人の夢を構築する――ポチョムキン。

 相反する能力を持った彼女たちは、だからこそタッグを組まなければならなかった。

 すなわち、夢を追うことで人生を破局へと向かわせる人間がいたならば、その夢を完膚なきまでに打ち砕き。

 夢を見つけることで秘めていた類まれなる才能を引き出せる人間がいたならば、その夢を堅実に作り上げていく。

 決して無闇に手を下すことはない。彼女たちは慎重に、今まさに人生の岐路に立つ――破滅か、あるいは成功か――人間たちを観察し、適切な選択をさせる役目を背負っている。

「ポチョムキンは……あの子のどんな未来が視えた?」

 メグとポチョムキンは、それぞれ人の未来を視ることができる。

 メグは夢を壊した場合の未来を。

 ポチョムキンは夢を実現させた場合の未来を。

「彼女にはライバルがいる」

「それは……モデル仲間ってこと?」

「そう。通う学校は違っても、二人はさまざまな場所で顔を合わせている。二人とも、同世代の子のなかでは突出しているみたいだ。どんなオーディションも、ほとんど一騎打ちになっている」

「あの子たち、すごい才能を持っているのね」

「ライバルの子は大成するよ。でも、さっきの子は……この道を選ぶべきじゃないのかもしれない」

「上手くいかないのかしら」

「そうじゃない。彼女も成功するんだ、でも……芸能界に入ってから、一気に転落が始まっていく。過酷な競争に耐えきれず、やがては自ら朽ちていく運命だ」

「なら、ライバルちゃんはどうなるの」

「ライバルの子は、ほんとうに上手く世渡りができる子だ。だから、みるみるうちにトップクラスまで上り詰める」

「そこで明暗が分かれるわけね」

「逆に言えば、そこまではえこひいきなしで互角だよ。出身地も同じだから、二人はよくセットで語られる。百年に一度の逸材だとか、日本が生んだ珠玉だとか」

「……なにが違ったのかしら。どちらも等しく才能にあふれているはずなのに」

「そうだね……あの子にはたった一つだけ、『世渡りの才能』が足りなかった。あれだけの容姿と実力もある。道を定めつつある彼女の方向性そのものは、まったく間違ったものじゃない」

「でも、あなたが視た未来によれば、彼女はモデルとしての道を諦めたほうがいいと」

「早計だよ。もう一つの道は、これよりもっとひどい未来かもしれないじゃないか……それを確認するために、君がいるんだから」

「嫌な役回りね」

「だけどそれが、僕たちがここにいる理由だよ」

「……いいえ、理由なんて大層なものでもない、ただのなりゆき。この世界には在るべきものが在っただけよ。なにもかも、わたしたちの存在でさえも」

 五限終わりの予冷が鳴り響いた。メグはしめたとばかりに立ち上がり、「じゃあちょっと視てくるね」と相棒に言い残して、また教室の窓際までふわふわと移動していく。


     *


 これが宿命ってやつだ、って悟ったのは、やっぱり人生の中であの時が初めてだった。

 著名なドラマシリーズの主役級への抜擢が決まって、ずっとライバルだったあの子よりも一歩先に進んだ、あの日の夜に――わたしは交通事故に遭った。

 幸いにも命に別状はなかったが、撥ねられたはずみでアスファルトに顔面を打ち付けた。十数針も縫うくらいの大きなケガだった。両足の骨も、折れてしまっていた。

 病院で意識を回復して、それから鏡で自分の顔を見て――。

 わたしはもう、この道を進んでいくのは不可能であることを悟った。

 そのときは案外、辛いとは思わなかった。もともとプライドがそこまで高くなかったことも影響してのことかもしれない。「この傷では無理だ」と、自分を納得させることができた。

 でもやっぱり、心の底では傷ついていたと思う。実際わたしは、それからというものさっぱりテレビを見ることはなくなっていた。なるべく触れたくなかったのだ。「あの子」は特別そうだった……だがいくら耳を塞ごうと、その子の名前は毎日のように囁かれる。あの子は当然のごとくわたしが進んでいくはずだった道すら食いつぶしていき、たった一人で二人分、いやそれ以上の広さを持ったカーペットの上を歩いた。

 今だってずっと、あの子は歩き続けて、あそこまで上り詰めたんだ。

 はるか頭上で爽やかな笑みを浮かべるあの子に、

「……ま、頑張れや」

 と、今のわたしは、そんな独り言を意味もなく屋外ビジョンに投じるレベルの人間と化してしまっているわけである。でも、これでいい。これでよかった。わたしには気楽に生きていくほうが性に合っている。

 そりゃあたまに、「もしも」を考えることはある。それはもうどうしようもない、人生なんて迷い道だらけなのだ。そしてすべては結果論的に、あれは正解だっただの、これは間違いだっただのと過去を顧みる。それが人の人たる習性だ。

 でも、そこに大した意味はないのかもしれない。人生なんて水物だ、成功に近づくほど、失敗がその影を大きくすることだってある。口ではああだこうだとは言うけども、実のところ大半は現状に納得しているのだ。もし心から間違いを選んだと自責を抱える人がいたならば、口よりも先に行動に移すはずだから。

 あるべくして今がある。「もしも」の先にある自分なんて、ルーズリーフに書いた一万円札と同じぐらいに価値がない。ここにいるわたしがすべてだ。それ以上でも以下でもない。

 信号が青に変わる。わたしはビジョンから目を離した。雑踏の中に滑り込むように、まっすぐ渋谷駅を目指す。

 家ではアマゾンからの品々が郵便受けで待ち構えている。

 一刻も早く帰ってやらねばと、わたしはニヤニヤしながら人が変わったような足取りで改札口へと向かう。











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