Ep.8・マイスイート・ハニーデビル

「ただいま」


 仕事を終えて家に帰り、玄関を開ける。扉の隙間から洩れる明かりが、私を出迎える。


「おかえり、みことっち」


 ゆっぴが奥のリビングで寝転がって、脚を放り出していた。テレビの画面にはカラフルなサインライトが眩い光を放ち、知らないバンドがシャウトしている。床に置かれたお菓子の袋は、あれこれ開けて食べ散らかされていた。

 私は履き潰したパンプスを脱ぎ、玄関を上がった。


「今日も寛いでるね」


「お菓子食べながらベルフェゴール様の制裁五万回達成記念ライブの円盤観てた。ハイパーメガヤバMAX」


 床に零れた金髪がきらきらしている。床に広がるスカートは、ゆっぴの腿の真ん中辺りをかろうじて覆っている。これは私を挑発しているのだろうか。


「そんな無防備な姿勢してていいのかなー? 自分が私にどんな目で見られてるか、分かってる?」


 大人の余裕で挑発し返すと、ゆっぴはちらりとこちらに顔を向けた。そしてにまーっと笑い、わざとらしく尻尾でスカートをたくし上げる。


「えっち」


「ぐっ、挑発に挑発で返したら挑発してきた……」


 しかし私は、ゆっぴと心で繋がらないかぎりはそのスカートの中へは踏み込まない。彼女の煽りに乗るまいと、私は顔を背けた。

 冷蔵庫を開けてみて、あっと声を上げる。そういえば作り置きのおかずを切らしてしまったのだった。


「コンビニにごはん買いに行かなきゃ。ああ、次の休日はお料理だな……」


 とぼとぼと出かけようとすると、ゆっぴがのそりと起き上がった。そしてテーブルを指差し、そこにバチバチと火花を弾けさせる。

 テーブルに皿が並ぶ。鶏ハムとサラダだ。少しだけ不格好だけれど、私が作ったものを真似したのだと見て分かる。ゆっぴの手料理魔法、久しぶりに見た。


「宇宙から帰ってきたばっかりなんだし、ちょっとくらいサボれし」


「宇宙、か」


 私はありがたく料理の前に座り、ゆっぴの言葉を繰り返した。宇宙……あの出来事は未だに謎だった。

 会社によると、私は月、火と無断欠勤していたらしい。私は土曜日から宇宙へ連れ去られ、合計四日間も宇宙船をさまよい、その間地上では行方不明とされていたみたいだ。

 無断欠勤はこってり叱られた。事情を説明してもふざけていると思われて余計に叱られるだろうから、体調不良で意識を失っていたと説明した。事後報告で残っていた有給を当てて、事なきを得ている。


「私たち、本当に宇宙に連れ去られてたのかな。全部白昼夢だったんじゃないかって未だに思ってるよ」


「夢がいいなら夢でいいんじゃね?」


 現実味のない出来事ではあったが、会社を休んでいた事実があるし、なによりゆっぴの記憶と整合性が取れている。だからあれは恐らく夢ではないのだ。

 なんやかんや、三つの望みのひとつを使わずにゆっぴと共に帰ってこられた。夢でも夢でなくても変わらないくらい、平穏な日常が戻ってきている。


「とりあえず、夕飯にしよっか。ゆっぴ、作ってくれてありがと」


「いえーい! いただきます!」


 ゆっぴは元気よく両手を合わせ、自分も鶏ハムに箸を伸ばす。


「あたし、もっと料理頑張るからさ。みことっちは帰ってきてからは力抜いていいよ。あたしが癒やしてあげる」


 ゆっぴが労ってくれるので、私もつい、甘えてしまいそうになる。


「嬉しいけど、それじゃ私が日常に満足しちゃって残りふたつも望みが出てこなくなるよ。いいの?」


「あ、そうだった」


 ゆっぴはたまに、いや、多分しょっちゅう、自分が私のところにいる目的を忘れている。そんな彼女がおかしくて、私はつい笑った。

 彼女が現れて二ヶ月と少し。今では、こんな日常が当たり前になっていた。


 私は鶏ハムを口に運びつつ、先日のアブダクションを思い浮かべた。


「私もゆっぴも、無事に地球に戻ってきて元の生活に戻ったけど、良いのかな」


 宙人くんの言葉が、ちょこちょこ引っかかる。


「地球にない菌類が体に付着して、それを地球に持ち込んでしまうとかなんとか聞いてたの。だから地球に帰っちゃだめ、とまで言われたんだよ。その辺大丈夫だったのかな」


「んー。今んとこ、なんも起きてないし良いんじゃね?」


 ゆっぴは大雑把に言って、指からバチッと火花を起こし、追加でスープを生成した。そこから立ち上る湯気を眺めつつ、私は唸る。

 自分を起点にパンデミックが起きてしまったら取り返しつかない。しかし仮に診てもらうにしてもどこの医療機関に、どう説明していいのか全く分からない。

 黙って考えていると、ゆっぴがスープを飲みつつ言った。


「そんなに気になるんなら、死神大先生にみてもらったら?」


「死神? なんで?」


 拍子抜けである。医者でも学者でもなく、なぜ死神なのか。スープが熱かったらしく、ゆっぴは舌を出して器を下ろした。


「死神大先生は死の気配に敏感だから、死やら疫病やらなんかBADな何某に繋がるものはなんでも見破っちゃうんだよ。ちょうどこの前会ったとき、地上でバカンスしたいとか言ってたし。頼んだら来てくれんじゃね?」


「そんな軽やかな感じで死神に会うの?」


 困惑する私に、ゆっぴは目をぱちくりさせた。


「毎日のように悪魔と顔合わせてるのになにを今更なんですけど」


「それもそうか」


 私もスープの器を手に取る。それからまた、宙を仰いだ。

 一旦納得してしまったが、死神が来るって、まずくないか。いよいよ死にそうな気がする。


 ゆっぴはテーブルに置いたスマホをつついて、ぱっと笑顔を見せた。


「あっ、返事来た! 次の土曜日に来てくれるってさ!」


 なにやら死神とチャットしているらしい。次の土曜日、私の家に本格的に死の神が現れるようだ。


 *


 その後も、普段どおりの慌ただしい日々が過ぎていった。朝家を出て、仕事をして、帰ってくるだけの日々だ。でも、数ヶ月前とは違う。出かける前にゆっぴが送り出してくれ、帰ってくると迎えてくれる。その日の出来事を話すと興味深そうに聞いてくれる。

 たまに事故に遭って死にかけたりもするが、私は今日も、当たり前の日常を生きている。


 その土曜日は、朝からよく晴れていた。日差しは強いが、風は涼しくて心地よい。私はベランダで眩しい青空に目を細め、洗濯物を干しはじめた。

 ふと、ベランダの柵にゆっぴが座っているのが目に入った。


「うわっ。いつからそこに?」


「さっき来たとこ。休みの日も早起きかよ? もっとだらだら寝てろしー」


「折角いい天気だから、洗濯したくて……」


 からっとした空気に晒されたゆっぴの黒い羽根が、濡羽色に艶めいている。私は白いタオルを勢いよく広げ、洗濯バサミで吊した。

 ふいにゆっぴが、柵の上に立ち上がった。細い柵にバランスよく立つなんて器用なものだ。二階のベランダなのに怖くないのか、とは思ったが、考えてみたら彼女は背中の翼で飛べるので、高いところも不安定な場所も平気なのだ。

 高い位置から遠くを眺めていたゆっぴは、急に尻尾を立てて騒ぎはじめた。


「うお! やば、ねえみことっち! あそこあそこ! こっち来て、あれ見て!」


 ゆっぴの手が私の方に伸びてきた。私は持っていたタオルをひとつ干して、言われるままにゆっぴに歩み寄る。ゆっぴが私の手を握り、引っ張りあげようとする。


「ここ、立ってみて」


「柵に? やだよ、危ないよ」


「平気だって! それより見て、あそこにUFOっぽいもの見える! もしかしてヒロヒロの船かな?」


 ゆっぴが翼をはためかせて浮き上がる。手を取られた私も、足が少し浮いた。


「そんな強引に引っ張らないでよ、危ないって……!」


 ゆっぴに釣り上げられた私は、柵の上に腹ばいになった。上半身が柵の向こう側に投げ出される。建物の下、コンクリートの地面が見えて脚がひやっと竦む。真下には、駐車場の車止めが並んでいる。

 と、ゆっぴは急に、私の手を離した。


「あれ? 船見えなくなっちゃった。やっぱUFOって一瞬で消えちゃうんだねー」


 悠長に間延びした声でなにか言っているが、こちらはそんな場合ではない。強引に柵に引き上げられてそのまま手を離されたのだ、全身の血の気が引く。


「ひゃっ……うわあああ!」


 人間の重心というものを感じさせられる。私の足は高く放り上げられ、柵の向こう側へと体が沈んでいく。

 こういうとき、なぜか時間の流れをやけに遅く感じる。それなのに、自分自身もスローモーションになって体勢を立て直すなんてできないものだ。

 重力には逆らえず、頭から真っ逆さまに落ちていく他なかった。


 ほんの一瞬、一秒あったかどうかも覚えていない。衝撃音とともに激痛に襲われ、私は全身を痺れさせた。


「いっ……たあ」


「あっ! やっべ。ごめんごめん、みことっち」


 上空からはゆっぴの明るい声が聞こえる。私は痛む頭を手で支え、しばらく悶絶していた。

 部屋の位置は二階。そのベランダから落ちたのだから、死にはしないかもしれないが骨折くらいはしただろう。痛くて体に力が入らない。目も開けられず、ただ身動ぎするばかりだ。


「ゆっぴのバカ……」


 もごもごとぼやく。側頭部が痛い。ぼやけた頭でも分かる、多分駐車場の車止めに命中しているのだ。

 と、意外と近くから、声が降ってきた。


「うわ、キモ」


 しかし、ゆっぴの声ではない。なんだか妙に脱力した、少年の声だ。まだ声変わりしていない、かわいらしい声である。通りすがりの人が駆けつけたのか……いや、そんな感じでもない。

 薄目を開けてみる。真っ先に目に飛び込んできたのは、飴色の髪と真っ黒な瞳だった。

 中高生くらいだろうか。甘い童顔だが、どこか鋭く、そして冷めた目をしている。彼は私の横にしゃがんで、気だるげな顔で私を覗き込んでいた。

 私は、力なく声を発した。


「すみません、救急車呼んでもらえます?」


 しかし少年は、眉を顰める。


「はあ? 生きてんのに? なんで?」


「生きてるうちに呼んでほしいんです」


「やだよ、面倒くせー」


 ワイシャツに学ランを羽織り、耳にはピアスがひとつ煌めく。


「つーかこの俺に指図すんなよ。不愉快」


 ベランダから落ちただけでも充分だというのに、そのうえこんな変な子供に絡まれるとは私も運が悪い。

 文字どおり頭を抱えていると、パササと羽音が届いてきた。私の真横にローファーを履いた足が降り立つ。


「流石はみことっち、生きてるね」


 ゆっぴである。彼女は私を一瞥したのち、くるりと学ランの少年にくるりと顔を向けた。


「ちっす、死神大先生!」


 全く、こちらは一大事だというのに、どうしてそんなに平然としていられるのか。悪魔だからか。……などと心の中で呟いたあと、私はゆっぴの言葉にハッとした。


「……死神?」


 聞き間違えでなければ、たしかにそう言った。そういえばこの前、土曜日に死神がバカンスに来るとかなんとか聞いていたような。目の前には、しゃがんだ膝に頬杖をつく眼光の鋭い少年。

 私は一気に体を起こした。


「死神って、君が!?」


「おーおー、超元気じゃねーか。とんだ化け物だな」


 少年……もとい死神大先生とやらは、気だるげな口調で言った。


 *


 百五十センチ程度の小柄な体に、少し汚れた学ラン。まるでその辺の中学生みたいだが、警戒心の強い獣を思わせる眼光からは、どこか大物の風格を感じさせる。

 死神大先生なるその人は、そういう少年だった。


「アホザコ悪魔。テメーここんとこなんの成果も上げてねーと思ったらこんなとこで遊んでやがったか」


 その死神が、クッションの上で胡座をかく。


「他の悪魔らの仕事ぶり見てなんとも思わねーのか? あん?」


 駐車場から引き上げて、今は私の部屋にいる。上司的な存在であろう死神を前に、ゆっぴは少し萎縮して……などおらず、相変わらずのキャピキャピした態度で足を崩して座っていた。


「いやー、やべーなとは思ってるよ。でも別になにもしてないわけじゃなくて、みことっちの望みを叶えようと、ここでこうしてかれこれ二ヶ月粘ってるんだよ」


「二ヶ月も無駄にしてんのか」


「無駄にしてるんじゃなくて、じっくり仕事してるだけだって。あたしはあたしなりに頑張ってっし」


 言い合うふたりに挟まれて、私はぽかんとしていた。


「このちっちゃい子が死神大先生……」


 呟くと、死神は鋭い眼差しでこちらを睨んだ。


「あ? なんか言ったか」


 態度は傍若無人だが、声が若くてかわいいのでちょっと気迫に欠ける。おかげで怖いというよりは、生意気なやんちゃ小僧といった印象だ。

 とはいえ怒らせると面倒くさそうなので、下手したてに接することにした。


「死神大先生って、ゆっぴがお手伝いしてる人ですよね。なんか、死ぬべきなのに死んでない人間をタイムラインで見つけて、きちんと死ぬように魂を取りにくる……みたいな」


 ゆっぴが来たばかりの頃に話していた、謎システムを思い起こす。死神はしばし無言で私を睨んでいたが、やがてため息をついた。


「アホ悪魔、対象にそこまで説明してんのかよ。せめて人間に溶け込んでバレないように殺るものだろーが」


 死神は頭を掻き、また私に目を向けた。


「テメーもテメーだ。魂狙ってる悪魔なんぞ、よく家に上げられるな。お人好しか?」


「だってかわいいんだもん……」


 それに、魂を取られそうなのはひやひやするが、ゆっぴがいると楽しいし、彼女が来る前より生きている実感がある。


「それで、死神さん。ちょっと質問なんですけど」


 私はここで、彼に来てもらった目的を思い出した。


「私この前、宇宙人に攫われて、それから地球に帰ってきたところなんです。地球に存在しない菌とかウィルスとか、そういうものを持ち込んでしまっていないか心配で。死神さんなら見抜けるってゆっぴが言ってたんで、見てほしいんです」


 ストレートに話すと、我ながらイカレているなと思う。降って湧いた死神相手に、宇宙人に攫われて、と平常なトーンで相談している自分って、なんなのだろう。

 死神はじとっと私を見て、小首を傾げた。


「知らねーけど別に大丈夫じゃねーの? なんかあったらそんときはそんとき」


「テキトーすぎん? 死神大先生なら死の気配が分かるのに、なんで真面目に見てくれないんだし」


 ゆっぴが私に代わって抗議する。死神はだるそうにため息をついた。


「ぶっちゃけどうでもいいんだよ。それより俺はアホザコギャル、テメーに物申したい」


「なに?」


 前のめりになるゆっぴに、死神は鋭い視線を刺した。


「テメー、さっさとこの化け物女から離れて別の仕事しろ」


 化け物女、との言葉が出たとき、ちらりと私を一瞥された。ゆっぴはしばらく目をぱちくりさせていたが、やがて翼をわさっと広げて叫んだ。


「は!? え、なんで?」


「なんでもなにも、こんなところで油売ってる暇あったら他んとこで人間共の魂取ってこいよ。それがテメーの役目だろ」


「いやいや、なんもしてないわけじゃないしー! あたしはこのみことっちの望みを叶えようと……!」


 ゆっぴが甲高い声で言い返すも、死神は揺るがない。


「それが無駄だっつってんだ。欲望の塊、人間共の望みを三つ叶えるだけならそんな時間かかんねーだろ。こんな奴ほっといて、もっとテンポよく魂差し出す奴に張り付けよ、バーカ」


 彼が私を指さす。

 私は言葉を呑んでしまった。


 もしかして、ゆっぴが私の元からいなくなるのか?

 そう思ったら、思考が固まってしまったのだ。無言のまま凍りつく私の横で、死神が淡々と告げる。


「俺様は優しいからお別れの挨拶は待ってやる。ほら、さっさと終わらせろ」


「今!? 今お別れなの!?」


 ゆっぴは眉を吊り上げ、翼をファサッと広げた。死神が眉を寄せる。


「当たり前だろ、無駄な時間はすでに充分過ごしたろーが」


「急すぎかよー! マジ無理ふざけんななんだけど! てかあたし遊んでたわけじゃないし。みことっちの望み、一個叶えたもん。あと二個だもん、あとちょっとだもん!」


 飛び交う口喧嘩に挟まれる私は、まだ声を出せずにいた。

 ゆっぴがいなくなる。朝、私を見送ってくれることもなくなり、帰ってきたらリビングでだらけている姿もなくなる。私の話を聞いてくれることも、わざとらしく煽ってくることもなくなる。


 口癖の「ただいま」に、返ってくる「おかえり」がなくなる。


 その現実が、なぜかすっと受け入れきれない。ゆっぴがいる生活の方がおかしいのだから、いなくなってくれればむしろ清々するはず、なのに。

 なぜだろう。胸の中に冷たい風が吹き込んだみたいな、妙な喪失感に襲われる。


 死神が淡々とゆっぴを追い詰める。

 

「あとちょっとだろうが随分向こうだろうが成果は変わらねー。結果が全てだ。くだらん御託並べてねーで、仕事しろ」


「うっ……」


 図星を突かれて怯むゆっぴに、死神は容赦なく正論の槍で連撃した。


「つーか二ヶ月かけて叶えた望み一個じゃ、やる気のなさしか伝わってこねえわ。テメー目的忘れかけてるだろ」


「意地悪ー! 言い訳くらい聞いてくれたっていいじゃんかよ!」


「んなもん聞かねーわ」


 死神はゆっぴからそっぽを向き、私を睨んだ。


「テメーもこんなんにくっ憑かれて災難だったな。引き離してやっから感謝しろよ」


「い、嫌です」


 それまで呆然としていた私だったが、これには即答した。死神が顔を顰める。


「あ? 二ヶ月前……四月から夏場の今日まで続いたアホと共同生活から、テメーを解放してやるっつってんだぞ」


「解放されたくないんです。私、わざとゆっぴを引き止めてたんです」


 いちばんの理由はひと目惚れだ。最初は夢だと思って受け入れてしまい、のちに悪魔と分かっても追い払わなかった。


「彼女と過ごした日常は、ドタバタしてました。事故に遭ったり強盗に人質にされたり、なんなら宇宙人に攫われたりもしました。死にかけるような日々だったけど、ゆっぴがいれば楽しくて……」


 死神は無表情で聞いていた。


「こうも死なないのは、もしかしたらゆっぴと生きるためなんじゃないかって思ってる。私は今、自分という人間のこの体が、大事なんです。これもゆっぴのおかげで……」


「ん?」


 死神がふいに数秒、押し黙った。ゆっぴをじっと見て、それから私を見て、ふうんと鼻を鳴らす。


「もしかしてテメー、自分で気づいてねーのか?」


「なにがですか?」


「ほーん。そうか」


 そう呟いた声は、どこか可笑しそうで、玩具を見つけた子供みたいな含みがあった。彼は目を細め、僅かに口角を吊り上げる。


「気が変わった。アホ悪魔、テメーに少しだけ猶予をやろう」


 このとき私は初めて、死神の笑顔を見た。笑顔なんてかわいい言葉は似合わない、気味の悪いニヤリ笑いだが。

 ゆっぴがきょとんとする。


「え。今すぐお別れじゃなくていいの?」


「おうよ。ただし俺は時間を無駄にしない主義なんで、延長期間は今から十二時間。今日の夕方、七時までだ。それまでにその化け物女の魂を奪えなかったら、テメー分かってんな」


 なぜ唐突に気が変わったのは分からないが、ひとまず突然のお別れは避けられた。少しほっとしていると、隣でゆっぴが両手で拳を握りしめていた。


「十二時間かあ、キビい……いや半日あればいけるな。あたしが本気出せばマジ最強だかんね」


 突然のお別れは避けたられた……のだが、私の寿命は残り一日かもしれない。


 *


 死神はベランダの柵を飛び越えて、どこかへ消えた。

 ゆっぴはしばし静かに窓の向こうを見ていたが、やがてこちらに向き直った。


「みことっち、なんかあたしに頼み事してよ。どんなちっちゃいことでもいいからさ。逆に大胆な野望でもいいから」


「ゆっぴは悪魔だもんね。そうしてほしいよね、そのために来たんだもんね」


 私が言うと、ゆっぴは少しだけ躊躇してから、ゆっくり一歩を踏み出した。私に擦り寄って、めいっぱい甘えてくる。


「どうする、みことっち。あたしに望み、言ってみる?」


 腕に胸を押し付け、私の脚をゆっぴの脚で挟み、動きを封じつつ誘惑してくる。

 ほんのり漂う甘い香りと私を見つめる赤い瞳に、脳が溶けたみたいにくらくらする。


「でも、ここでなにかふたつ頼んだら私、魂とられるんでしょ」


 今から十二時間、ゆっぴから逃げ切れば、私の勝ち。ゆっぴになにも頼まなければいい。楽勝だ。

 楽勝、なのだけれど。


 ゆっぴがぐぐっと顔を近づけてくる。


「ねえ、みことっち」


 吐息が耳を擽る。ゆっぴの体重が、私を床に押し倒した。


「してほしいこと、言って」


 黒い翼がふわりと、私とゆっぴを包む。抜けた羽根が一枚、私の頬の横に落ちた。


 私がゆっぴになにも言わなければ、私の勝ち。魂はとられず、取り憑いていた悪魔は立ち去る。

 ゆっぴがいなくなってくれれば、ごく普通の生活に戻れる。今はもう仕事に殺されそうもないし、隣の部屋には友人がいる。晴れて、平穏なひとり暮らしを取り戻せるのだ。


 でも、それでいいのかと、心のうちの自分が問いかけてくる。


 ゆっぴがいなくなった日常を、幸せだとは思えなかった。そんな毎日なんて、生きていてなにが楽しいのか。


 勝とうと負けようと、いずれにせよ、ゆっぴとのお別れが近い。

 死ぬか死なないかの次元の問題だし、どちらにしろお別れなんだから、死なない結論を選ぶまでのはずだ。生きてさえいれば、また会えるかもしれない。

 でも。


「ゆっぴ。私が望みを言わなかったら、ゆっぴは私以外の誰かのところへ行くんだよね」


 私はゆっぴの頬に手を伸ばした。


「私以外の人にも、こうやって迫るんだよね」


 白い肌に私の指が触れる。柔らかい頬に、ふにっと、指先が吸いついた。

 ゆっぴはただ無言で、真っ赤な眼差しで私を見つめている。


 ゆっぴを出し抜いて生き長らえたところで、幸せに暮らせるとは思えない。いっそのことここで欲望を口にしてしまった方が楽になれる気がする。そうしてゆっぴを、形だけでも、私のものにしてしまいたい。


 だめだ。このままではまともな判断は下せない。私はゆっぴの両肩を捕まえた。


「と、とりあえず!」


 起き上がりついでに、彼女をぐいっと押しのける。


「ゆっぴ、パフェ食べない?」


「ふぇ?」


 目鼻の先のゆっぴの顔が、きょとんとまばたきした。


「パフェ……」


「そう。蜂蜜チョコパフェ食べたお店、もう一回行きたいな、なんて……」


 私はあは、と力なく笑った。


「泣いても笑ってもあと一日ならさ。思い出作ろうよ。今もいっぱい思い出あるけど、もっと」


 ゆっぴはぽかんとしてしばし固まり、やがてぱあっと目を輝かせた。


「行くー!」


 数秒前までの色気はどこへやら、ゆっぴは無邪気な子供のようにはしゃぎだす。


「そうだった、あのお店今、期間限定で蜂蜜いちごパフェやってるの! みことっち誘おうと思ってたんだったー!」


「へえ、おいしそうだね」


「ダイエットとか忘れて、パフェ行こうパフェー!」


 ゆっぴは翼をわさわささせて、ベランダから飛んでいく。私は鞄を持って、玄関から追いかけた。

 ゆっぴはバサバサと飛び上がり、駅の方へと羽ばたいていく。地上を走る私は、みるみる小さくなるゆっぴの影を必死についていった。

 駅までの近道の公園に差しかかると、すぐ正面にすとんと、黒ずくめの少年が下り立ってきた。


「うわあっ」


 飛び退く私の前に現れたのは、死神である。


「テメーらどこへ行く? この期に及んでまだ遊び呆ける気か?」


 かわいい顔で凄む彼に阻まれ、私は動けなくなった。

 死神……名前のとおり、死の神。なかなか死なない私でも、流石に死神に鎌を振られたら一瞬で死ぬのではないか。

 びくびくしながら死神に目をやると、彼は冷めた目で私を睨んだ。


「なにびびってんだよ。俺は別に、テメーを殺そうとはしてねーよ。守りもしねーけどな」


「そうなんですか? でも私、本当なら三歳で死んでたらしくて、無駄に長生きしてるから早く死んだ方がいいって……それでゆっぴが来たんですけど」


 ちょっと意外だった。死神というからには、私の死を望んでいるかと思ったのだが。死神は呆れ顔で言う。


「悪魔は悪魔の仕事を勝手にやってるだけで、俺には関係ねー。あいつらの責任でやらせる。俺に報告してくんのは、獲物の魂とってきたあとだ。ザコ悪魔共がなに狙ってんのかとか、どーでもいいからな。殺したっつー報告以外、要らねーんだよ」


 死神はゆっぴと同じ魔界から来たのに、ゆっぴの味方というわけではないらしい。かといって私を助けてくれるわけでもないようだから、中立なだけだ。

 死神は腕を組み、私を見上げる。


「まあ、テメーには多少興味がある」


 どういう意味だろう。こうまでなかなか死なない人間は珍しいから……だろうか。


「興味を持ってくれても面白くないと思いますよ。私は変に運が良いだけの普通の人間なので」


「そうだな、テメーは他人に興味を持たれるような人間じゃあねーな」


「ついさっき『興味がある』って言ったばかりのくせに……」


 彼の話し方は、マイペースすぎてついていけない。死神は奔放に話を切り替えた。


「テメーの自己評価なんかどーでもいい。それよかテメー、テメー自身を『死なない』っつったな」


「あ、はい。電車に轢かれても数日飲まず食わずでも、なぜか全然死なないです」


 思えば、大変な目に遭いまくっている。ゆっぴがいなかったら、心が折れていたかもしれない。

 ゆっぴがいてくれたから、親友の小春とより絆を深めるきっかけができたし、会社は少しずつクリーンになっていった。美容に気を使って、自分を大事にできるようにもなった。

 ゆっぴには魂を狙われていたはずなのに、私の生活は豊かになった。


 それだけではない。お揃いのシュシュ、コンビニのデザート、一緒に過ごすのんびりした時間……。

 欲しいのに手に入れられなかったもの、足りていないと気づいてすらいなかったものを、ゆっぴはたくさん、私にくれた。


「ゆっぴと出会う前は生きてる実感がなかったんです」


 自然と、声が震えた。


「ただあくせく働いてるだけで、毎日がつまらなかった。もしもタイムラインに載ったように死んじゃったとしても、未練もなにもなかったかもしれない」


 訥々と話す私を、死神は黙って見つめている。私はさわさわ唸る木々に耳を澄ませ、ゆっくりとまばたきをした。


「でも、今は生きたい」


 情けないくらいか細い声が出た。これでも、想いは本気だ。


「あの頃と今は違う。ゆっぴと出会っていろんなものを取り戻して、今の生活がすごく好きで……ゆっぴと一緒に、生きたいの」


 やっぱり、まだ死ぬわけにはいかない。生きてゆっぴとお別れする。生きたいと思わせてくれたことを、ちゃんとお礼を言いたい。そのためにも、簡単には魂は売れない。

 と、そこまで言ったときだ。死神がふわあと、欠伸をした。


「んな事情聞いてねーよ。いつまで喋る気だ?」


 びっくりするほど容赦ない。私は大人しく口を結んだ。死神が頭を掻く。


「ま、でも知りたいことは分かった。テメーがすっげー鈍感だってこともな」


「鈍感? 私が?」


「じゃーな。俺はバカンス中だから、仕事は一旦忘れる。せいぜい頑張れよ」


 口の悪い死神はこちらに一瞥もくれず、すたすたと去ってしまった。

 呆然としていると、ゆっぴが旋回して戻ってきた。


「みことっち、パフェはー? 早く早く!」


 日差しに煌めく蜂蜜色の髪、周辺に散る黒い羽根。赤い瞳。私は頷いて、ゆっぴの元へと駆け出した。

 タイムリミットまで、あと十一時間。



 パフェの前に、駅構内のショッピングモールを見て歩いた。

 デビルズメイスの夏の新作が出ており、試着室でゆっぴに着てもらってそのかわいさを夢中で称えた。ついでに、以前私がスカートを買った店も見て、夏らしいブラウスを買った。

 コスメも見た。雑貨も見た。初めてのデートと同じ建物の中を、あのときとは違う距離で一緒に歩んでいく。


「そうだゆっぴ、前にシュシュ買ったお店も行こうよ。夏物のアクセサリー買おう」


「いいじゃん!」


 お揃いのシュシュの店に出向いて、お揃いのブレスレットを買う。示し合わせたわけでもないのに、私たちはお互い、自分のものより先にお互いに似合う色を探していた。

 ゆっぴが私に、黄色とオレンジのブレスレットを翳す。


「ほら似合うー! みことっちってなんか地味な色選びがちだけど、実はこういうの似合う!」


「そうかな、派手すぎない?」


「似合うったら似合う。みことっちを誰より知ってるあたしが言うんだから間違いない。決まり、これ買お」


 思えば、この子はいつもそうだった。私をよく見ているし、考えてくれるけれど、私の意見はあんまり聞かない。でも、結果としてそれは私に必要なものだったりして。


 カフェでランチをして、街中を宛もなく一緒に歩き、おやつ時になったら目的のパフェを食べ。

 甘い甘い蜂蜜といちごのパフェは、ゆっぴによく似合う。彼女が目を輝かせてパフェに夢中になる頃には、私もゆっぴも、明日でお別れなんてすっかり忘れていた。


 思う存分遊んでいると、時間の感覚がなくなる。気がついたら日が傾いていて、五時の鐘が鳴った。


「帰ろうか」


「うん」


 そう話してからもまだ名残惜しくて、私はわざと駅まで遠回りをし。ゆっぴも、用もないのに無理やり用事を作って、駅のモールで寄り道をする。私たちは時間を忘れたふりをして、時間を潰した。


 帰りの電車でゆっぴは私の肩に凭れて眠ってしまった。

 肩に垂れてくる髪がきれいで目が奪われる。車窓から差し込む夕日色に照らされて、眩しく輝いている。

 ゆっぴは今日もかわいい。キラキラのアイシャドウも、ばっちりキメたアイラインも、絶妙な長さのスカート丈も。彼女が彼女らしくあるための、気高さを感じる。


 そうだ、だから私はこういう子が好きなのだ。自分に自信があって、ギャルに誇りを持っている。強くてかっこよくてかわいい、そんなゆっぴが、大好きなのだ。


 ブレスレットを嵌めたゆっぴの右手が、同じブレスレットを通した私の左手に重なった。ゆっぴが私の手を握ると、長い爪が肌に刺さる。痛いのに、この痛みが心地よい。


 そしてふと、現実に帰る。

 ゆっぴは、今日の夜にはもういないのだ。


 私は手持ち無沙汰な右手で、ゆっぴの頬を撫でた。ぐっすり眠る彼女の髪に、唇を当ててみる。甘い香りが脳を溶かす。


「……好き」


 声を出さずに、吐息だけで呟いた。

 望みがあとふたつ、叶うなら。命を捨てたって構わない。


「んうぇ……やば、寝てた」


 ゆっぴが急に目を覚ました。私はゆっぴから唇を離そうとして、結局やめた。彼女の香りに包まれたまま、ゆっぴの耳元で囁く。


「ゆっぴ。ふたつめ望み、聞いてくれる?」


 ゆっぴはちらりと、上目遣いで私を見た。


「逆に、いいの?」


「どうせ死ぬなら、わがままになりたい」


「言うようになったねえ、みことっち。最初の頃は『わがままになれ』って言ってもずーっとなにかに遠慮してたのに」


 ゆっぴは眠たそうに身みじぎし、私に体重を預けている。


「いーよ、聞いたげる。なあに?」


「あのね……」


 タイムリミットまで残り一時間。私とゆっぴは、不思議なくらい落ち着いていた。


 *


 錆び付いた階段を上り、見慣れた扉の前に立つ。ノブを引くと、いつもの口癖が零れる。


「ただいま」


「おっかえりー」


 返事はすぐ隣、一緒に帰ってきた少女の口から。


「ゆっぴも今帰ってきたんだから、『おかえり』は変じゃない?」


「分っかるー、ウケるよね」


 苦笑する私を笑って受け流し、ゆっぴは早速、細い手指を洗った。


「んじゃ、作るよー」


 タイムリミットまであと一時間を切った頃。私とゆっぴは、自宅アパートに戻ってきた。窓の壊れたリビングに夕日が差し込み、やけに涼しい隙間風が吹き込んでくる。窓の外で洗濯物が揺れている。私とゆっぴは、一緒にキッチンに立っていた。


 自宅の最寄駅からさらにスーパーへ寄り道して、ひき肉と玉ねぎとチーズを買った。現在ゆっぴは、目に涙を溜めながら玉ねぎを刻んでいる。


「ぎー! 沁みる! もう、魔法でバチバチッとやればこういうのも短縮できるのに」


「あはは、ごめんて」


 その隣で私は、付け合わせの粉吹き芋を作っていた。ゆっぴが涙目で呻く。


「みことっち、二個目の望みこれで良かったの? 『一緒に料理を作りたい』なんて」


「うん。『ゆっぴの手料理をもう一度食べたい』と迷ったんだけど、作ってもらうばっかりより、私も隣にいたかったから」


 魂を売る代わりに叶えてもらえる、三つの望み。そのうちのふたつめを、私はこの短いひとときに捧げた。

 魔法で料理を作ってもらえるのも、それはそれは時短で素晴らしかったけれど、最後くらいはこうしてふたりで作ってみたかった。


 ゆっぴがぐすっと喉を鳴らし、濡れた目を擦る。


「最悪。メイク崩れる」


「泣いちゃった」


「玉ねぎが沁みてるだけだし……」


 ゆっぴの手元から聞こえてくる、まな板と包丁の音が心地よい。コチ、コチ、と、壁掛け時計の秒針の音がやけに大きく聞こえる。この等間隔のリズムが心地よくて、体の力が抜けていく。


 私が付け合わせを作る間に、ゆっぴはハンバーグのタネを捏ねて小判型にし、フライパンで焼きはじめた。

 ソースも手作りすると意気込んでいた彼女は、目を離した隙にメインディッシュのハンバーグをまたもや焦がす。ギャーッと叫ぶ彼女を見て、私は笑った。


「またダークネスになった!」


「チーズで隠せばおいしそうに見えるからセーフ! さあもうすぐできるよ。みことっち、テーブルにお皿並べておいて」


「はーい」


 私はいまだ笑いを引きずりつつ、指示どおりに食器の準備をはじめた。リビングのテーブルに皿を置く。背中には、ハンバーグを焼くゆっぴの鼻歌が届いてくる。

 こんな時間が永遠に続けばいいのに。三つ目の望みは、それを頼んでみようか。ああ、でも三つ叶ったら死ぬのか。


 ふいに、カララと、ベランダのガラス戸が開く音がした。


「うーっす、テメーら。ぼちぼちタイムリミットだぞ」


 入ってきたのは、あの気だるげな少年の声だ。顔をあげると、初夏の夕日の眩しい光の中に佇む、死神大先生の小柄な影が見えた。


「なにしてんのかと思ったら仲良く料理か。悠長なこったな」


 ゆっぴはというと、キッチンでハンバーグソース作りに夢中のようで、死神の来訪に気づいていない。私は食器を並べながら、死神に返事をした。


「望みを言わなければ、魂、取られないので。気持ちに決心がつくまでは、ゆっぴと楽しく過ごしたいんです」


「テメーは余裕ぶっこいてるし、アホ悪魔は狩る気ねーのかっつーくらいぼさっとしてるし。テメーら世の中ナメてんのか」


 死神はそのまま窓辺に胡座をかいて座った。


「テメーよ、本気の本気でなんも気づいてねーのか。そんだけ油断できるってことは、本当は分かってんじゃねーの?」


 彼は逆光を背負い、艶のある髪をきらきらさせている。私は彼の問いかけの意味を考えてみたが、考えてもなにを問われたのか分からなかった。


「なにが?」


「マジで分かってねーならテメーは単なるアホか」


 この死神は、なんとも悪態が多い。頭上に疑問符を浮かべている私に、彼は呆れ顔で切り出した。


「頭」


 短く言ったあと、自身の後ろ頭を指さす。死神の目は私を見つめて離さない。


「ベランダから落ちたとき、頭打ったろ。後頭部、おもっきし」


「ああ、うん。あれは痛かった……」


 そういえば今朝、洗濯物を干していたとき、ゆっぴに引っ張られてベランダから落ちたのだった。車止めに頭を打ち付けて散々だった。死神が投げやりな声色で続ける。


「落ちた高さ的には死なない程度だったかもしんねーけど、頭を打ってる。これ所謂『打ちどころが悪い』ってやつ。これで生きてるとか、ただの人間だったら有り得ない。それは分かるか?」


 私を見下ろす学ランの少年は、深い闇色の瞳を細めた。


「普通なら頭蓋骨かち割れる」


「そう、ですね」


「つまりだ」


 コチ。時計の秒針が小さな一歩を刻む。

 同時に、部屋の扉がバンッと大きく開いた。


「みことっちー! できたよ、チーズハンバーグ!」


「科内深琴。テメーは人間じゃない。ゾンビだ」


 ふたりの声が、きれいに重なった。さらにいえば時計の長針が真上を向いた、コチ、の音までもが同時だった。

 それから数秒の沈黙。コチ、コチ、と止まないのは、時計の音だけ。


 黒焦げのハンバーグから発される香ばしい匂い、蒸し暑い部屋の温度、湿度。冷ややかな目で私の反応を見ている死神、扉の前には、ハンバーグの皿を持ったまま固まるゆっぴ。


「……え?」


 沈黙を破ったのは、私の声だった。


「待って、なにを言ってるの? ゾンビ? 私が?」


 意味が分からなくて、問い詰める言葉だけが無限に出てくる。


「そんなわけない。私は人間です。人間と人間の間に生まれて人間の中で育ってきた、れっきとした人間……」


「だから、アホだっつってんだ。自分がとっくに死んでることにも気づかねー、ゾンビになってるのにも気づかねー」


 死神は大仰なため息をついた。


「三歳の頃の交通事故は覚えてっか?」


「それは、覚えてる」


 保育園からの帰り道、信号無視の車に突っ込まれた、あの事故だ。

 死神は眉間に皺を刻んで、まばたきをした。


「自覚がねーみたいだから教えてやる。テメーはたしかに人間として生まれたが、三歳の時点で死んだ。そっから今までずっとゾンビだ」


「なにそれ!? 違うよ、私はあの事故で死なずに、運良く無事で……!」


「テメーが勝手にそう思ってるだけ。死んでる。あの世タイムラインでもはっきりそう書かれてる」


 信じられない。信じられないけれど、どこか膝を打っている自分もいる。電車に轢かれても、毒を飲まされても、高いところから落ちても、なんともない。考えてみたら、それは真人間には有り得ないことで。

 思い返しては変に納得する私を見つめ、死神は続けた。


「テメーは死なないんじゃなくて、とっくに死んでるんだよ。すでに死んでるから、これ以上なにやっても死なないだけ」


 気だるげに、それでいてはっきりと告げられる。


「正確には、肉体だけは何度も繰り返し死んでるけど精神が残ってる限り、再生も繰り返してる。だからテメーが死ぬ度にいちいちタイムラインが荒れる。うぜーから無視してっけど」


 ゆっぴはまだ、呆然と佇んでいた。私は彼女を一瞥し、また死神に視線を戻す。


「そんなことって……」


 突然告げられても、簡単には信じられない。でも、今までの経験が妙な説得力を持たせて私を納得させにかかる。


 小春を初めて見たゆっぴは、彼女がハルピュイアであると見抜けなかった。人外同士でも判別がつかないということだ。

 紅里くんは、吸血鬼でありながらあまり不自由なさそうに人間社会に順応している。多少は吸血鬼らしいところもあるが、個性の範囲として受け入れられている。

 そういえばマンドラゴラの茉莉花さんは、わりと最近まで自分がマンドラゴラであると知らなかったと言っていた。


 つまり私がゾンビだったとしても、誰も気づかない、人間社会に溶け込める、自覚もない……ということも、ありうるというわけだ。


 死神が気だるそうに私を睨む。


「死の気配に敏感な死神の俺が言ってんだ、いい加減認めろ」


 彼の性格を鑑みると、こんな嘘をつくようなタイプでもない。多分、私は本当にゾンビなのだ。

 と、そこで、立ち尽くしていたゆっぴに突然スイッチが入った。


「てことはてことは! みことっちは精神的に死んでない限り、この先なにがあってもずーっと死なないってこと!?」


 先程までの静寂が嘘のようだ。ハンバーグをテーブルに叩きつける勢いで置いて、死神の肩に掴みかかる。ゆっぴは壊れた目覚まし時計のごとく、ワーッと喚き出した。


「やっば! 最強じゃね!?」


「うっせーな、耳キーンてなるから少し黙れ」


 捲し立てるゆっぴを呆れ目で睨み、死神はしらけた声で言った。


「人間じゃねーことに誰からも気づかれない、人間と変わらずに生活に馴染んでる、自分自身でも自覚がない、そういうのは往々としてよくいるもんだが、全部の合わせ技の奴ってのは結構珍しい。流石に演技なのか、だとしたらなぜそんなことしてんのか。だから興味があった」


 今朝の彼の発言を思い出す。


『まあそうだな、テメーは他人に興味を持たれるような“人間”じゃあねーな』


 言葉の綾だ。たしかに、人間ではない。彼が私とゆっぴに十二時間くれたのは、私というイレギュラー興味を持ったから。ゾンビが悪魔に魂を狙われたらどうなるか、試してみたかったから。


「まだ全然実感ないけど、腹落ちすることばかりだ。そっか、私、ゾンビなんだ……」


 変に納得して呆然とする私の横では、逆に全く納得できていないゆっぴがギャーギャー騒いでいる。


「そうならそうって、なんで先に教えてくれないのー!? あたし、みことっちが寿命以上に生きてると思って、だから魂奪って強制終了させようとしてたのに!」


「知らんわ。テメーらが勝手に、ゾンビであると気づかずに数ヶ月を浪費したアホ悪魔と、自分がゾンビであることに気づかないアホゾンビだっただけだろ」


「だとしても、今朝の時点で気づいてたなら言ってよ! 死神大先生はあたしが頑張ってるの見て嘲笑ってたんだー。 酷くね!?」


「そうだよ、くだらねーことに無駄な努力をして、そしてその目的すら忘れるアホを嘲笑ってなにが悪い。アホはそのアホさで他人に迷惑かけてんだから、せめてエンタメとして消費させろや」


「包み隠しすらしない!」


 ゆっぴの甲高い声と妙に落ち着いた死神の声が交互に飛び交う。私はふたりの姿をぼうっと眺めて、呟いた。


「ゾンビか……それじゃ私は、この先ずっとなにがあっても死なないんだ。もしかして、老衰すらしないの?」


 そう思うと、逆に怖い。終わりがない人生なんて、想像できない。すると死神は、こちらに目線だけ寄越してきた。


「いや、そうでもない。ゾンビでも肉体が腐りきって死ぬ例はある」


「そうなの?」


「ゾンビの体が何度でも再生するのは、精神、即ち魂によるものだ。魂が疲弊すれば肉体の調子が悪くなるし、それが重なれば朽ちていく。あとは分かるな」


 突き放すように言う彼に、私は数秒沈黙した。たしかに私は、働けば疲れるしお腹もすく。三歳で死んだといっても年齢に応じて大人になっている。

 そこまで考えて、私はぽつっと呟いた。


「つまり、魂が失われれば体も死ぬ?」


 そこまで考えたとき、ハッとした。

 ゆっぴがこの家に初めて訪れた、あの日。仕事で疲れて生きがいを見いだせず、なにもかもを放棄しようとしていた、あの夜。

 心が死んでいた私は、もしかしたらあの日、本格的に死ぬところだったのかもしれない。

 それを助けてくれたのは、他でもない。私はちらりと、テーブルの上の焦げたハンバーグに視線を置いた。

 腐りきった心を癒して、楽にしてくれて、私に「その先」を見せてくれた、彼女の存在。


 そうだ、私はとっくに実感していた。

 彼女が来てから豊かになった毎日。ありふれた日々に戻ってきた笑顔。悪魔なのに憎めないあの子の存在が、たしかにそこにあった。


「……っち、みことっち、みことっちー! 聞いてる?」


 顔の前で手をひらひらされて、我に返った。うるさいくらいの元気な声が、私を呼びかける。


「みことっち、魂が死んだら肉体も死ぬんだって! つまりみことっちが死ぬには、悪魔のあたしに魂を売るしかないんだよ」


「やだよ! まだ生きたいから」


 明るく元気に酷い提案をされて、あまりの率直さに思わず噴き出す。


「そう思わせてくれたのはゆっぴでしょ。ゆっぴがいる日々がすごく楽しいから、この世界にまだいたいから、だから私は生きていたい」


 悪魔に取り憑かれた結果こんなに気持ちになるなんて、聞いたことがない。


「三歳の時点で死ぬはずだったのは分かってる。ボーナスタイムが長いのも分かってる。でも、もう少しだけ、このままでもいい?」


 悪魔の方も驚いたのだろう。ゆっぴは赤い目を大きく見開いて、私を見つめていた。


「そんな、悪魔に生かされてるとか意味分からんし……」


 彼女は少し戸惑いがちに目を伏せて、それからぱっと笑った。


「でもそれ、めちゃハッピーじゃんね。ハッピーなら生きるしかなくね?」


 イカれたワーカホリック三年目。

 私を甘やかす悪魔が、私の魂を奪いに来た。

 そして悪魔はあまりに無慈悲に、無邪気に、私に生きる理由を押し付けた。


 *


 仕事を辞めたくなる節目は、「三」にまつわる時期なのだと聞いたことがある。入社して三日目、次は三ヶ月経った頃、といった具合だ。

 今、私は入社から四年目。三は関係ないけれど、それはさておき大体同じ毎日に、そろそろ飽きてきている。


「ただいま」


 誰もいない部屋に向かって言うそれは、私の中にいつの間にか根付いた習慣である。

 この癖は未だに変わらない。また今日も、開けた扉の先に向かって私はこれを呟いた。

 しかし、返事はない。部屋は真っ暗で、誰の気配もない。散らかった部屋は、朝出かけたときのままだ。


 電気をつけて、鞄を下ろす。ストッキングを無造作に伸ばして脱いで、テーブルの横に置いたクッションに腰を下ろす。

 悪魔との共同生活が終わって、一年が経過した。今思うとあの日々が懐かしい。ヒリヒリしてはいたけれど、その刺激が楽しかった……ような気もする。

 自分ひとりで座るこの部屋で、私はそっと目を閉じた。


 *


 あの夏の日。

 黒焦げになったチーズハンバーグを食べながら、私は彼女に言った。


「タイムリミットの七時は回ったんだから、私はゆっぴから逃げ切っちゃったんだよね」


 そして今度は死神の方に顔を傾ける。


「制限時間以内に魂を奪えなかったゆっぴは、どうなるの?」


「決まってんだろ、強制労働だよ」


 死神が冷たい声で答える。


「遊んで過ごした分は、仕事で返してもらおうじゃねーか」


「えー! 無理すぎて無理! 強制労働とかブラックじゃん! ちょっと前のみことっちみたいじゃん!」


 ゆっぴが私を引き合いに出してくる。死神は容赦しない。


「働け。手え抜くのは大事だが、やることやんなくていいわけじゃあねーからな。死ぬ気で働け」


「怖ーい。死神大先生、マジ死神」


 捨て台詞を吐いて、ゆっぴはハンバーグを口に運んだ。もくもくと咀嚼して飲み込んで、彼女は改めて、私と目を合わせた。


「そういうことだから、みことっち」


 赤い瞳が、窓から入る日差しを反射する。


「あたしはもう、これからはみことっちを追っかける立場じゃない。悪魔として、お仕事頑張んなきゃ」


 うん、と返事をしようとしたが、なぜか喉で詰まって声にならなかった。ただ無言で頷いた私に、ゆっぴがにこりと笑う。


「まあ、ほどほどにテキトーにやるけんね。みことっちもそんな感じでいんじゃね?」


 これにも、返事ができなかった。代わりに胸の中で呟く。

 さようなら、私の悪魔。私に、蜂蜜のように甘い悪魔。


 *


 今はもう、帰ってきても、迎えてくれるあの子はいない。私の「ただいま」に返事は返ってこない。

 灯りのついていない部屋に帰ってきて、ひとりでキッチンに立って、作り置きしていた料理を温め直して。

 そして。


 バサバサバサバサと、近づいてくる羽音を聞く。私は皿を置いて、ベランダへと駆け出した。

 直したばかりの鍵を開け、大きく窓を開いて。


「おかえり、ゆっぴ!」


「ただいまー! みことっち!」


 ふわっと、鼻先に黒い羽根が落ちてきた。

 ギャル服に身を包んだ蜂蜜色の悪魔を、窓から迎え入れる。


「あっ、いい匂い! 今日ハンバーグ?」


 赤い目を輝かす彼女に、私は笑いかけた。


「そう! 今日は私も残業頑張ったから、特別にチーズを載せます!」


「最高すぎるー! みことっち大好きー!」


 勢いよく抱きついてきた彼女からは、とろけるような甘い匂いがした。


「あれ、こんなのつけてたっけ」


 つい口をつくと、彼女は私に抱きついたまま、自身の耳に触れた。


「あーこれね、今度発売するコロン。試しにつけたんだけど、あんまあたしっぽくないんだよね」


「へえ、コロンなんて作ってたんだ、あの会社」


「うん、服に合わせて作ってるんだってー。おかげであたし、このあとまた店に戻って事務仕事しないとなんないの。マジないわ」


 やれやれと肩を竦める彼女に、私は苦笑いを返した。


「本当に激務だね。まあ、ご飯くらいはゆっくりしていきなよ」


「そうする気満々だし」


 彼女は牙を覗かせてニッと笑い、ハンバーグがふたつ並ぶテーブルへと跳ねていった。


 私の魂を奪えなかったゆっぴは、強制労働に身を置くこととなった。

 彼女は今、こちらの世界で暮らす魔界出身者向けアパレルブランドで、販売員をしている。私を追いかけていた頃とは違い、私以上に忙しそうになった。

 でも、夕飯時になると必ずここへ戻ってくる。


 私もハンバーグの前に座り、手を合わせた。


「ゆっぴが私を追いかけなくなったときは、もう二度と会えないのかなって思った」


「んー? なんで? 追いかけなくなるとは言ったけど、だからってもうみことっちのとこには来ないってことにはなんなくね?」


 ゆっぴが尻尾をくねらせて首を傾げる。私は箸を握り、たしかに、と呟いた。


「それもそうか」


 ゆっぴは毎日、この部屋に帰ってくる。一緒に食事をして、おやつを食べながら仕事の話や交友関係の話なんかをして、また仕事へと発っていく。


 お別れしたと思っていたのに、次の日にも当然のように現れたのには本当にびっくりしたが、今となってはこれが新たな日常として根付いている。


 と、ゆっぴが私の顔の前で手を振った。


「みーことっち、聞いてる?」


「え、ごめん。ちょっとぼーっとしてた。なに?」


 我に返って聞き返すと、彼女ははにかみ笑いで続けた。


「だからあ、新作のコロン。あたしっぽくないけど、みことっちっぽくはあるから、今度持ってきてあげるって話してたの!」


「コロンって、その甘い匂いの? でもそれ、魔界出身者向けのブランドだったよね。私がつけても変じゃない?」


 変な懸念で尻込みしていたら、ゆっぴはあっさり言った。


「良んじゃね? みことっち、ゾンビだし」


「そっか」


「てかさ、誰でも好きなものつけて良んじゃね。かわいければなんでも最強じゃん」


 ああ、やっぱり好きだな。

 私は毎日、彼女への気持ちを再認識する。最初はひと目惚れだったけれど、彼女を知れば知るほど好きになった。騒がしくておバカで、単純で、自分本位で、そんなところも全部まとめて、世界でいちばんかわいい、私だけの悪魔。


「ところでゆっぴ、私の『望み』の返事、まだ聞いてないんだけど」


「ん? なんだっけ」


 目をぱくちりさせる彼女に、私はにこりと微笑んだ。


「『私の恋人として、一生一緒にいてほしい』……本当ならこれが二個目のはずだったよね。もう叶ってる気がするけど、叶ってるなら三つ望みを言ったことになるから、私、死んでないとおかしいんだけど」


「むぐ……」


 ゆっぴはハンバーグの手前で箸を止め、じわりと頬を赤らめた。


「……だって、それ叶えたらみことっち死んじゃうんだもん。だからまだ、恋人じゃない」


「恋人じゃないんだ」


「そうだよ。恋人じゃないから……もっと、いけない関係」


 そう言っていたずらっ子な笑顔ではにかむ彼女は、まさに私の心を掻き乱す悪魔そのものだ。


 死んでも死なない私と、私を甘やかす蜂蜜のような悪魔。

 デッドもアライブも超えた日々は、まだもうしばらく続きそうだ。

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