Ep.7・エンカウンターウィズザ・アンノウン

「どこか遠くへ行きたいな……」


 とある休日の、午後。私はひとりぼっちの部屋の中で呟いた。

 窓の外から、木々の揺れる音がする。差し込んでくる光は初夏の温度で、照明を点けていない部屋を静かに照らしている。


 土曜日、一週間分の疲れを癒す日。

 今までは当たり前だった休日出勤がほぼ発生しなくなったおかげで、こうして豊かな休日を過ごせる。体にのしかかる疲れも、がむしゃらだった頃よりは健康的な疲れだと感じる。


 この日は特に予定がなかったので、ゆっぴと一緒に買い物にでも行こうかと考えていたのだが、珍しくゆっぴの方から断ってきた。なんでも今日は大好きなベルフェゴール様のライブがあるらしく、一昨日くらいから魔界に帰ったままこちらに現れていない。

 ならば小春と遊びに行こうかと思い至るが、小春も地方への取材で家を空けているという。私は久々に、自分ひとりの休日を過ごすこととなった。


 午前中に部屋の掃除をし、一週間分の食事の作り置きをした。やるべき作業はすぐに終わってしまい、時間が余る。趣味でもあれば没頭できるのかもしれないが、生憎私にはまだ趣味と呼べるような趣味がない。


 どこか、遠くへ行きたい。そうだ、旅行の計画でも立ててみようか。

 昼下がりの退屈な時間。旅行雑誌でも買ってみようか、と、私は家を出たのだった。


 室内で過ごすのは嫌いではないが、天気の良い日の外は気持ちが良かった。梅雨が明けて空は青く澄み渡り、初夏の風が眩しい緑を揺する。深呼吸して、アスファルトの上を歩く。夏の匂いがする。


 書店へ行く道のりを、少しだけ遠回りする。散歩で時間を過ごすのも良いかもしれない。私は足を公園に向け、のんびりと歩いた。

 近所の公園は、昼休憩中らしきサラリーマンがひとりと、私と同じく散歩中のお年寄りとその飼い犬、それから地面に木の枝で絵を描いて、ひとりで遊んでいる幼い男の子がひとりいるだけだった。桜の木がすっかり緑色に染まっている。気の早い蝉が鳴きはじめているようで、どこからか声がした。


 閑散とした公園を歩いていて、ふと気づく。砂に絵を描く男の子は、ぐすぐすと涙を流しているではないか。小学校低学年くらいだろうか。黒髪にしてはやや明るめの、茶色っぽい髪をしたかわいらしい顔をした少年だ。小さくしゃがんで地面をつつき、ひっく、としゃくりあげている。

 そういえば、この子はどうしてひとりぼっちでこんなところにいるのだろう。友達らしい子供はいないし、親も見当たらない。


 少年は大きくて歪な丸を描いて、その下になにか、四本脚の動物のようなものを描いている。犬だろうか、遠目ではちょっと判別できない。

 涙に気づいてしまったらそのまま目を逸らすわけにもいかない。だが話しかけようにも、このご時世、知らない大人が話しかけたら警戒させてしまう。迷っていると、少年は描いた絵の上に手のひらを翳し、砂を擦って絵を消してしまった。咄嗟に、声が出る。


「あっ」


 その声に反応して、少年が顔を上げた。びっくりした顔の彼と目が合い、私は下手に後に引けなくなった。


「え、えっと……消しちゃうんだ、と思って」


 少年は目をぱちくりさせていたが、やがてぽそっと言った。


「上手じゃない、から」


「そんなことないよ」


 なんの絵を描いていたのかはしっかり見えなかったくせに、反射的にフォローする。少年は自分で絵を消した地面に目を落とし、数秒沈黙した。それからまた、消えそうな声を出す。


「でも、褒めてくれる人、いない」


「それは……」


 どういう状況なのか、分からない。だがこの少年が寂しそうなのはたしかで、見れば見るほど放っておけなくなってくる。


「それは、さ。私が褒めるから」


 我ながら、なにを言っているのか。でもそれくらいしか言葉が浮かばなかった。少年は僅かに目を上げ、聞き返してきた。


「お姉さん、一緒に遊んでくれるの?」


「ああ、ええと……」


 蝉の声がする。知らない子と遊んでいて通報されるのも困るが、この流れで突き放すのは忍びない。私は少し考えて、少年の前にしゃがんだ。


「私、深琴。いいよ、一緒に遊ぼう」


 どちらにせよ、私はこの意味深な発言をする少年を放ってはおけない。どうせ今日は、特にすることがないのだ、少しくらい、この子と過ごすのもいいだろう。

 我ながら不思議な気分だ。今まではこんな気持ちになることなんてなかったのに、この見知らぬ少年に意識が向いて、話を聞いてあげたいと思った。私自身に余裕が生まれた証拠だろうか。

 少年はぱあっと目を輝かせた。


「本当!? 僕、宙人ひろと。深琴お姉ちゃん、お友達になって!」


「うん」


 ああ、なんて純粋な目だろう。心が洗われるようだ。どう対処すべきか戸惑いはあったが、やはりこの選択は正しかった。

 少年、宙人くんは、消した絵の前からすっと立ち上がった。


「深琴お姉にちゃん、来て! 秘密基地に連れて行ってあげる!」


 彼は私の手を取ると、元気よく走り出した。突然のことに、私はふらつきながらも引っ張られるまま追いかける。


「えっ、ちょ、ちょっと!?」


 戸惑う私を連れて、宙人くんは迷いなく駆けていく。どこへ行くのだろう。お絵描きをして褒められたいのではなかったのか。

 犬の散歩をする人の脇を通り抜け、ベンチで休むサラリーマンの前を通過する。公園の端から広がる緑地へと、宙人くんは入っていく。


「秘密基地って、どこにあるの?」


「えへへ、こっち!」


 顔だけ振り向いて笑う宙人くんを見ていると、驚いたのもどうでも良くなってくる。ひとりで泣いていたこの子が今こんなに楽しそうなら、まあいいか。

 木漏れ日が眩しい。宙人くんの丸みのある後ろ頭に、まだら模様の光と影が落ちている。

 緑地を走っていると、蝉の声が少し強まった。木の上にいるのだろう、先程までは遠く微かだったその声が、わんわんと降り注いで聞こえる。

 久しぶりに走ったせいか、頭がくらくらしてきた。


「待って、宙人くん。少し休みたい」


 酸素が足りない。久々の運動に体がついていかない。

 蝉の声はみるみる大きくなっていって、より頭が重くなってくる。目眩がする。感覚が、狂ってくる。なんだろう、ぼうっとする。

 蝉の声の合間に、宙人くんの声がする。


「こっち、こっち」


 気絶するのではないかというくらい不安定な感覚の中、宙人くんの声だけが私の意識を保たせる。手を引かれ、導いていく。

 と、突然、体が浮いた気がした。


「あれ……?」


 目の前が真っ白になった。

 遠のいていく意識の中、私は「熱中症かな」なんて妙に冷静な自己分析をしていた。


 *


 どれくらい眠っていたのだろう。体の疲労感からして、多分一瞬意識が飛んだだけ、だと思う。

 私はゆっくりと、瞼を開いた。

 まず目に飛び込んできたのは、真っ青な晴天だった。頬に砂利が触れる。どうやら私は仰向けで倒れているようだ。軋む体を起こすと、すぐ隣から声がした。


「あっ、起きた」


 そこにいたのは、宙人くんである。体育座りで微笑む彼の向こうには、見慣れた公園の景色があった。


「あれ……? 私、いつから倒れてた?」


「衝撃が強すぎちゃったかな。深琴お姉ちゃん、全然起きないから死んじゃったかと思った」


「そんなに?」


 私は肩を強ばらせ、周囲を見渡した。よく知っている、近所の公園だ。でも、周りに人はいない。私と宙人くんだけだ。

 意識を失う前の記憶を呼び起こす。私はこの公園で宙人くんと出会い、一緒に脇の緑地を走っていたはずだった。


「ごめんね、なんか私、途中で熱中症かなんかになったみたい」


 突然倒れたりして、宙人くんをさぞ驚かせただろう。私はくらくらする頭を支え、宙人くんと目を合わせた。


「介抱してくれたのかな。ありがとう」


「大丈夫?」


「うん。さ、もう誰もいないし、そろそろおうちに帰ろうか。送ってくよ」


 立ち上がろうとすると、宙人くんは、きょとんと首を傾げた。


「ん? おうち? 深琴お姉ちゃんは、今日からここがおうちだよ」


「……はい?」


 一瞬、なにを言われたのか分からなかった。いや、考えても分からない。宙人くんがにこりと笑う。


「ここは空気中の成分も重力も、地球の環境に似せてある。ここにいれば、死なないよ」


「なにを……言って……」


 ふいに、どこからか機械音らしき音声が響いてきた。


「システムhakobune・テラクリエイトナンバー・エーマルマルヨンゴーヨン、探査コードネーム宇野宙人。ポイント獲得」


「えっ、なにこの音」


「やったー!」


 宙人くんが両手を振り上げる。私はまだ、事態に置き去りにされていた。なにがなんだかさっぱりである。

 宙人くんがにこにこスマイルでこちらを向いた。


「深琴お姉ちゃんのお陰で、僕にもポイントが入ったよ。これで褒めてもらえる。ありがとう!」


「なにこれ……?」


 困惑する私に、宙人くんは怪訝な顔になった。


「喜んでくれないの?」


「ええと、ごめん。どういうことか、なんにも分からなくて。ポイントってなに?」


「そっか、分かった。教えてあげる。そうだなあ、深琴お姉ちゃんの星の、深琴お姉ちゃんの国の言葉で言うと……“お仕事”みたいなものかな」


 宙人くんが足首だけ組んで言う。


「キャトルミューティレーションって知ってる?」


 キャトルミューティレーション……昔アメリカで起こった事件の名だ。家畜が宇宙人に攫われたとか、なんとか。


「名前くらいは知ってるけど……」


「それだと思って。深琴お姉ちゃんは、僕の牛」


 かわいらしい少年の甘い声で、淡々と語られる。


「僕らは今、各々が探査する星の生物や物質をマザーシップに回収して、その生態を調査してるんだ。僕の担当はテラ……地球。この部屋は、集めた生物、物質を収容しておく場所。通称『秘密基地』」


 説明を受けたところで、やはり分からなかった。


「えーっと、宇宙人ごっこ?」


「ううん。あの星にあったあの公園、というか、あのエリアをコピーしただけで、ここは僕らの船の中だよ」


 頭の中が真っ白になる。


「星……船……え? なにその言い方。まるでここが地球の外みたいな……」


「うん、そうそう! これは宇宙探査船hakobune! 僕たちのマザーシップさ」


「なにその冗談……面白いね。笑えないけど」


 頭にいくつもの疑問符を浮かべている私に、宙人くんは続ける。


「深琴お姉ちゃんみたいな高等生物の回収は初めてだから、反応を見るのも初めて。そうか、受け入れられないか。まあそりゃそうだよね、テラの技術では考えられない状況だもんね」


 ああ、多分これは夢だ。

 久しぶりの運動で、体が限界に達して倒れたのだろう。これは魘されながらみる白昼夢だ。そうでなくちゃ嫌だ。


「嘘だ」


 弾かれたように立ち上がり、駆け出す。背中に宙人くんの声が響く。


「深琴お姉ちゃん、どこ行くの!?」


 街路樹の立つ歩道へ飛び出し、見慣れた町を見回しながら走る。人も、他の生き物も、なにもいない。道路はしんと静まり返り、車一台走っていない。全てが、異様だ。まるで私だけを取り残して、全ての生き物が消えてしまったかのような。

 停まっている車を見つけて、転げるように駆け寄る。窓を叩いて、叫んだ。


「すみません、すみま……」


 しかし、車の中にも誰もいない。

 私は冷や汗を拭い、また走り出した。自宅アパートに辿り着き、階段を駆け上がる。隣の小春の部屋の扉は、出かける前に見たのと全く変わらない。むろん、私の部屋も同じ。


 持っていた鍵で部屋を開け、中に飛び込もうとした、その瞬間だ。

 足元がぐらっとして、体が沈みかけた。扉の向こう、私の部屋は……いや。そこに私の部屋はなかった。真っ白なだけの空間が、延々と続いている。

 呆然と立ち尽くす私の背中に、少年の声が届く。


「ごめんね、コピーの精度はそこまで高くないんだ。個々の家の中までは描き込まれてなくて……」


 宙人くんの優しい声が、私の背中をぞわぞわさせる。脚が震えて、私はその場にがくりと座り込んだ。


「わ、大丈夫?」


 私の横に宙人くんがしゃがみこみ、こちらを覗き込む。


「どうしたの? 悲しいの? どこか痛いの?」


 しばらくの間、私は凍りついたまま思考が動かなかった。


 *


 宙人くんに連れられて、元の公園に戻る。


「落ち着いた? 深琴お姉ちゃん、どこも痛くない?」


 宙人くんが優しく尋ねてくる。私は頭を抱えて蹲っていた。


「ええと、不思議なくらい体調は良いんだけど、信じられない……」


「でも僕、無理に連れてきたんじゃないよ。深琴お姉ちゃんが遊んでくれるって言ったから、褒めてくれるって言ったから……」


 宙人くんに悪気がなさそうなのがまた、私を困惑させる。強く怒ったり暴れたりしづらいではないか。彼はえへ、とかわいらしく花笑みした。


「信じる信じないは自由だよ。どっちにしても状況は変わらないからね。深琴お姉ちゃんは、ここにいてくれるだけでいいんだよ!」


 周辺に人はいない。人どころか、鳥も虫も、なにもいない。見慣れた景色だけれど、確実に全てが違う。どこかから人が出てくるかもしれないなんて期待もするが、その反面、「それはありえない」と分かっている自分もいる。

 まるでパラレルワールドのような、そんな異様さだ。


「う、うーん……」


 なんだか、初めてゆっぴが押しかけてきたときの気持ちに似ている。夢であってくれればそれに越したことはないが、目覚めない限り事態は動かない。

 仮にこれが夢でなくて、宙人くんの言葉が現実だとしたら――とても信じられないが、この奇妙な世界を目の当たりにしたら、受け入れるほかない。いや、もちろん納得はしていないが。

 何度も死にかけている私だが、宇宙人に連れ去られたのは初めてだ。


「どこか遠くへ行きたい、とは考えたけども……ここまで遠くなくて良かったな……」


 だが下手に慌てても仕方ないというのも承知している。ゆっぴ来襲で学習した。こういうときは、冷静に情報を集めた方がいい。


「一緒に遊ぼうとは言ったけど、それは地球で遊ぶという前提であって、君のコレクションに加わったつもりはなかったよ。私、殺されるの?」


「殺す……? あっ、知ってる! 地球の生き物は条件を満たすと機能を停止する。それが『死』だよね。それは回避しないと、もう二度と再生しないんだよね? 僕、調べたから知ってる!」


 死の概念すら確認事項だと思うと、やはり感覚の差が怖い。


「大丈夫、貴重なサンプルだから、ぞんざいに扱うことはない。むろん、殺したりしないよ」


 宙人くんがにこにこ笑って答える。ひとまずほっとしたが、これで安心できるわけではない。


「帰れるの?」


「基本的には帰さないよ。大丈夫だよ、さっきも言ったとおり、この部屋は地球の環境と同じだから、ここにいれば死なないよ」


「さらっと酷いこと言う。帰りたいよ」


「地球の生物は回収に適応しないのかな? これは新しい発見かもしれない。とにかく安心して。死なせないから」


「死ななければいいってものじゃないんだよ。どうしたら帰してもらえる?」


 会話が成立しているのに、気持ちは伝わっていない感じがする。宙人くんは難しそうに虚空を見上げた。


「回収した生物はこちらの機密に触れる可能性があるから、野放しにできないんだよ。よその星に余計な記憶を持ち帰られて、急速に発展されても困るもの」


 かわいらしい声が、絶望を告げる。


「それに、深琴お姉ちゃんが帰るのは地球にとっても良くないよ。地球に存在しない菌が深琴お姉ちゃんにくっついてたとしたら、それを地球に持ち込んでしまう事態になる」


「それはそうかもしれない……」


「深琴お姉ちゃんのわがままで母星に帰れば、最悪、星が死滅する可能性すらある。深琴お姉ちゃんさえ我慢すればそれは免れる。犠牲は少ない方がいいよ」


 丁寧に諭されると、変に納得してしまう。もう下手に足掻いたりせず、誰もいないこの場所で一生暮らすしかないのか。


「でも流石に、心残りはあるんだよなあ」


 私は膝を抱え、突き抜けるような青空を見上げた。

 科内深琴は本来、三歳で死ぬはずだったらしい。だから今生きているのすら図々しいくらいなのだ。それでも、まだ帰りたい理由がある。

 小春がたまたま不在でなかったら、一緒に遊びに行きたかった。半人前の紅里くんのことが心配だし、茉莉花さんみたいにきれいになって、彼女の横で堂々と話したかった。


 それになにより、ゆっぴに会いたい。


「私が死んでも、宇宙からじゃタイムラインも更新されないかもしれないな」


 俯く私の顔を、宙人くんが覗き込んでくる。


「だから、死なせないって!」


「うん、死なせないようにしてくれたとしても、地球の生物はいずれは死ぬんだよ」


「そうなの!? あっ、寿命ってやつ? 老朽化で死んじゃうやつ?」


 なんというか、宙人くんが悪い子だとは思わないのだが、恐ろしく会話が難しい。再び口を閉ざした私を、宙人くんは不安げに見つめた。


「どうしたの? ごめんね、僕、地球の生物の感情、あんまり分かんない……。どうしてほしい?」


「どうしてほしいかと言えば帰してほしいかな……」


「それは無理だからあ……けど、この場所の環境をもっと地球に近づけることはできるよ。地球の生物をもっとたくさん連れてきて、移住させたらいいんだよ。もともとここは擬似的に地球の景色を成してるんだから、住む人間がいれば同じになるんじゃない?」


 なるほど、たしかにここはよく知っている町と同じなのだ。極端にいえば、人さえ引っ越してくれば、こちらが本物になる。

 いやでも、私以外にもここに連れてこられる人がいると思うと、ぜひお願いしますとは言えない。


「そっくりならいいってわけじゃないんだよ」


 私が頭を抱えると、宙人くんはしょんぼりと下を向いた。


「困ったなあ……どうしたらいいか分かんない。僕はただ、深琴お姉ちゃんにとって暮らしやすい環境を作って、なるべく長生きしてほしいだけなのに」


 悪意がないのが却って質が悪い。少なくとも今のところは、宙人くんが私に危害を加える様子はないのだ。宙人くんは、難しそうに眉を寄せた。


「やっぱり、大事にしようと思うのがだめなのかな?」


「えっ?」


 突然の不穏な言葉に、背筋にぞっと悪寒が走った。宙人くんは相変わらず、穏やかな目をしている。


「丁寧に扱おうとするから、難しいのかなって。他の仲間たちはもっと効率よく、意思の確認なんてしないで大量に誘拐してきてる。サンプルがたくさんあれば多少死んじゃっても問題ないから、狭い場所に詰めておけるし、手っ取り早く解剖してもいいのかも」


「待って待って、私はそれは嫌かな!」


 慌てて声が裏返った。攻撃性がなくてちょっと安堵した傍からこれだ。


「やっぱりさ、今後の異星間の関係を考えても、ここで私を粗末に扱わない方がいいよ。戦争になるかもしれないよ」


「だよね。まあ、地球の軍事力がそんなに高いとは想定できないけど、まだまだ未知の星だからなあ」


 彼は膝をぎゅっと抱き寄せ、小さく唸った。


「僕は、できるだけどんな星とも友達でいたいんだ。地球だって本当はもっと強引に侵略できるけど、そういうのは違うと思ってて……」


 宙人くんの面持ちは、神妙だった。


「強引な侵略の方が要領がいいのは分かるし、そういうやり方してる人の方がずっとポイントを稼げるから褒められてる。でも、僕はそういうのは違うと思ってる。探査する星に適したスーツを着て、感情表現の方法をコピーし、情報思念体に送り込んだ言語を適用して意思疎通可能状態で活動する。連れ込む先の基地も、こうして元の星をコピーして同じようにする。あくまで対象の星に合わせて、地道に探査する。そうやって星を調査するべきだと思うんだ」


「あ、ええ、はい」


 なにを言っているのか八割分からないが、ひとまず相槌を打つ。宙人くんは言った。


「けどそんなやり方してるから、サンプルが集まらない。この『秘密基地』はこのとおり、景色だけが整ってるだけで中身はなにもない。ただでさえ地球の生物は持ち帰りが難しくて回収に成功しにくいのに、要領の悪いやり方してるから余計に遅い。こんなんだから、僕は仲間たちからバカにされるんだ」


 ぽろりと、純真な目から涙が零れ落ちた。

 ふと私の脳裏に、公園で見た景色が蘇った。ひとりぼっちでしゃがむ宙人くんが、砂に絵を描いている。歪んだ円盤と、四本足の動物。あれはもしかして、船に生き物を攫う絵だったのだろうか。自分は生き物を攫うのが下手だ、だから褒めてもらえない。

 あのとき彼が泣いていたのは、そういう理由だったのか。


「ごめんね。私が褒めてあげるって言ったのに、約束破っちゃったね」


 咄嗟に口をついたのは、薄っぺらな謝罪だった。

 私を攫うのに成功したのに、私は頭を抱えるばかりだった。いや、私からすればそれが当然の反応なのだけれど、宙人くんは褒めてほしかったはずだ。ポイントが入ったとき、一緒に喜んでほしかったはずだ。


「今さらだけど褒めさせて。私、本当に、宙人くんのことすごいと思う」


 これは、彼のご機嫌を取るためでもなんでもなく、心からの言葉だった。


「みんなからバカにされても、宙人くんは宙人くんが信じる『正しさ』を曲げない。他のみんなの方が効率がいいのは分かってても、それが良くないやり方だっていう考えを貫いてる。これってすごく偉いことだよ」


 少なくとも、地球人の感覚では。

 宙人くんが顔を上げる。彼は泣きそうな目で私を見上げた。


「でも僕、本当はみんなみたいに、どんどん生き物を乱獲してポイント集めようかなって迷ってた。そんなに意志が強いわけじゃない」


「分かるよ。それが普通だよ」


 あの絵を描いて泣いていたくらいだ。ぐらついていたのくらい分かる。


「でも、地球を想ってやめてくれた。ありがとう」


「深琴お姉ちゃん……」


 宙人くんが声を震わせる。


「ありがとう。僕を褒めてくれたの、深琴お姉ちゃんが初めてだよ」


 彼は地球人ではないから、私と同じような感覚を持っているとは限らない。でも今は、心を通わせられた気がした。

 生まれた星が違っても、生物的にも文化的にも違っても、同じような悩みを持っているし同じような欲求を持つ。多分そうだ。少なくとも、この子に関しては。


 しかしこんな感動のシーンのようなやりとりをしたところで、自分が助かるわけではない。問題はここからどうなるかだ。


「宙人くん、私たち地球の生物を殺すつもりはないんだよね?」


 確認すると、宙人くんはこくんと頷いた。


「大事にする。ちゃんとお世話するからあ……」


 ペットを飼いたくて親に交渉する子供みたいな言い方だ。

 私はため息をつき、一旦目を伏せた。

 できれば、なんとか元の星に帰りたい。たとえここが安全だったとしても、こんなところで一生を終えたくはない。それに先程の宙人くんの発言を鑑みると、彼の言う「他の仲間たち」は生き物を拉致して解剖しているらしい。つまり私も、「他の仲間たち」に見つかったら宙人くんが守り抜いてくれるとは限らない。また、彼自身も気が変わればいつでも私を殺せるわけだ。逃げられるものなら今すぐ逃げたい。

 だがここから逃げ出すすべがないし、宙人くんの言うとおり私自身が地球の脅威になりかねない。なんだかもう、ただでさえ異常な状況で混乱しているのに、延々と答えの出ない問題に悩まされる。頭が痛い。

 とりあえず、今は引き続き情報を集めよう。


「さっき、『基本的には帰さない』って言い方してたけど、帰った例もあるの?」


「ないことはないよ。連れてきたサンプルがたまたまその星の君主の子で、それこそ宇宙戦争が勃発しそうになった事案があって。そのときは、相手の星の軍事力が僕らの星の五千倍だったから、こっちが滅ぼされる前にサンプルを帰したんだ」


 宙人くんは体育座りを崩し、ぺたんと脚を下ろした。


「私の知らない宇宙の果てでそんなことが……。その相手の星は、どうなったの? 未知の菌が持ち込まれたんじゃ?」


「持ち込まれてはいると思うけど、特に異変は起きてないみたいだよ。菌と星の環境が合わなかったんじゃないかな、菌の方が死滅したと見てるよ」


 なるほど。しかしこれは相手の星が優勢だった上、持ち込まれた菌も勝手になくなった運のいいケースである。生憎私は同じようにはいかないだろう。

 考え込んでいると、宙人くんが不安げに問うてきた。


「帰ろうとしてるの? 帰さないよ?」


 甘いかわいい声に、ぞくっとする。まずい、逃げようとしてると思われると、強制的に動きを封じられて余計に調べづらくなる。……かもしれない。

 少なくとも、飼い主といえる宙人くんの機嫌は損ねない方がいいに決まっている。ここは気長に、宙人くんとゆっくり暮らしながら、どう動くべきか模索しよう。


「ここ、居心地いいし、つらいことなにもなくて快適だよ」


「そうだよね。良かった」


 宙人くんがご機嫌に微笑む。私も微笑みかけ、質問を続けた。


「宙人くんもずっとここにいてくれるの?」


「ううん。僕は地球へ探索へ行かなくちゃならないから、ずっと一緒にいられるわけじゃないよ。新しい生き物を捕まえたらここに連れてくるから、そのときまた遊ぼうね」


「それじゃ地球に行ったとき、ついでに私の家に寄り道してくれる? 水とか買ってあった食材とか、着替えとか、持ってきてくれると嬉しいんだけど」


 我ながら、慌てているわりに妙に冷静である。

 文字どおり物資が欲しいというのもあるが、宙人くんが私のアパートの部屋を訪れれば、ゆっぴや小春が対面するかもしれない。ふたりとも外出中というのが気がかりだが、そのうち帰ってくるはずだ。彼女らが私を捜してくれて、そこへ宙人くんが部屋にやってくるとしたら、まず私との関係性を確認する。そこで宙人くんが私を拉致したとふたりに伝われば、なにかしら交渉してくれるかもしれない。あのふたりは元より人外である。宇宙人の対応も、魔界を通じて上手いことやってくれそうな気がする。

 ゆっぴや小春が私と同じようにここに連れてこられてしまったらいけないが。

 宙人くんは、ぽかんと口を開けて小首を傾げた。


「ミズ? なにそれ?」


「おっ……通じなかった」


 そうだった、相手は宇宙人だ。普通に会話ができるだけでも奇跡である。たまに通じない単語があってもおかしくない。充分な意思疎通のためにも、丁寧に説明していこう。


「えっ、ええと。水というのは生きてく上で絶対必要なもので、他にもなにか栄養摂らないと死んじゃうでしょ。地球だとそれが食べ物で……」


「なにか与える必要があるってこと? じゃないと死んじゃうの? 全然分かんない……地球の生物って、生きてるだけで大変だね。なんでそんなに存在に条件があるの?」


 いきなりつまづいた感じがした。

 気長に、宙人くんとゆっくり暮らしながら、どう動くべきか模索する……。そんな余裕はなさそうだと、急激に焦りを感じたのだった。


 *


 あれからどのくらい、この場所にいただろうか。体感としてはもう数日経っているくらいの時間を感じている。

 けれどそれは多分、なにもなくて退屈だから長く感じているだけだろう。せいぜい数時間、空腹感がじわじわ迫ってきているから、夕飯時くらいの時間だと思う。曖昧な体内時計で雑な計算をしながら、私は青いままの空を見上げていた。ぬけぬけとした真っ青な天井は、どれだけ時間が経っても変わらない。雲すら動かない。


 あのあと、宙人くんは私を置いて出かけてしまった。地球へ新たなサンプルの採取に行くのだという。どこかに出入口があるのか、私を置いて駆け出し、そのまま姿を消してしまったのである。

 生憎、彼が再び地球へ発つまでに「水」の概念を伝えきれなかった。彼は多分、私に与えるべきものを持ってきてはくれない。悪意はなくとも無知は人を殺すのだ。

 藁にもすがる思いで家の住所だけは伝えておいた。これで小春辺りに気づいてもらえればいいのだが。


 宙人くんがいなくなったあと、私はこの広大すぎる空間を少しだけ散策した。本当に他に生き物がいないか確認するためと、出口を探そうとしたのである。

 地球の環境をコピーしたというこの場所は、全くと言っていいほど、私の住む町の景色そのものだった。ただ、誰もいないだけ。たまに車が停車しているが、風景としてコピーされただけなのだろう。人は乗っていない。駅まで歩いてみると、電車はあったが、動かなければそれもオブジェにすぎない。


 会社まで歩いてみたり、通勤路の店を覗いてみたり、行ったことのない場所まで歩いてみたり、ただただ散策を続ける。時々休んで、さらに進む。今はもう、全く土地勘のない三つ隣の市を歩いている。

 ここは宙人くんの星の船の中とのことだったが、町はどこまでも広がって見えた。この部屋に果てはあるのだろうか。宇宙船の構造なんて、私の想像の範囲を飛び出している。

 知らない場所を歩いて、迷ってもいけない。まだ引き返せるうちに、公園の方へ踵を返す。改めて、移動手段が徒歩しかないというのは、疲れるし面倒くさい。


 さらに時間をかけて元の町に帰ってくる。見慣れたコンビニが見えてきた。雨の日にゆっぴとスイーツを買いに来た店だ。外観はそのままだが、扉は開かない。機能しない自動ドアの前で佇んでいると、後ろから声が聞こえた。


「いた! 深琴お姉ちゃーん」


 宙人くんが戻ってきた。私を見つけて手を振ってくる。そんな彼の、背後には。


「みことっちー!」


 ふわふわ揺れる金髪に、広がる黒い翼。ゆっぴがいる。

 幻覚かと思った。衝撃のあまり、私は勢いよく声を上げた。


「ゆっぴ!?」


 見間違いではない。こちらに駆けてくる少女はたしかに、ゆっぴだ。彼女は走りながら羽ばたき、空中から私の胸に飛び込んできた。


「ゆっぴだよー! ちょっとみことっち、宇宙旅行とかマジ誘って! ひとりで行くとかズルいんですけど」


「旅行じゃないよ!? 拉致だよ!」


「てか宇宙って意外と普通じゃね? めっちゃ見慣れた景色なんですけど。思ったよりおもんないねー。でもどっちにしろ宇宙とか行くなら誘えし?」


 ゆっぴが私に抱きつきながら、くるくる表情を変える。私は目を白黒させていた。


「拉致だから誘えないよ! それよりどうしてここに……!?」


「このお姉ちゃんもね、一緒に遊んでくれるって!」


 言葉がまとまらない私と余裕げににこにこしているゆっぴとの会話に、少年の甘い声が割り込んできた。ゆっぴの後ろからちょこんと、宙人くんが満面の笑みの顔を出している。


「深琴お姉ちゃんに教えてもらった住所に訪ねたら、このゆっぴお姉ちゃんがいてね!」


「そうそう、みことっちどこ行ったか知ってる? って聞いたら、この宙人くん……ヒロヒロが、宇宙に連れてったって言うから! あたしも来た!」


 途中からゆっぴが説明し、私から離れた。そして宙人くんの小さな手とハイタッチする。

 私は額に手を当て、大きなため息をついた。流石はゆっぴ。宙人くんが宇宙人であると知ったうえで、自らここへ攫われてきたというのだ。


「どういうことか分かってる?」


「バチボコにアゲなこと! まあ、現物の宇宙、思ったより地味だったけど」


 せめて、来てくれたのが小春ならもう少し話が通じたのだが……。途方に暮れる私の頭上から、電子音が下りてくる。


「システムhakobune・テラクリエイトナンバー・エーマルマルヨンゴーヨン、探査コードネーム宇野宙人。ポイント獲得」


「よーし! またポイント入った!」


 宙人くんが元気よく拳を握る。


「この調子で、テラの生き物をもっとたくさん集めるぞ! 行ってきまーす!」


「ほーい、行ってら」


 駆け出していく宙人くんを、ゆっぴが手を振って見送る。ひゅっと姿を消す宙人くんに声をかける暇もなく、私はまた、開かないコンビニの前に取り残された。私はくたっと、膝から崩れ落ちた。


「ゆっぴ……私が宇宙に連れてこられてるって分かったなら、地球に戻すように交渉してほしかったよ」


「えっ、みことっち帰りたい系? 折角宇宙に来たのに?」


 ゆっぴときたら、そんな論点できょとんとしている。悪魔だからなのかギャルだからなのか、ゆっぴというものは、もしかしたら宇宙人以上に話が通じないのかもしれない。


「そりゃあそうでしょ。帰りたいのに、どうやってこの異様な町から出ればいいのか分かんないんだよ。宙人くんは出入りしてるみたいだけど、いつの間にか見失っちゃうし」


 船の構造も謎だし、宇宙人である宙人くんの動き方も未知である。


「だからってここで素直に一生を終えようかというのも怖い。宙人くんの星には死の概念がないみたいで、なにをしたら死ぬのか、なにを与えないと死ぬのか、あんまり分かってないみたいだった」


「やば、ハイパーウケるねー」


「ゆっぴは悪魔だから、ウケる程度で済むかもしれないけど」


 項垂れる私の前に、ゆっぴの脚と、スカートの縁の黒いレースが佇んでいる。ゆっぴはふうんと鼻を鳴らした。


「でもさー、ここには今、あたしとみことっちしかいないんだよ」


 そう言われ、私は顔を上げた。短いスカート越しに、ゆっぴが私を見下ろしている。


「ヒロヒロが新しい人を捕まえてくるまでは、ここはあたしとみことっち、ふたりだけの世界だよ」


「あっ……」


 本当だ。言われて気づいたが、この広い世界は私とゆっぴだけのもの。法も秩序もないこの場所なら、私たちはどこまでも自由だ。

 唖然とする私を、ゆっぴはニヤニヤと面白そうに見ていた。


「それにさ、みことっちが二個目の望みとして『帰りたい』って言ってくれればいつでも帰れんの。そんなにヤバみでもないよ」


「たしかに! 望みを一回使うだけなら残りひとつあるし、ここで干され死ぬよりだいぶマシだ」


 私はしばらく真っ青なの空を仰ぎ、それからちらりとゆっぴに目をやった。

 命を少しだけ削れば、また小春にも会社の人たちにも会えるし、ゆっぴとデートできるし、コンビニスイーツを食べる日々が帰ってくる。そのためなら悪魔に魂を売るなんて安い買い物だ。売る側なのに買い物と形容していいのか、日本語が難しいところだが。


「だいじょぶじょぶ! うちらいつでも帰れるからさ。それまで、ほら」


 ゆっぴのキラキラなネイルの指が、私に向かって差し出された。


「一緒に行こ。どこまでも、あたしたちだけの世界!」


 そんな悠長な状況ではないのに。

 だけれど私は、彼女となら全てがなんとかなるような気がして。その手を取って、立ち上がった。


「どこ行こっか」


「まずはコンビニっしょ、目の前にあるし。ふたりならスイーツ食べ放題じゃん」


「あるけど建物のオブジェクトにすぎないの。中身はない。私の部屋も真っ白な亜空間みたいになってた」


「えー、無理なんですけど。じゃあどこ行ってもつまんないじゃん」


 そう言って笑うゆっぴは、なにもなくても楽しそうだった。私も今は、案外楽しい。ひとりぼっちが長かったからか、輪をかけてゆっぴが愛おしい。


 私たちは宛もなく、見慣れた知らない街を歩き出した。どこまでもなにもなく、誰もいない。ゆっぴの声がいつもより近く感じる。

 無音の世界の中、私は宙人くんの言葉を思い出した。


「宙人くんは『安全』って言ってるけど、本当かどうか定かじゃない。宙人くん以外の宇宙人は、他の星の生き物をぞんざいに扱う場合もあるみたい。だから私たちが脱出しようとしてるのを、宙人くん以外の宇宙人に見つかったらどんな目に遭うか分からないよ」


「おおっ? じゃ、流石のみことっちも死ぬかもしれない?」


「とにかく、危険なのは理解してね。ゆっぴだってどうなるか分からないんだからね。相手は宇宙人だよ」


 悪魔も相当厄介だったが、同じ地球の思考が通じるからまだマシだ。宇宙人は、それすら超えて行動を読めない。ゆっぴは面倒くさそうに頷いた。


「はいはーい。ま、そんなにビビらんで大丈夫っしょ」


 こんなときでも、ゆっぴは楽天的だ。この緊張感のなさは恐ろしくもあるが、同時に私も脱力して、少し冷静になれる。


 家から駅周辺を歩き回ってはいるが、今のところ宙人くん以外の宇宙人どころか、他の生物に遭遇していない。見慣れた景色の中、私とゆっぴだけが生きている。

 もしも世界が終焉して、私と彼女ふたりだけが生き残ってしまったら、こんな感じなのだろうか。なんて、くだらないことを考える。


 ふと、私は地球でのゆっぴとの会話を思い出した。


「ゆっぴ、ライブだかなんだったかで魔界に行ってたんだよね。宙人くんが私の家に行った頃にはもう帰ってきてたんだね」


 自分がどれくらいの時間ここに拘束されているのか、感覚はとっくに麻痺した。でも少なくとも、ゆっぴがライブ鑑賞を終えて帰ってくるくらいの時間はここにいる。

 ゆっぴは髪の毛を指先で弄びつつ、平坦な口調で言った。


「うん。ライブから帰って四日くらいかな」


「へ!?」


 これには耳を疑った。


「流石にそんなに経ってないでしょ。正確な情報が欲しいんだから、冗談はやめ……」


 途中まで言って、そこで止めた。私は家の近所の公園から知らない市まで、徒歩で散策していたのだ。空が動かないからどれくらい時間が経ったのか感覚がなかったが、移動距離を考えると、一日以上経っていてもあながち不自然ではない。それによく考えたら、宙人くんからここに連れてこられて目を覚ますまで、どれくらいの時間眠っていたかも定かではない。


「いや、そんなまさか……四日も水なしで暮らしてたら、こんなに歩けない」


 空腹感はあるが、それも「ちょっとお腹が空いてきた」程度である。四日に渡る断食のダメージにしては弱すぎる。

 混乱する私に、ゆっぴは小首を傾げて続けた。


「ふざけてないし。マジでガチだし。魔界のライブでめちゃ盛れてるチェキ撮れたからみことっちに見てほしくて、あたしずーっと待ってた」


「……そんな」


「次の日くらいにハルルが帰ってきてさ。みことっちがいないの心配して、捜索願出すとか言ってたな。んで、あたしがこっち来る前なんてみことっちの会社の人が訪ねてきたりとか。なんかいろいろヤバヤバだったー」


「会社の人! そうだよね、四日も経ってるなら二日無断欠勤してるよね、うわ……どうしよう」


 一気に血の気が引いた。宇宙人に攫われたよりも二日間の無断欠勤の方が、生々しい分、現実的な不安に駆られる。ゆっぴは軽い足取りで、私の少し先を歩いていた。


「みことっちウケる! 地球の外にいても会社の心配してるとかどんだけ働くの好きなん?」


 それから彼女は、くるりとこちらに顔を向けた。


「てかさ、みことっち四日もこのなんもないとこで過ごしてたんのすごくね? 飽きない?」


「なにもないから飽きたといえば飽きたけど、散策するところも調べることもたくさんあるから……」


 でも、と私は頭を抱えた。


「なにも食べてないし水もない。ずっとさまよってたから、多少休憩したくらいで寝てもいない……私、なんで生きてるの……?」


 流石に、異常だ。

 いくらこの場所が地球の環境とそっくりだとしても、私の体までも、なにもなくても生きられるように変わったわけではないはずだ。死なないにしても、せめてもっと衰弱してないとおかしい。ゆっぴがこちらを眺めて、後ろ歩きする。


「みことっち、死にそうになるのを何度も回避してるけどさあ。流石にここまで死なないのおかしくね? 運良く死ななかったとか、そういうレベルじゃなくね?」


「私もそう思う」


「最強すぎ。マジでなんで死なないの?」


 聞かれても答えられない。無言で下を向いて歩く。やがて私たちは、家の近くの公園に辿り着いた。広い場所はのびのびできるのか、ゆっぴが翼を広げて軽やかに弾んでいる。

 私は彼女の後を追いつつ、周囲を見渡した。相変わらずこの場所にはなんの変化もない。風も吹かないし、なんの音もしない。


 ゆっぴは半分浮いた不思議な歩き方で、緑地の方へと探索へ行く。私もついて行こうとして、ふと、地面に少し、砂のえぐれた跡を見つけた。あそこはたしか、宙人くんが絵を描いていた場所だ。


 興味本位で近づいてみると、砂を擦って絵を消したような跡が残っているのに気づいた。そういえば、宙人くんは牛らしき絵を描いて私が近づく前に消してしまったのだった。

 いや、宙人くんが絵を描いていたのは地球にあるオリジナルの公園の方だ。ここはコピーなのだから、同じ跡があるのはなんだか妙だ。

 その擦れた砂に、なにげなく手を重ねてみる。跡をなぞるように手を動かしてみて、どきりとした。

 手のひらに砂が吸い付くような、奇妙な感触がある。気持ち悪くて、咄嗟に手を引っ込めた。


 直感的に思った。この跡にはなにかのヒントだ。

 でもそこから先が分からなくて考えていると、ゆっぴの声が聞こえてきた。


「みことっちー! ヤバヤバ! 見てー!」


 なにを遊んでいるのやら。と、顔を上げて、私はぎょっと絶句した。

 緑地の方から楽しげに笑いながら走ってくるゆっぴと、その後ろにぞろぞろとついてくる、不気味な生き物たち。人っぽいものもいるし魚っぽいものもいるし、形容しがたい液状のどろどろしたものが空中を浮いてもいる。それがぱっと見えるだけで十体ほど、いや、緑地の木々の向こうからまだ湧いてくる。


「なに連れてきたの!?」


 愕然とする私に対し、ゆっぴは危機感がない。


「分からん! なんか緑地歩いてたら、これがぞろぞろ出てきてあたしについてきた! マジパリピすぎるウケるんだけど」


「ウケないよ!」


 結構長くこの場所を散策しているが、生物には遭遇しなかった。それなのに、こんなにたくさんの生物、一体どこに潜んでいたというのか。

 でも、ゆっぴを追いかける化け物たちは、どうも意思疎通ができそうな様子はない。少なくとも地球から集められた生物ではなさそうだ。

 凍りつく私の背中に、少年の声が響いた。


「深琴お姉ちゃん、ゆっぴお姉ちゃん! こっち!」


 振り向くと、小さな少年……宙人くんが、数メートル向こうで手招きしていた。私は咄嗟にゆっぴの腕を引き、宙人くんの方へと駆け出した。

 宙人くんは公園を駆け抜け、砂場を乗り越え、その向こうの植え込みを飛び越えた。私も無我夢中で植え込みに足を踏み入れる。鋭く尖った枝が、容赦なく脚に突き刺さる。

 私とゆっぴが植え込みを越えるのを見届けると、宙人くんはさらにその向こう、公園を囲う緑地を駆け出した。私たちの背後からは、同じく植え込みを乗り越えて謎の生き物たちが追ってきている。

 それらの様子をちらりと見、宙人くんが呟く。


「ゲートが開いてたから、変だなと思ったんだ。いつから侵入されてたんだろう」


「宙人くん、あれはなに? 宇宙人?」


 私は混乱気味に訊ねた。宙人くんが草木を踏む音がする。


「僕の星の仲間だよ。仲間であり、敵だ。僕が集めた他の星の生物データを横取りにしに来てるの。たまにいるんだ、そういうルール違反を犯す奴が!」


 宙人くんは見た目どおり拗ねた子供みたいな口調で、走りながら怒った。


「僕のこの、地球をコピーした基地は、公園に鍵があるんだ。通常はその鍵をかけて、外とのやりとりを一切遮断するんだけどね。あるポイントに触れると、他の基地や船の外に繋がる外部リンクが開放される仕組みになってるんだ」


 宙人くんの説明によると、どうやら公園の中にあるポイントが、この「秘密基地」と外部のリンクを繋げたり断ったりする鍵になっているという。宙人くんは外へ出かけるとき、基地を守るため鍵をかけて出ていくそうだが、今回なんらかのきっかけでその鍵が開いたらしく、外から宙人くんのライバルが流れ込んできてしまったそうだ。

 そしてその者たちの目的は、宙人くんが回収した地球の生物のサンプル。即ち、私とゆっぴである。


「宙人くんの仲間ってたしか、サンプルを容赦なく解剖するとか言ってなかった!?」


「うん。地球の生物はまだまだ謎が多い。みんな、いち早くふたりを調べて手柄が欲しいんだよ。もう、僕は時間をかけてじっくり調べるつもりだったのに!」


 宙人くんの甲高い声が、木々の隙間に響く。

 最悪だ。元から充分厄介な状況だったのに、さらに悪化した。なんでこんなことになるのか。

 公園の中に基地と外とを繋ぐ鍵があったというが、そんなもの知らない。命懸けの鬼ごっこがいきなり始まるなど、たまったものではない。

 と思ったが、途中でもしかして、と思い当たった。宙人くんが絵を消した、砂の擦れた地面。あの辺を触ったときの異様な感触を思い出し、もしやと首を捻る。


「鍵、開けたの私かも」


「それは責めないよ。どっちにしろ、開いてるからって他人の基地に勝手に入ってきて荒らす輩がいちばん悪い!」


 宙人くんが強気に言いきると、なぜかゆっぴも加勢した。


「そうだそうだー! 防犯意識が低いより、空き巣する奴が罪だよ!」


 ゆっぴが翼をパタパタさせ、後ろに顔を向ける。


「しかもなんか数増えてるくね?」


 彼女のひと言で、私も振り向いた。押し寄せる化け物たちは、先程よりさらに数倍に増えている。


「僕が地球の生物の回収に成功したのがバレたからね。情報が広がっていくにつれてさらに集まってきたんだ。地球の生物は価値が高いから、お姉ちゃんたちふたりはすごく貴重なんだよ」


「へー、うちら大人気なん?」


 ゆっぴが悠長に聞く。宙人くんは大真面目に返した。


「うん。地球の生物は持ち帰りが難しくて、こうしてきれいな状態で捕獲・保管できるケースはすごく珍しいんだよ」


 緑地が続いている。この緑地はこんなに広かっただろうか。公園を囲んでいるだけで大した範囲ではなかったはずだが、明らかにそれ以上の道程を走っている気がする。背後を追ってくる化け物との距離は、縮まってきている。


「宙人くん、これ、どこに向かってるの?」


 焦燥半分に聞いてみる。宙人くんは少しの無言ののち、はっきりと言った。


「地球」


「……え? 地球? 帰れるの?」


 都合のいい聞き間違えかと思ったが、どうやら間違いないみたいだ。宙人くんは、顔をこちらに向けて繰り返した。


「地球だよ。本当は帰したくないけど、こうなったらもう仕方ない。大好きな深琴お姉ちゃんとゆっぴお姉ちゃんが、後ろから来てるあいつらの手に渡るくらいなら、僕はサンプルもポイントも評価も全部諦める」


 最後の方は、自嘲気味な笑いを含んでいた。


「僕は僕の意志を貫くんだ。大事なサンプル……ううん、大事な友達を傷つけられないために、地球と仲良くやっていくために、ふたりには地球に戻ってもらう」


 ぽかんとする私に背を向け、宙人くんはぽつりと付け足した。


「深琴お姉ちゃんが褒めてくれたのは、僕のそういうところだから」


 私はこの子に捕まって良かったと思った。

 いや、こんなことを思うのはおかしいが、たとえ宇宙人でもこれほど心の通じる子だったのは本当に幸いだった。

 延々と続く緑地を駆け抜け、緑の木の葉の隙間を木漏れ日が煌めく。眩しくて、網膜が焼けそうだ。

 宙人くんの後ろ頭が言った。


「この緑地、やけに長いでしょ。実はもう既に基地を出てるんだ。今、ワームホールを抜けてる最中だよ。鍵が開いている状態で直線距離を一定速度以上で移動することで、こうして基地と外部を繋ぐ通路に入れるんだ」


 頭がくらくらしてきた。思えばここへ連れ出されるときも、こうして意識が遠のいたのだった。あのときと同じ、熱中症に倒れるみたいな感覚が脳と体を支配していく。

 と、宙人くんが立ち止まった。


「ここからが本番。深琴お姉ちゃん、ゆっぴお姉ちゃん。死なないように気をつけて」


「死な……えっ!?」


 ぐらつく頭で、宙人くんの言葉を聞き返す。宙人くんは早口に告げた。


「今から、僕らの船から地球へ移動するにかかる全ての負荷が、一瞬のうちにのしかかってくる。一瞬で地球に着陸する代わりに、光を超えるスピードで飛んで、大気圏を突破する。そのためにふたりの身体を一時的に光の粒子に変換する。それらのダメージがまとめて一気に体を襲う」


 頭が働かなくて、宙人くんの説明が入ってこない。


「地球の生物の回収が難しいのは、このせいなんだ。大抵みんな、ここで粒子が霧散して死んでしまう。深琴お姉ちゃんは意識が飛んだだけ、ゆっぴお姉ちゃんはノーダメージで突破できたけど、これは本当に例外的で奇跡的だったの」


「マジ!? あたし最強じゃん、やば! 悪魔だからかなー?」


 ゆっぴの明るい声が、私の溶けた脳に妙に響く。


「みことっちもすごいよね! 真人間なのに無事だったなんてさ」


「でも一度目は気を失うだけで済んだけど、帰りも成功するとは限らないからね?」


 宙人くんの声が遠く聞こえる。それに返すゆっぴの明るい声も、同じく遠のいていた。


「みことっちはねえ、なにしても全然死なないから今回もどうせ死なないっしょ!」


 私はぼうっとしているなりに、質問を絞り出した。


「地球に……帰れる、の?」


「死ななければね」


 このやりとりを最後に、私の意識は完全に途絶えた。


 *


 蝉の声がする。痛む頭にガンガン響いて、心地悪い。汗ばんだシャツも気持ち悪くて、最悪の目覚めだった。薄く目を開けると、夕方の真っ赤な空が私を見下ろしていた。眩しくて、もう一度目を閉じる。

 また眠りかけた私を、ゆっぴの声が邪魔をする。


「あ、起きた。みことっちー、こんなところに寝てると腰痛くなるよ」


 彼女の甲高い声が頭を痛くする。改めて目を開け、急に覚醒した。


「ここは!?」


 飛び起きると、ズキズキしていた頭に衝撃が走って即蹲った。横には膝を抱えたゆっぴがいる。


「公園!」


「公園……? えっと、宇宙船の中のコピーされた世界の……」


 私がむにゃむにゃと口をつくと、ゆっぴは笑いながら首を横に振った。


「なに言ってるー? 普通に地球だし」


「あれ……?」


 額を押えて、周りを見渡した。視界には緑地に囲まれた公園が広がる。隠れんぼしている子供たちが、「みいつけた」などと大声を上げ、赤く燃える空には黒い鳥の影が通り過ぎていく。私はその端っこ、砂の地面に横たわっていた。

 間違いない、よく知っている、アパートの近所の公園だ。


「本物?」


「本物だよ。どしたん、みことっち」


 ゆっぴがきょとんとしている。彼女はまるで宇宙規模の不思議な体験なんてなにも知らないみたいに、普段どおりの面持ちだ。

 ひょっとして私は、夢でも見ていたのだろうか。


「……なんでもない。なんで私、こんなところで寝てたんだろ。帰ろっか」


 日の沈みかけた夏の夕暮れに、黒っぽい影になった雲がのんびり流れている。立ち上がると、頬に触れた少し風が冷たかった。

 涼風に冷やされると、だんだん冷静になってきた。夢で当たり前だ。宇宙人に連れ去られて地球そっくりだけれど全てが違う場所で、何日もさまよっていたなんてありえない。すごく変な夢だった。多分、熱中症で倒れて魘されていたのだ。なんだか小腹が空いたし、帰って夕飯にしよう。

 ゆっぴは背中で手を組んで、軽やかに足を踏み出した。


「てかみことっち、やっぱり死なずに無事に宇宙から帰ってきたよね。ヤバヤバのつよつよじゃーん」


 夢だと思おうとした途端、これだ。絶句する私を横目に、ゆっぴは続けた。


「あたしは悪魔だからともかくとして、みことっちは人間のくせにマジ強すぎてワロ。あ、会社に電話しときなよー? また押しかけてくるとウザイから」


「あー……うん」


 会社には、なんて説明しようか。体調不良でいいか。私にだってよく分からないのだし。

 赤く燃える空を見上げて、伸びをする。飛んでいる鳥の影のさらに向こうで、なにかがきらっと光る。一瞬それが宇宙船のようにも見えた気がしたが、多分普通の飛行機だろう。そうであってくれ。

 空と同じ色をしたゆっぴの瞳が、私を振り向く。


「宇宙、つまんなかったけど楽しかったね」


「怖くなかった?」


「怖くはないよ。怖くはないけど、ドキドキした」


 ゆっぴは柔らかに目を細め、そして顔を背けた。


「本当の本当に、みことっちとふたりきりの世界だったね」


 それは、私も同感だ。

 ゼンマイが切れて停止したような世界を、君をふたりだけで歩いた、あの時間。それは恐怖や焦燥とは違う胸の高鳴りで。今思うと、あの場で死んでも良かったかもしれない。でもゆっぴをひとりぼっちで残してしまうのは嫌だな。


 アパートへ向かっていく私の背中に、公園で遊ぶ子供たちの歓声が届いてくる。

 盛り上がる子供たちの声の中に、どこか聞き覚えのある甘い声が混じった。


「ねえ、僕も隠れんぼ、混ぜて」


「いいよー!」


「ありがとう! じゃあさ、」


 そのかわいらしい少年の声が、あどけなく笑う。


「僕の『秘密基地』で遊ぼう」

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