Ep.6・アフターザ・レイン

 五月下旬。この頃、雨が多くなってきた。この日曜日も、朝からずっと雨である。そんな昼下がり、ゆっぴが部屋の中で突っ伏していた。


「もう雨ばっかでマジサゲなんですけど。翼湿気るじゃんマジウザイ」


 彼女は雨の日は悉く不機嫌である。


「折角みことっちお休みなのに、どこにも遊びに行けないし、ジメジメしてるし、みことっちは望み言ってくれないし」


「私が望みを言わないのは晴れてても同じじゃない?」


 私は壁に背中を預けて、会社で貰った地元の情報誌を捲っていた。

 ゆっぴが寝返りを打つ。


「にしても、みことっちの死ななさ加減、流石に異常すぎっしょ」


「ね。そろそろ、自分でもそう思うよ」


 昨日、私は職場の屋上の掃除をしていて、うっかり足を滑らせて落っこちた。五階建てビルの屋上から落ちたというのに、私は運良く死ななかったどころか無傷だった。流石に自分でも驚いたが、二十三年も死を躱し続けただけはあるなと我ながら感心する。


 どうしてこんなに死なないのか、私自身も不思議になってきた。ゆっぴは仰向けになって翼を背中で押し潰し、彼女は不機嫌な声で言った。


「前にさ、『死なない人間もいるのか、死神大先生に聞いてみる』って言ったしょ。あれ、こないだマジに行ってきた。死神大先生のとこ言って質問タイムしてきたわ」


 そういえば以前、ゆっぴはそんなことを口走っていた。


「おお、どうだった?」


 好奇心半ばで聞いてみると、ゆっぴは急に、鼻にかかった声で舌っ足らずな口調になった。


「はあ? 死なねー人間? んなもんいるわけねーだろバァーカ」


 そして、ふうとため息をつく。


「って、言われた」


「今の、『死神大先生』の物真似?」


「うん」


「そういう喋り方なんだ」


 死神大先生なる存在の声色や態度はさておき、やはり「死なない人間」などいないようだ。とあれば、私はやはり運悪く死にかけるわりに運良く死なない、そういう運命にあるらしい。

 ゆっぴが投げやりな声を出す。


「あ、あと、『俺も地上にバカンス行きてーなー』ってボヤいてたよ。あたしはバカンスじゃなくて仕事だっつの。失礼しちゃうな」


 雨の音に混じって、私が捲る地元情報誌の紙の音が静かに響く。新規オープンした雑貨店のインタビュー記事のページを開いているが、意識は上の空でまともに読んではいない。

 ゆっぴが窓に顔を向け、唸る。


「雨止まねーしサゲサゲのサゲすぎて無理」


「まあ、暇だよね」


 正直私も、この雨にはうんざりしている。情報誌を見ているのも興味があるからではなく、ただ暇だから開いているだけだ。パラパラと捲っていると、ふと、あるページが目に止まった。


「あっ。ここから徒歩五分のコンビニ、雨の日はスイーツ半額キャンペーン中だって。梅雨の時期限定で」


「はあ!? やば! ブチアゲなんだけど!?」


 つい数秒前までサゲサゲのサゲだったゆっぴが、一気に興奮して勢いよく飛び上がった。弾かれたようにこちらに飛びついてきて、私の持つ情報誌を覗き込んでくる。私が記事を指さすと、ゆっぴはぱあっと翼を広げた。


「天才の所業!」


 *


 雨の日は翼が湿気る、と、ゆっぴは言っていた。それでも彼女は、チャームポイントの翼を畳んで背中に隠し、傘の下を歩いていた。嫌いな雨の中へと繰り出すほど、彼女はコンビニの半額スイーツに惹き付けられている。


「本当は飛ぶ方が速いんだけどね。雨の中だと濡れるからさ」


 透明のビニール傘の中で、ゆっぴの横顔が呟く。雨の音が鼓膜を擽る。私は降り注ぐ雨粒で霞んだ視界に、じっと目を凝らした。


「晴れててもあんまり飛ばないでよ。小春も言ってたけど、地上の人間は飛んでる人を見るとびっくりするからね。ところで……」


 吹き込んでくる雨が、傘の中の私たちを濡らす。傘の柄は、私が握っていた。


「傘、一本しかないのにふたりで出かける必要あった?」


 ひとり暮らしの私の家には、傘は自分用ひとつしかない。会社に置き傘があるけれど、部屋に置いているのはこれだけなのだ。だったら一方がもう一方の注文を聞いて、ひとりで出かけて買ってくればいいと思うのだが、ゆっぴがそれを許さなかったのである。


「スイーツは実物見て自分で選びたいじゃん!」


「私はそこまではこだわらないけど……」


「チョコプリンの気分だったとしても棚に並んでるのを見たら急にミルクレープ食べたくなることあるでしょうが!」


「あるけどさあ」


 ゆっぴと相合い傘できるのは、内心ガッツポーズである。しかもゆっぴ自ら申し出てきた。雨の日様々である。

 雨音が断続的に続く中でも、至近距離のゆっぴの声はクリアに耳へ届いてくる。


「それにさ! 雨の中歩くと死ぬチャンス多めじゃね? みことっちっていつ死ぬか分かんないから、あたし、目を離すわけにはいかない」


「気をつけて歩くね」


 そんな会話をしているうちに、コンビニに着いた。軒下に入って傘を畳み、傘立てに差し込む。慌て気味に店内に入り、すぐに扉を閉める。扉で外の音が遮られて、雨音が急に遠のく。

 草臥れた感じの無精髭のおじさん店員が、レジの内側からもごもごと篭った声で言う。


「いらっしゃいませ」


 濡れたロングヘアを指先で弄りながら、ゆっぴはスイーツの並ぶショーケースへと直行した。ケースのあちこちに「雨の日半額」のポップが貼り付けられて、カラフルに目立たせられている。このキャンペーンのお陰だろう、スイーツはだいぶ売れていて、ショーケースの中は隙間だらけだった。

 ゆっぴがプリンやケーキを次々と手に取って、籠の中へ並べていく。


「これと、これと、これもおいしそう」


「全部買うの?」


 目を剥く私に、ゆっぴは平然と頷く。


「だって半額だよ。みことっちもいっぱい買おうよ」


「ついこの間までダイエットしてたの知ってるでしょ」


「だからこその解禁祝いっしょ」


「意味ないじゃない」


 私はゆっぴの籠の中のスイーツたちに目を落とした。たしかに半額キャンペーンは魅力的だが、一度にこんなに買ったら今度こそ自制心を失ってしまう。こんなところで悪魔に心を売ってはいけない。頑なに買おうとするゆっぴに、私は提案した。


「じゃあゆっぴ。これから、このキャンペーン中は雨が降ったら買いに来るなんてどう?」


 途端に、ゆっぴの顔がくるんとこちらに向いた。


「雨の度に? それってほぼ毎日スイーツ買いに来れるってことじゃね!?」


「そうだね、毎日のように雨降るもんね。とすると、一度に一気に買ったら明日以降飽きちゃうよ?」


 そう諭すと、彼女は目から鱗な顔で数秒停止し、ハッとして籠の中のスイーツと睨めっこをはじめた。


「ええー、じゃあ今日はどれにしよう……どれを諦める……? 諦めても明日以降に回すだけだけども」


 ゆっぴの説得に成功した。私はほっと息をつき、改めて並んでいる商品にひととおり目を通した。並んでいる商品はどれもおいしそうで、ひとつに絞るのがなかなか難しい。ゆっぴみたいに贅沢な買い方をしたくなるのも分かる。

 その中で私は、ベリーのソースがかかった小さなチョコレートケーキを選んだ。


「ほお、それにするん?」


 ゆっぴが顔を寄せてくる。私はケーキのパッケージをじっくり眺めた。


「これ、紅里くんがおいしいって言ってた」


「あー、あいつコンビニスイーツ大好きだもんね」


 ゆっぴが妙に納得している。

 紅里くんと初めてあった日も、彼は昼休みにコンビニへ行ってプリンを買ってきてくれた。どうやらそういうお菓子が好きらしく、毎日のようにコンビニスイーツを持ってきている。そんな彼のおすすめのケーキなので、間違いなさそうである。

 ゆっぴもよし、と口に出して同じケーキを手に取る。


「アカリンのお眼鏡にかなったケーキ、あたしも食べてやろうじゃん」


 私たちはやっと意思を決め、ふたつのケーキをレジに持っていった。空いている店内ではレジに列はなく、無精髭の店員にすぐに会計をしてもらえた。

 袋に入れてもらったケーキを提げ、店を出る。背中に店員の眠たげな挨拶が聞こえた。


 再び雨の中を歩き、自宅アパートへと戻る。


「ただいま」


 扉を開けながら癖で呟く私と、ぱたぱたと上がっていくゆっぴ。


「はよ食べよ!」


「待って、髪濡れてる。タオルで拭いて、あとおやつの前に手を洗ってからにしようね」


 傘を差していても結構濡れてしまった。私は風呂場に寄り道してタオルを二枚取り、片方をゆっぴに差し出した。

 濡れた体を拭き、タオルを首にひっかけて、買ってきたケーキを早速開ける。おやつタイムが始まった。

 パッケージを回して、表記されたカロリーを見て、ひっと息を呑む。だがあまり神経質になるとおいしいお菓子に失礼なので考えないことにした。

 ゆっぴはタオルを頭に引っ掛けるようにして被り、ケーキのひと欠片を口に運んだ。


「おいしい! これ半額とか最強すぎる」


 私も、ケーキのパッケージを開けた。中のチョコレートケーキは、小ぶりながらもぎっしりした質感で、チョコレートクリームのマットなコーティングときらきらのベリーソースが美しい。きれいなケーキにフォークを入れる瞬間は、積もった雪に初めて足跡をつけるときに似た気持ちになる。小さく削ったひと口を頬張る。


「わっ、おいしいね」


 こっくりしたチョコレートの深みと仄かなほろ苦さ、そこに甘酸っぱいベリーのソースが絡んでいる。ゆっぴも満足げに舌鼓を打っていた。


「スイーツしか勝たん! 明日も買おう」


 ゆっぴが尻尾の先をふりふりと揺らす。私はケーキにフォークを差し込み、苦笑いした。


「明日雨が降ったらね」


「あーあ。雨、降らないかな」


 ゆっぴが窓の外を仰ぐ。少し前まで雨は嫌いだと不貞腐れていたくせに、現金なものである。でも、私もちょっと、同じことを思った。


 *


 翌日、また雨が降った。朝は晴れていたけれど、午後からぱらぱらと霧のように降り出すタイプの雨模様だった。降るだろうとは予想していたので、傘を持って出かけて正解だった。

 仕事から帰ってきた私が部屋の扉を開ける前に、ゆっぴが先回りして開けてきた。


「おかえり! みことっち、コンビニ行こ!」


「え? ああ、半額キャンペーンか」


 畳んだばかりの私の傘を、ゆっぴが横から奪って勢いよく開く。


「行くべ! 昨日のチョコケーキ、また食べたい」


「同じのにするの? 昨日最後まで迷ってたプリンは?」


「そうだった、それも食べたい!」


 雨が降る町を、一本の傘にふたりで歩いていく。雨音の中のゆっぴの声は、昨日以上に弾んで聞こえた。

 ぼんやりとそんなことを考えていると、ゆっぴが私の横で甲高い声を跳ねさせた。


「あっ、みことっち!」


 え、と思ったときには、私の体は突き飛ばされていた。思考が止まる。止まっているなりに、衝撃を受けた方向に目を向ける。歩道に乗り上げた大きなトラック。私の手を離れて、遠くへ飛んでいく傘。しっとりと体にしみていく冷たい雨。

 私は歩道の隅っこに吹っ飛んで、転がり、寝そべったまましばらく起き上がれなかった。


「みことっちー!」


 ゆっぴの声が雨音に霞む。トラックのドライバーが運転席から降りてくる。雨のせいで顔がよく見えないが、慌てているのは分かる。

 私は、痛む体を軋ませてのっそり起き上がった。


「びっくりしたー……」


「うおっ、生きてる系?」


 雨の向こうでゆっぴが顔を顰める。私はびしょ濡れの体を軽く見渡した。どこも痛くない。突然の出来事に驚いたけれど、それだけだ。トラックのドライバーが青い顔で駆け寄ってくる。


「すみません、タイヤがスリップして! お怪我は……!?」


「いえ、どこも」


「ひとまず良かった。すぐ救急車を呼びます」


 ドライバーが雨の中で携帯を取り出すも、ゆっぴが私の腕をぐいぐい引く。


「死んでないんだからいーんじゃね? それよりスイーツ! 売り切れちゃう!」


「えー……私、今トラックにはねられたんだけど。でも、たしかにスイーツの方が大事か」


 私は立ち上がり、ドライバーに一礼した。


「すみません、大丈夫なので。お兄さんもお気をつけて」


「えっ、ええっ!?」


 ドライバーが困惑しているのを置き去りにして、傘を拾い、ゆっぴに引きずられるようにコンビニへ向かった。

 コンビニに到着してから思ったのだが、事故に遭ったときは例えその場で痛みがなくても病院に行くのが決まりである。でもドライバーの連絡先も聞いていないし、多分私は簡単には死なない気がするし、まあいっかと開き直る。


 一度傘を手放してしまったせいで、私もゆっぴもずぶ濡れである。外で服の裾を絞ってから入店したが、それでも床がびしょびしょになる。掃除をしていた無精髭の店員が、私たちの姿を見てぎょっと目を丸くする。お尻のポケットから覗く羽根のハタキが、ちょっとかわいい。


 ゆっぴはスイーツのコーナーに直行し、私はサンドイッチの棚に寄り道した。ついでだから、夕飯もここで買ってしまおうと思う。

 無精髭のおじさんの他に、レジには学生バイトと思しき若い女性店員がいる。店内を見渡してもあまり客はおらず、静かだった。

 そんな中、ゆっぴの甲高い声がやけに響く。


「わー、どれにしよう!」


「チョコレートケーキかプリンか?」


 サンドイッチを片手に、ゆっぴのいるスイーツのコーナーに向かう。ゆっぴは真剣な顔でスイーツを見比べていた。


「チョコレートケーキかプリンか、シュークリームかミルクレープか……」


「選択肢増えてるね」


「見たら全部食べたくなった。でもー、でもー、ここで全部買ったら、明日以降の楽しみが……」


 ゆっぴは大真面目に頭を抱え、そしてぽんと手を叩く。


「おいしいものは毎日食べたっておいしいんだから、雨の日の度に欲しいもの全部買えばいいのでは?」


 そしてもう一度手を叩く。


「なんなら晴れの日でも買えばいいのでは? そうだ、みことっち。『雨の日にどれかひとつ』というのはあたしたちが決めたルールにすぎない。無視しても良いのでは!?」


 一瞬「たしかに、好きなだけ買えばいい」と納得してしまった。しかし我に返り、自制心を働かせる。ゆっぴの悪魔の囁きに負けてはいけない。


「こらこら、ルール違反だよ」


「そう言わず。今日はみことっちに、トラックに轢かれて散々だったんだしさ。ちょっとくらい特別にスイーツ十個ずつくらい買っても良くね?」


「ゆっぴは轢かれてないよね? それに私はまだ、茉莉花さんを目指してるんだよ。ダイエットらしいダイエットはやめたけど、目標が変わったわけじゃない。食べ過ぎは良くない」


「みことっちはもっと自分に甘くなろうよ」


 ゆっぴがしつこい。たしかに私は、小春からも「我慢しすぎ」と言われていた。でも、あの頃の私は疲れきって甘え方を忘れていたのであって、今の私の我慢とは違う。


「なんと言われようと私はひとつに絞る! このクリームチーズのプリンに決めた」


 プリンを掴んで籠に入れると、ゆっぴが裏返った声で叫んだ。


「あーっ! それ、あたしも迷ってたやつ!」


「じゃあひと口あげる」


「やった! ほいじゃ、みことっちにもあたしのひと口あげんね。どれがいい?」


 このなにげないやりとりが「恋人とのひととき」っぽくて、幸せだなあと思った。

 その日は私がプリン、ゆっぴはシュークリームに決めて、加えて夕飯のサンドイッチを買って、店を後にした。帰る頃には、トラックとの衝突事故なんかすっかり忘れていたのだった。


 *


 その翌日は、久しぶりに晴れた。朝出かける前の私の後ろで、ゆっぴが不服そうに窓の外を睨んでいる。


「雨降れし。今日はきなこわらび餅食べる予定なんだから降れし」


 あんなに雨を嫌がっていたくせに、わがままである。でも気持ちは分かる。雨が億劫でありながら楽しみでもあるのは、私も同じだ。


「そうだなあ、今日は夕飯も作り置きを食べればいいし。コンビニに行く理由がないなあ」


「てか定価で買えば良くない? きなこわらび餅買おうよ、みことっち!」


「いやいや、私はまだ茉莉花さんみたいになるのを諦めてないって何度も……」


 ああでも。今日は昨日から持ち越した面倒な仕事を抱えている。今日が忙しい日になるのは、朝の時点から判明しているのだ。なにか楽しみがないとやる気が出ない。コンビニに向かってゆっぴの隣を歩く、あの短い時間に詰まった幸せが恋しい。

 鞄を手に提げて、私はぽつりと言った。


「ご褒美デーということで……」


「よっしゃ来たー!」


 ゆっぴは飛び跳ねて喜んで、羽ばたいて浮いて宙返りまでした。我ながら、自分にもゆっぴにも甘い。でも、その分仕事を頑張れば良いのだ。自分にそう言い聞かせ、私は家を出た。


 *


 その翌日は文句なしの土砂降りだった。逆にコンビニに行くのが危険なのではないかと尻込みするほどの大粒の雨で、風も強い。今日はお休みするつもりだったが、当然、ゆっぴがそれを許さない。


「大雨なんだからスイーツでしょ!?」


「そうだけども、この雨じゃ外歩くの危ないよ」


「大丈夫だって、みことっち死なないじゃん」


 ゆっぴがあまりに騒ぐので、根負けした私は傘を広げた。ゆっぴと共にコンビニへ向かう。

 こんな習慣ができたのに、ゆっぴは自分用の傘を用意したりはしない。私も用意しない。傘は相変わらず一本だけ。傘の中という狭い空間は、雨に閉ざされたふたりだけの世界のようで、肩同士がぶつかる距離が心地よかった。


「ミルクレープもいいけど、あのチョコケーキも捨てがたいな」


「今回はミルクレープにするんじゃなかったの?」


 ゆっぴと取り留めのない話をしながら、短い道を歩く。大雨の中、無事にコンビニに着いた。傘立てに傘を突っ込んで、自動ドアを開ける。無精髭の店員が、眠たそうに仕出ししている。レジにはもうひとり、小柄なおばさん店員が立っていた。

 ゆっぴはスイーツのコーナーに駆け寄ると、きらきらした目で商品を眺めはじめた。


「やば! 今日めっちゃ充実してんじゃん。大雨だから客足遠のいてる的な?」


「ああ、かもしれないね」


 私も彼女の追いかけて、スイーツの列に目をやる。ゆっぴの目的だったミルクレープがある横に、新発売のいちごクリーム大福が増えていた。ゆっぴはすぐさま、ふたつとも手に取った。


「うわー、迷う。迷うくらいなら両方買うか」


「また言ってる……」


 そんなやりとりをしていたときだった。


「動くな!」


 急に、後ろから襟首を引っ張られた。肩を引き寄せられ、背中からがっしりと首を押さえつけられる。

 しばらく、なにが起きたか分からなかった。ただ目の前で、きょとん顔のゆっぴと真っ青になったレジの店員たちが絶句している。

 ちょんと、喉元に冷たいものが触れた。ちらりと目線を下げて確認すると、視界にきらっと、銀色の刃が飛び込んできた。


「えっ、え!?」


 困惑する私の耳元で、男の太い声がした。


「レジの金を全部出せ。今すぐだ」


 動かした目線の先には、サングラスにマスク顔の大柄な男。キャップ帽を被っていて、顔も髪型も年齢層すらも分からない。

 そのとき私はようやく、自分がコンビニ強盗の人質にされたのだと気がついた。

 こういうとき、咄嗟に体が動かないものである。否、がっちりと掴まれて身動ぎもできないし、無理にもがいたら強盗の持つ刃物が喉に当たるから、動けないのだが。

 しばらく、店内に沈黙が流れた。凍った空気を破壊したのは、ゆっぴの声である。


「えっ、み、みことっち」


 途端に、強盗の腕が私を強く締め付ける。


「騒ぐな」


 しょっちゅう死にかける私でも、強盗の人質になるのは初めてだ。驚きのあまり、一周回って冷静でいられる。

 取り押さえられているせいで、首が動かなくて視界が狭い。正面に見えるレジカウンターで、店員のパートのおばさんが凍りついている。私以上に焦燥しているのが分かる。


「あの……今日はオーナーがいなくて……」


「いいから金を出せ!」


 男の腕に一層力が込められた。ぐいっと締め付けられ、喉に刃物の先が触れる。

 パートのおばさんはパニック状態のようで震えて動けない。私の喉から離れない刃、どうにもできずに立ち尽くすゆっぴ。


 ゆっぴは普段見ている表情からは想像できないほど、蒼白な顔で固まっていた。彼女のあんな表情は見たことがない。見たくない。ゆっぴにそんな顔をさせたくない。

 今すぐこの強盗を殴り飛ばして、ゆっぴに駆け寄りたい。そんな衝動に駆られた、その瞬間。


 ふっと、喉に触れる冷たい感触が変わって、尖ったチクリとする痛みを感じなくなった。代わって、やけにふにふにと柔らかいものが喉を擽る。

 カウンターのおばさん店員が、目を丸くして絶句している。ゆっぴも、笑うのをやめて目をぱちくりさせた。

 強盗さえも、素っ頓狂な声を出す。


「……は?」


 なにかが、起きた。でも見えない。


「えっ、なに?」


 首が回らない私だけが、置いていかれている。強盗がふるふると、私の首から刃物「だったもの」を離した。


「な、なんなんだよ、これは!」


 握っていたそれを、前に突き出す。彼の仕草で、私の目にも見えた。

 強盗の右手に握られていたのは、白い花びらにいきいきとした緑色の茎と葉、可憐な一輪花だったのである。

 これには驚いた。この男が握っていたものは、たしかに刃物だったはず。いつの間に白い花に切り替わったというのだろう。

 しばらく固まっていたゆっぴが、再び火がついたみたいに笑い出す。


「やっばー! かわヨ! えっ、やばマジウケるんですけど!」


 そして人差し指を突き立て、私の後ろの強盗、の、さらにその後ろへ投げかけた。


「おじさん、めっちゃユーモアあんね!」


 強盗の腕の力が弱くなっている。私は少し首を回して、自分の背後を確認した。

 後ろには、仕出しをしていた無精髭の店員が、床に尻もちをついている。そして震えながら、こちらに向かって掃除用のハタキを突き出していた。

 彼が真剣な顔で、肩を震わせながら、か細い声で言う。


「お客さんを、離してください……!」


 なにが起きたのかは、未だによく分からない。でも、私の動きを制限する刃物がなくなったのは紛れもない事実だ。

 ゆっぴが腹を抱えて笑いながら、スマホを向けて写真を撮りまくっている。途中で向きを変え、ゆっぴ自身も入るようにインカメラでも撮りはじめた。


「はー、めっちゃ笑う。自撮ろ。これモンスタグラムに上げていい?」


 平常心の彼女を見ていると、私も落ち着いていられる。私は身を捩って、強盗の腕を振り解いた。


「それ、バズるの?」


「バズるっしょ。てかみことっち、コンビニ強盗にまで遭うとかどんだけ死亡リスク高いん!?」


 ゆっぴの切り替えの早さは羨ましい。彼女が笑っていると安心して、体の力が抜ける。

 人質に抜けられた強盗は、しばらく花を握って打ち震えていた。そしてやがて、がくりと膝をつく。


「くそ……俺はどうしてこう、なにをやっても上手くいかないんだ」


 そんな彼に、無精髭の店員が静かに呟く。


「やり方が悪いからですよ。どんな事情があるのかは存じませんが、無関係のお客様を巻き込んで強盗なぞして、人生が上手くいくはずなどないのです」


 強盗にも驚いたけれど、この店員はなんなのか。

 レジカウンターでは相変わらずおばさん店員が惚けていて、私の横ではゆっぴがけらけら笑っていた。


 *


 数日後。いつの間にか雨が降る日が少なくなって、コンビニのキャンペーンも終わってしまった。当然、私たちの日常からも、雨の日のルールは消えた。

 でも、あのコンビニへは今も変わらず出向く。

 仕事帰りに立ち寄った私を、自動ドアが出迎える。


「いらっしゃいませー」


「しゃーせー」


 間延びした声が、ふたつ重なって聞こえた。

 私は店内を見渡した。レジには若い女性店員と、最近入った大学生くらいの外国人の男性がいる。


 無精髭の店員は、あの日以来見なくなった。

 私は彼に、助けてもらったお礼にと、菓子折を持ってこの店を訪れている。しかしそのときにいたオーナーによれば、あの店員は唐突に辞めてしまって、それ以来連絡がつかないとのことだった。

 彼の名前は、妖崎ふざき精一郎せいいちろうさんというそうだ。


 今日もこのコンビニを訪れた私は、無意識的に店を見回し、彼がいないか探してしまっていた。もう辞めてしまったと聞いても、ここに来ればまた会えるような気がしてしまう。とはいえ、いないのが現実だ。私は明日の昼用にパンをふたつ買って、店をあとにした。

 アパートに帰ると、入口で偶然、小春と会った。


「おっ、深琴。お疲れ様。今帰ってきたの?」


「うん、コンビニ寄って帰ってきた」


 部屋が隣同士の私たちは、一緒に階段を上がった。私の手の中で、コンビニの袋がカシャカシャと音を立てる。私は徐に、小春に尋ねた。


「あのさ、小春。ちょっと前まで、近所のコンビニに不思議な人がいたんだけど、知ってる?」


「不思議な人?」


 あの出来事は、未だに消化しきれていない。強盗の握る刃物が、突然、花に変わった。まるでマジックみたいだったが、強盗もびっくりしていた。あれは多分、いや絶対、あのとき後ろにいたあの人が……。

 事情を話したら、小春はまず私が強盗に遭っていたことに驚いたあと、そうね、と続けた。


「その店員、多分あれね。妖精」


「妖精……?」


 あまりに可憐な響きに、耳を疑った。


「いやいや、普通の見た目のおじさんだったよ。妖精って小さくてきらきらしたものじゃないの?」


 そんなまさかと思った。いや、自分の周りに悪魔やらハルピュイアやらがいるから、コンビニバイトに妖精が潜んでいること自体はすんなり受け入れられる。受け入れるのもどうかと思うが。ただあの野暮ったい無精髭の冴えない店員に、「妖精」なんてファンシーな響きがミスマッチな感じがするのだ。小春がさらりと続ける。


「妖精にも種類があるからね。深琴が想像するような小さいものは、所謂ピクシー系。他にもエルフとかドワーフとかゴブリンとか、いろんなのがいるのよ。かわいいものから、悪さをする不気味なやつまで」


 彼女は腕を組み、虚空を見上げた。


「たしかゴブリンの一種に、そういうのがいた気がする。なんか、鳥の羽根で作ったステッキを持ってて、物体を花や葉っぱとすり替える……そんないたずら程度の魔法を使うやつ」


 そういえば、あのときあの人は、鳥の羽根のハタキを持っていた。


「その程度の魔力しか持たないんだけど、魔法を一度使うために百年も魔力を溜めなくちゃならないっていう」


「百年も!?」


「しょぼい魔法しかできないのに、一度使ってしまったら、魔力を使い果たしてしまう。そしたら自分の姿を知る人間から離れて、遠く新しい場所でまた百年魔力を溜め直すんだって」


 頭の中に、数日前のその光景がリアルに蘇る。強盗の持つ刃物が無害な花に変わった、あの奇跡の瞬間。


「じゃあ、あの店員さん、百年もかけて溜めた魔力を、私のために使ってくれたの……?」


「かな。直接会ったわけじゃないし、話したこともないから、定かじゃないけど」


 小春があっさりした口調で言う。

 信じられなかった。彼とはレジで必要最低限の会話をするだけで、特に親しいわけでもない。魔法の力が貴重なものだったのなら、私なんかよりもっと大切な場面で使うべきだったのではないか。

 でも、鳥の羽根のハタキ、刃物が花に変わる魔法、音信不通……妙に辻褄が合う。


 階段を上り終えて、それぞれ部屋の前に着く。小春は部屋のドアノブを捻りつつ、私に目線を投げた。


「なんで私なんか助けたの、って思ってるでしょ」


 頭の中を言い当てられて、どきりとした。強ばる私に、小春はふっと微笑みかける。


「これは私の想像だけどさ。妖精さんも、咄嗟に体が動いたんだと思うよ。きっと優しい人だから、考える間なんてなかったんだよ」


 なるほど。自分の働く店に強盗が押し入った緊急事態だ。慌ててしまったのかもしれない。小春はひとつ、まばたきをした。


「でも、後悔もしてないと思う。妖精といったって、人間に交じって働いていれば人間にと同じ目線に立ってるからさ。毎日買い物に来る深琴を覚えてて、ゆっぴとの会話を聞くの、楽しんでたんじゃないかな」


 コンビニに行くまでの道のりで、死にかけた日があった。そうでなくても私はしょっちゅう死にかける。強盗に人質に取られたのは初めてだったが、死を覚悟するのは初めてではなかった。

 だけれど、そんな私の命を助けるために、百年を投げ打ってくれた人がいた。名前も知らない私のために。

 廊下で立ち尽くしていると、自分の部屋の扉が内側から開いた。


「みことっち、お帰りー!」


 顔を出したのはもちろんゆっぴである。小春が怪訝な顔をするも、ゆっぴは気にしない。


「ねえみことっち、帰ってきたところ早速で悪いんだけど、あたし甘い物食べたい! コンビニ行こ!」


「さっき行ったとこ」


「もっかい行こう。新作スイーツが今日から発売だぞ!」


 ゆっぴは今日も絶好調に、色んな意味で私を誘惑してくる。でも改めて私は、まだ残りふたつの望みを口にはできないと思った。

 私を助けようと、百年に一度の大切なものを使ってくれた人がいる。そう考えると、その先の一分一秒を無駄にできない。


「新作スイーツね。コンビニ、行こっか」


 今日は雨ではない。キャンペーンももう、終わってしまった。特別なご褒美の日はなくなって、普通の日常が帰ってきた。

 それでも私は多分、これからもあのコンビニに通い続けるだろう。

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