Ep.5・レッツ・ライブストイクリー
「みことっち、マージで死なないねー」
ある日の夜。家に帰ってきたら、ゆっぴが床に突っ伏していた。翼をでろんと広げて、尻尾もくたくたに投げ出されている。
「もう一ヶ月見てるけど、すぐ死にそうになるのに死ななすぎ。なんでなにが起こっても死なないの?」
ゆっぴが現れて、あっという間に約一ヶ月。彼女が自宅に侵入しているのはもう慣れた。私は荷物を床に下ろし、夕飯の支度に入った。といっても、コンビニで買ったお弁当を温めるだけだが。
「なんで、か。私も知らないけど、運がいいんじゃない?」
「でも電車に轢かれても死ななかったし。運だけとは思えないんだよなあ。ひょっとして、死なない人間もいるんかな?」
「そんなのいるわけないじゃない。轢かれたけど死ななかったんじゃなくて、運良く電車を避けたんだと思うよ」
「だよねえ。でも一応、無敵の人間はいるのか、死神大先生に確認してみる」
ゆっぴが眉間に皺を作る。電子レンジがピーピーと鳴り出す。私は中から、ほかほかに温まったフライ弁当を取り出した。
死神大先生。前にも、その名前を聞いた。
「死神大先生って、なんなの?」
「名前のとおり死神だよ。現世の人の寿命とか、死因とか、そういうのを管理してる。寿命オーバーのみことっちを放置してるくらいには杜撰な管理だけんね」
ゆっぴのだらけた声を聞きつつ、フライ弁当とお茶を持って、テーブルに着く。弁当の蓋を開け、割り箸を割ると、ゆっぴがもっそり立ち上がった。腕と翼両方で大きく伸びをして、私の横を通り、壁際の戸棚を開ける。中から大袋のチョコレートが出てきた。
「じゃーん! これ買っちゃった! みことっちもごはんのあとで一緒に食べよ!」
「おお、いいね。おいしそう」
個包装された複数種類のチョコレート菓子が、一挙にミックスされている。選ぶ楽しみを味わうもよし、一度に全種類食べるもよし。
今まではお菓子なんて、なかなか買わなかった。でもゆっぴが現れるようになって「自分へのご褒美」としてのアイス、大きなパフェなど、共に楽しんできた。今回も、ファミリーサイズの大袋菓子が、私の心を誘惑する。
ゆっぴは私の向かいに座り直し、チョコレートの袋を開けた。中からいちごチョコを取り出し、口に放り込む。幸せそうに噛み締める顔がかわいくて、私は食事をする手を止めて見とれてしまう。
私の視線に気づいて、ゆっぴは組んだ腕をテーブルに乗せた。
「まーた見てっし。あたしのこと好きすぎじゃん」
「そうだって何度も言ってるでしょ」
そう言って私は視線を外し、白身魚のフライをひと口頬張った。ゆっぴはしばし私を見つめ、やがて下を向いた。
「本当に本当に本当なんだね」
「困る? 怖いなら逃げなよ」
「怖くないしギャルなめんなし。あたしはみことっちの望みを三つ叶えるって決めたから」
吸血鬼の紅里くんの一件で、ゆっぴは私の気持ちが本物であると改めて認識したらしい。戸惑っているくせに律儀に私の元へ来るあたり、いじらしくてやっぱりかわいい。
「小春も紅里くんも、見た目が真人間だよね。ゆっぴは翼とかあるから目を引くけど、あのふたりは人間社会に紛れてても全然気づかないよ」
私が言うと、もじもじしていたゆっぴはパッと切り替えた。
「それな! ハルルも言ってたとおり、変なもの扱いされて騒がれるのがめんどいんでしょうね」
ハルピュイアの小春は当たり前のように学校生活に馴染んでいたし、紅里くんも普通に会社員として生活している。小春は翼があるが普段は引っ込めており、紅里くんは本人曰く、肉や魚などで鉄分を多めに摂る程度で一般的な人間と変わらない生活ができるのだという。
彼らはこの事実を隠しているというよりは、単に「言ってないだけ」らしい。どうやら世の中には、人外たちがこうして自然に溶け込んでいるようだ。
会社に紅里くんが来て、色んな意味で社内が変わってきている。パワハラ部長が見せしめのように左遷されてハラスメントが撲滅されただけでなく、別方向にも謎の効果が生まれはじめていた。
「営業二課の山川さんが、紅里くんとお近づきになりたくてダイエットを始めたって言ってた。他にも美容を気にかける人が増えて、なんか会社全体がキラキラしはじめてるよ」
紅里くんのイケメンムーブは誰に対しても他意なく発動するものらしく、彼は既婚未婚も男女も関係なく、屋上に訪れた鳩すらお姫様扱いする。それが彼の通常運転なのだ。おかげで紅里くんリアコ勢が各地で出現し、お互いを出し抜こうと自分磨きが流行り出したのだ。
「すごいよね。私は美容とか、あんまり詳しくないから、会話についていけなくなりそう」
苦笑する私の正面で、ゆっぴが二個目のチョコレートを開ける。
「あかりんはモテモテですなあ。でも、若手もおじちゃんも皆かわいくなるのは良いことだね。オシャレってさ、自分と他人を比べるためのものでも、他人に強制されるものでもなくって、自分に自信を持てるように、なりたい自分になるために自ら進んで極めるものじゃんな」
ゆっぴの唇に、チョコレートが消える。
「つまり自分磨きは、自分を大切にしてあげるってこと。それが流行るのはサイコーだよね」
ゆっぴのなにげないひと言に、私はハッとさせられた。自分に自信を持てるように、なりたい自分になるために頑張るもの。自分を大切にしてあげること……そうだ、好きな人に振り向いてもらいたくて、魅力的になりたくて、頑張るのだ。
目の前には、栄養バランスの悪そうな出来合いのお弁当。散らばるチョコレート。頬に触れれば疲弊した弾力のない肌の感触。ハッとして、お腹にも手を当てた。ぷにっとした感触に、焦りが湧く。いつからこんなに肉がついたのだろう。
小春の言葉が脳裏を過ぎる。
『あの悪魔に憑かれたら、深琴は自分でなにもしないぐうたらダメ人間にされる』
『本当の脅威は“甘え”なのよ!』
彼女の注意喚起が、今まさに実感を持って私を焦らせる。
私は思わず正面のゆっぴを見た。彼女は今日も抜かりなくかわいい。だというのに、私ときたら。
こんなんじゃ、かわいいゆっぴの隣に立つのが恥ずかしい。好きでいるのすら烏滸がましい。
「ゆっぴ。やっぱり私、チョコやめとく」
「えっ、なんで!?」
ゆっぴが目を剥く。私はお弁当の白米を箸で集めて、口に放り込んだ。
「ダイエット始めます。そんで肌の調子も整えて、きれいになりたい」
このままではいけない。ゆっぴの甘やかしの毒牙は、着実に私を蝕んでいるのだ。自らを厳しく律していかないと、どんどん崩れてしまう。
ゆっぴはしばらく不思議そうに私を見て、やがてぽんと手を叩いた。
「OK! それが二個目の願いね。今すぐ叶えてあげよう」
「違う違う! 自分の力で痩せる! 今のはダイエット宣言であって、ゆっぴに頼んだわけじゃないよ」
悪魔の力で一瞬で美ボディを手に入れられたらそれはそれは楽だろうが、ここで二個目の願いを使うわけにはいかない。
しかし閃いてしまったゆっぴは止まらない。
「いいじゃないの、甘いもの食べてだらだら過ごしても常にお気に入りのボディをキープできる便利な魔法をかけてあげるよ」
「やめて、悪魔の囁きやめて」
「どっちにしろさ、チョコひとつくらいじゃ変わらないって」
ゆっぴが私の手の横にチョコレートを置く。ゆっぴがおいしそうに食べていた、いちごチョコだ。
「あ、おいしそう。まあ一個くらいなら……」
ぐらりと揺らぐ私の前に、ゆっぴはさらに三種類のチョコレートを詰んだ。
「どうせ一個食べるなら全種類食べないとね。これがバナナチョコ、こっちがミルク、これがホワイト」
目の前の誘惑に勝てない。ダイエットは明日からだ。
*
ある日の職場にて。私は書類を届けに行くために席を立った。定期的な業務であり、紅里くんにも引き継ぎたかったので、紅里くんにも同行してもらう。
「毎月一回、この書類が回ってきたら、秘書課に持って行ってここにチェックを貰うの」
「秘書課ですか。一度挨拶に行ったきりでした」
紅里くんが珍しそうに言った。
秘書課は、総務部に内包される課である。ただ、秘書課の人たちは役員の付き人として活動する少し特殊な業務のため、別の部屋を用意されている。仕事的に交わらないうえに活動場所も離れているので、紅里くんの言うとおり、私たちの立場とはあまり縁がない。
秘書課に着いて、扉を押し開けた。入りながら、声をかける。
「失礼します。茉莉花さーん」
デスクに向かう数名の社員の中、ひとりがくるりと顔を向けた。ハーフアップのふわふわ髪と共に、お花の髪飾りが揺れる。
「んー?」
間延びした返事と共に、目が合う。彼女は私を見るなり、ゆっくりと腰を上げた。
「はいはーい。いつもの?」
「そうです。チェックお願いします」
私は彼女に、持ってきた書類を差し出した。
若草茉莉花さん、秘書課の課長。歳は多分、四十代くらい。多分というのは、見た目で年齢を判断できないからだ。
肌はシワもたるみもなく常に美しく、肢体はすらりと細くて、それでいて健康的な線の細い筋肉がついている。ふわっとした髪は華やかで、トレードマークの花の髪飾りがより彼女を可憐に見せる。ボタニカルな名前がよく似合う、花のような人だ。
「いつもありがとうねー。確認したらすぐ返しに行くからねー」
ふわふわとした話し方も、柔らかな印象を与える。
歳上の女性をこう形容するのは失礼かもしれないが、かわいらしい人だ。
「じゃあ、よろしくお願いします」
書類を手渡したら、私は頭を下げて秘書課を出た。紅里くんと一緒に廊下に出て、扉を閉め、はあと大きなため息をつく。
「茉莉花さん、かわいいなあ……」
本人の前では絶対に言えないが、私は茉莉花さんのかわいさに毎度癒されている。あの隙のない肌ツヤと抜群のプロポーション、それなのにキリキリしていない、ほんわかしたオーラ。まるで凛として咲く花。
好きになるのはゆっぴみたいなギャルだけれど、自分がなりたいと憧れるのは、ああいう大人の女性だ。
私は廊下を歩きつつ、またほわあと空気の抜けるような息を洩らした。
「茉莉花さん、あれでいて勤続年数が二十六年だそうだよ」
「えっ! てことは、少なくとも四十代? 自分と同世代か、それよりお若いと思ってました」
紅里くんが驚くのも無理もない。茉莉花さんのルックスは、本当に若々しい。私も初めて見たときは同年代くらいかと勘違いした。
紅里くんはまだ不思議そうに感心していた。
「すごいなあ。ときどきいますよね、そういう人間かどうか疑っちゃうくらい老けない人」
「吸血鬼の紅里くんでもそう思うんだ……」
吸血鬼は不老不死だと聞いたことがあるが、紅里くんはどうなのだろう。少し気になるが、不躾に突っ込んでいいか微妙なので、聞かないでおいた。
吸血鬼ではない茉莉花さんは、なんであんなにきれいでかわいくて年齢を感じさせないのだろう。高い化粧品を使ったり、エステに通ったりしているのだろうか。
それに引き換え、私は。仕事に身を削っているうちに自分の体を蔑ろにしたせいで、全身ぼろぼろである。周りの人たちはきれいになっていくのに、自分だけ置いてけぼりにされている気分だ。
今までは茉莉花さんを見ても「かわいいな」と思うだけだったが、なんだか今日は少し、落ち込んだ。
*
その日、私は帰りにコンビニでサラダを買い、さらにドラッグストアに寄り道した。今までは遅くまで残業していたから、買い物に寄るなど時間的にも体力的にも難しかった。だが最近総務部が残業時間に厳しくなったので、早めに帰る日が多くなっている。
茉莉花さんに近づきたいと思った私は、美容用品を買い揃えにこのドラッグストアを訪れた。客がまばらな店内をふらふらと歩き回り、気になる棚を見ては離れを繰り返す。スキンケアやダイエット食品、ビタミン剤など、手に取っては棚に戻してしまう。
就職してからは忙しさにかまけて、美容を蔑ろにしていた。使っている洗顔フォームや化粧水は、効果などろくに考えず安売りのものを選んでいたというずぼらぶりである。我ながら恥ずかしい。茉莉花さんはどれを使っているのだろう。
結局私は、欲しいものを選べず、トイレットペーパーだけ買って帰路についたのだった。
「ただいま」
「おっかえりー!」
自宅の扉を開けると同時に、ゆっぴが飛びついてきた。もはやこの子が家にいることにも驚かなくなっている。
「どうしたの? 機嫌良いね。いつも良いけど今日は特に」
「なんとなんとなんとー! 今日はチーズケーキがあるのだ!」
ゆっぴは私から飛び退き、狭い通路で羽ばたいて宙返りした。黒い羽根がはらはらと散っている。着地した先で彼女が冷蔵庫を開けると、中にケーキ店のものらしき白い箱が見えた。
私は手に持っていたコンビニの袋を落としそうになった。中身はサラダのみ。ダイエットのために、今日の夕飯はこれだけと決めていたのに。
ゆっぴが箱を取り出して、うきうきと翼を振る。
「この前行ったパフェのお店の系列店で、新しいパティスリーができたの。そこの『天使のふわふわフロマージュ』っていうチーズケーキがモンスタグラムで激シェアされててー! 二時間並んで買ったの!」
出た。悪魔の囁きだ。
ダイエットを始める初日から、早速試練が訪れた。
私はコンビニの袋をぎゅっと握り、固い意思で首を振った。
「おいしそうだね。でも、ダイエット中だから我慢します」
するとゆっぴは、はためかせていた翼をぴたっと止めて、数秒凍りついた。やがて、ぱちぱちとまばたきをする。
「えっ、なんて?」
「折角だけど私はチーズケーキは食べません。ので、私の分までゆっぴが食べて」
申し訳ないが、悪魔の誘惑に惑わされるわけにはいかない。私は茉莉花さんみたいになりたいのだ。
ゆっぴはまたしばらく固まり、手に持っていた箱に目を落とした。
「みことっちと食べたくて、並んだのに?」
掠れた声が、ぽつりと問いかけてくる。
「みことっちが帰ってくるの、楽しみに待ってたのに?」
「うっ……!」
こんな寂しそうなゆっぴは見たことがない。瞬時に決意が揺らぐ。チーズケーキは食べたい。おいしそうだから食べたい。しかしながらゆっぴのペースで甘いお菓子を食べていたら太りそうだ。
でも。ゆっぴが私を待っていた時間より、私の腹の贅肉の方が重要だろうか。
ゆっぴが上目遣いで私を見上げた。
「あたし、みことっちが疲れてると思って、お疲れ様って気持ちでケーキ買ったの。要らなかった?」
こんな言い方、ずるいではないか。単に誘惑してくるだけに留まらず、罪悪感を煽ってくる。ぐらつく私を見て、ゆっぴは赤い瞳を細め、私の腰に手を添えた。
「大丈夫、みことっちはかわいいよ。今の体型が気に入らないなら、あたしが自信を持たせてあげる」
ドキッとして息を呑む。ゆっぴは私の反応を面白そうに眺めた。
「ほら、願い事、言ってみて。理想の体が欲しいって」
吐息が耳を擽る。心臓が早鐘を打って、頭がくらくらしてきて、判断力が鈍っていく。
自信を持てる体、ゆっぴが買ってきたケーキ。彼女の笑顔……それらがあれば、近々死んだとしても充分すぎるくらい幸せ者ではないか?
と、そのときだ。背後からピンポーンとインターホンの音がして、続いて聞き慣れた声が聞こえてきた。
「深琴、帰ってるー?」
小春だ。私はハッと我に返り、ゆっぴを押しのけた。彼女に背を向け、扉を開ける。
「今帰ってきたとこ。どうしたの?」
扉の向こうでは、小さめの鍋を持った小春が立っていた。彼女は私の背後のゆっぴを見るなり目尻を吊り上げる。
「あっ、悪魔! あんたまた深琴を唆してるわね。深琴に手を出すなって言ってるでしょ!」
「知らないもん、あたしの獲物だもん!」
ゆっぴがべーっと舌を出して挑発する。喧嘩が始まってしまうので、私はふたりのやりとりを強制終了させた。
「小春、要件は?」
「あ、そうだった。肉じゃが作りすぎちゃったから、貰ってほしい。どうせあんた、自炊してないでしょ?」
小春が鍋を掲げる。私は内心頭を抱えた。
チーズケーキの誘惑に続いて、今度は肉じゃがである。ほわほわと漂ってくる香りが、食欲を掻き立てる。ごくりと喉が鳴った。ゆっぴがぱあっと翼を広げる。
「肉じゃがー! やばうまそうなんだけどー!」
「あんたの分はない!」
小春が秒で切り返す。ゆっぴもくわっと牙を剥いた。
「ケチじゃん! いいもん、ハルルには天使のフロマージュ分けてあげないし!」
「あんた悪魔なのに天使のフロマージュ買ったの?」
「関係ないし! おいしそうなものは買うんだし!」
揉めるふたりを横目に、私はしばらく無言で考えていた。やがて素直に言う。
「あのね小春、私、ダイエットを始めたの。だから今日のご飯はサラダだけにしようと思ってるんだ」
コンビニの袋をそろりと上げる。ゆっぴがすかさず首を横に振る。
「やめよう! チーズケーキの方が圧倒的に大事! もうすぐ死ぬ人がなんのために諸々を我慢してダイエットなんて。もっと自由に自分本位に生きよ?」
逆に小春は、すっと納得した。
「そうだったの。じゃあチーズケーキはやめた方がいいかもね」
「ハルルー! 邪魔すんなし!」
ゆっぴがケーキの箱を抱えたまま、小春の方へ突撃する。小春は即座に片手を突き出し、ゆっぴを追い払った。
「どんなにおいしいチーズケーキでも、今の深琴には背徳と後悔の味しかしないわよ」
「そんなことない、普通にチーズとクリームの味するし!」
喚くゆっぴを無視して、小春は改めて私の方に顔を向けた。
「でも、サラダだけというのは良くない。バランスのいい食事をしないと、却って太るよ」
「そうかな……?」
「うんうん。というわけで、肉じゃがは食べてほしいな!」
小春がにこっと笑うと、ゆっぴがまた噛み付いた。
「は!? ずるくね!? 自分ばっかり!」
「うるさい、低級悪魔。あんたの分も肉じゃが持ってきてあげるから、大人しく引っ込んで」
「はあー!? それはありがとう! 食べたい」
なんやかんや丸く収まり、小春が席を外す。すぐにまた戻ってきて、今度は彼女の部屋にあった分の肉じゃがも持ってきてくれた。
私の散らかった部屋を軽く片付けて、テーブルの周りにクッションを三つ置く。女三人、狭いテーブルを囲んで夕飯が始まった。
「ダイエットね。体を壊したりしなければ、私はいいと思うよ」
小春が器に取り分けた肉じゃがを配る。
「目標を持って前向きになったんでしょ。今までそんなこと気にしてなさそうだったのに、偉い偉い」
そういえばそうだ。これまで茉莉花さんと会ってもきれいだなと感想を持つだけで、自分もそうなりたいとまでは考えなかった。
目標にしたいと思えたのは、私自身の変化だろうか。ゆっぴに力の抜き方を教えてもらったり、紅里くんのおかげで会社の雰囲気が変わってきたりして、自分自身に気にかける余裕が出てきたのかもしれない。
小春は肉じゃがに箸を入れた。
「でもね。サラダだけなんてダメ。さっきも言ったとおり、美容のためには無理な食事制限は逆効果よ」
「そうだよね。体重を落とせばいいってものじゃないよね」
「うんうん。栄養バランスが偏るとダイエットにならないばかりか、肌も荒れるし髪もコシがなくなるわよ」
小春が私を冷静にさせてくれる。私は小春の作った肉じゃがから、にんじんを摘んで口に入れた。くたくたに煮込まれていて、甘い。
小春の言葉の一方で、ゆっぴはまだダイエットに反対している。
「みことっちはもうすぐ死ぬんだから無駄な我慢なんてさせたらかわいそくね? みことっちー、やっぱ一緒にチーズケーキ食べよ! あたしが理想のボディを担保してあげっからさー」
「あんたまさか、それを深琴の望みとして叶えるつもり?」
小春は箸の先を咥え、呆れ顔でゆっぴを睨んだ。
「馬鹿馬鹿しい。こんなことに命を削らなくてもダイエットくらいどうとでもなるわよ。そもそも、別に今の深琴でも充分かわいいし」
それから箸を下ろし、堂々と言った。
「でもまあ深琴がゆっぴに惑わされないように、私もできる範囲で協力するよ」
「本当!?」
私は背筋を伸ばした。仕事ばかりで美容なんて気にしておらず、ドラッグストアで思考停止してしまったほどだった。小春が協力してくれるのは、とても心強い。小春はにこりと笑い、ふくれっ面のゆっぴを横目で一瞥した。
「私は全面的に深琴の味方だから。悪魔の好きになんかさせないわよ」
「ふうん? マジ勝てる気しかしないんですけど」
ゆっぴが瞳に炎を宿した。彼女を一瞥し、小春がぴしゃりと言い切る。
「まずは食生活の改善から。遅い時間に甘い物食べたら肌に良くないし太る」
だがその後で、彼女は小さくため息をつく。
「今日のチーズケーキを最後にね」
「チーズケーキ食べていいの!?」
ぶんと振り向いた私に、小春は苦笑いで頷いた。
「これ以降はしばらくお預けだからね。自分で満足のいく結果が出るまでは我慢。良いね?」
「うん」
ゆっぴの気持ちを踏み躙らずに済んで、ほっとした。小春はゆっぴに厳しいが、彼女の気持ちはちゃんと考えてくれる。ゆっぴは大喜びで翼を広げた。
「うぇーい! チーズケーキ! 仕方ないからハルルにもひと口だけ分けてやってもいいよ!」
「うーん、太るから要らない」
「はあ!? かわいくなーい!」
またしても喧嘩を始めるふたりの間で、私は臍を固めた。絶対に茉莉花さんみたいにきれいになる。また再び、晴れやかな気持ちでデザートを食べられる、その日まで。
*
翌日から、小春の指導のもと、美容とダイエットの両立をかけて私の戦いが始まった。
仕事から帰ってきた私は、冷凍していた作り置きのおかずを解凍しはじめた。いつものごとく、ゆっぴが窓から侵入してきて、覗き込んでくる。
「これなに? おいしそう」
「鶏ハム。鶏むね肉でヘルシーだし、簡単に作れるんだよ。小春が教えてくれたの」
それはさておき、小春から提案されたバランスのいい食生活の第一歩がこれである。
今までなら、仕事から帰ってくると疲れて料理をする気が起きず、ついついコンビニで済ませてしまっていた。だが今日からは、余裕がある日に作り置きのおかずを用意しておいてバランスよく食べる。おかずは小春直伝のおすすめレシピである。
小春はやたらと鶏肉料理に詳しかった。ところで猛禽類は小鳥を食べるらしい。彼女がハルピュイアなのとなにか関係があるのか……少し気になる。
「ゆっぴも食べる?」
「食べる! あたしみことっちの作ったごはん食べるの初めて!」
ゆっぴが無邪気に飛びついてくる。餌のプレゼントでメスを誘き寄せる野生動物の気持ちが分かりかけた。
さっぱりした味の鶏ハムを食べつつ、私は茉莉花さんを思い浮かべた。
あんなふうになりたいけれど、簡単になれるものではないだろう。きっと高い化粧水と美容液使って、高級エステやジムに通っているのだ。
きれいを維持するためには手間も時間もお金もかかる。
せめて使っている化粧品を知りたいが、まだなんの努力もしていない私は訊ける立場にない。土台ができて初めて、茉莉花さんの真似事が許される。
まずは崩れに崩れた食生活をなんとかしなくてはならない。悪魔に唆されて自堕落になっている奴は、いくら高級化粧品を使おうとエステに通おうと茉莉花さんにはなれないのだ。
「脂の少ないものを食べてたら、肌もきれいになるかな?」
私が言うと、ゆっぴは珍しく真面目な顔で返した。
「どーだろ。肌が荒れる理由ってひとつじゃないかんね。みことっちが肌荒れしてるとしたら、ストレスが原因じゃね?」
「あれ? 意外と真剣に返事してくれた」
「ギャルは常に『カワイイ』に真剣だから、そんくらいの知識ある」
ハリのある肌と隙のないメイクのゆっぴが言うと、かなり説得力がある。私は自分を取り巻くストレスを考えてみた。
直球に考えて、仕事だろう。できれば根本から改善したいけれど、仕事とストレスは隣り合わせだ。ストレスそのものを取り除くのがいちばんだろうけれど、現実的には難しい。楽しいことをして解消していくしかない。
「てかストレス? そんなん抱えて生きててみことっちマジで偉いよね? 働くとかヤバ。偉業」
ゆっぴが身を乗り出し、私に顔を近づけてきた。
「ストレス解消には脂っこいおいしいものと甘い甘いお菓子だよ」
「だーかーらー、言ったそばから誘惑しないで」
「頑張り屋さんなみことっちを癒やしてあげたいだけだよ。みことっちがあたしを頼ってくれさえすれば、どんなことでもしてあげるのに」
キラキラな瞳で見つめられると、これが悪魔の囁きだと分かっていても調子が狂う。自分に惚れているのを知っているからって、やり方が汚い。
「惑わされないぞ……いつかきれいになって、自信を持って……それからだ」
心頭滅却。食事のお供に用意した、パックの豆乳にストローを差した。私が冷静を取り戻すと、ゆっぴはつまらなそうに見を引っ込めた。彼女は鶏ハムをもぐもぐして、飲み込む。
「豆乳? 珍しいの飲んでるじゃん」
「うん、美容に良いんだって、小春が言ってたから」
豆乳に含まれる大豆イソフラボンが、体内でエクオールという物質にに変化するらしい。そのエクオールとやらは、人を美しくするのは女性ホルモン、エストロゲンに似ているのだそうだ。
ただしイソフラボンがエクオールに変わる体質の人とそうでない人がいるから、まずは摂ってみて、自分に合っているか確かめてみるのだ。
他にも小春はいろいろ教えてくれた。
肌のターンオーバーを促すには、ビタミン。寝ている間に肌が再生するから、摂取は夜ね。なにより、紫外線を浴びるとシミになるから朝はやめた方が吉。
洗顔は、マッサージも兼ねて丁寧に洗うこと。といってもじっくり洗えばいいというものではない。顔は刺激に弱いから、素早く。指で触れるのも良くないから、たっぷり泡立てた洗顔フォームで、手が顔に触れないように泡で触れて洗うイメージで。
洗顔の後の化粧水は、なるべく刺激が少なくて、肌の調子を整えるもの。まずは定番のハトムギを含む化粧水と保湿クリームを勧められた。
聞いたときは、これを頭に入れて毎日のケアできれいを保っている世の中の美肌の皆さん、すごい。などと、陳腐な感想が頭に浮かんだ。だが小春曰く、こんなのは常識の範囲だそうだ。
これが常識なら、茉莉花さんはこれよりさらにたくさん努力しているというわけだ。
忙殺されて美容を忘れていた自分が情けない。だが遅れを取っている自分にがっかりしている場合ではない。遅れていた分、今から取り戻していかなくては。
気を引き締め直す私を見て、ゆっぴはなにやらちょっと嬉しそうににやけていた。
「頑張ってるね、みことっち」
「うん」
ゆっぴに恥じない自分でいるためにも、今の私に真剣に向き合いたい。ゆっぴはこくりと頷いた。
「きれいって、簡単じゃないから。だからこそ手に入れたらすごいんだよね」
そしてニヤリと、悪魔の笑みを浮かべる。
「でもさ、楽して手に入れちゃう方法があるよ。無敵のボディをさ……」
……私が真剣に向き合おうとしているというのに、努力を妨げる悪魔が囁いてくる。私は首を横に振って邪念を振り払った。
「努力するって決めたの!」
「しなくていいよ! それよかクッキーパーリィしよー!」
どこに隠していたのやら、ゆっぴは両腕にいっぱい、ファミリーサイズのクッキーのパックを抱えてこちらに突き出してきた。
「ダイエット中こそおいしく感じるじゃんな?」
「悪魔!」
分かりきっていたが、つい叫んでしまった。
お菓子は控えるけれど、ゆっぴには別のお願いがある。私は「望み」にカウントされないよう、慎重に言葉を選んだ。
「ねえゆっぴ、近々どこかへ遊びに行かない?」
ストレスのケアには、楽しいことがいちばん。休みの日に存分にデート……否、ゆっぴと思いっきり遊んで、ストレス解消したいのだ。
途端にゆっぴの目が輝き、翼がぱたぱた震えた。
「それは佳き佳き! おけまるー! 行こう行こう今から行くべ! アゲたいなら海っしょ!」
「今からは無理だよ、私はついさっきまで働いてたんだから今日はもうくたくただもの」
「だからこそだし! 行くぞーい」
ゆっぴは立ち上がり、ぱぱぱっと羽ばたき、くるんと宙返りする。ご機嫌MAXなアクロバット飛行のあと、ゆっぴは私の手を握って外へと連れ出そうとした。あろうことか、玄関からではなく、ベランダからだ。
ガラス戸が開いて、外に広がる夕焼け空が私たちを照らした。夕方の風に舞うゆっぴの金髪が、私をベランダへと誘う。
「さ、行こ!」
「ちょっ……だめだって。私はゆっぴみたいに飛べないんだから!」
戸惑う私にはお構いなしで、ゆっぴは私の手をとったまま、ベランダの柵に飛び乗った。風でスカートが捲れて、太腿が顕になる。釘付けになる私を、ゆっぴは笑顔で連れ出そうとする。
これはベランダから落ちて死亡ルートか。
そこへ、隣のベランダから小春が飛び出してきた。
「こらー! 深琴になにをする!」
騒ぎ声が聞こえたみたいだ。小春も自室のベランダの柵に足を乗せ、こちらに向かって跳ぶ。
「わー! 小春、危ない!」
私は咄嗟に叫んでしまったが、小春の腕はたちまち茶褐色の大翼に変容し、小春の体を空中に浮かせた。そしてゆっぴに体当りして、ゆっぴを柵から落とす。
私の手を離したゆっぴは柵から転げ落ちていったが、すぐに黒い翼を羽ばたかせて戻ってきた。彼女は牙を剝いて小春に突進していく。
「ハルルのばかー! 邪魔するなし!」
「深琴をベランダから落とそうとする奴見て、邪魔しないわけないでしょ!」
赤い空の中、ふたりが空中戦を繰り広げている。遠目に見ると大型の鳥が喧嘩しているように見える。やがてそこへ本物のカラスが集まってきて喧嘩に加わりギャアギャア騒ぎはじめた。
私はベランダの柵に腕を乗せ、この光景を眺めていた。
*
最近、土曜日も休みになった。元から私の職場は土日祝休みだが、土曜と祝日は当然のように会社に来ていたし、日曜日も早上がりにはなるが出勤する日が多かった。それがここのところ、見直されている。株主総会で意見が挙がっただとかそんなような理由らしいが、下っ端社員の私に詳しくは分からない。
ただそんなひとりの社員が、土曜も日曜も休みになった余裕のある生活を手に入れたのは事実だ。
「キャホー! 明日もお休み最&高じゃん! 毎日土曜日でよくね!?」
翼と尻尾を隠したゆっぴが、駅前のショッピングモールではね回る。ぶんぶん飛びそうな勢いなのは、人間に擬態していても変わらない。
土曜の午前十時、開店したてのショッピングモール。約束どおり、私はゆっぴとデートにやってきた。
特に目的は決めていないが、先日のあの淡い紫のスカートのような、突然の出会いを期待して宛もなく店を見るのだ。
モールを歩いていると、アパレル店に置かれた鏡に自分たちの姿が映った。つい立ち止まると、ゆっぴがにんまりと口角を吊り上げて、鏡の中の私を覗き込んだ。
「やっぱそのメイク、爆裂にかわいー」
「そうかなあ……派手すぎない?」
私はおずおずと唇の下に指を添えた。
今日は新しいリップを塗った。スカートを買った日に同じく出会った、あのリップである。シリーズを揃えて買った他のコスメも、思い切って合わせて使ってみた。リップが新しいだけでもそわそわしたのに、ゆっぴに「どうせなら全部使えし」と背中を押されたのである。使っている途中の化粧品がまだ残っているので全部開けるのは気が引けたのだが、後込みしていたらゆっぴが開けてしまった。
その上彼女は私の肩を捕まえ、手際よくメイクを施してくれたのだった。ゆっぴの仕上げたメイクは、彼女本人のようなギャルメイクでこそなかったが、私が自分でする会社用のメイクとは全く違う。鮮やかできらきらしていて、華があった。モールの鏡に映る自分は、自分ではないみたいだ。
「やっぱり、ゆっぴはメイク上手だよね」
私はまた、鏡の前から歩き出した。ゆっぴも軽やかな足取りでついてくる。
「ナメられたくないから」
それからゆっぴは、意地悪く笑った。
「てかみことっち、カッサカサで化粧ノリ悪すぎだったんだけど! どうしたらそんなに潤いなくなるんだっつの」
「なんだと! これでも努力してるんだからね!?」
小春に教えてもらったスキンケアをするようになってから、前より良くなった。とはいえゆっぴに言わせればまだカッサカサで、茉莉花さんには程遠い。
隣を歩くゆっぴを見ると、つやのある肌はふにっとしていて、きめ細かくてきれいだ。思わず触れたくなる肌、という化粧品メーカーが言いがちなフレーズが脳裏に浮かぶ。どきどきしつつ、訊ねてみた。
「ゆっぴはさ、スキンケア、なに使ってるの?」
「ん? 魔界樹の根の汁」
「地上で市販されてるものが良かったな……」
悪魔に聞いた私が愚かだった。ゆっぴは虚空を見上げ、そうだ、と呟いた。
「地上で市販されてるといえば、めっちゃいい保湿クリームあるって聞いたことあるわ。なんか高級クリームと成分似てるのに、安くてコスパ良いやつ」
「そんなのあるの?」
有益な情報に、声が弾む。ゆっぴも嬉しそうに頷いた。
「ある! コキュートスの水にピクシーの翅を漬け込んだやつと成分が同じなんだよ」
「そんなのあるの!?」
同じフレーズを全然異なるトーンで繰り返し、私は戸惑いつつも言った。
「その成分がどういうものなのかはよく分からないけど、ゆっぴおすすめの成分なら気になる。買いに行ってもいい?」
「モチモチのロン! あたしも買おっかな、魔界のを買うより安いし!」
悪魔の囁きで私の決意の邪魔ばかりするゆっぴだが、こういうところは協力的でもある。ドラッグストアに向かう私の隣で、ゆっぴはなぜか嬉しそうに、にこりと目を細めた。
モールの広い通りを歩きつつ、私はここ数日の日常を振り返った。
早めに帰ってきた日に、小春に教えてもらったヘルシーな作り置き料理を作った。イソフラボンを摂るために、豆腐料理も作っている。料理中はなるべく爪先立ち。脚が細くなるのだとかで。食事のあとにゆっぴが持ってくるお菓子を断る。
毎日お風呂上がりにスキンケア。寝る前に豆乳でビタミン剤を飲む。寝る前にとゆっぴが持ってくるお菓子を断る。
仕事中も、座るときに脚を組まず、足の指を床につける姿勢を保つ。リンパの流れがどうのこうの、らしい。仕事に行く前に、「お仕事中に食べてストレスを解消しよう」とゆっぴが持たせようとしてくるお菓子を断る。
毎日、小さな努力をこつこつと続けて、十日が経過した。
最初に比べ、肌はきれいになってきたし、お腹の贅肉も落ちた。ただ、満足とまでは行かない。
「一体いつになれば、茉莉花さんみたいになれるんだろう」
「茉莉花さんって、秘書課の人だっけ?」
以前私が口にしたのを覚えていたらしく、ゆっぴはへえと感嘆した。
「そういや、ああなりたいって言ってたね。憧れてるんだ」
「うん。……あ、これは恋愛的な意味じゃないからね? 紅里くんのときみたいに、嫉妬しないでよ」
「嫉妬してないし」
ゆっぴはちょっとはにかんで、私から目を逸らした。
結果が出てきたとはいえ、まだようやくスタートラインに立てた程度だと思う。茉莉花さんはこんなレベルではない。
たった十日で劇的に変われるわけがない。分かってはいたけれど、我慢することや面倒が多くて、気持ち的にダレてきている自覚がある。頑張ったところで、手に入るのは少しだけきれいになった自分、だけ。努力する前としてからで、苦労が十倍になっても得られるものは二倍程度みたいな、費用対効果の悪さを感じてしまう。
こんなことをいつまで続ければいいのか。続けたら茉莉花さんのようになれるのか。近道はないのか。……ゆっぴが言っているように、二個目の望みとして、管理が楽な体を手に入れてもいいのではないか?
なんて考えたらゆっぴの思うつぼだ。私が気付けに頬を叩くと、ゆっぴはにまーっと笑った。
「頑張ってるみことっち、かわいいね。あたしもハルルみたく応援したくなっちゃった」
「あれ? 三つの望みはいいの?」
意外なことを言うので、私はつい聞き返した。ゆっぴは小首を傾げ、照れ笑いする。
「本当は、悪魔としては望みを言ってほしいけどね。でもかわいくなるために努力する人って世界一かわいいから、あたしは今のみことっち最強だと思うの」
ふいに、先日のゆっぴの言葉を思い出した。
『きれいって、簡単じゃないから。だからこそ手に入れたらすごいんだよね』
「そっか、今の私、ゆっぴにとってかわいく見えるんだ。もしかして今なら、二個目の望みの『恋人になって』も叶えてくれる?」
半ば冗談めかして問うと、ゆっぴは頬を赤くしてそっぽを向いた。
「それとこれとは話が別だし。
「ロールモデルがいるなら、キレイの秘密を教えてもらったら? まりぽよ本人にさ」
「まりぽよって茉莉花さん? 訊けないよ。私なんかが同じフィールドに立てるわけないんだから……」
私は茉莉花さんの真似が許される立場ですらない。ゆっぴはえー、と首を傾げた。
「どんな努力してるのか聞くくらい良くね? 努力のメニュー聞いてみて、できそうなら真似して、無理そうならスゲーって思うだけ思って諦めればいいんじゃね」
「え」
私はつい、短く呟いて固まった。
そうか。なにを使っているかより、なにを心がけているか聞くくらいなら、良いかもしれない。努力なら、私だってそれなりにしたのだ。聞く権利くらいあるかもしれない。目から鱗である。
「そっか。聞くだけ聞いてみようかな。どのくらい大変か知るためにも」
「そうそう。教えてくれるかどうかは分からんけどね」
私だってやれることはした。少ないかもしれないけれど、努力した。今の私なら、彼女に声をかけてもいいのかも。
*
その日の昼、私にとんでもない願ってもない好機が訪れた。
「科内さん。今日、ランチご一緒できる?」
なんと私の席に、茉莉花さんが直々にお誘いに来てくれたのだ。
「私の行きつけのカフェ、来てくれるかしら」
お花の髪飾りが、窓の日差しを受けてきらきらしている。
私はびっくりして数秒返事ができなかったうえに、ようやく出した声は情けないくらい裏返っていた。
「ひゃい……」
まさかこんな機会に恵まれるとは思わなかった。
ゆっぴに背中を押されてはいたが、秘書課とは関わりが少ないので、声をかけようかはまだ迷っていた。そこへ彼女の方から誘ってくれるとは。渡りに船というべきか、心の準備がまだ整っていないというか。誘われる心当たりもないので、嬉しいと同時に不安でもある。
会社の傍のカフェに向かうため、ふたりで会社のエントランスを出る。横を歩いているだけでいい匂いがする。あまり話したことがない、いや、それ以上に憧れの人である彼女とのランチは、緊張してしまう。
どぎまぎしているのが顔に出ていたのか、茉莉花さんはうふ、とかわいらしく花笑みを浮かべた。
「そんなに身構えないで。お叱りじゃないわよー。ただ、私が科内さんと話してみたかっただけー」
「私と、ですか」
仕事であまり関わりがないのに、どうして私に気をかけてくれたのだろう。
すぐ近くのカフェにつくと、彼女は私にメニューを差し出した。私がランチセットを選ぶと、茉莉花さんは店員を呼び、私の代わりに注文した。
運ばれてきたのは、私のランチセットとふたりぶんのお冷だけだった。
「えっ、茉莉花さん、食べないんですか!?」
驚く私に、彼女はこくりと頷く。
「これだけで良いのよー」
彼女が美しくあるためにいろいろと努力しているのだろうとは推察していたが、まさか昼食が水だけだったとは。それこそ小春が注意喚起していた、無理な食事制限に当たると思うのだが。
驚嘆して固まっている私に、茉莉花さんはマイペースに喋った。
「あのねー、今日私が、科内さんを呼んだのはね」
「は、はい」
「影山くんのことなんだけど。彼ね、見た目がきれいでお仕事もできるそうじゃない? だから秘書課の女の子たちも、彼が気になるみたいで……」
話題は紅里くんの件のようである。
「科内さん、仲良さそうだから嫉妬されて意地悪されてないか心配になっちゃってね」
「あっ、そういうこと!?」
全く気にしていなかった観点からの切り出しで、またもや驚いてしまった。
「全然ありませんよ!」
「そうよね、部署の子たち、皆良い子だもの。御局様として一応気にかけてたんだけど、なんともないなら良かったわ」
茉莉花さんがにこっと笑う。癒される、愛らしい笑い方だ。やはり、憧れてしまう。こんなふうになりたい。彼女は微笑みながら水を飲んだ。
「科内さん、最近なんだかきれいになったじゃない? だから部署の子たちも、『恋してるのかな』なんて噂しててね」
耳を疑った。主に、前半の方にだ。
「きれいに……なってます!?」
「ん? ええ。こう言っては失礼かもだけど、今までは草臥れてる感じがあったんだけど、ここのところはいきいきしてるわ」
そんな、まさか。憧れの茉莉花さんから褒めてもらえるとは思わなかった。私の小さな努力の積み重ねが、茉莉花さんには見えていたとは。嬉しくて嬉しくて、声が詰まってしまう。いきなり固まった私に、茉莉花さんは優しく語りかけた。
「これを機会に、もっと私を頼ってね。秘書課以外にも目を配るけど、気づけないこともあるから」
まだ、胸がどぎまぎしている。噛み締めている私に、茉莉花さんは小首を傾げた。
「どうしたの?」
「私なんて、茉莉花さんの足元にも及ばないのに……」
「なにが?」
茉莉花さんが目をぱちくりさせている。私は小さく深呼吸して、口を結んだ。奥歯を噛んで言い淀んで、また口を開く。
「あの、早速相談してもいいですか」
「うん?」
「実は、その。私、茉莉花さんに憧れてて……茉莉花さんみたいに、若々しく瑞々しくきれいになりたいって思ってるんです」
本人を目の前にしてこれを言うのは、結構勇気がいる。でも茉莉花さんは引いたりせず、嬉しそうにぱあっと目を見開いた。
「あら! ありがとう。嬉しいわー」
「だけどどうしたらそんなにきれいになれるのか、私には分かんなくて。茉莉花さん、きれいを維持するために普段どんなことしてるのか……教えてもらえたら……」
もにょもにょと語尾を濁す。茉莉花さんは、数秒私を見つめていたかと思うと、やがてふう、と息をついた。
「なにもしてないわよ」
「嘘だあ! 今もお昼ご飯が水だけじゃないですか。私はそんなにストイックになれないからもう無理かなって思ったんですけど……!」
咄嗟に声が大きくなったが、茉莉花さんは相変わらずにこにこ微笑んでいた。
「本当よ。なんにもしないで、水だけ飲んでもう五百年経つわ」
「そんなはず……えっ、五百年?」
聞き間違えかと思った。訂正してほしくて聞き返すも、茉莉花さんは水をひと口飲んでこくりと頷く。
「正確には五百十四年。うふ、ちょっとサバ読んじゃった」
「待って、冗談ですよね? 茉莉花さんてば面白い」
普段の自分の努力を悟られたくないから、そんな冗談ではぐらかすのか。困惑する私を見つめ、茉莉花さんはにっこりと目を細めた。
「ううん。申し訳ないけど本当よ。私ね、人間じゃないの」
彼女の告白に、私は口をあんぐりさせた。
人間じゃない。人間じゃない、とは。
数秒考えた後、私は大きく項垂れた。
「出た!」
驚く以上に、なんだかもう「またか」という気持ちだ。茉莉花さんがきょとんとする。
「あら、意外と驚かないのね。もしかして私の他にもこういう人を知ってるの?」
「まあ、そんなとこ、です……」
茉莉花さんとこんな会話をする日が来るとは。茉莉花さんはふふっと可笑しそうに笑った。
「私はね、マンドラゴラなの。植物の仲間よ」
「ははは……うっそだあ……なにそれ」
なんだかもう、なげやりになって力の抜けた反応をしてしまう。茉莉花さんは後ろ髪に左手を当てた。
「本当だって。その証拠にほら、これがお花」
彼女の手が示すのは、お花の髪飾りである。
「いつもつけてるなと思ったら、咲いてたんですか」
「そう。お花以外は全部根だから」
「根!?」
私はどうやら根と会話しているらしい。
ぽかんとする私を優しく見つめ、茉莉花さんはひと口水を飲んだ。
「私自身も、わりと最近まで自分を人間だと思ってたのよ。周りの人間がどんどん老いていくのに自分は変わらないし、皆がしている食事というのもよく分からないし……不思議だなあくらいにしか思ってなかった。魔界出身の人に教えてもらって初めて、自分がマンドラゴラだって気づいたのよ」
「そういうものなんですか?」
「ええ。私にとっては私の生活が当たり前だから、周りとの違いなんてその程度にしか感じてなかったの。多分、私以外にもそういう人外いるんじゃないかしら?」
ゆっぴも小春も紅里くんも、自分が何者であるかしっかり自覚しているようだった。でも茉莉花さんのように、自分でも知らずに人間に馴染んでいる人外の存在もあるというのか。
呆然としたあと、私はハッとして頭を下げた。
「すみません。そんな秘密を聞いてしまって」
「秘密にしてたわけじゃないわよ、言ってなかっただけ。別にコンプレックスというわけでもないしね」
茉莉花さんはマイペースにころころ笑った。
「皆は皆で私は私だもの。ひけらかすことではないけど、恥ずかしいことでもないでしょ?」
そんな彼女を見て、私はまた口の中で「ああ、憧れる」と呟く。
「これからも、目標にさせてください」
自然とそんな言葉が洩れた。茉莉花さんはおかしそうに小首を傾げる。
「あら。私は植物だから、科内さんとは体質が全く違うわ。同じように水だけで暮らしてたら死んじゃうわよ?」
「そこじゃなくて……ふふっ、たしかに真似できるか分かんないけど」
見た目が美しいから、というのもそうなのだけれど、私がなにより惹き付けられていたのはきっと、彼女のこの悠々とした振る舞いだ。私にもそんなふうになれるか、真似できるか分からないけれど、それでも彼女を目標にしたいと思うのだ。
*
「あはははは! またもや人間じゃなかったとか! ウッケルー」
その日の夕食時。茉莉花さんの正体を知ると、ゆっぴは腹を抱えて笑った。
「しかもマンドラゴラて! せめてエルフでしたとかならまだしも、植物て! そりゃあみことっちがどう足掻いても近づけんわ。マジウケる、なんなん」
「そんなに面白い?」
私は作り置きしていた鶏ハムを食べつつため息をついた。
まさか、憧れの先輩がマンドラゴラだっただなんて。複雑だ。親友がハルピュイアだったのが判明したときよりは流石に驚かなかったが。否、むしろ驚かなくなってきている自分にショックである。
ゆっぴが現れはじめたばかりの頃の言葉を思い出す。魔界から来ている人は、意外とたくさんいる。ただ、わざわざ正体を明かさないだけで。そして、人間に溶け込んでいる理由は様々。
「茉莉花さんなんて自分は人間だと思い込んでたって言ってたもんなあ」
最後のひと切れの鶏ハムを口に放り込んで、私は虚空を見つめた。ゆっぴがにやりとする。
「みことっちはどう頑張っても植物にはなれないよ。もうダイエットやめよ。植物になりたいなら、やっぱりあたしが望みを叶えてあげるしかない」
「うーん……引き続き努力はするよ。やっぱり、やらないよりやった方がいいし」
人間の私は、なんの努力もしないときれいになれない。いや、仮になれたとしても、それでは私は納得できないだろう。私が憧れるのは、茉莉花さんのあの悠然とした在り方なのだから。
私はのっそり立ち上がり、冷蔵庫を開けた。ゆっぴがぴんと羽根を伸ばす。
「およっ、それは……」
私が冷蔵庫から取り出したのは、ケーキの箱である。ケーキの箱に刻まれた店名は、以前ゆっぴが並んで買ってきたチーズケーキのあの店の名だ。
「なんと!?」
たちまちゆっぴが目を輝かせた。私は箱をリビングのテーブルに置き、ぱかりと開く。中から覗く、こってりとした黒いカップケーキがふたつ。
「新商品、買ってきちゃった。『悪魔のフォンダンショコラ』だって」
「えっ、マジにダイエット終了!? うぇーい!」
「ううん、引き続き努力はするんだって。でもね、ずーっと我慢して先が見えないとしんどいから、たまにケーキ食べるくらいは解禁かな」
「やったー! あたしの勝ち!」
「ゆっぴの勝ちではないよ」
こうして、私と悪魔の戦いはまだまだ続くのだった。
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