Ep.4・ラブイズ・ブラッド

「具体的な情報を話してもらいましょうか」


 小春が隣に引っ越してきたその翌日、私が仕事から帰ってきた夜九時。私は小春に呼ばれて、自分の部屋でなく隣、即ち小春の部屋を訪れていた。


「この間話したとおり、私はとっくに死んでるべきだからゆっぴが死なせに来てるという状況だよ」


 ブラウン系の大人びたカラーで統一された、小春の部屋。自分の部屋と間取りは全く同じだが、インテリアが違うと随分変わって見える。女の子の部屋の、いい匂いがする……。

 私はカーペットに正座して、小春から出してもらったコーヒーを飲んでいた。


「でもゆっぴはかわ……じゃなくて、望みさえ言わなければ無害だから。疲れてなにもしたくないときにごはん作ってくれるし、話し相手になってくれるの」


 小春は私と向かい合って、同じくコーヒーを啜っていた。


「それもあんたの隙を窺ってるわけでしょ。私は、絶対にあんたに死んでほしくないの。私が絶対、深琴を守る」


「う、うーん。ありがとう」


 小春は、怪鳥ハルピュイア……らしい。ゆっぴと同じ、魔界から来た人外である。ゆっぴとの初対面時の様子を見る限り、彼女は私よりずっと悪魔の事情を知っている。だから、私を死なせたい悪魔、ゆっぴに対する対策を共に練ることになったのだ。

 小春が前のめりになる。


「あいつの狙いは、深琴の望みを三つ叶えること。深琴、現時点であいつになにも頼んでないでしょうね?」


「それが、うっかり一個使ってしまいまして。ハンバーグ作ってもらっちゃった」


「なにやってんのよ!」


 小春が大きく項垂れる。私は慌てて言い訳した。


「だって、それが死に直結するなんて聞かされてなかったんだもん」


「そうだとしても、あんな変な奴に料理を頼むなんて……」


 あのときは夢だと思っていたから、初対面のゆっぴに手料理を求めてしまった。さらに、三つ頼んだら死ぬと分かっていながら二個目の望みを言ったのだが、これは小春には言わないでおく。

 私はコーヒーのカップを唇に添え、唸った。


「小春は心配しすぎだよ。ゆっぴは私に優しくしてくれるだけ。昨日も話したとおりごはん作ってくれて、話し相手になってくれて。普段買わないような服を買うのを後押ししてくれるとか。私もさ、ゆっぴに押されると『買っちゃお!』って気持ちになっちゃうんだよね」


 むしろゆっぴがいると、生活が明るく楽しくなる。いなくなってしまったら寂しい。

 のほほんとしている私を見つめ、小春は眉間に皺を作った。


「深琴。悪魔の囁き、って知ってる?」


「悪魔の囁き……よくいう、自分にとって都合のいい思考に甘えちゃうみたいな?」


 自分の欲に打ち勝てなくなったときなんかに使われる言葉だ。小春はこくりと頷いた。


「そう。少しくらい二度寝してもいいよね、とか、お菓子もうひとつ食べてもいいよね、とか。そういうやつ」


 ひょいと脚を組み直し、彼女は言う。


「ゆっぴこと一夕匕がしてるのは、それ。あの悪魔の特技は、『悪魔の囁き』……即ち、甘えを誘発してるのよ」


「ああ、ゆっぴはまさに悪魔だもんね」


 本来の意味であれば、単に自分の欲に打ち勝てないことを指すのだろうが、私の場合リアル悪魔のゆっぴに直接囁かれているのである。

 今までのゆっぴの言動を振り返ってみると、どれも「悪魔の囁き」に置き換えられる。自分でなにもしないで、ただおいしいごはんを食べて温かいお風呂に入ってアイスまで食べて寝る。愚痴を垂れ流す。休みを取って丸一日好き放題に過ごす……。


「あの悪魔に憑かれたら、深琴は自分でなにもしないぐうたらダメ人間にされる」


 小春はびしっと、人差し指を立てた。


「悪魔の本当の脅威は『甘え』なのよ!」


「そ、そうだったんだ!」


 心当たりが多くて、一気に怖くなってきた。


「そうだ、私、ゆっぴに甘えた結果大失敗した。有給取ってたっぷり遊んじゃった。唆されてゆっぴの思いどおりに贅沢しちゃった……!」


 ああ、ゆっぴはポンコツだと油断していたが、まさか既に、ゆっぴの手のひらの上で踊らされていたとは。このまま小春の言うとおりぐうたら人間にされ、そのうちゆっぴに残りふたつの願いを言って、魂を奪われてしまうのだ。

 慌てて訴える私に、小春はこくこくと頷いた。


「なるほどなるほど。あのね深琴、それはあんまり贅沢じゃない」


「えっ」


「それはね、普通。ゆっぴが来る前の深琴が異常。我慢しすぎだったのよ」


 言われてみれば、私はゆっぴのおかげで過労死を免れている。小春は項垂れてため息をついた。


「複雑だなあ……甘やかす悪魔によって、深琴が人間らしさを取り戻すとは……」


 小春はしばらく俯いて、難しそうに唸っていた。


「ゆっぴがいないと、深琴は自分を追い詰めちゃうのよね。私が仕事を辞めるように言っても受け入れなかったし、力の抜き方を覚えるまではゆっぴがいた方がいいのかもしれない」


 小春はうん、とまたひとつ大きく頷いた。


「よし、あいつのことは一旦保留」


 それは小春が決めることなのだろうか……とは思ったが、結論そのものは平和的で悪くないので、言わないでおいた。

 小春が前のめりになる。


「ただし、変に甘え癖がつくと悪魔の囁きに乗せられてしょうもない望みを三つ言ってしまうかもしれないわ。いくら甘やかしてくれて優しく感じるからって、油断はしないこと。いいね!」


「はーい」


 それにしても、小春は相変わらずだ。面倒見のいい性格は学生の頃そのままで、こんなに今までどおりだと、彼女が怪鳥だなんてますます現実味がない。


「小春が人間じゃないなんて信じられないな……」


 ぽつりと零すと、突如、小春が片腕だけ袖を捲った。きょとんとしている私を一瞥して、小春はその腕を、横に向かって真っ直ぐ伸ばした。

 途端に、彼女の腕にぶわっと、褐色の鳥の羽根が生えた。


「わあっ!」


 さらに小春がその腕を軽くひと振りすると、骨格までもが変わり、大きな翼へと変貌した。固まる私に、小春はしれっとした態度で言った。


「これを見ても、まだそう言える?」


「びっくりした……本当だ、人間に為せる技じゃない」


 腰を抜かしそうになったが、相手が小春だったことや変なものはゆっぴでまあまあ見慣れていたおかげでこの程度のびっくりで済んだ。小春が片腕、もとい片翼をこちらに差し出してくる。私はそっと、翼角に触れた。ふわふわというよりさらさらとした、本物の羽根だ。小春はもう片方に残っている人間の腕で、テーブルに肘をついた。


「ハルピュイアに限らず、地上で暮らす魔物類は人間に擬態するのよ。人間って、自分の『当たり前』から外れるものを拒絶するでしょ? 実在しないと思ってた生き物が存在すると過剰に騒ぎ立てるから、それが面倒でね」


 肘をつく方の手に顎を乗せ、小春はげんなりと顔を顰めた。


「だってのに、あの悪魔は。翼も尻尾も隠さずに、派手な見た目で目立って、全くもう……」


「まあまあ、人目につくところではちゃんと人間に擬態してもらうように、私からもよく伝えとくよ」


 なぜか私は、ゆっぴをフォローしていた。

 と、突然、ベランダからトントンと音がした。室内とベランダを区切るガラス戸に、なにかがぶつかっている音のようだが、カーテンで覆われていて見えない。小春の腕がすっと、元の人間のそれに戻る。彼女は腰を上げ、カーテンを捲った。

 するとガラス戸の向こうに、満面の笑みのギャル――ゆっぴが見えた。

 途端に小春が顔を顰め、シャッとカーテンを閉める。


「多分あれだ。深琴が部屋に戻ってこないから、ここを確かめに来たんだ」


「うん、そうだね」


 カーテンを閉められてしまったゆっぴだが、向こうも内側にいる私が見えたのだろう。しつこくガラス戸を叩いて、開けろと催促する。小春は苛立った顔で頭を掻き、やがてガラッとガラス戸を開けた。


「玄関から入ってきなさい!」


「みことっちー!」


 小春が叱るのも気にせず、ゆっぴは室内に転がり込んで私の元へ一直線に飛んできた。


「聞いて聞いて、マジメガハイパーテンション鬼マックスなんだけど!」


 突風の如く突っ込んできて、スマホを掲げている。


「マジマジのマジ、やっば、神展開」


「どうしたの?」


 コーヒーをひと口飲んで、ひとまず聞く。ゆっぴは嬉しそうに、スマホを突き出してきた。画面には、「お申し込みいただきましたチケットについて、厳正な抽選を行った結果、当選となりましたのでお知らせ致します」の文字が映し出されている。

 ゆっぴの赤い瞳がきらきら輝いた。


「ライブのチケット当たっちゃった! きゃーっ!」

 ぴょんぴょん飛び跳ねてそのまま羽ばたいて宙返りするゆっぴを、私は黙々とコーヒーを飲んで眺めていた。小春がより一層、怖い顔になった。


「人んちで暴れるな」


 ゆっぴから抜けた黒い羽根が宙を舞っている。コーヒーの中に落ちてこないよう、私は手をひらひらさせて払い除けた。


「ライブねえ。バンドかアイドルかなにか?」


 あまり興味はなかったがとりあえず会話を繋げると、ゆっぴはひゅっと滑空してきてテーブルを挟んで向かいに着地した。


「うんうん、地上の人にも名が知れてるくらいのウルトラスーパー有名人だよ」


 ゆっぴは興奮気味に翼をはためかせ、スマホを操作した。


「あのね。悪魔って歴史に名を残してるような有名な悪魔から、あたしみたいな所謂低級までピンキリなんだけどね。階級が上の方の悪魔は当然人気があって、ファンもついてるの」


 小春が戻ってきて、私の隣に腰を下ろす。


「芸能人みたいな感じね。神話に載ってるクラスになると、やっぱ注目されるのよ」


「はあ」


 右にゆっぴ、左に小春と、私はふたりに挟まれて間の抜けた返事をした。ゆっぴはうきうきと明るい声で続ける。


「中でも傲慢のルシファーくん、憤怒のサタンさん、嫉妬のレヴィアタンちゃん、怠惰のベルフェゴール様、強欲のマモンくん、暴食のベルゼブブくん、色欲のアスモデウスちゃんは悪魔のカリスマで超絶ハイパーリスペクトされててね! 『罪セブン』って呼ばれてるんだ」


 そして再び、スマホをこちらに向けた。


「でね、これがあたしの最推し! 怠惰のベルフェゴール様!」


 画面に映っていたのは、もっさりした地味な男だった。くしゃくしゃの前髪で目が隠れていて、猫背でどうにもシャキッとしない。同じくスマホを覗き込んで、小春も驚いていた。


「へえ、こういうのが好きなんだ。あんたギャルだし、ギラギラしたギャル男が好きなのかと思ってたよ」


「ギャルならギャルが好きとは限らないでしょー。ああベルフェゴール様。だらだらしててやる気がなくて、たまんない」


 ゆっぴは頬に手を当て、でれでれした声で画面の中の男を称えた。


「喋り方もね、ボソボソしててなに言ってんのか全然分かんないの。黙って座ってるかと思ったら居眠りしてたりとか。ライブすらサボるときもあって、もう最高ー!」


「全部欠点に聞こえるんだけど、そこが魅力なの?」


「レヴィアタンちゃんみたいなファッションかわいいし、アスモデウスちゃんみたいなセクシーさも見習いたいし。けど男の子のタイプとして好きなのは、ベルフェゴール様みたいな気だるげな人かな。こういう人と付き合ったら、どんどんだらけさせて堕落させたい。マジリアコになってしまう」


「分からん」


 小春が首を傾げる横で、私はちょっと、胸をちくりと痛めていた。そうか、ゆっぴは私とは違って男の人が好きなのだった。

 その方が多数派なのだからおかしくない。でも、先日「なんでもしてあげる」と私を誘惑してきた彼女はやはり単に割り切っていただけなのだと痛感して、勝手にショックを受けてしまった。


 小春がゆっぴのスマホを覗き込んでいる。


「ベルフェゴールねえ。私はどっちかっていうとルシファーの方が好みかなあ」


「おっ、ルシ担!? ハルルって正統派イケメンが好きなんだ。ルシファーくんは強引でちょっとワガママだけど、でも実は寂しがり屋で甘えんぼうなところがあるこのギャップ。ルシファーの気まぐれに振り回されたい!」


 小春の反応にゆっぴが食いつき、小春は反対側にも首を傾けた。


「いや、罪セブンの中では、って程度よ。担当名乗るほどじゃない。私は罪セブンより神獣の方が好きだし……特にケルベロス」


「ほらあ、やっぱり正統派イケメン好きじゃん!」


 なにやら盛り上がっているが、私には全然分からない世界である。私が困惑しているのを見て、ゆっぴが問うてきた。


「みことっち的には? どの人が好き?」


 ゆっぴのスマホに別の画面が映る。タイプがバラバラの男女が七人、並んでいた。どうやらこれが罪セブンらしい。

 私はコーヒーカップを口につけ、濁した。


「うーん、全員格好いいと思うよ」


「あ、今テキトーに答えたでしょ」


 ゆっぴはバサッと翼を広げ、私の肩を揺すってきた。そしてハッとして、目を輝かせた。


「そうだった! みことっちは女の子が好きだからこの中だったら……」


 言いかけたゆっぴの口を、私は勢いよく塞いだ。同性が好きなのは、小春にも言っていない。ゆっぴにカミングアウトしてしまったのだって、夢の中だと思いこんでいたからだ。

 小春はきょとんとして、私たちを眺めている。


「えっ、なに? よく聞こえなかった」


「なんでもないよ。ゆっぴの近くに虫が飛んでるように見えたんだけど、気のせいだった」


 テキトーに誤魔化しつつ、私はまだゆっぴの口を手で押さえていた。小春がふうんと鼻を鳴らす。


「そういえば、深琴の好きなタイプって聞いたことなかったな。高校の頃は部活ばっかりで芸能人追ってなかったし、本も読んでなかった。恋愛もしてなかったよね」


 話がまずい方向に流れはじめた。


「罪セブンは知らなくても、地上の芸能人でも漫画のキャラでも身近な憧れの人でもいいから、好きなタイプ教えてよ」


 しれっと聞いてくるではないか。これでギャルが好きだと答えたら、ドン引きするくせに。


「あー、うん。健康的で性格が私と合う人が好きだな」


 上手い返事を思いつかず、下手な対応をする。小春がニヤーッと笑う。


「そうじゃない。もっとこう、クールな人とか俺様系とか包容力のある優男とか、そういうのが聞きたいの」


「んー……じゃあそれ。その三種で」


「流石にテキトーすぎ。せめてその三種から選びなさいよ」


 小春がぐいぐい来る。私はうーんと唸って、返事を後回しにしてコーヒーを口に運び続けた。

 ゆっぴが不満げに翼をバサバサさせて、私の手から逃れた。


「違うよー、みことっちが好きなのは、きらっきらでかわいい人なんだよ。ねっ、みことっち」


 ゆっぴが勝手に白状してしまう。私はこれ以上小春に悟られまいと、咄嗟に嘘をついた。


「あ、ああ、この前話した秘書課の茉莉花さんのことかな。きらきらしててかわいくって、でもそれは好きなタイプじゃなくて、ああなりたいなーっていう憧れの人ね」


「ん? 茉莉花さん? そんな話したっけ。秘書課の人かあ、あたしも会いたいな」


 アホのゆっぴは簡単に流されてくれて、私の秘密は守られた。

 見ていた小春が、ふむと唸る。

 

「深琴は仕事人間で休みの日の過ごし方も分からない、潤いのない女なんだった。男の気配なんて微塵も感じない……」


「そんな言い方……いや、合ってる」


「じゃあ、恋をしたら人生変わるかも」


 小春はコーヒーを啜り、目を細めた。


「好きな人がいて、その人と一緒に過ごす休日は楽しい。 会いたくてお洒落して、おいしいお店を調べて、毎日が輝く。いい人に出会えるように、出会いの場にでも行ってきたらどうかな」


「え、でも、みことっちは」


 ゆっぴがなにか言いかけたので、私は先に声を被せた。


「そうだねー! 私、この人かっこいいと思う!」


 ゆっぴのスマホに表示されていた、罪セブンのセンターを指差す。ゆっぴは目をぱちくりさせた。


「ルシファーくん? あれ? みことっち、男の子でもいいんだ」


「この人もきらきらしてて、かわいい系統でしょ」


 ゆっぴが余計なことを言わないように、私はなんとか流れを作る。小春はへえと感嘆した。


「あんたもルシファー選ぶか。顔は良いけど、この人の性格は深琴には合わない。こんな俺様な奴に付き合わされたら深琴が消耗してしまう」


 小春は画面の中を指さしつつ、言った。


「安らぎをくれるベルゼブブくんの方が合いそう。でも、深琴はもっと甘えてもいいと思うから、お姫様扱いしてくれるサタン……けどサタンって深琴を子供扱いしそう。だったらいっそマモンくんとかの方が……」


 小春ときたら、お節介が度を越して私に似合う人を選びはじめた。なにやらぽくぽくと考えたのち、小春はうん、と大きく頷く。


「だめだわ、中途半端な奴に深琴は任せられない。深琴に必要な人は、華のある正統派イケメンで性格は温厚、かつエスコートできる王子系で、真面目で嘘をつかなくて、高年収で実家は太く、日頃は紳士な振る舞いだけれど内に燃えるものは熱く恋に情熱的で一途で、いざというとき強引な一面もある、声の良い好青年」


「そんな人いる?」


 呆れ顔になる私に、小春はあははっと軽やかに笑った。


「冗談だよ。でも、本当にいたらこの人なら深琴を任せられる」


「まあたしかに、こんなハイスペックがいたら結婚したい」


 小春の冗談に私も冗談で返す。そんなやりとりを見ていたゆっぴが、私の顔を覗き込む。


「マジ? そうなんだ、へえ」


 赤い瞳の奥で、彼女はなにを思ったのだろう。ゆっぴのその言い方は、感情らしい感情が捉えにくかった。


 *


 その数日後。当然のようにゴールデンウィークはない我社の、五月の初頭である。


「今日から配属になった、影山くんだ」


 朝礼で部長の横に立つ、凛々しい青年。さらさらの髪にすらりと高い身長、切れ長の目が周囲を見渡す。


「初めまして。影山です。突然の配属ですが、何卒ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします」


 職場の部署に、新人がやってきた。

 新人が入ってくるなんて話は全く聞いていなかったし、時期的にも中途半端である。別の企業を辞めてきた新卒だろうか。見た感じでは、私と同じくらいの年齢に見える。

 彗星の如く現れた新人というだけでも珍しいが、社内をざわつかせたのはそれだけではなかった。

 隣の部署から、女性社員のひそひそ話が聞こえてくる。


「経理に入った影山くん、めちゃくちゃイケメンじゃない?」


「ね。営業のマミちゃん、すでにロックオンしてたよ」


「早っ。けど分かる。隣の席の科内さんが羨ましいよね」


 自分の名前が聞こえてきて、私は肩を竦めた。

 隣には、朝から増えた新しいデスク。そしてその席に着いている、美青年。


「科内さん、今日からよろしくお願いします」


 今、新人くんは、私の隣の椅子にいる。


「他部署へのご挨拶、部長から科内さんに案内してもらうよう、指示がありました。お願いしてもいいですか?」


 涼やかなきれいな声が、私の耳を擽ってくる。

 本当に、きれいな顔をした青年である。艶やかな髪は混じり気のない深い黒で、そのわりに瞳の色はやや色素が薄い。芸能人に疎い私でも、「芸能人みたいだ」と思った。

 またもや、隣の部署の女の子たちのひそひそ会話が聞こえてきた。

 正直、私は戸惑っていた。

 たしかに新人くんはきれいな顔をしている。だけれど、それだけでこんなに注目を浴びるものなのか。彼が美しいこと以上に、彼の人気ぶりの方に驚いてしまう。


 部長の指示で、今日の午前中、私はこの新人くんの案内係に任命された。午前にこなすはずだった仕事は全て午後にしわ寄せが行くのだが、それは今は考えない。

 廊下を歩きながら、私は隣の彼を見上げた。首から下げた名札に、「影山紅里」と刻まれている。


「影山くん、下の名前、なんて読むの?」


「『あかり』です」


 そう言って、新人くんは首から提げた名札を摘んだ。


「こんな名前で、しかもこの見た目だから、子供の頃はよく女の子と間違えられました。でも、覚えてもらいやすくて良いでしょ?」


 ふわっと笑った顔が眩しくて、私は咄嗟に目を閉じ、網膜を守った。オーラが違う。これがイケメンという、生まれながらにして特権階級にある者の力か。


「紅里くん、かあ。なんか、君らしい名前だね」


 何気なく繰り返すと、彼はえへ、とかわいらしく笑った。


「下の名前で呼ばれると、ちょっと嬉しくなります。前の職場では当たり前にそうだったんで」


「そうだったの? じゃあ、紅里くんって呼んでもいい?」


「ぜひ!」


 それから彼は、少し前屈みになって、私の首かけ名札を覗いた。


「俺も、深琴さんって呼んでもいいですか?」


「わあっ、それ新鮮。会社の人から下の名前で呼ばれることなんてないもん。なんか良いね、仲良し度高い感じがする」


「良かった。馴れ馴れしいかなって思ったんですけど、深琴さんさえ良ければそうさせてください」


 新人くん、もとい紅里くんは、人懐っこい笑顔でそう決めた。

 私たちは社内を歩き、各部署を回った。


「まず、私たち経理の隣が総務部。労働環境や社則、人事を扱ってる部署ね。上の階が営業で……」


 彼を連れて、営業部の部屋に入る。


「部長はあの奥のデスクの人で、こっち半分は営業一課、ここからは二課」


 紅里くんが入ってくると、営業部はざわついた。主に女性社員の熱視線だが、性別に拘わらず紅里くんは目を引きつける。ルックスが良い上に、物腰も柔らかい。営業部長やその部下の社員たちへの挨拶も、ハキハキしていて感じが良い。かなり印象が良かったようで、営業部長が機嫌良さそうににこにこしている。

 営業部への挨拶を済ませ、別の部署へと移動する。途中、私と紅里くんは雑談混じりに仕事の話をしていた。


「営業部長、かなり怖いけど、他のメンバーは面白い人ばかりだよ」


「怖い?」


「怖いというか、気難しいというか。まあ経理の部長ほどじゃないけど、お天気屋さんなんだ。機嫌を損ねなければ面白いおじさんだよ」


「それ、怖いんじゃなくて面倒くさいだけですよね」


 しばらく一緒にいて見えてきたのだが、紅里くんは結構、ストレートな物言いをする。そして私は、彼のその手の発言に納得させられる。


「まあ、それはそうだ」


 自分もそう思っていたのに上手く言い表せていなかったのを、代わりに言葉にしてもらえるのだ。

 ひととおり各部署を巡回し終えたところで、ちょうど昼休みがやってきた。私は紅里くんと共に食堂へ入り、電気ポットでお湯を沸かした。


「レトルト食品を作る人もいるから、早めに来た人がこうやって多めにお湯を沸かしておくんだ。あとね、ここにお茶があるから自由にいれていいよ。それと……」


 お昼ごはんを兼ねて、給湯室の説明をする。紅里くんは、メモをとりながら頷いていた。説明しつつ、私は頭上の戸棚を開けた。


「コーヒーのストックはここで……ひゃっ!」


 と、開けた途端、いきなり腕を引っ張られた。なにかと思ったら、紅里くんが私を引き寄せ、背後から抱きしめている。突然のことに、ぽかんとした。


「なに?」


「なにじゃないですよ」


 耳元で囁かれ、尚疑問符を頭に浮かべる。そして私は、床に落ちている包丁に気づいた。


「わ、なにこれ」


「深琴さんが開けた戸棚から落ちてきたんですよ。危うく刺さるところでしたよ」


 紅里くんが私の腕を離す。どうやら戸棚の中に強引に詰めてあった包丁が、崩れて落ちてきたようだ。改めてぞっとした。刺し所が悪かったらと思うと、あの世タイムラインに「失血死」なんて追記されているかもしれない。紅里くんが引っ張ってくれなかったら、少なくとも怪我はしていた。


「ありがとう、おかげさまで助かったよ」


「良かったです、無事で」


 言った後で、紅里くんはハッと目を丸くした。


「無事じゃない! 手、切ってます」


 彼に言われて私は自分の手を見た。たしかに、左手の薬指の先から、少しだけ血が出ている。


「なんだ、これだけか。これだけで済んで良かっ……」


 ほっとしている私の左手が、ぐんと引っ張られた。紅里くんが私の手首を掴んでいる。血の出た手のひらを彼の端正な顔に近づけ、まじまじと見つめているのだ。微かに吐息がかかってくる。よく見ると、紅里くんの唇がだんだん指先に迫ってきている。


「え、あ、紅里くん?」


 焦る私の耳に、パコンと軽やかな音が聞こえてきた。紅里くんは我に返ったように、顔を引っ込めた。音の方を見ると、総務部の女性社員がお昼ごはんの入ったコンビニの袋を、床に落として絶句していた。

 それを見て、私は今の自分の状況が誤解を与えかねないことに気がついた。


「大丈夫! 包丁でちょっと切っちゃった程度の怪我なんて怪我のうちに入らないから。気づかなかったくらい痛くないよ」


 わざわざ説明的な言い回しをして、私は床の包丁を拾った。しかし総務の彼女はまだ青い顔をしていた。


「名前で呼んでるし……」


 ああ、なんだか面倒なことになりそうだ。私は包丁をしまうなり、紅里くんを連れて食堂を飛び出した。


 *


 あのまま食堂にいるのは居心地が悪い。私は紅里くんとともに、社屋の屋上へ出た。ふたりきりでいるとそれはそれで変な噂が立ちそうだが、じっくり訂正していくしかない。

 私たちは屋上のベンチに座り、私はコンビニで買ったサンドイッチを、紅里くんは持ってきていたお弁当を開けた。


「ごめんね、強引に連れてきたりして」


 私が謝ると、彼は首を振った。


「いえ、俺の方こそ距離感おかしくてすみません」


 外の風に当たってひと息つくと、先程の出来事が鮮明に頭に甦った。突然のバックハグからの手指を取る仕草。少女漫画のヒーロー然とした振る舞いである。居合わせた総務の女の子が驚くのも無理もない。かといって、全て単なる偶発的事故が産んだ出来事なので、私自身どきどきしたりは全くない。

 私はサンドイッチの角にかぶりつき、ちらりと紅里くんのお弁当箱を覗き込んだ。唐揚げやハンバーグ、魚のフライなど、たんぱく質が多い。

 自分で作ってきたのか、家族が作ってくれるのか。或いは、彼女か。問いかけようかとも思ったが、下手な質問はセクハラに当たるのでやめておく。


「新人が来るなんて私たち全然聞かされてなかったんだけど、紅里くん自身も急な転職だったの?」


 なんとなく聞くと、彼はさらっと答えた。


「そうですね。ほんの数日前にここを紹介されて、入社が決まりました」


「紹介かあ。誰に? うちの職場の人?」


「いえ、友人を経由して……」


 と、そこへ、建物の扉が開いて隣の部署の先輩が顔を出した。


「影山くん、いた!」


 紅里くんの視線が、そちらに動く。先輩は困り顔で苦笑いした。


「今すぐ第二会議室へ行ってくれるかな。経理部長が、どうしても影山くんと話したいって」


「え? 今からですか?」


 困惑する紅里くんを見て、先輩は私に目配せした。


「いつもの癇癪。経理部長のお気に入りのマミちゃんが紅里くんの話をしてたのが気に食わないみたいでね」


 私はうわっと顔を顰めた。


「それはまずい! なんとか紅里くんを逃がせないですか?」


「私も宥めようとしたけど、本人連れてこいってしつこくて。かわいそうに、洗礼は免れられそうにないね」


 先輩は紅里くんに頭を下げて、いそいそと去っていった。紅里くんはぽかんとして、私は顔面蒼白である。


「最悪だ。あの理不尽な部長に、目をつけられちゃった」


 経理部長は我が社の癌である。

 部長は有給を取る者は弛んでいると受け取る。休んでいる間に起きるトラブルも自己責任になる。残業するときは、定時でタイムカードを切ってから続きをする。そんな絵に描いたようなパワハラ上司だ。部長に嫌われていじめ抜かれ、退職していく人は後を絶たない。

 セクハラ上司も兼ねている経理部長は、営業のマミちゃんがお気に入りだ。マミちゃんの視線を奪う紅里くんが面白くないのである。


「紅里くん、どうにかして逃げられないかな。言われるままに部長のところへ行ったら、理不尽に攻撃されるよ。最悪の場合、殴られちゃうかも……」


「そんなの、なんでまかり通ってるんですか?」


 紅里くんがきょとんとしている。私にだって分からない。


「誰もが困ってるけど誰も刃向かえないんだよ。部長はそういう子供っぽい嫌がらせをしてくる人なの。こっちが大人になって接しないと……」


 でも、今回ばかりは私は部長の思いどおりにはさせたくない。紅里くんは今日が初日なのだ。初日からあれを敵に回すなんて気の毒すぎる。しかも紅里くんに落ち度はない。なんとかして彼を守りたい。


「どうやってやり過ごそう。どうにか言い訳して切り抜ける方法……」


 どう言い訳するか必死に考えている私の横で、紅里くんは無表情で閉まった扉を眺めていた。やがてこちらを向き、微笑む。


「大丈夫。行ってきます」


 少し残っていたお弁当箱に蓋をして、彼はベンチを立った。私は一層青くなる。

 

「待って! 相手にしちゃだめ。あれを甘く見ちゃいけないし、楯突いてもいけない。逃げる方が賢いの!」


 立ち上がって手を伸ばす。しかし彼の腕を掴む前に、紅里くんは扉の向こうへ消えてしまった。

 私には、呆然と立ち尽くすしかできない。後輩がひとり、犠牲になった……。それなのに先輩である私は、彼にどうしてあげることもできなかった。

 やるせない気持ちで佇んでいると、背後でバササッと音がした。


「みーことっち!」


 びくっと振り向くと、ベンチの角に爪先立ちするゆっぴがいた。そうだった、彼女は飛べるからこうやって屋上に入ってこられる。などと感心している場合ではない。


「ひゃっ! なにしに来たの!?」


「様子を見に来たんだよ。どう? あかりんは」


「あかりん……って、紅里くん?」


 どうしてゆっぴから、彼の名前が出てくるのだろう。ゆっぴはにまーっと目を細め、前のめりになった。


「そうだよー。なにを隠そう、あかりんをここに呼んだのは、このあたし!」


「なにそれ? どういうこと!?」


 突然の告白に、頭が全然追いつかない。ゆっぴが紅里くんを、この会社に入社させた? なにがどうなったらそうなるのか。

 ゆっぴは指を一本立て、得意げに話した。


「実はあかりんはあたしの幼馴染みなんだ。なんか知らんけど仕事が定着しなくてすぐ転職する人でね、今もちょうど求職中だった」


 長く伸ばした爪はピンク色に煌めいている。ラインストーンが正午の日差しを反射して、星をまぶしたみたいだ。


「そんで、この前みことっち、ハルルが言ってたようなバチクソスパダリイケメンなら結婚したいって言ってたでしょ。あかりんはちょうどドンピシャリ」


 ゆっぴのそれを聞いて、私は先日のやりとりを思い出した。

 長すぎて大方覚えていないが、華のある外見に温厚な性格、王子の要素、真面目で嘘をつかない。落ち着いていてかつ情熱的で、時々強引……と、そこまでで、ハッとした。紅里くんの個性とだいたい一致している。すごい、少女漫画でも有り得ないと思われたそれが、実在した。

 気づいた私の顔を見て、ゆっぴがより不敵に笑った。


「そんなわけで、あかりんがここに入社すれば、あかりんは仕事が見つかり、みことっちは恋が始まり、いっせきにちょー! でしょ!」


 そうだったのか。しかし大きな誤算がある。


「私……別に、小春が言ってたような人と結婚したいなんて本気で思ってないよ?」


「へ?」


 ゆっぴが間の抜けた声を出す。


「あれ? でもみことっち、ルシファーくんかっこいいって言ったし、ハルルが言って理想の人となら結婚したいって言った」


「私の恋愛対象は男じゃないって、ゆっぴは知ってるでしょ」


 あれは、小春にバレたくなかったから咄嗟に話を合わせただけだ。


「この前ゆっぴが言ってたとおり、親友であっても知られたくないことはある。私が同性が好きなのは、小春にはまだ言う時じゃない。だから隠しただけで、私はやっぱり、どんなにバチクソスパダリイケメンだろうと好きにならない」


「そうだったん? じゃ、あかりん見ても全然好きにならないの?」


「人としては好きだけど、恋にはならないよ。大体、何度も言ってるでしょ。私が好きなのは……」


 風が吹いて、ゆっぴの蜂蜜色の髪が横に靡く。


「私が好きなのは、ゆっぴだよ」


 陽の光できらきらする髪が眩しい。黒い羽根が風に攫われていく。

 ゆっぴは顔を少し赤らめて、口を半開きにしていた。夕日色の潤んだ瞳がしばし私を見つめ、やがて気まずそうに伏せる。


「……みことっち、結婚したいって、言ったから」


 ぽつぽつと、彼女は言葉を途切れさせながら言った。


「あたしじゃなくてもいいんじゃん、って、思っちゃった」


 それはいつものゆっぴらしい弾けた声ではなく、どこか寂しげな色が差していた。


「あたしじゃなくてもいいんなら、ハルルも認めるくらいお似合いの人がいるなら、その方がみことっちも幸せかな、って」


「なに、もしかして拗ねてたの?」


 私が言うと、ゆっぴはさらにかあっと顔を赤くして、翼と尻尾を真っ直ぐ立てた。


「違うもん! みことっちがあたし以外と恋してくれれば、残りふたつの望みが簡単に出てくるだろうから、仕掛けたんだもん!」


 ゆっぴに好きだと言っておきながら別の人でもいい態度を見せた私を、ゆっぴは静かに怒っていたようだ。翼の先と尻尾をぷるぷる震わせるゆっぴを前に、私はつい、笑い出した。


「あはは。ごめんね。残念ながら私はゆっぴが好きです」


「ばか。嘘つき。悪魔!」


「悪魔はゆっぴの方でしょ」


 そこで、再び建物の扉が開いた。


「深琴さ……あれっ、ゆっぴ? なんでここに?」


 現れたのは渦中の人、紅里くんである。手には近所のコンビニの袋を提げている。

 震えていたゆっぴが紅里くんへ向かって飛び出す。


「あかりーん! みことっちがからかってくるー!」


「え、なになに。深琴さんとゆっぴ、知り合いだったんですか?」


 紅里くんが困惑している。紅里くんの方はゆっぴの事情を知らされていないみたいだ。どうやら本当に転職してきただけらしい。

 ゆっぴの考えは敢えて紅里くんに話すことでもない。私は苦笑して、彼に訊ね返した。


「うん、友達なの。それより紅里くん、部長に捕まったんでしょ。大丈夫だった?」


 私たちよりもそちらの方が余程問題だ。紅里くんはにぱっと明るい笑顔を見せた。


「はい! ちょっと血液を抜いたら、簡単に気絶しました!」


「そっかあ、良かっ……え?」


 今、なんて言った。

 耳を疑う私をよそに、紅里くんはにこにこスマイルでスーツの内側に手を入れた。


「部長、最初から顔を真っ赤にしていて、血の気が多すぎると思いまして。少し血を抜いてあげたら、すーっと青白くなってそのままぱたりです」


 スーツの中から取り出したのは、太い注射器だった。中には赤黒い液体がたっぷり詰まっている。私はまばたきもせずに絶句していた。

 紅里くんのきらきらした微笑みとは不似合いな、赤い注射器。物騒な発言。意味が分からず、頭の中が宇宙になった。

 紅里くんの隣で、ゆっぴが首を傾ける。


「おっさんの血っておいしいのー?」


「かなり人を選ぶかなー。俺は嫌いだけど、姉ちゃんが飲むからお土産に持って帰るよ」


 紅里くんが注射器をしまう。ますます困惑する私に、ゆっぴが思い出したように言った。 


「あかりんはね、吸血鬼一族の末裔なんだよ」


「きゅ!? えっ、吸血鬼!?」


 声が裏返った。紅里くんは目をぱちくりさせ、素直に頷く。


「そうです。といっても、吸血鬼の本能はだいぶ薄まってますけど……」


「本当に吸血鬼!?」


「本当です。でもちょっとたんぱく質を多めに摂るだけで、普通の人間の方と変わらない生活を送れるくらいには薄まってます。だから特に報告してなかったんですが……これ、入社前に会社に言っておくべきでしたか?」


「ま、真面目! どうだろう、それの前例を知らないからなんとも言えない」


 こんな心配をするあたり、本当に「普通の人間」と変わらないなと思う。でも言われてみれば、紅里くんはゆっぴの幼馴染だそうだから、ゆっぴと同じ魔界出身……即ち、人間ではないのだ。

 ゆっぴがにぱっと笑う。


「ウケるっしょ? 眩しいのが苦手な吸血鬼なのに、『あかり』って名前なの!」


「うるさいな、覚えやすくていいだろ!」


 紅里くんがくわっと口を開けると、一瞬ちらりと、鋭く尖った牙が見えた。そういえば、先程彼は私の指の流血をまじまじ見つめ、唇を近づけた。あれはもしかして、血を吸おうとしたのか。「落ちてきた包丁で失血死」は免れたが、その後も「吸血鬼の本能が目覚めた紅里くんが吸血して失血死」の可能性もあったとは。

 目が合った紅里くんは、にっこりしながら補足した。


「吸血鬼ですけど、誰彼構わず噛んだりしないので、そこはご心配なく。血を見ると『おいしそう』って感じるけど、本能はだいぶ薄まってきてるからちゃんと自制は効くんで」


「おいしそうだとは思ってたんだ」


「深琴さんの血はおいしそうでしたけど、部長の血はあんまりおいしくなさそうでした」


 悪気なさそうに言う紅里くんは、これまで見ていた好青年とは別人に見える。情報が一気に畳み掛けてきてくらくらしていた私だったが、部長と聞いてハッとした。


「そうだ、部長! 血を抜かれたんだよね。生きてるの?」


「生きてはいますよ。本当は、パワハラもセクハラもやめろって本人に言って喧嘩したかったですけど、部長の期限が悪くなると先輩方が困るでしょうから、血を抜くだけで勘弁してやりました」


 にこにこふわふわしているわりに、意外とえげつない人だ。小春の言っていた理想のダーリンの条件に「大胆」とあったが、こんな大胆さを見せられるとは思いもよらなかった。

 紅里くんは苦笑いで付け足した。


「戻りがてら総務部に立ち寄って、経理部長のハラスメント行為について相談してきました。総務、経理部長の横暴に気づいてなかったみたいですよ。今まで誰も相談しなかったんですか?」


「相談したの!? だって相談なんてしたら、絶対部長がキレて面倒だろうからと……」


 環境を変えるためには、声を上げなくちゃならない。だけど相手が圧倒的に強い場合、無鉄砲に戦えない。保身で精一杯になる。たとえ納得できなくても、我慢するのがいちばん賢い。

 そうやって、戦うことから逃げてきた。

 紅里くんは、にこりと相好を崩した。


「出しゃばってしまってすみません。でも、深琴さんも、他の先輩たちも、ほっとけませんでした」


 そしてコンビニの袋をこちらに突き出す。


「ということで、部長を倒したついでにお向かいのコンビニまで足を伸ばして、デザート買ってきました!」


「君、のびのび育ってるね」


 自由な彼に半ば苦笑いで言うも、紅里くんは眩しい微笑みを携えたまま袋からプリンを取り出した。クリームたっぷりの、おいしそうなプリンだ。そしてもうひとつ同じプリンを袋から出し、私に差し出す。


「どうぞ。会社の案内をしていただいたお礼です」


 ああ、なんて自然に気配りをする人なのだろう。押し付けがましくなくて、気を遣っている感じもない。ただ、彼自身がお礼をしたかった、というシンプルな気持ちが伝わってくる。


「ありがとう、いただきます」


 プリンはさらにもうひとつ出てきて、ゆっぴにも与えられた。


「はい、ゆっぴには仕事を紹介してもらったお礼」


「やったー! あかりん超イケメン」


「知ってる」


 心に余裕がある彼は、彼の中の正しさをきちんと持っていて、でもそれを他人に押し付けない。

 総務への報告もそうだ。変に考えて怯えたりせず、事実をありのままに伝える。まだそれだけだが、これは大きな一歩である。


 考えてみたら、私にも同じことはできたのだ。私たちが従事してるのはあくまでこの会社である。部長個人に尽くしているわけではない。社則以上に自分のルールを押し付けるのは、つまり社則を無視しているのであり、それは総務部から注意が行くに決まっている。

 分かっていたのに、私も他の誰も行動しなかった。耐えた方がいいと思い込んで、パワハラをのさばらせていた。

 外からやってきた紅里くんは、空気の淀んだ部屋の窓を開け、換気してくれるような存在だ。


「なんか紅里くんって、人として尊敬する」


 ぽろりと口にする。隣では、紅里くんがご機嫌な顔でプリンの蓋を開けていた。


「人じゃなくて、吸血鬼ですけどね」


「人より人として正しいよ」


 よっぽどモンスターの経理部長より、なにもできずに搾取されるだけの私より、吸血鬼の紅里くんの方が人らしく生きている。

 私も、そんなふうになれるだろうか。


「決めた。私もこれからは、無意味な我慢はやめる」


 決めたといっても、染み付いた習慣はなかなか抜けないので、すぐに実行できるとは言いきれないが。


「君のように、穏やかに戦える人になりたい」


 環境を変えていくのは、彼のような人だ。私みたいな人が我慢していたからではなくて、彼みたいな人が声を上げるから、変わっていくのだ。クリームたっぷりのプリンを見つめて、私はひとつ、小さな決意をした。


 *


 後日、衝撃の通達が出た。経理部の部長に、子会社への出向が決まったのだ。事実上の左遷である。これからは今までの総務部長が、総務部と経理部を兼任する形になった。

 朝から不在の経理部長席を一瞥し、私ははあと間抜けなため息をついた。


「急だったね。急だったけど、『やっと』でもあるな」


「今までずっと放置だったんですもんね」


 隣の紅里くんはにこにこと微笑むが、多分、今回の異動のきっかけは彼である。例の昼の呼び出しの一件で経理部長、否、元経理部長の横暴が総務にバレて、そこからメスが入った。経理部を中心に、総務からヒアリングがおこなわれ、これまでの部長の指示や改竄されたタイムカードなど、諸々が明らかにされていったのである。


 そして、この日に至る。ここのところの総務部は、経理以外の部署も含めて、労働環境の確認やハラスメントはないかのヒアリングなどに力を入れている。残業、休暇なども諸々見直され、ゴールデンウィークがなかった弊社に、今年の夏からお盆休みがあるとかないとか。会社全体が、変わろうとしている。

 紅里くんが総務部にチクった一件を、私は「環境を変える大きな一歩」だと捉えていた。だが、どうも私が思っていた以上に巨大な一歩だったようだ。


「こんなことならもっと早く告発すればよかった」


 私がもそりと呟くと、紅里くんはきれいな顔で苦笑した。

 ただひとつ、不思議なことがある。これだけトントン拍子で進んでいるのが、逆に不自然なのだ。

 総務は経理の隣の島なのだから、経理部長の横暴はとっくに気づけるはずである。それなのになんの対処もなかったから、気づいてて目を瞑っているのだと思っていた。だというのに紅里くんのひと言で、あれだけ腰が重かった総務が急に動き出した。それがどうにも、謎に思えて仕方ない。


「こんなに動けるなら早く動いてほしかったなあ……なんて、告発しなかった私が文句言える立場じゃないか」


 私はそんなボヤキを洩らし、朝のルーティンワークである書類チェックに入った。紅里くんは、にこにこ微笑んでいるだけだった。



 紅里くんのひいひいひいおじいちゃんが弊社の筆頭株主であると知るのは、まだ先である。

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