Ep.3・ディア・マイフレンド

 私が轢死しかけた日の翌日。


「ううう……やっぱり私なんか、三歳の時点で死んでおくべきだった」


 残業二時間の果てにアパートへ帰ってきた私は、膝を抱えてべそをかいていた。

 夕飯の支度をする元気はなく、私は立ち上がれずにいた。涙が出そうで出ない。悲しいというより腹立たしい、腹立たしいというより悔しい、虚しい。

 丸くなった私の背中に、チクリとなにかが当たった。

 顔を上げると、いつの間にかゆっぴが立っていて、尻尾の先で私をつついていた。


「おっかえりー、なんか凹んでるじゃん? どした?」


「わ。いつ入ってきたの?」


「さっき!」


 またベランダから入ってきたようだ。ゆっぴが出入りに使っているとなると、壊れた鍵を直しても開けっ放しにしなくてはならない。


「昨日あんなに照れながらいなくなったくせに、意外とあっさり戻ってきたね」


「別に、びっくりしただけだし」


 ゆっぴは翼をぴくっとさせつつも、気丈な態度を見せた。


「あたしの恋愛対象は女の子じゃないから『恋人になって』は……むずいけど、みことっちがあたしのこと好きなのは勝手だかんね。むしろそういう事情なら願い事を引き出すのもラクショーだし。利用してやろうと思ったわけ。さ、あんなことやこんなこと、なんでも頼みなよ」


 純情な乙女の顔で私の告白に戸惑っていたゆっぴだったが、今はもうそれを武器にしてきている。悪魔だけに、こういうところは小悪魔系である。

 たしかに、ゆっぴにしてほしいことを思い浮かべると、残りふたつでは足りない。でも、私はそれを口にはしなかった。


「なに想像してるんだか知らないけど、心が伴わないのに形だけ恋人ごっこをするのは本意じゃないよ」


 私が言うと、ゆっぴは尻尾をぴんっと張って、目をぱちぱちさせた。


「マジ? 折角好みの女がなんでもしてくれるって言ってるのに?」


「そう簡単に魂売ってやらないわよ」


 ゆっぴは今でこそ強気な態度だけれど、本当は昨晩は悩んだのではないかと、私にだって分かる。昨日あんなに戸惑いながら飛び去っていったくらいだ。ここに戻ってくるまでの間に、私とどう接していこうか、きっとたくさん考えたはずだ。そして、開き直るスタイルに落ち着いたのだろう。


「なんでもする」と言いつつも、「恋人になる」は叶えない。ゆっぴの気持ちも伴っていなければ、恋人にはなれない、という彼女の誠実さの現れだ。

 だから「なんでもする」と言っていたとしても、これは仕事として割り切っているだけ。そんなゆっぴに自分の気持ちを押し付けたいとは思わない。


 ゆっぴはちょっとつまらなそうに唇を尖らせた。


「そんなふうに言ってられなくなるくらい誘惑してやっから。みことっち、なんかめちゃくちゃ凹んでるっぽいし? 慰めてやればイチコロっしょ」


「作戦が口から出ちゃってるよ」


「で、なんでそんなに落ち込んでるの?」


 作戦の内なのはもう分かっているが、聞かれたからには話したい。私は今日の出来事を話し始めた。


「昨日有給取ったの、部長がすごく怒ってた」


「なんだそりゃ」


 ゆっぴは呆れ顔だが、私にとっては死活問題だった。昨日の豊かな休日と引き換えに、私は今日、部長からも同僚からも、冷たい視線を浴びせられたのだ。

 まず、突然の連絡で当日欠席したこと。休むのならもっと早く、一ヶ月くらい前からは報告があるべきだと叱られた。おかげで昨日一日部長の機嫌が悪くなり、部署の同僚たちが八つ当たりをくらったという。それだけでも酷い罪意識に苛まれて大ダメージを受けたわけだが、さらにデスクに丸一日分の仕事が山積みに溜まっていて、おまけに休んでいる間に起きたトラブルは私のせいにされていて、その問題解決に奔走させられたのである。


「私が休まなければ、部長があんなにへそを曲げたりしなかったし、同僚がとばっちり受けることもなかった。遊んでた分、仕事は溜まって皺寄せが今日に来て、トラブルだって」


 なにも考えずに遊んでいたバチが当たったのだ。


「うう……関係者各位に大変ご迷惑をおかけしてしまった。今後このようなことがないよう充分に留意いたしますので何卒ご容赦いただきたい……」


 徐々に声が沈んでいく私とは対照的に、ゆっぴの怒声は一気に跳ね上がった。


「はあー!? マジありえんし!? なんでみことっちが謝るわけ!?」


 翼を大きくバサアッと広げ、尖った牙を剥き出しにする。


「有給使ってなにが悪い!? なににキレてんだよ部長って役職はバカでもなれるの!? てか休みの人にトラブル押し付けるとかどうなってんの!? 根底から腐ってんじゃん!」


「それは本当にそう思う……」


 強気になれない私に代わって、ゆっぴがギャンギャン吠える。私を甘やかして望みを引き出すつもりだったはずだが、どうも今のゆっぴは部長に本気で怒っているようだ。


「もー、そのブチョーって奴がいちばんヤバヤバのヤバと見た。そうだみことっち、二個目の願い、このブチョーを殺すってのはどう?」


「めちゃくちゃストレートでびっくりした。殺さないで」


 直にストレスを浴びせられている身としては、幾度となく部長の不幸を願っているが、悪魔であるゆっぴがこう言い出すとリアルな力が働きそうで怖い。ゆっぴは腕を組んで拗ねた。


「名案だと思ったんだけどなー。職場の悪を滅し、あたしはみことっちの願い事をひとつ叶えて、みことっちは死に近づく。Win-Winだよ」


「私は死に近づきたくはないんだよ」


 私はしばらく膝小僧に額を乗せて沈んでいたが、やがてゆっくりと立ち上がった。


「凹んでても仕方ないか。明日から挽回する。とりあえず、今はごはんを食べよう」


 罵詈雑言はともかく、権利云々についてはゆっぴの言うとおりだ。つい仕事人間の本能で謝り倒してしまったが、私は有給を取っただけで、悪いことはしていない。


「おっ、今日ごはんなに?」


 ゆっぴの声がすっと落ち着く。私はキッチンに立ち、冷蔵庫を開けた。そしてびっくりする。なんと、なにも入っていない。


「うわ。無駄遣いはできないから自炊するつもりが……」


 働き詰めで買い物も行けてなかったから、なにもない。今からコンビニにでも行こうかと思った矢先、ゆっぴがふふんと笑った。


「仕方ないなー。あたしが作ってあげる」


 ゆっぴは例の魔法らしき力で、テーブルに火花を弾けさせた。そこにぽこぽことオムライスが出現する。形が崩れているし焦げてもいるが、オムライスなのは分かる。

 わっと感嘆する私の横で、ゆっぴがにんまりと口角を上げる。


「みことっち、あたしのこと好きだもんね。嬉しいでしょ」


「き、昨日まで照れてたくせに……!」


 しかしゆっぴの料理は嬉しい。上手ではないところもかわいくて、余計に心を鷲掴みにされる。ずるい奴だ。

 ゆっぴがハッと目を見開いた。


「あっ! みことっちに『手料理作って』って頼まれる前に作っちゃった。これじゃ願い事を叶えたカウントにはならない!」


 言われてみれば、ゆっぴは私が願うより先に自主的に望みを叶えてくれた。この場合は「契り」に適用されないらしい。ゆっぴがアホで命拾いした。


「やっちゃったあ。まあ仕方ない。のんびりじっくり別の望みを引き出そう」


「頼み事しないように気をつけよ。ひとまずオムライス、ありがたくいただきます」


 焦げ気味のオムライスの前に座り、手を合わせる。至福のひと口目をスプーンに掬ったそのとき、鞄の中からスマホが振動する音が聞こえてきた。

 私はスプーンを止めて、眉を顰めた。あの長さは多分電話だ。


「もしかして会社から? なにか不備があったかな……」


「ブチョーか!? よし、あたしが出る」


 なぜか勇んで応答しようとするゆっぴを慌てて抑えて、私は彼女より先にスマホを取った。そして画面に出ていた着信の文字と、そこに並んだ名前を見て、ぱっと目を見開く。すぐさま耳に電話を当てて、彼女の名前を呼んだ。


「小春!」


「やっほー、 久しぶりだね、深琴」


 電話の相手――鷲下小春は、数年前から変わらない、明るい声で私を呼んだ。

 ゆっぴが怪訝な顔で私の横に座っている。スマホに顔を近づけて、洩れ出す相手の声に耳を傾けていた。


「急に電話してびっくりさせた? 何年ぶりかな」


「上京してから一度も会ってないから、高校卒業以来じゃない?」


「えー、そんなになる? でもそうだわ、深琴、卒業と同時に地元出ちゃうんだもん。私はあんたがひとりで大丈夫か、もう心配で心配で」


 わざとっぽく声を裏返す彼女に、私はあははっと吹き出した。


「もう、私ももう子供じゃないんだよ! ちゃんとひとり暮らしできてるから、ご安心を」


 小春は高校時代の同級生で、同じ部活の仲間だった。世話焼きでしっかり者な彼女は、私にとっていちばんの友人であり、頼れる姉のような存在でもあった。

 そんな小春からと久々の連絡だ。嬉しくないはずがない。


「でもどうしたの、急に。なにかあった?」


「私、今ライターの仕事しててね。近々そっちに取材に行くんだ。ついでに深琴に会えないかなあと。どうかな?」


 その誘いに、私は一層心が踊った。


「会いたい! 絶対会いたい!」


「よっしゃ。深琴、休みはいつ?」


「えーっとね、日曜定休。だから日曜なら比較的早く仕事切り上げられるよ」


「ん? 定休、なんだよね?」


「うん。定休日だと、残業しなくていいし運が良ければ早上がりできることもあるんだ」


「なに言ってるのか分かんなくて心配になってきたな。これはますます会いに行かなくては」


 小春の声色が真剣になっていく。


「それじゃ、急で申し訳ないけど今週の日曜日でもOK?」


「いいよ。小春の方は、用事は?」


「それは大丈夫! いくらでも都合つけられるから、心配ないよ」


 軽やかなやりとりは、十年近くご無沙汰とは思えないくらい、当時と変わらない。私と小春は待ち合わせ場所と時間を取り決め、細かい打ち合わせはチャットで続きをすることにし、一旦電話を切った。

 久しぶりに小春の声を聞いた。懐かしい友達が会いに来てくれる。聞きたいことが山ほどあるし、話したいこともたくさんある。今からわくわくして、顔が締まらない。

 終話を大人しく待っていたゆっぴが、首を傾げた。


「ねえ、今の人、みことっちの友達?」


「高校の頃のね。三年間ずっとクラスが同じで、部活も一緒だった親友だよ」


「その人が会いに来るの? ブチアガるじゃん!」


 ゆっぴが翼をぱたぱたさせる。私も浮き立っていて、上機嫌でゆっぴの真似をした。


「そうなの、ブチアガるの! というわけだから、少なくとも日曜日までは私、死ねない」


 小春は、心配性で面倒見のいい女の子だった。同級生はもちろん、先輩や先生たちからも一目置かれていて、頼まれ事や相談をしょっちゅう受けていた。それでいて型に嵌った性格ではなく、言いたいことははっきりと言う。芯がしっかりしていて、裏表がない。故に、信頼されるのだ。

 一方私は部活で倒れたり、キャンプで遭難したり、それに限らず日頃からなにかとそそっかしいところがあった。そんな私を放っておけない小春は、傍で寄り添っていてくれる存在だった。

 私は改めて、スプーンを手に取った。


「いただきます。にしても、小春が来てくれるんだ。ふふ、嬉しいな」


 スプーンに乗った玉子とケチャップライスを、口へと運ぶ。玉子は塩辛いのに、ケチャップライスは味が薄い。


「高校に入学して、同じ中学から来た人がいなくて不安だった私に、話しかけてくれたのが小春だったんだ」


「ほお」


 ゆっぴも同じくオムライスを頬張る。私は懐かしい日々を振り返っていた。


「小春が先生になにかと頼み事されてたから、私もよく手伝ってたんだ。階段から落ちたりとか野球部の球が飛んできたりとかで、私がすぐ危険な目に遭うから、今思うと足引っ張ってただけかもしれないけど」


「不運絶好調じゃん、ウケるんだけど」


 皆から頼られる人気者の小春が、私を選んで隣にいてくれる。それがすごく誇らしかった。

 ゆっぴが赤い瞳で私を見つめている。


「みことっちの友達の話、めちゃ興味ある。タイムラインに流れてくるのは、みことっちが生きてるか死んでるか程度だけだかんね。過去にどんなくだりがあったのかは、みことっちから聞かないとなんも知らんし」


 小春を思い出してみると、改めて、高校のクラスにいたギャルの集団を連想する。当時はゆっぴみたいな子とはあまり交わらなかった。ただ「かわいいなあ」と、遠くから憧れの眼差しを送っていた。

 小春の方は、騒がしいギャルたちと馬が合わなかったようだ。校則を破ったり提出物を忘れたりする彼女たちとよく揉めており、「深琴はあんなのと関わっちゃだめ」と度々口にしていた。


 私はギャルに心を惹かれていたが、小春はギャルが嫌いだった。私はギャルが好きでも自分とは住む世界が違うと分かっていたし、小春と友達である手前、ギャルとつるむことはなかった。

 だが文字どおり住む世界が違うゆっぴが、今こうしてものすごく近い距離にいるのだから数奇な運命である。


 ゆっぴが尻尾をふよふよ振っている。


「小春ちゃんね、ハルルって呼んじゃお。会えるの楽しみだな」


「えっ?」


 私は思わず、口の前でスプーンを止めた。


「ゆっぴも来るつもりなの?」


「うん。だってあたしもハルルに会ってみたいし」


 なんとゆっぴは、いつの間にやら自分も小春に会う気でいた。私はスプーンを半端な位置で止めて、ぶんぶん首を振った。


「やめて、ややこしくなる! ゆっぴの存在をなんて説明したらいいの!?」


 ある日突然部屋に押しかけてきたギャル悪魔、など、まず理解されない。私だって流されているだけで、理解はできていないのに。面倒くさい説明をして小春を困らせるくらいなら、ゆっぴのことは一切隠し通したい。

 それになにより、小春はギャルが嫌いだ。


 自分がカウントされていないことに気づいたゆっぴは、みるみる不機嫌な顔になっていった。


「なんでー! ハブとか酷いんだけど!」


「ごめんね。でも小春がびっくりしちゃうから、今回はゆっぴは出てこないで。分かった?」


 説得するも、ゆっぴはふくれっ面を崩さない。


「分かんない。あたしもハルルと会いたい。ふたりでおいしいもの食べたりかわいいカフェ行ったりカラオケしたりするんでしょ? あたしも仲間に入れて! 人数は多い方が楽しいよ!」


「あのねえ、ゆっぴ。パリピギャルがいればそれはそれは盛り上がるとは思うんだけどね。でも小春が混乱しちゃうから……」


 私は苦笑しつつ、駄々っ子になってしまったゆっぴをなんとか宥めた。


「小春は大事な友達なの。変なことでギクシャクしたくないの、もうすぐ死ぬなら尚更」


 ゆっぴは肩を強ばらせた。まだ不服そうではあるが、むすっとしたまま頷く。


「分かったよ。その代わり、埋め合わせにあたしとも遊んでね? またパフェ食べに行こ」


「パフェくらいならいくらでも付き合う」


 なんとかゆっぴを説き伏せた。私はほっと胸を撫で下ろし、壁のカレンダーを見上げた。日曜日まで、あと三日。迂闊に死なずに当日を迎えなくては。

 そういえば、「小春に会いに来ないで」は二個目の願い事にカウントされないのだろうか。と思ったが、どうやらゆっぴはカウントするのを忘れているみたいで、これが二個目だとは言ってこなかった。本当に、この子がアホで命拾いした。


 *


 それから時は過ぎ、私は小春との約束の日を迎えた。

 休日出勤を終えて、定時の六時より一時間も早く切り上げる。前日に仕事を潰しておいたおかげで、早めに上がれたのだ。

 更衣室で着替えて、足早に会社を後にする。向かうは、小春と待ち合わせをしている駅前のカフェだ。


 ゆっぴの姿は、オムライスの日以来見ていない。実は今日迎えるまでに私は、一度車にはねられて、一度流れの速い川に落ちている。だが、こんな死にそうだったにも拘わらずゆっぴの影はなかったのである。小春と会わせてもらえなかったのを拗ねているのか、ぱったり現れなくなったのだ。

 内心とても寂しいけれど、おかげで残りふたつの望みをうっかり言ってしまう心配もなく、今日を迎えられた。


 駅前のカフェに着く。ガラス窓越しに、窓際のソファ席に座っている懐かしい横顔が見えた。栗色のボブカットに、大きめのピアス、凛とした瞳。私はより、駆け足になった。

 店の扉を開けると、彼女の方も私に気づいた。ソファから立って、こちらに手を振る。


「深琴! こっちこっち!」


 アイボリーの春らしいニット、すらりとした脚を包むスキニーのデニム。小春は、あの頃よりもさらに格好いいお姉さんになっていた。


「小春、久しぶり。元気そうで良かった」


 早足で彼女の席へと向かう。小春は手を伸ばしてきて、私の手のひらと手を合わせて指を絡めた。


「深琴も。なんか聞いた感じ仕事がハードそうで心配なんだけど、大丈夫なの?」


「生きてるからセーフ!」


 私は握手した手を上下にぶんぶん振った。再会の喜びで興奮してしまって、感情のままに手を揺すってしまう。小春はおかしそうに笑って手を握り返してくれた。


「あんた、なにかと鈍くさいんだから、ぼんやりしてる内に過労死したりしないでね?」


「あはは、まさかそんな。人はそう簡単にへ死なないよ」


 笑って誤魔化したが、ぼんやりしてる内に過労死、つい数日前にしかけている。ゆっぴのタイムラインによれば、もっと何回も死にかけている。

 私も席に座り、小春が先に頼んでいたのと同じ紅茶を注文した。小春が尋ねてくる。


「仕事、忙しそうね。どこに勤めてるんだっけ?」


「斜築商事!」


「大手じゃん」


 小春は苦笑気味に言った。


「ネットで話題のブラック企業ランキングで、『最大手ブラック』って皮肉られてたよ。大丈夫なの?」


「そうなんだ、知らなかった。でもそうだと知っても辞められないし……」


 小春の心配性は、相変わらずだ。


「小春は今、なにやってるの?」


「大学出て就職してすぐやめて、今はフリーライター。枠にとらわれるの、合わないみたいでさ」


 しっかり者で自信があり、芯がぶれない。自分の強みを理解しているから、堂々と自由に行動する。彼女らしい生き方だ、と妙に納得した。


「小春、部活の厳しい部則にも反発してたもんね」


「だっておかしいじゃん。買い食い禁止とか、バイト禁止とか。深琴は『そういうものなんだから仕方ないよ』なんて流されてたけどさ。今もだよ、なんで当たり前のように休日出勤してるのよ」


 お互い十年近く久しいので、積もる話が止まらない。仕事の話や学生の頃の思い出話をしているうちに、やがて小春を好いていた男子の話になった。


「小春、結構モテてた記憶があるんだけど、彼氏作んなかったよね」


「あの頃は部活忙しかったからなあ。それに……」


 小春は紅茶をひと口啜り、ちらりと私と目を合わせた。


「それに私は、深琴の方が大事だったんだもん」


 彼女の瞳が私を射貫く。獲物を見つけた鷲のような目付きに、どきりとした。


「深琴はどこか危なっかしくて、目を離せなかったのよ。すぐ怪我するし、よく分からん不運に見舞われるし。私が見張ってないと……って」


 小春は頼れる姉のような存在だった。しょっちゅう危険な目に遭う私を支えるように、寄り添ってくれる人だった。


 自分の恋愛対象が同性だと気づいたのは、小春がきっかけだった。傍にいてくれる小春の強さと優しさ、しなやかな身体つきに、私はドキドキさせられた。

 小春には言えなかったけれど、多分、あれが初恋だった。


「高校卒業したら、深琴は上京するって聞いてさ。正直、あんたをひとりにするのが心配で心配で、私もついて行こうかと思ったくらいなの。でも、そうやってずっと深琴に張り付いてるのも、深琴にとっては良くないから、やめた」


 少し自嘲気味に話し、小春は紅茶のカップを皿に置いた。


「そしたら案の定ブラック企業に搾取されてるし、それをあんまり実感してない。やっぱり誰かが見張ってないと、あんたは危ない。危ないっていうか、危うい」


 それから小春は、じっと私の目を見つめ、ため息をついた。


「あのさ、深琴。もうそんな会社、辞めなよ」


「え……でも」


 私はつい、肩を強ばらせた。


「辞めた方がいいかもとは思う。やっぱ、変だなとは感じてるし。でも、できる仕事が増えてきて、同僚とも上手くやれてるから……」


「それでも組織のやり方がおかしいよ。社員を使い捨て扱いして、人間と思ってない。深琴ならもっといい仕事あるよ。辞めなよ、そんな職場」


 小春はやはり、しっかりしている。自分の考えをちゃんと持っていて、自信を持って私に伝えてくれる。いつも私を見守っていてくれる小春が、私を想ってこうアドバイスしてくれている。

 でも、私は小春のこういうところが、昔から少し苦手だった。


 彼女の発言は正論なのだろうけれど、私自身が選ぶものまで小春が決めてしまっているような、そんな感覚。


 私は少し俯き、カップの中の紅茶の赤い円を見つめた。


「辞め、たら、私はどうしたら」


「他の仕事に就く。経験を買ってくれる会社を探すも良し、私みたいにフリーランスも良し。結婚するというのもありじゃない?」


 しっかり者で自信があり、芯がぶれない。自分の強みを理解しているから、堂々と自由に行動する。仮に私が仕事を辞めた場合、次にどう行動すべきかのルートを、すぐに複数挙げられる。小春自身も転職を経験し、成功した。彼女が選択した道に間違いはなかった。


「どうしたの、深琴。変えないと、変わらないよ?」


 そうだ、小春は正しいのだ。小春の言うとおりにすれば、私も間違えない。

 だというのに、踏み出せない。


「私も、変えたいとは思うんだけど」


 私は小春のように強くないから、小春のようには決断できない。


 小春は強くてかっこいい。だから彼女のことは好きだ。でも、彼女のその長所は時に息苦しさを感じさせた。

 だから正直、自分が上京し、小春が地元に残ると知ったとき、安堵した。この不格好な初恋に、もう囚われなくていいのだと。


 半端はところで言葉を止めた私を、小春は呆れた顔で、数秒見ていた。いたたまれなくなり、私は小さく頭を下げる。


「ごめん、折角助言してくれたのに」


 こんな気まずい空気にしたかったわけではない。どうしよう、と目を泳がせていると。


「みことっちー!」


 突然、元気のいい呼び声が店内に響き渡った。私と小春は、ぎょっと店の入口に顔を向ける。そこにあったのは、蜂蜜色の髪に真っ黒な翼、膝上三十センチのプリーツスカート、紛れもなくゆっぴの姿だった。


「なんで!?」


 ここのところ現れなかったから、油断していた。ゆっぴは翼をぱたぱたさせて、こちらへ駆けつけてくる。


「さっき外歩いてたら窓からみことっち見えてー、突撃しちゃえー! みたいな?」


「ゆっぴ最近来てなかったじゃん! 叱られて拗ねてるのかと思ってたよ」


「ん? 叱られた? いつ?」


 テーブルにやってきたゆっぴは、キョトン顔で首を傾げている。


「あたしは単に、魔界でライブがあったからしばらく魔界にいたってだけで……あっ、もしかしてみことっち、あたしが来ないから寂しかった系!? やばーあたしのこと好きすぎかよ」


 私に「来ないで」と言われた程度では、ゆっぴは全然堪えていなかった。今、それ以上に問題なのは。私はちらりと目線だけ動かして、向かい合うソファを確認した。

 唖然とした顔で固まる小春が、ゆっぴを見上げている。

 またゆっぴに向き直り、私は彼女の腕を掴んだ。


「どうして来ちゃったの。来ないでって言ったのに!」


 小春になんて説明したらいいのか分からないから、会わせたくなかったのに。しかしゆっぴは少しも動じない。にぱっと顔を輝かせ、小春を振り向く。


「そういえばそうだった! てことは、この人が例のハルル? どうもー! あたしゆっぴ! みことっち観察中の悪魔だよー!」


「ゆっぴ、もう黙って」


 ゆっぴが喋れば喋るほど、事態がややこしくなる。青ざめる私の横で、小春が口を開いた。


「あ、あんた……」


 震える声が、怒声に変わる。


「地上で翼を出してるなんて、なに考えてんのよ!」


 私は「ああもう誤魔化せない」と頭を抱えた。そしてあれ、と耳を疑う。もう一度、小春に顔を向けた。


「人間にはないパーツを露わにしてると、余計な騒ぎを起こして面倒なことになる! そんなの常識でしょ。誰からも教わらなかったの?」


 私はしばらく呆然としていた。小春が、なんだかズレた発言をしている。


「あんたみたいな教養の足りない低俗魔族のせいで魔界そのものの品格が問われるのよ。この低級悪魔!」


「んー、でもこの翼、あたしのチャームポイントだし。え、てかさ、てかさ」


 ゆっぴが黒い翼をふよふよする。


「ひょってしてハルルも、魔界から来た系?」


「はあ? 私は……」


 そこまで言って、小春はハッと青ざめた。店内を見回し、他の客や店員の反応を確かめる。大声に驚いた人々が、ちらちらとこちらを気にしていた。小春は肩身が狭そうに首を竦め、それから恐る恐る私の顔を見る。私は、まだ唖然としていた。


「こ、小春……?」


 聞き間違えではない、と思う。今たしかに、小春の口から彼女らしからぬ情報が飛び出した。まるでゆっぴが口にするような、非現実的な異界の常識。

 彼女は数秒沈黙し、紅茶に口をつけた。そして目を瞑り、再び開けた目で真っ直ぐ私を見つめた。


「今まで黙っててごめん。実は私、人間じゃなかったの」


 嘘をついているとは到底思えない、真剣な瞳だった。真顔の小春が、言いづらそうに続ける。


「こんなの、話しても信じてもらえるとは思ってない。思わなかった。敢えて言うことでもないし、言ってなかった」


 頭の処理が追いつかない。


「まさかこんなタイミングで暴露しちゃうとは。深琴が悪魔に憑かれてるなんて想像もしてなかったから、つい……」


 小春が、人間ではなかった? 高校時代ずっと傍にいてくれた、私を見守っていてくれた親友が、人間ではない?

 そんなわけがあるか。小春は私の親友で、人間だ。大体、魔界なんてそんな非現実的な話は信じない。

 ……と言いたいところだが。


「やば! ずっと隠してた感じ? ウケるんですけど」


 私の座るソファに滑り込んでくるこのギャル……ゆっぴは、まさにその非現実的な存在である悪魔だ。小春が素っ気なく言う。


「隠してたわけじゃない、言わなかっただけ。逆に、人間だとも言ってない。嘘はひとつもついてないよ」


「えっ、なになに、ハルルって魔物? 怪物? 待って、当てる当てる! えーっとお、きれいな顔してるからサキュバス? あっでもエロくはないな。美人だけど天使系の顔つきじゃないから、鬼か妖怪か、もしくは精霊か……」


 勝手にわくわく考えを巡らせているゆっぴに、小春は観念したような顔で回答した。


「ハルピュイア。コンプレックスだから、あんまり言いたくないんだけど」


「ああ、ハルピュイア! マジ!? 初めて見た。怪鳥かあ、分かんなかったわ。え、だってお茶きれいに飲んでるしー、全然ハルピュイアっぽくなーい」


 ゆっぴが両手をバチンと合わせて裏返った声を上げる。私はまだ、置いていかれていた。おずおずと、小春に問いかける。


「ハルピュイアって……?」


 すると小春より先に、ゆっぴが答えた。


「怪鳥! 下品で汚くて、ヤバヤバなやつ!」


「ちょっと! 何百年前のイメージよ。そうやってデリカシーのない奴らにバカにされ続けたから、今時のハルピュイアは汚名払拭のためにマナーを身につけてるの」


 小春が鬱陶しげにゆっぴを睨み、またため息をついた。


「ったく、そういう先入観があるから、種族自体がコンプレックスだってのに」


「あれ、そうなん? ごっめー」


「下等な魔物なのは認めるけど、あんたたちみたいな低級悪魔も変わんないでしょ。お気楽主義のバカばっか」


「言えてるー!」


 ゆっぴはけらけら笑って否定しなかった。

 ふたりの会話がどんどん進み、私はより一層分からなくなってきた。まず、小春が人間ではなく、怪物だった。そこから既に呑み込めない。

 とはいえ、困惑しているのは小春も同じだ。


「で、あんたはなんなのよ。悪魔なのは分かるけど、深琴をどうするつもり?」


「よくぞ聞いてくれた。あたしは悪魔として、みことっちを死なせに来たのだ! 望みを三つ叶えて、魂をいただく契りの関係だよ」


 なぜかしたり顔のゆっぴを、小春は険しい顔で指さす。


「やっぱり! 深琴を獲物にしてるのね」


 それからくるりと、私の方を向く。


「深琴、あんた悪魔に取り憑かれてるんだよ。こんなの近くにいるのに放っておいちゃだめでしょ」


「う、うん。だめだよなあとは、思ってた」


 謎のギャルが家に侵入していた時点で、異常事態である。かわいいから許していただけで。


「でもなんか、なんやかんやでそのままにしてて……」


「それが『取り憑かれる』ということなの!」


 小春は神妙な面持ちで、焦り気味の声を出す。


「普通だったら、こんなのに付きまとわれたら警察に相談するでしょ?」


「あ、たしかにそうだ」


 ゆっぴの存在は、頭ではおかしいと分かってたのに、追い払いはしなかった。むしろ当たり前のように会話をし、仲良く買い物をし、一緒にごはんを食べていた。おかしいことなのに、気持ちが受け入れてしまっていたのだ。


「まあ、悪魔を警察に突き出しても絶対消えて逃げるから、深琴がぼんやりしててくれたおかげでひとつ厄介事は免れたわけだけど……」


 小春が深くため息をつく。


「深琴は無意識のうちに、この悪魔に取り憑かれてたんだよ。このままじゃどんどん不幸になっていくよ」


「あー……」


 私は伸びた相槌を打ちながら、周囲を見渡した。小春のこの発言は、傍から見たら怪しいカルトへの勧誘に聞こえる。

 ゆっぴはテーブルに肘を乗せて、小春に前のめりになった。


「でもでもー、あたしがみことっちに憑いたのはわりと最近で、まだ作戦の途中だし。みことっちが何回も死にかけてるのとか、命を削るようなブラック企業に就職したのとかは、あたしの仕業じゃないよ」


 彼女はひょいと、ポケットからスマホを取り出した。


「あの世タイムライン見てて、みことっちを知ったの。三歳で死ぬはずだったのに未だに生きてて、完全に理に反してるからさあ。終わらせてあげないとと思ってえ」


「それも深琴に話したの!? で、深琴はこいつの魂胆を知ってて放っておいてるの?」


 小春が青ざめる。私は肩を竦めて苦笑いした。


「いやあ、ははは。悪魔だけど悪い子じゃないからさ」


 あまりに好きなタイプだったから、とは小春には絶対に言えない。小春は大きくため息をつき、腕を組んだ。


「あんたねえ……そうやってなあなあにするから悪魔に標的にされるのよ」


「ねえねえハルル。ハルルもみことっちのタイムライン知ってた?」


 ゆっぴが無邪気に訊ねる。小春は鬱陶しげに苛立った声で返した。


「当たり前でしょ。だから同じ高校に潜入したんだもん」


 一瞬、聞き間違えかと思った。


「深琴を見つけたのは、あんたより私が先。私が先に、深琴をロックオンしてたんだから」


「えっ?」


 今、なんて言った? と聞き返す前に、小春は突き進んでいく。


「なにがあっても全然死なない深琴を発見して、気になって近づいたの。一体何者なんだろう、って。私の場合は、あんたとは違って正体隠してたけど」


 私はぽかんとした顔で置き去りにされていた。小春は人間でなくて、しかも私が何度も死にかけているのを知って、好奇心で寄ってきていた……?

 信じがたい情報が一気に流れてきて、頭が処理を拒んでいる。


 ゆっぴは、ふうんと鼻を鳴らした。


「てことは、ハルルはみことっちを、ずっと騙してたの?」


 ゆっぴの問いかけに、小春がぴたりと静止する。ゆっぴは大きな目をぱちぱちさせ、私と小春とを交互に見比べた。


「みことっちは、ハルルのこと心の友と書いてベストフレンドだと思ってたんだよね? でもハルルは、みことっちを観察したかっただけ。みことっちはそんなことツユトモシラズ? ってやつでえ、今の今まで親友だと思ってたわけじゃんな?」


「違……」


 小春の顔色が変わる。彼女は慌てて、私を振り向いた。


「違うの深琴! たしかに最初は、興味本位で近づいた。人間と友達になるつもりはなかった。でも、今は本当に友達だと思ってる」


 しかし、なにを言われても私の頭には響いてこなかった。

 親友だと思っていた小春の、本音を聞いてしまった。彼女は人間ですらない。いや、もはやそれは大した問題ではない。

 小春は、私がなぜ死なないのか、そこに興味を持った。つまり、私の傍にいたのは、私が死ぬのを待っていたというわけか。

 思えば心当たりがある。通学路で事故に遭うときも、学校の階段から落ちるときも、隣には小春がいた。小春が私を導いて、私は小春に促されるとおりにしていた。

 彼女が傍にいてくれたのは、私を支えるためではない。突き飛ばすためだったのだ。

 私を見守っていてくれたのだと、信じていたのに。


 小春がなにか言っているが、ショックが強くて全然聞こえない。

 小春自身も言っていたとおり、彼女は嘘はついていない。勝手に人間だと、見守ってくれる頼れる相手だと、親友なのだと思い込んでいた私が悪い。

 泣きそうになったが、奥歯を噛んで耐えた。でも、この後どうすればいいのか分からない。

 と、真横からゆっぴの声が聞こえた。


「すみませーん、注文いい? たっぷり蜂蜜ミルクティーと、あとミルクレープ。それとこのいちごプリンケーキと、チョコタルトとー」


 店員を引き止めて注文している。なんてマイペースな奴だ。下を向いている私に、小春がおずおずと声をかけてくる。


「あの、深琴。ごめんね、ずっと騙してて……」


「ううん。騙してないよ、小春は言ってなかっただけ。仮に本当のことを話してくれたとしても、私、信じなかったと思うし……」


 ぼんやりする頭で、私はなぜか、小春を正当化しようとした。小春は真剣な顔で首を横に振る。


「今更謝っても遅いよね。だけど私、今日、深琴に会えるの本当に楽しみだったんだよ」


 私はというと、小春が慎重になればなるほど、卑屈になっていた。


「生きてて、がっかりした?」


「違う、そうじゃなくて」


 静かな修羅場の中に、店員の軽やかな声が届く。


「お待たせしました、たっぷり蜂蜜ミルクティーです。こちらミルクレープと、いちごプリンケーキ、チョコタルトでーす」


「はいはーい! 全部ここ置いて」


 ゆっぴが晴れやかに応答し、彼女が頼んだメニューがずらりとテーブルに並んだ。全てゆっぴの前に置かれ、テーブルが一気に華やかになる。


「やばー、めっちゃおいしそうなんだけど! ねえみことっち、ハルル、シェアしよ! その前に撮るよー!」


 ゆっぴがスマホをインカメラモードに切り替えて、自撮りの準備をする。一旦画面を高く掲げてから、こちらを振り返って大きな手振りで合図してきた。


「みことっちとハルルも、もっと寄って! 画角に入んない!」


「さっきから思ってたんだけど、あんた空気読めなすぎじゃない!?」


 ついに小春が突っ込んだ。同時に、ゆっぴのスマホカメラのシャッター音「ヘル」が鳴った。ゆっぴはにこにこと嬉しそうにスマホを弄る。


「うぇーい。加工おけー。これモンスタグラムにアップしていい?」


「ちょっと、聞いてんの?」


 小春が尖った声を出すも、ゆっぴはミルクレープにフォークを差し込み、大きな欠片をわくわく顔で口に入れた。


「おいしいー! 最高なんだけどー!」


 そしてもうひと口分削り取り、それを勢いよく小春の口に突っ込んだ。


「どう? このミルクレープ!」


 突然生クリームとクレープ生地の塊が口に飛び込んできた小春は、しばらく呆然と固まっていた。ゆっぴがまたミルクレープを掬い、今度は私の方へフォークを向けてくる。


「はい、みことっち!」


「あ、ありがとう」


 とりあえず、貰っておいた。口の中に入ったミルクレープは、きめ細かい生クリームが舌の上で溶けて、折り重なる生地が柔らかくしっとりしていた。


「わ、おいしい」


「ねー! いちごプリンケーキも食べる?」


 ゆっぴはミルクレープを食べ終わらないうちに、隣にあったピンク色のケーキにもフォークを入れた。いちごプリンのケーキは、スポンジケーキの上にいちごプリンがムースみたいに載っているケーキだったのだが、これもまたぷるぷるしていてミルク感が強めでおいしい。


「ハルルも食べて食べて。チョコタルトも、ほらほら」


 ゆっぴがチョコタルトを皿ごと小春に勧めている。小春は困惑気味に受け取り、皿に添えてあったフォークを手に取ると、ひと口大に削った。それを自分の口には運ばず、ゆっぴに持っていく。


「あんたが注文したんだから、私が先に食べるのはしのびない。はい、先にひと口」


「やったあー! ハルルからのあーん!」


 ゆっぴはテーブルに身を乗り出して、小春のフォークからタルトにぱくついた。なんだか、動物の餌やりの光景を彷彿させる。もぐもぐするゆっぴが目を輝かせ、口を片手で押さえて私に目配せしてくる。チョコタルトを指さして、なにか訴えている。多分、「すごくおいしかったから食べてみて」と勧めているのだ。

 彼女のジェスチャーを受け、小春がもうひと口分のチョコタルトを掬い、フォークを私に突き出した。


「はい」


「うん、いただきます……あ、おいしい」


 外側は少しビターなチョコレートクリームでコーティングされている。だがそれだけでなく、内側にこってりした甘さのガナッシュが包まれていて、口の中でとろけ合う。

 小春も同じケーキを口に運んで、んん、と感嘆を洩らした。


「これ、いちばん好きかも」


「あたしミルクレープかなー」


 ゆっぴが引き続きミルクレープを食べ進める。いつの間にやら、私と小春はすっかりゆっぴのペースに呑まれていた。

 ゆっぴが大きめのミルクレープの欠片を、口に放り込む。頬袋いっぱいのハムスターみたいな顔で咀嚼して、飲み込んで、彼女はまた口を開いた。


「みことっちってえ、ハルルは親友って言ってたじゃん? んでさ、ハルルはみことっちを観察対象としか思ってなかったわけだけど」


 いきなり、話題が戻ってきた。私と小春の視線がゆっぴに集中する。ゆっぴは腕を伸ばして、いちごプリンケーキにフォークを入れた。


「でも、観察対象だったのは単なるきっかけであって、そっから親友になることだってあんじゃね?」


 ゆっぴがぱくりと、ケーキを口に収める。小春はフォークを皿に置き、真顔になった。


「そうなの。たしかに私は、最初は深琴が死なない理由が気になって面白半分に観察してただけだった。深琴自身には無関心で無感情だった。でも深琴を知っていくうちに、心からあんたと友達でいるようになったの」


 改めて見ると、彼女の真剣な瞳はさながら獲物を見つめる鷲である。でも目力があるだけで、怖い目ではない。


「深琴はいつも危なっかしかった。いつしか自然にあんたを庇うようになって、途中からは意識的に……私は、いつも死にそうな深琴を守ろうと決めたんだ」


 そうだ、それだって心当たりがある。先生の手伝いで荷物を運んでいたとき、階段から落ちかけても小春が手を引いてくれた。いちばんに私を隣に置いてくれ、危険が起こる前に回避してくれた。

 小春は、たしかに私を守ってくれていた。それは私が誰より実感している。


「深琴が上京すると聞いたとき、守る人がいなくなったらあっという間に死ぬんじゃないかと思った。私以外に、誰かがタイムラインで深琴を知って、こんなふうに悪魔が死なせに来るかも、とも考えた」


 紅茶の水面に、照明が映り込んできらきらしている。


「けど深琴って、案外私がいなくても死なないし、これまでも誰も深琴のタイムラインに気づいてなかったじゃない? 張り付いてる私の方が依存してるだけかもって思ってさ。だから私は地元に残ったの」


 小春の声は、ぽつぽつと消えかけていたが、芯はしっかり通っていた。


「興味本位で近づいた私が、こんな虫のいいこと言ったって、信じてもらえないかもだけど。でも、これだけは言わせて」


 彼女はひと呼吸おいて、改めて言った。


「私は、深琴に生きててほしい」


 小春は私の体質に興味があっただけ。でも、心からの友人として付き合っていてくれたのも真実だ。それに、なにが明らかになっても当時私が感じていた楽しい時間は嘘にはならない。彼女が近づいてきた理由がどうであっても、小春が怪物だったとしてもだ。


「小春は私が死なないように守っててくれたんだね。小春が人間じゃなかったくらいじゃ、感謝の気持ちは壊れないよ」


「そうそう。ハルル、みことっちが許すって言ってんだから良いんだよ」


 なぜかゆっぴが乗ってくると、小春がじろっとゆっぴに視線を向けた。


「あんた、さっき私が深琴を騙したみたいに言ってたじゃん」


「それが悪いとは言ってないもんね。知られたくないこととか、知られない方が楽なことはあって当然じゃね? なんでもひけらかせばいいってもんじゃない」


 ゆっぴはにんまり笑うと、小春の手前にあったチョコタルトにフォークを入れた。


「親友でも、相手の気持ちなんでも分かるわけじゃないじゃんな。知らないことがあったっていいんだよ」


 チョコタルトの欠片が、ゆっぴの口に消える。小春は数秒、無言になった。おいしそうに食べるゆっぴを眺め、それから私に向き直る。


「あのさ、深琴。ごめん」


「もういいって……」


「じゃなくて。なんか私、あんたの面倒見てる気になって、支配的になってた。あんたはあんたで、ひとりでも大丈夫なのに。そう分かってたから、上京するって聞いてもしつこくしないで送り出したのに……そのときの気持ち、忘れてた」


 小春はひとつ、まばたきをした。


「仕事、辞めなよなんて口出ししちゃった。なにかと心配だけど、でも、あんたはあんたで頑張ってるんだよね。傍目に見たら今すぐそんな会社辞めてほしいけど、それは深琴が決めることで、私が命令するものじゃない。深琴が決めた深琴の生き方を、応援するよ」


「はは……そんな大層なものじゃない、けど」


 そうか。小春も自分で気づいていたのか。


 私が決めたといっても、流れに乗って就職しただけでなにかがしたい意思はなかった。でも、なんとなく辞めたくないというのは、一応私の意思である。

 小春は冷めた紅茶をひと口啜り、キッと目を上げた。


「でもでも! あんたの会社変だからね。体壊したら元も子もないんだから、 辞める気になったらちゃんと辞めなさいよ。自由とは同時に自己責任なんだから」


「分かってる分かってる。ありがとう」


 やはり小春は、面倒見のいい姉のような人だ。このお節介なくらいの世話焼きが、ちょっと鬱陶しくて、でもそれだけ想ってくれているのが伝わってくるからほっとするのだ。


 *


 それから一週間後。

 早めに仕事を上がれた日、アパートの隣の部屋に、引越し業者が入っているのを見かけた。隣が空き家だったことすら知らなかったが、どうやら近いうちに誰かが引っ越してくるらしい。

 廊下を歩いていると、開けっ放しの扉から業者と隣人らしき人のやりとりが洩れてきた。


「鷲下さーん、こちらの棚はこちらに置きますよ」


「はーい。お願いします」


 その声に、あれ、と立ち止まる。すると、扉の向こうから凛とした横顔が覗いた。艶のある栗色のボブカットに、すらりとした指先。向こうも、こちらに気づいた。


「あっ、深琴」


「小春!?」


 仰天する私に、小春はへらりとした笑顔で手を振ってきた。


「今日からお隣さんだよー。よろしくね」


「引っ越してきたの?」


「だって心配なんだもん。挨拶に行こうと思ってはいたんだけど、あんたずっと留守でさ。仕事がんばりすぎじゃない?」


「心配って……私の生活は私の責任に任せるみたいなこと言ってたのに?」


 こんなの聞いていない。小春はジト目になって声を低くする。


「仕事のことはね。でも、大事な親友がバカそうな悪魔に取り憑かれてて、放っておける奴いる?」


 ゆっぴか。私は呆然と立ち尽くし、数秒口をあんぐりさせていた。小春は拳を腰に当て、前屈みになった。


「誤解しないでね、深琴に張り付くつもりはない。私が監視するのは、あの悪魔の方。あんなの私が追い払ってやるわ」


 なんとまあ、心強いやらお節介やら。急すぎるやら。と、目をぱちくりさせる私の両肩に、ぽんと軽い衝撃があった。


「へえー、宣戦布告とはいい度胸だね」


 振り向くと、顔のすぐ横にゆっぴの横顔があった。私の肩に両手を乗せて、翼をぱたぱたさせている。足を浮かせて、空中でうつ伏せになっている。いつから後ろにいたのだろう。ゆっぴは神出鬼没である。

 小春の顔がきゅっと険しくなった。


「出たわねギャル悪魔。ゆっぴって言ったっけ? あんたの好きにはさせないから」


「あたしの邪魔をしようとかムリムリでワロじゃん。あたしの方が最強だし」


「あーもう、そのスカスカな挑発、腹立つ!」


 子供みたいな喧嘩をするふたりに挟まれて、私は間抜け面で固まっていた。

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