Ep.2・イッツ・マイフェイバリットシンクス

 平日の午前十一時。晴れ渡った空に、暖かな春風。公園の桜はだいぶ散りはじめていて、花びらが風に乗って空を翔る。

 柔らかな陽射しに目を細めた、そんな私の隣には。


「久々の散歩、気持ちいいっしょ!」


 きらきらの金髪を靡かせて、無邪気に牙を覗かせる、自称悪魔のギャルがいる。


 *


 約一時間前。

 ゆっぴに「魂を奪う」宣言をされて、私はしばらく布団の上で呆然としていた。なにせ悪魔を自称するギャルが家に乗り込んでいて、死なせると宣言された状況だ。しかもそのギャルが、自分の好みのド真ん中ときた。

 頭が思考を放棄してしまうのも無理もないと思う。こんな妙なシチュエーションに置かれた人間は、果たして私以外に存在するのだろうか。


 いろいろ訳が分からないが、物分かりのいい私は全てを受け入れることにした。

 というか、もう受け入れるほかない。ゆっぴはどう見ても普通の人間の女の子ではない。二階の窓から出入りしているあたり、黒い翼は間違いなく本物なのである。私の過去の死にかけ歴を記録しているのも、冥府の使者でもなければ知りえない。

 ……もちろん納得はしていないが、今は一旦、受け入れる。


 現実にはやはり有り得ないと思う。なんらかの目的があって、私の過去を調べ尽くしたのかもしれない。そうなってくると犯罪の匂いがするのだが、でも現状だとその証拠はなにもないのだ。


 無理に追い返しても余計に怖い思いをさせられそうだし、受け入れても入れなくても、いずれにせよ対処の方法が分からない。ならば今は彼女のペースに乗せられておいて、会話を引き出して情報を集めておくのだ。なんとなくポンコツそうだし、大丈夫だろう。


 はたと、ゆっぴの手の中のスマホに目がいった。画面左上、そこには小さな時計が、十時過ぎを示している。因みに、私の勤め先の始業時刻は九時である。

 一旦固まって、私は自分のスマホにも目をやった。聞き逃しアラームの表示と、会社からの着信が十五件入っている。


「うわあー! 遅刻だ!」


 私が絶叫するなり、スマホが会社からの着信を知らせる。ビクーッと縮こまる私を横目に、ゆっぴが勝手に応答した。


「はいはーい、みことっちのスマホでーす。今日休みまーす」


「なんでゆっぴが出て……休む!?」


 耳を疑う言葉である。ゆっぴはさっさと通話を切って、頷いた。


「うん。みことっちは今日はお仕事休みまーす」


「なんでよ! 有給なんて取ったら会社に迷惑かかるよ」


 私が声を荒らげるも、ゆっぴは全く動じない。


「そっちこそなんで? 有給は社員の権利だよ。迷惑とか関係なくない?」


「そうかもしれないけど、現実的には……!」


「現実的に、権利じゃん。使わないと勿体ないし。てかみことっち、昨日過労死しかけてるんだからリアルに休んだ方がいいし」


 悪魔だったり死神のお使いだったりなにかと意味不明な言動ばかりするくせに、突然正論をぶつけてくる。彼女はにこっと無邪気に笑った。


「休息取るのもお仕事だよ! 休んだの怒られたら、あたしが会社に乗り込んで言い返してあげる」


 正直言って、罪悪感はある。同僚や先輩は今日も仕事をしているのに、当日に急に休むと迷惑をかけてしまう気がする。しかしゆっぴがもう上司と話をつけてきまったので、今更撤回したくはない。私だって休めるなら休みたいのだ。

 今は体調に問題はないが、自覚がないだけで多分体は疲れきっている。文字どおり死ぬほど働いたのだ。何日も連続で会社に泊まったのだから、今日は休んでもいいかもしれない。と、自分を納得させる。


「分かった。今日はのんびり過ごすよ」


「よし!」


 ゆっぴは満足げににっこりすると、私の髪をくしゃっと撫でた。


「とりまお風呂入ってきなよ。昨日、その前に寝ちゃったでしょ」


「そうだった。あっ、歯も磨いてない」


 私はゆっぴに言われるまま、朝風呂へと向かった。



 お風呂から上がると、室内になにやら焦げた匂いが漂っていた。


「あーあ、まあいっかこれで。食べられなくはないっしょ」


 聞こえてくるゆっぴの呟きもなかなかに不穏だ。見ると、テーブルに真っ黒焦げの料理が並んでいる。


「みことっちお帰り。朝ごはんできたよ」


 ゆっぴが指し示す皿には、黒いそぼろ状のなにかと、黒い四角いなにかが載っていた。困惑する私に、ゆっぴがしたり顔をする。


「これ、なにか分かる? 悪魔の得意料理、ダークネススクランブルエッグと、ダークネストーストだよ!」


「ダークネスて」


「うんうん、言いたいことは分かる。そのとおり、ぶっちゃけ単に焦がしちゃっただけ!」


 ゆっぴは豪快に開き直り、皿をテーブルに置いた。


「スクランブルエッグに至っては、目玉焼き作ろうとして失敗して、慌ててフライパンから剥がそうとしたらこんなんなっちゃった。ウケる。黒すぎて却って映えるわ」


「ゆっぴの料理って、あの、指でぽんっと作る魔法でしょ? 魔法なのに失敗するの?」


 思い通りにできそうなのに、なぜこうなってしまうのか。ゆっぴははにかみ笑いで言った。


「術で時間と手順を省略してるだけだから、料理人でもないかぎり上手には作れないよ。てかイメージどおりに出す方がムズいし」


「そういうものなんだ……」


 でも、一生懸命作ろうとしてくれたのは分かる。彼女は私を死なせたいはずなのに、なぜかこうして甘く接してくる。


 自覚があるが、私はどうも流されやすい性分である。異常な事態だと頭では分かっているのに、ゆっぴのペースに呑まれて抗えない。

 彼女に促されるまま、私はテーブルに移動した。まっ黒焦げの玉子とトーストはダークネスの名に恥じない黒さだが、ゆっぴも言うとおり、食べられないことはないだろう。


「色んな意味ですごい。焦げてはいるけど、朝から作ってくれたのは嬉しいよ」


「まあね。みことっちが寝ちゃってから一旦魔界に帰ったんだけど、食材あんまりなくてさ。結局みことっちの冷蔵庫の中のもの使っちゃった」


 さらっと「魔界」などと妙な単語を挟んでくる。

 向かいに座ったゆっぴの前にも、同じく炭のように焦げている料理が並んでいる。

 ゆっぴは焦げた玉子をスプーンで解して、トーストに載せた。


「食べよ。そうそう、あたしは悪魔だから、人間と違って栄養摂るために食べてるんじゃなくて、楽しむためだけに食事をしてるんだけどさ……うえっ、苦い」


 自分で食べておいて、翼をびくっと広げて舌を出している。これだけ焦げていれば苦くて当然だろう。彼女は翼を細くいからせて、むうと唸った。


「やっぱりもっと鍛錬が必要だなー。あたしチーズハンバーグだけは上手いんだけど、他のお料理は全体的に下手くそなんだよねえ」


 並んだ朝食に手を合わせる。スプーンを手に取り、ゆっぴと同じようにトーストに載せる。顔に近づけてみたが、焦げた玉子の匂いがするだけで、薬品のような匂いはしない。恐る恐る口に放り込むと、焼きたての熱が舌の上でじわっと広がった。焦げているせいで苦味があるし固いしぱさぱさしている。でもほんのり甘みがあって、どこか懐かしい味がした。


「意外と食べられる」


「でしょ。まだ練習中で上手く焼けなかったけど、それは伸び代だから」


 彼女は悪魔であり、しかも私を殺しに来た……というくせに、こうやって健気に尽くしてくれるから調子が狂う。


「殺しに来たくせに、毒を入れたりはしないんだね」


 ちょっと冗談ぽく言うと、ゆっぴは大きな目をぱちぱちさせた。


「殺しに来たんじゃなくて、死ぬのを見届けに来たんだよ。悪魔の仕事は、人の心を惑わして望みを三つ引き出し、叶えて、代償として魂を奪うこと。それ以外の方法で人の命を奪うのは、標的から『あの人を殺して』と望まれたときだけだよ」


 焦げたトーストから、サクサクと小気味のいい音がする。


「だからわざわざ殺したりはしない。そういうの、魔界からも怒られるし」


「魔界……ねえ」


 流されやすくて受け入れが早い私といえど、ちょこちょこ出てくるこの単語に引っかかる。こういう非現実的な点にはどうしても気になってしまう。だが真っ向から否定しても無駄であるのも、すでに分かっている。


「魔界っていうのは、悪魔が住んでる世界なの?」


「んー、まあいちばんたくさんいる本拠地ではあるかな。けど悪魔は地上にも天空にも普通に暮らしてるし、魔界だけが悪魔の世界ってわけではないよ」


「ちょっと待って、地上にも? ゆっぴ意外にもこういう自称悪魔……じゃなくて、悪魔がいるってこと?」


「いるよー。結構多いよ、人間たちに馴染んでるからバレてないだけで。悪魔に限らず、ゾンビとか吸血鬼とか、そういうのもいっぱいいるよ」


 ゆっぴは焦げた玉子をぱくりと口に含む。


「隠してるわけでもないんだけど、人間はみんな、常識に囚われてるから気づきもしないんだよね」


 頭が痛くなってきた。いろいろと信じられない話が続いて、寝起きの脳がパニック状態だ。


「それらは一体、なんのために地上に……?」


 聞くと、ゆっぴはトーストの角を唇に添えて言った。


「いろいろだよ。単に遊びに来てるだけのもいるし、あたしみたいに仕事で来てるのもいるし。怪異ごとに仕事は違うから、あたしもよく知らなーい」


 焦げたパンの耳をパキッと齧り、ゆっぴはそうだ、と話題を変えた。


「みことっち、今日なにして過ごす?」


 そういえば、今日は休みなのだった。ゆっぴによって強制的に有給を消化してしまったのだった。だが本来は仕事に行く予定だったから、予定はガラ空きである。


「なにしよう。なにも考えてないよ。一日じゅう寝てようかな」


 正直、休日は体力の回復に費やしてしまって丸一日寝潰してしまう。そしてだいたい、夜に悔やむ。ゆっぴが焦げたトーストを齧る。


「後悔のないようにね。今日が命日になるかもしれないんだから」


「やめてよ……まあでも否定できないか」


 別に死にたくはないが、事実として受け止めるしかない。ゆっぴはもぐもぐと咀嚼して、改めて問うてきた。


「ここに悪魔がいるんだよー? どんな願いでも叶うの。さあ、残り二個の願いをあたしに教えてよ」


「それ、答えたら死ぬんでしょ?」


「そうだけど。じゃあ、死ぬまでにやりたいこと、ないの?」


 問われて、私は虚空を見上げた。強いて言えば、かわいいギャルとデートしたい。いや、これは口に出したらゆっぴでも引くか。他にもいろいろ思いついたが、どれも気持ち悪がられそうで言えなかった。


「いや……未成年相手に私はなにを……」


 項垂れる私に、ゆっぴが笑顔で首を傾げる。


「ん? あたし未成年じゃないよ」


「でも学生の制服みたいの着てる」


「制服風コーデ、魔界で流行ってるんだよ。てか悪魔に年齢の概念ないし」


 年齢の概念がないというのは謎めいているが、未成年ではないというなら多少罪悪感が軽減される。とはいえ、欲望をそのまま口にすればたとえ悪魔でもドン引き不可避だろう。


「特にないかな」


 答えられなくてぼかしてしまうと、ゆっぴは前のめりになった。


「趣味は? 行きたい場所とか、食べたいものは?」


「特にないかな」


「え。なんで生きてんの?」


「……死んでないから?」


 言われてみれば、私は女の子が好きである以外に趣味はない。なにか目標があったわけでもなく、ただ仕事を与えられ、こなしていただけだ。

 これに気付かされると、ますます私という人間は三歳で死ぬのが正解で、現在が無駄な延長である気がしてくる。

 ゆっぴも同じように思ったらしく、哀れみの眼差しで私を見ていた。


「マジでつまんな。じゃあさ、あたしのお出かけに付き合ってくんない?」


「……えっ!?」


 つまりそれは、口に出せなかった願望……デートではないか。


 *


 それから支度を整えて、冒頭に至る。

 ゆっぴにいざなわれるまま、私はアパートを出てすぐの公園を歩いていた。空を見上げると、ぽろぽろとした羊雲が青い空に模様を作っている。その淡い空から眩しく照らす日差しに、目を細めた。

 ゆっぴが大きく伸びをして、ついでに翼も伸ばしている。


「ここ、満開の桜も見てみたいなー。お菓子持ってきてパーティするの」


 葉桜になりかけている公園の木々から、ちらほらと白い花弁が舞い散る。天気が良くて、風が気持ちいい。


 こんな時間に外を散歩したのは、いつ以来だろう。

 平日の昼間ということもあり、周辺に人影は疎らである。だが、全くいないわけではない。小さな子供と若い母親が、公園の脇の道を歩いている。

 ゆっぴがふわっと、翼を広げて軽く羽ばたいた。彼女の体が浮き上がった。翼の運動に持ち上げられて、飛んでいる。


「えっ、飛ん……えっ、え!?」


「そりゃ翼があるんだから飛ぶよ」


 ゆっぴはあっさり言うが、先程の子供と母親は目を丸くしている。


「ママ、お姉ちゃん飛んでる」


 私は慌ててゆっぴに呼びかけた。


「ゆっぴ、飛ばないで! 下りて下りて」


「えー、折角いい天気なのに」


 ゆっぴは不服ながらも着地して、私の隣を歩いた。

 ゆっぴを珍しがる子供とたじろぐ母親の反応を見て、私は改めて、ゆっぴが私にだけに見える幻覚ではない、たしかに存在するものなのだと認識させられた。

 他人の反応など聞いていないゆっぴは、機嫌よさげに鼻歌を歌っている。スカートから伸びる尻尾が、リズムを取るようにゆらゆら揺れていた。大きく振れると、スカートの裾が持ち上がって中が見えそうでひやっとする。


「気分が良くて浮いちゃうなー。今日はデビルズメイスの新作買うんだからね!」


「デビ……?」


「知らないの!? アパレルブランドだよ」


 ゆっぴがくるっと振り向く。


「あーでもみことっちは知らないかも。ギャル系ブランド分かんなそう。そもそも無趣味だから服に興味なさそうだし」


 ゆっぴの言うとおり、私はファッションに疎い。というか、着飾っている余裕がない。今着ている服も、ド派手なゆっぴとは対極にあるような地味な白シャツにスキニーのジーパン、紺色の薄手のパーカーである。折角のデートなのに、まともな服がなかった。ゆっぴが腰を屈めて私を凝視してくる。


「みことっちって、ダサくはないけどつまんない格好してるよね。凡人。どこにでもいる。個性なし。ダダ被り。地味」


「服にこだわらない生き方だってあるのよ」


「みことっちの場合、服以外のなにかこだわってるわけじゃないじゃん。服に限らず、なにに対してもこだわりがないだけじゃん」


 あっけらかんと言い放たれた言葉は、的確に私の図星をついた。あまりにも「そのとおり」で、無趣味な私は言い返せなかった。

 ゆっぴはまた前を向き、羽根をぱたぱたさせて続けた。


「服見たら、次は今シーズンの新作コスメ見て、期間限定ハニーミルク桜餅ココア飲んで、そんでパフェ食べてー、そんで……」


 これはやはり、デートだ。私の生活における「買い物」、すなわち次の休日までの食料とか、洗剤やシャンプーなんかの消耗品の買い出しとは違う。

 なんでこの子は、こんなにきらきらしているのだろう。本人曰く未成年ではないそうだが、見た目は私より歳下に見えるし、若さゆえの元気だろうか。この華々しさは、忙しい毎日に追われる私には随分遠いものに見えた。


 公園を抜けて近道して駅に出て、そこから二駅先の繁華街へ向かう。通勤で降りる駅と同じなので私は定期で行けるがゆっぴはどうするのかと思ったら、スマホの画面を改札にピッと当てて通り抜けていた。後で聞いたら、交通費を含め地上での活動費全般、死神に申請すれば経費で落ちるのだそうだ。全く謎のシステムで人間の世界に介在してきている。


 電車の中で、ゆっぴは注目の的だった。なにせ背中から黒い翼が突き出している。そうでなくても派手で目を引く外見なのに、そのカラスのような両翼に人々は怪訝な視線を向けていた。

 ゆっぴ本人は全く気にしていない、というか気づいてもいない様子だったが、隣の私はいたたまれない。

 電車を降りるや否や、ゆっぴはすぐさま駅直通のモールへ特攻し、私ならまず立ち寄らないであろうド派手なギャル系ブランドの店へ飛び込んでいった。


「見てー! これがデビメイの新作! めっちゃかわいくない!?」


 ゆっぴが大声で私を呼んで掲げているのは、パッションピンクのヒョウ柄のミニスカートである。黒いレースがひらひら揺れ、金色のラメが店の照明を反射させる。


「かわ……うん、ゆっぴには似合う。超似合う」


 絶対に似合うから今すぐ着てほしい。ときめく私をほぼスルーして、ゆっぴは他の服にも手を伸ばした。


「でね、新しいキャミも欲しくてー。あっ、これめちゃかわいいー!」


 スカートを片手に、次々に別の服を見に行く。私はゆっぴに半ば引きずられるようについていった。店員はゆっぴの翼と尻尾はそういうファッションの一部だと思っているのか、驚く様子はない。

 似たようなデザインのキャミソールをふたつ掲げて、ゆっぴが尋ねてくる。

 

「ねえみことっち、これとこれどっちがかわいいと思う?」


「どっちもかわいい。全部買ってあげる」


「えっ、買ってくれるの!?」


 両腕に次々と服を抱えていくゆっぴを見て、私は高校時代を思い出した。クラスに必ず数人はいる、所謂一軍。派手でかわいくてそんな自分に自信があるギャルは、最強だった。

 そんな強さがかわいくてかっこよかったから、私はギャルに惹かれた。


 ゆっぴの眩しさにうっとりしていた私に、ゆっぴはずいっと、服を突きつけてきた。ド派手な店内によく馴染む、胸元の大きく開いたピンクのカットソーである。


「みことっちって、こういうの似合うと思うんだよね」


「ん!? いや、私はそんな思い切ったデザインはちょっと」


 まさか自分に充てられるとは思いもせず、肩を強ばらす。ゆっぴはそうかなあと首を傾げ、続け様に什器からハンガーを取っていく。


「スタイルいいからパンツルック似合ってるんだけど、姫系も合うと思うしー、ちょっと冒険してゴスロリとか……」


 手に持ちきれなくなったらくねらせた尻尾も使って服を持つ。器用なのは羨ましいが、彼女がチョイスするものはどれも着たことがないようなデザインばかりだ。


「待って待って、私はゆっぴみたいにかわいくないから、着こなせないよ」


 ファッションに興味がない、というのもそうだが、なにより私には似合う自信がない。どんなにデザインのいい服であっても、マネキンがこれでは服に着られてしまう。


「そういうのはゆっぴが着るものだよ。私はもっと、落ち着いた服の方がいいな」


 顔を逸らす私に、ゆっぴは真っ赤なタイトスカートを片手に持って、目をぱちくりさせた。そして目から鱗な顔で大声を出す。


「なるほど! そっちか。それも似合いそうじゃん。ありだな」


 なにやら納得したらしいゆっぴは、たっぷり抱えた服をまとめてレジへと持っていった。

 やがて、両腕に紙袋を提げたゆっぴがレジから戻ってきた。テナントを出た彼女はご機嫌な足取りで次の店へと向かう。


「デビルズメイスって悪魔向けブランドなんだよ。もちろん人間でも着られるけど、翼が邪魔にならないデザインになってんの。今着てる服もデビメイのスクールデビルシリーズっていう奴でー、ブラウスから翼を出せるようになっててねー」


「ん、なんだって? 悪魔向け?」


 なにやらまた、さらっと都合のいいことを言い出した。耳を疑う私に、ゆっぴはこくりと頷く。


「このブランド、代表とデザイナーがあたしと同じで悪魔だからさ。地上で生活する悪魔とか天使とかの羽根がある人はこういうの買ってるんだよ」


「冗談でしょ?」


 いやしかし、たしかに店の店員は、ゆっぴの翼と尻尾を好奇の目で見る電車の乗客とは違い、特に驚く様子はなかった。


「けどさー、最近のデビメイの服、翼があると着れないデザインも増えてきてるんだよね。なんでかなー」


「はは、なんでだろうね……」


 ゆっぴのペースはちょっと疲れる。苦笑いする私など気にせず、ゆっぴはガンガン続けた。


「あれかな、最近地上にいる悪魔、翼畳んでる人多いからかな?」


「ん? 翼を畳んでる?」


 一瞬聞き逃しかけたが、たしかにそう言った。ゆっぴはこちらを振り向き、頷いた。


「うん。翼って結構スペース取るから、こうやって小さく畳んで目立たなくする人もいるんだよ」


 そう話すゆっぴの背中から、黒い翼がすすすすっと縮んでいく。ぎょっと目を剥いている内に、ゆっぴの翼は彼女のブラウスにすっぽり収納された。メカニズムはどうなっているのかさっぱりだが、きれいに見えなくなっている。


「尻尾も、ふよふよしてその辺のものに引っ掛けちゃうときあるから、脚の付け根辺りに引っ込めたりとかー」


 今度は尻尾が、スカートの中に吸い込まれて隠れていく。

 翼も尻尾もないゆっぴは、パッと見ただのギャルである。


「でもさ、翼も尻尾も、あった方が絶対かわいいじゃんね? なんでしまっちゃうのかな」


 ゆっぴの背中から再び、羽根がひょこっと顔を出す。咄嗟に、私は彼女の肩に手を置いた。


「それができるならしまっておいたほうがよくない?」


「へ。なんで?」


「いいから」


「んー。分かったあ。地上って物が多くて、ぶつけて羽根傷めそうだし。尻尾は手の代わりになって便利なんだけどなあ」


 まだやや不満そうだったが、ゆっぴはその目立ちすぎる翼を収納してくれた。これならざわつく周囲の目を気にしないで済む。ほっと胸を撫で下ろし、私はため息をついた。

 隠せるのなら、初めからそうしてくれよ。


 *


 エスカレーターで数階上り、次の店に入った。今度は先程の店とは打って変わって、わりと落ち着いた、コンサバ系の店である。


「へえ、こういう感じの服も着るんだ。これも悪魔向けなの?」


 感覚が麻痺して過去一度も言ったことがないような質問をする。ゆっぴは早口に返事をした。


「ここは違うよ。普通に人間の店! みことっちがハデハデなのはイヤって言うから、このジミジミなお店も見てあげるんでしょ」


「私? いや、私の服は選ばなくていいよ」


 私なんかどうでもいいから、ゆっぴの着せ替えを楽しみたい。

 今回入った店は、デビルズメイスなる店の服よりはだいぶ私でも違和感なく着られそうな服を並べている。だがそれでもお洒落すぎて気が引ける。だというのに、ゆっぴは遠慮がない。


「このパステルカラーのスカート、かわいい!」


 ゆっぴが手に取ったスカートを見て、私は息を呑んだ。淡いピンクやレモンイエローのふんわりした春らしい膝丈のスカートで、柔らかく広がる裾が軽やかに舞う。かわいい、と、思ってしまった。着てみたい気持ちは湧いたが、脳内にいる冷静な自分が白い目をする。そんな甘やかで愛らしい色味は、甘やかで愛らしい人にしか似合わない。


「う、うーん。かわいすぎちゃうかな……」


 たじたじになる私に、ゆっぴは勢いよく勧めてくる。


「上等じゃん。かわいいに『すぎる』はないよ。ピンクかわいいよピンク!」


 と、わちゃわちゃ揉める私たちを見かねて、店の販売員が近づいてきた。


「お客様、なにかお困りですか?」


 私はびくっと縮こまった。こういう店に限らずだが、店員に話しかけられるのは苦手である。殊に、全く分からない服のことでゆっぴにゴリ押しされている状況だ。苦手要素がさらに加わり、内心絶体絶命の気分だった。

 一方、コミュ力オバケのゆっぴは臆することなく販売員に向き合う。


「あたし絶対このスカート、みことっちに合うと思うんだけど、みことっちがビビってんの! かわいすぎて怖いんだって。ウケるよね」


「ああ、甘めのお色に抵抗があるようでしたら、ピンクよりこっちのシックなパープルの方はどうですか?」


 販売員が什器から、同じ形の色違いを取った。しっとりした藤色である。これはこれでやはりふんわりと甘い色なのだが、他の色より幾分か大人っぽく見える。

 少し心がぐらついたが、それでもまだ気恥ずかしい。


「えっと……でも、紫は着たことなくて、難しそうっていうか……」


「そんなことないですよ! 白と合わせれば間違いないですし、甘めのコーデが苦手でしたら黒やグレーなら大人っぽく纏まります」


 販売員が目をキラキラさせて、近くにあった白いトップスをスカートに重ねた。それを見た瞬間、私はつい、あっと口をついた。柔らかな藤色が、白に映えている。それは公園で見た桜の花弁のような、春らしくもしっとりとした雰囲気を纏っていた。

 私が惹き付けられたのを感じたのかどうなのか、ゆっぴが盛んに加勢した。


「そうそう! ネイビーも合うしベージュも合うよ。勇気が出てきたら思い切って黄色系と合わせてもかわいいよ! 反対色だからすっごく主張する!」


 ゆっぴの提案に、販売員のテンションがさらに上がった。


「いいですね! こちらのスカートのお色でしたら色味が落ち着いてますし、反対色と合わせても引き立て合うけど喧嘩はしない、いい色合いになるかと!」


「差し色で入れてもかわいいんじゃない!? このネックレスとか!」


 第二の店員みたいになっているゆっぴが、黄色い大ぶりのビーズのネックレスを持ってくる。パステルカラーの藤色のスカートに白いカットソー、そこへ黄色いネックレスが加わり、一層華やかになった。

 見ていた私はもう、「でも」とは言えなかった。釘付けになって、目を離せない。今目の前にあるそれが、魅力的で仕方なかった。服に興味がなくて自分がどういうコーディネートが好きかすら知らなかったけれど、そうか、私はこういうのが好きだったのか。

 固まる私に、販売員がにこりと微笑む。


「ご試着なさいますか?」


「はい……」


 考えるより先に、返事をしていた。

 試着室に入り、着替えてみて、自分で自分に驚いた。

 もしかしたら私には、ある種の変身願望があったのかもしれない。

 着たことのないような甘いスカートに、包み込むような優しい白、花を添えるネックレス。ついでに、普段なら汚れるのを気にして手を出さない、白いパンプスも合わせた。


 体じゅうに“初めて”を纏った私は、試着室の鏡を見て口の中で呟いた。「いいかも」と。


 ただ、服がかわいいだけに、荒れた肌や傷んだ髪が折角の服を台無しにしている気がする。やはり私には不相応か。だんだん冷静になってきた私は、ひとつため息をついてカーテンを開けた。正面で待っていたゆっぴが、ぱあっと顔を輝かせる。


「かわいー! 完璧! パーフェクト! あたしの目に狂いはなかった。みことっち絶対似合うと思ったよー!」


 惜しみなく褒めちぎる彼女には面食らう。販売員も大袈裟にリアクションしてくれて、私はより面映ゆい気分にさせられた。


「けど、やっぱり私には華やかすぎないかな……。身の丈に合ってない気がするよ」


 苦笑いをするも、ゆっぴは退かない。


「そう思うなら、服に似合うみことっちなっちゃえばいいんだよ。ぶっちゃけ気に入ってるんでしょ?」


「う、うん。それは、すごく」


「じゃあ買うしかないじゃんな。お姉さん、これ全部買いまーす」


 本人である私の意思を確認する前に、ゆっぴがもう決めてしまっている。ちょっと戸惑う私に、ゆっぴはニヤリと笑った。


「迷うな、大丈夫。泊まりがけの連勤を戦い抜いたみことっち自身へのご褒美だよ」


 彼女のスカートの裾から、尻尾がちらっと顔を出す。

 普段なら無難なデザインの安い服ばかり買ってしまう私には、思い切った買い物だった。でも、不思議と無駄遣いだとは思わない。ゆっぴが販売員以上に嬉しそうに飛び跳ねる。


「お姉さん、このまま着ていってもいい?」


「もちろんですよ」


「えっ、このまま!?」


 勝手に話を進められ、私はいつの間にか流された。当初着ていた服を店の袋に詰めて、買ったばかりの新しい服で、再スタートを切ったのだった。


 *


 ゆっぴに連れていかれるまま、ブランドコスメの店にやって来た。ゆっぴ自身の買い物についてきただけだったはずだが、ゆっぴは先程の店で私に服を選んだのが楽しかったらしく、ここでも私に合う化粧品をコーディネートしはじめた。


「みことっち、普段どこのなに使ってる?」


「えっと、ドラッグストアで安くなってたやつ……」


「ふうん、それ使い心地いいの? 気に入ってる?」


「気にしたことなかった」


 たじろぐ私に、ゆっぴは呆れ気味に目を細め、店内を歩いていく。


「ひとつくらいお気に入りのコスメ持っときなよー! ほら、好きなの選んで!」


「そんなんいきなり言われても。どれがいいのかさっぱりだよ」


「えー、あたしが使ってるおすすめのは……あ、あたしの煉獄の限定コスメだからここには置いてないや」


「煉獄の限定コスメ」とはなかなかエッジの効いたフレーズである。


「こういうのはね、好きなのを使うべきなんだよ。高いのを使えっていうんじゃなくてね。まず肌との相性がいいこと。次に、合わせたい服の色とのバランス、なりたい自分のしてみたいメイクに合った色、あと使いやすさ」


 言いながら、ゆっぴはリップを一本手渡してきた。


「それから、見た目のかわいさ」


 銀色のボディにピンクのラインストーンが散りばめられた、かわいいデザインだ。きらきらしているけれど派手すぎず、どこかシャープな印象すらある。それを持ったゆっぴは、いつにも増してかわいい。胸がぎゅっとなって、直視できなかった。


「うっ……かわいい」


「じゃ、これ買おっか」


 自分に言われた「かわいい」をリップの評価だと思ったらしく、ゆっぴは私にリップを押し付けてきた。私としては、自分なんかを飾るのは気が引けてしまう。


「さっき服買ったばかりなのに、これも買うのは贅沢すぎるんじゃ……」


「なに言ってんの! 服買ったばかりだからこそだよ!」


 ゆっぴの声は、いちいち大きい。


「かわいい服買ったんだから、みことっち自身も最強にかわいくならないと。自分目線で最強を選ぶんだよ!」


「じゃ、じゃあこのリップ!」


 ゆっぴから渡されたリップを握りしめると、ゆっぴは満足げに口角を吊り上げた。


「それね! 同じシリーズのファンデもパッケージかわいいんだよ。アイシャドウも新作でめっちゃかわいい色のが出てた。こっち!」


 彼女は活き活きと店内を早歩きして、私を誘う。私はまたもや流されて、コスメを一式、買い揃えてしまった。


 続いて有名なカフェチェーンへ連れ出され、春の限定ハニーミルク桜餅ココアを飲んだ。桜の香りのするココアの甘いドリンクで、トッピングのクリームには蜂蜜がたっぷりかけられている。もちもちの白玉がおいしかった。


 その足で今度はオープンしたばかりのジェラート店に向かい、途中で気になったアクセサリーショップを覗いて、ゆっぴと色違いでお揃いのシュシュを買う。


 ちょうどお腹が空いてきた頃にジェラート店に到着し、ゆっぴと一緒にいちばん大きな蜂蜜チョコパフェを頼んだ。席に運ばれてきた豪華なパフェを前に、ゆっぴが目を輝かせる。


「ひゃー! 最高! パフェは天才。最初から最後までおいしいもんね!」


 バケツかと言いたくなるような巨大サイズのパフェは、たっぷりの生クリームに蜂蜜とチョコソース、グラスの中にはクリームの絡んだクッキーやフルーツがぎっしり詰まっていて、子供が描く夢のようだった。私自身甘いものは好きだけれど、この量にはたじろいでしまう。


「これ、ものすごいカロリーなんじゃ」


「関係ない関係ない。だって絶対おいしいもん」


 向かい合うゆっぴが、謎の理論で論破する。そして派手なカバーのスマホを掲げたかと思うと、そこから「ヘル」と変な音がした。どうやらパフェの写真を撮った、シャッター音だったようである。きらきらネイルの指先が、スマホを素早く操作している。


「パフェめちゃかわいいー。あっ、すごい! モンスタグラムにアップしたらすぐいいね付いた!」


 スマホを左手に、右手でスプーンを持つと、ゆっぴはパフェという巨大な山の山頂を大きく削ぎとった。クリームの塊を口に運び、再度スマホに目をやる。


「あっ、コメント付いた。『後ろに写ってる人間おいしそう』だって。やば」


 半笑いの実況が恐ろしい。誰向けのなにに写真をアップして、なにからコメントが付いたのか、怖くて聞けなかった。

 椅子の脇には、紙袋が所狭しと積み置かれている。ゆっぴの分もだが、私の買ったものも随分ある。こんなに買い物をするつもりはなかったのだが、気づいたらこんなに満喫してしまっていた。それもこれも、ゆっぴが私を唆すからだ。

 ゆっぴがスマホをテーブルに伏せて、その左手を自身の髪に移動させた。髪の結いめに指を置き、そこを彩るシュシュに触れる。


「へへ、これ気に入ったなあ」


 彼女の嬉しそうな顔を見て、私も、肩から垂れる自分の髪に触れた。耳の下辺りに、ゆっぴと同じシュシュがある。ゆっぴのはピンクのチェック柄で、黒いリボンの飾りがあり、私のは黄色のチェック柄、リボンは白だ。それぞれをお互いに、今日買った服の色と合う色を選んだ。

 こうやってアクセサリーをお揃いで買うのも、高校時代が最後である。なんだか青春に逆戻りしたみたいで、胸が弾んだ。


 ゆっぴに倣ってスプーンを取り、パフェの側面からクリームと蜂蜜、チョコソースの溶け合う一角を掬う。口に持っていくと、とろけそうなほど甘かった。


「おいしい。すごく贅沢な気持ち」


 頬が緩む私に、ゆっぴは牙を覗かせてにんまりした。


「それくらいの贅沢がみことっちには必要だったんだよ。たくさんお仕事して頑張ったんだから、突然有給取って、好きな物買ってかわいくなって、甘いものたーっぷり食べていいんだよ!」


「そうなのかなあ」


「そうだよ! だって今日、楽しかったでしょ?」


 ゆっぴに真っ直ぐに尋ねられ、私はスプーンを咥えて数秒黙った。そうだ、今日、私は。


「楽しかった。すごく」


 買い物の楽しさ、好きなものを選ぶわくわく感、おいしいもので満たされること。ここのところ、すっかり忘れていた。


「ありがとうゆっぴ。ゆっぴのおかげで、楽しかった」


 思い出した。私はこういう幸福のために仕事をしていて、幸せになるために生きているのだ。

 ゆっぴが私を連れ出してくれて、いろんなことを教えてくれたから、この充実感を思い出せた。


「シュシュ、大事にする」


「シュシュ以外もなー」


「あはは、そうだね」


 なんて居心地がいいのだろう。いつの間にか、ゆっぴが悪魔だとかなんだとか、どうでもよくなっていた。

 巨大パフェは、ふたりでぺろりと食べきれてしまった。店を出る頃には、日が傾きはじめて空の端っこがほんのりオレンジ色になってきていた。


「そろそろ帰ろっか!」


 ゆっぴが駅へと向かっていく。私は頷いて、名残惜しく一歩を踏み出した。この楽しい一日が終わってしまうのが、勿体ない気がしてしまう。

 まったりとした平日の街を抜け、駅に着き、ホームに立つ。最初は私とゆっぴしか並んでいなかったが、数分も経つと後ろに列ができていた。平日の夕暮れ前なのに、意外と混んでいる。ホームにアナウンスが響く。


「三番線、快速電車つきとじ行きが、ホームを通過します。危ないですから、黄色い線の内側へお下がりください」


 隣にいるゆっぴのポニーテールには、私とお揃いのシュシュ。今日は本当にいい日だった。少し、自分を好きになった。明日もそんなふうでいられるといいのだけれど。


 そんなことを考えていたときだった。

 とん、と、背中に衝撃が走った。


 え、と思う頃にはすでに私の体は傾いていて、浮いた足が線路へと滑り落ちていく。一瞬、時間が止まったように感じた。線路の上に、ドシャッと崩れる。なにが起きたか分からず、数秒間、座り込んでいた。人の悲鳴、電車の音が、間近に聞こえる。買ったばかりのパンプスのヒールが折れている。顔を上げると、ホームに並ぶ人々が血相を変えてこちらに身を乗り出していた。


「女性が落ちたぞ!」


「早く上がってこい!」


 そしてその人々の真ん中に、ゆっぴがいる。

 彼女は大きな目をぱちくりさせて、唖然とした顔で私を見下ろしていた。


 体が動かない。唐突すぎて、頭が働かない。こういうとき、どうするんだっけ。

 しかし私が動けなかろうと、電車には関係ない。ファンという音にびくっと振り向くと、非情にも轟音はみるみる近づいてきていた。

 足が動かない。全ての音が聞こえなくなる。やけに長い一秒の後、額の数センチ先に、車両の先端があった。


 *


 そこから先は、なぜかあまり覚えていない。

 気がついたら、私は駅のホームに引き上げられて、そこにいた人々に囲まれていた。


「無事で良かった! 奇跡的に怪我ひとつないなんて、本当に運がいい」


 人の良さそうなおじさんが私に声をかけてくる。その横には、中学生くらいの男の子ふたり組が頭を下げていた。


「ごめんなさい、俺たちがはしゃいでて、お姉さんにぶつかってしまって……」


 聞いたところによると、私はどうやら、後ろで遊んでいた中学生たちに体がぶつかり、その勢いで線路に転落したらしかった。隣にいたゆっぴは、絶句して立ち尽くしていたという。

 すぐに駅員が駆けつけてきて、座り込む私に目線を合わせてしゃがんでくれた。


「大丈夫ですか。お怪我は?」


「ない、と思います」


 不思議なくらい、どこにも痛みがない。ただ、買ったばかりの藤色のスカートと黄色いシュシュが、少し汚れてしまった。


「怪我がなくて良かったですけど、よく無事でしたね。ホームの下に逃げ込んだとか?」


 駅員が驚きを隠せず問うてくる。私ははあ、と間の抜けた返事をして首を傾げた。

 ホームの下に逃げ込んだ……その記憶がない。

 頭が割れるようなブレーキ音、金属の塊に勢いよく体を弾かれる感覚、そういったものが断片的に脳の端に残っている、気がする。電車にはねられた、その感覚がある。

 だがそうだとしたら私の体はとっくにばらばらになっている。結果的にこうして生きているのだから、やはり目撃者各位の言うとおり、運良く隙間に滑り込んで助かったのだろう。


 ゆっぴはまだ、無言だった。私が死ぬと思って驚いたのだろうか。彼女はひとつ、ゆっくりとまばたきをして、スマホの画面に目を落としていた。


 *


 数時間後。私は自宅アパートの扉を開けて、癖になったフレーズを繰り出した。


「ただいま」


 そして靴を脱ぐ前に、玄関前の床にぱたんと突っ伏す。


「はあ、疲れた」


 あの後、念の為検査をするといわれ、私は救急車で病院へと連れていかれた。ひととおり検査をされた結果、異常なし。かすり傷ひとつなかった。それからタクシーでアパートに帰してもらって、今に至る。

 自分に全く怪我がなかったのだから、ただ電車のダイヤを乱してしまった罪悪感だけが残っている。


 ゆっぴはというと、いつの間にかいなくなっていた。多分、救急車に乗り込む辺りですでにいなかった。どさくさの中で置いていってしまって、そこからコンタクトを取っていない。

 すっかり昔からの友達みたいに遊んでいたが、考えてみたらゆっぴは昨日出会ったばかりであり、私は彼女の連絡先を知らない。先にここに帰ってきているかもなんて思ったりもしたが、部屋は真っ暗で、彼女の気配はなかった。


 まあでも、当たり前である。繰り返しになるが、ゆっぴは昨日出会ったばかりの、自称悪魔の不法侵入ギャルである。冷静に考えると、むしろくっついてきている方が危険な存在だ。これで振り払えたのなら御の字である。めちゃくちゃ好みの顔だから残念ではあるが。


 床に頬をつけて、私は大きなため息をついた。放り出された髪の毛の束に、黄色いシュシュが絡んでいる。線路で汚れてしまって、茶ばんでしまった。

 それを見ていたら、対のピンクのチェックを思い浮かべてしまい、胸がぎゅうっとなった。


「ゆっぴ……」


 呟いたそのとき、部屋の奥でカラッと音がした。次の瞬間、奥のリビングの電気が点いて、目の前がぱっと明るくなる。


「あっ、みことっちー。おかえり」


 目を上げたその先には、蜂蜜色の長い髪と、突き抜ける黒い翼、くるんと伸びた尻尾があった。


「ゆっぴ?」


 またベランダから入ってきたようだ。


「ごはんいる? パフェ食べてあんまし時間空いてないけど」


 ゆっぴは私の前にしゃがむと、手に提げていたコンビニの袋を顔の上に掲げてきた。


「コンビニのパンいっぱい買ってきたの。甘い物食べたら塩気が欲しくなるじゃんな? だから焼きそばパンとか、ちっちゃいチーズのフォカッチャとか」


「ほ、欲しい」


 ゆっぴはどうもこう、絶妙に私を甘やかす。

 彼女はニッと笑うとリビングへ戻り、テーブルにパンを並べはじめた。私は疲れた体をのっそり起こし、ゆっぴの待つリビングへと足を引き摺っていく。なんだろうか、自称悪魔の不法侵入ギャルが部屋の窓から入り込んできたというのに、安心している自分がいる。

 テーブルにつくと、ゆっぴはポンと手を叩いた。


「あっ、そうそう、みことっち!」


 それまでにこにこしていたゆっぴが、急に険しい顔になる。スマホの画面を上にして、テーブルの上、私の正面に置く。私はその画面を覗き込み、目が飛び出しそうになった。


『二十六歳・四月X日四時三十二分・轢死』


「れ!?」


 変な声を出す私を前に、ゆっぴは残念そうな顔で焼きそばパンを開ける。


「そうなの。やっぱりなーって感じ。みことっち、電車にひかれて死ぬはずだったのにまた死にそびれたんだよ」


 そうだった。楽しく遊んですっかり油断していたが、ゆっぴは自称悪魔の不法侵入ギャルである上に私の死を望んでいるのだった。


「もしかして、線路に突き落としたのはゆっぴだったの……!?」


「いんや? それは普通に、後ろにいた中坊くんたちだけど」


 ゆっぴはぱくっと、大きな口で焼きそばパンにかぶりついた。


「あと少しで死ねたのにねえ。これでつまんなすぎる働き蜂人生とおさらばチャンスだったのに……」


「あの、それなんだけど……」


 私は並んだパンの中から、チーズのフォカッチャを選んだ。


「ゆっぴが思ってるほど、私の人生、つまんなくないかもしれない」


「嘘ん。平日は朝から朝まで働いてて、休日は無趣味でやりたいこともなく寝てるだけの人生なのに?」


 ゆっぴが怪訝な顔をする。私は自分の髪の結び目に、指先を重ねた。


「なんか今日、生きてるのって楽しいなと思った」


「それはあたしがいたからじゃん」


「そうなの。私、ゆっぴがいると楽しいんだよ」


「ふうん」


 ゆっぴは焼きそばパンをもぐもぐかじる。私はもう一度、改めて言った。


「ゆっぴ。私の二個目の願い、『一生一緒にいて』だよ」


「あれ? それ、眠くて変なこと言っただけだと思ってた。覚えてたんだ」


 ゆっぴは昨日の私の発言を聞き流していた。でも、私は寝ぼけたわけでも言い間違えたわけでもない。


「私はゆっぴが好きなの。惚れてるって意味で。だからこんなめちゃくちゃな状況にされても、『まあいっか』って思えるの」


 どうせ残りの人生が短いなら、最期は思いっきり楽しみたい。


「お願い。どうか私が三個目の願いを言うまで、恋人でいてください」


 告白なんて、人生で初めてだった。出会って二日の自称悪魔に、自宅でコンビニの菓子パンを摘みながら……こんなシチュエーションで。

 ゆっぴはしばし呆然としたのち、ぶわっと顔を赤らめた。


「えっ……ま、マジで言ってる? みことっちもあたしも、女の子……え、そういうこと?」


 私の半生を知るタイムラインを見ていても、私の秘密は知り得ないみたいだ。ゆっぴはギャルなのに純情な乙女の顔で戸惑って、私の目をしばらく見つめて、やがて目を逸らした。


「えっと……二個目は、ちょっと……保留で」


 そしてパンを咥えて、いそいそと立ち上がり、ベランダへと逃げ出していく。


「保留? 折角こっちから二個目の願い事言ってるのに」


「ほふぅっはら、ほふぅ」


 パンで塞がれた口で「保留ったら保留」と訴え、ゆっぴはベランダの柵を超えて飛んでいった。私は彼女の消えた夜空を、テーブルから見つめる。


「かわいすぎ」


 チーズのフォカッチャは、もっちりしていておいしかった。

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