マイスイート・ハニーデビル #マイハニ

植原翠/授賞&重版

Ep.1・アイアム・ワーカホリック

 熱を持った指が、私の頬に触れる。


「やば。ドキドキすんね」


 黄金色の髪が、彼女の耳に、首筋に纏わりついて、白い胸へと延びている。私を見つめて離さない潤んだ瞳は、夕焼けの海のよう。

 桜色に色づいた唇が割れて、尖った牙がちらりと覗く。


「ねえ、みことっち。してほしいこと、教えて」


 彼女の柔らかい肌の感触は、触れるだけでも気持ちいい。吐息が、耳を擽る。


「してほしいこと、したいこと、一個ずつ確認してこ。全部、あたしが叶えてあげる」


 私を甘やかす、悪魔の囁き――。

 ああ、だめにされる。



「次はー、みつばち町、みつばち町」


 電車の社内に響いたアナウンスで、私は目を覚ました。しまった、座席で寝ていた。しかもなんか、ちょっとヤバい夢を見た気がする。

 会社で三徹してやっと帰れると思ったら、気が抜けてしまった。いかがわしい夢を見てしまったのも、多分、疲れているからだ。


 私は大きくため息をついて、声に出して呟いた。


「さっきの夢の子……めちゃくちゃタイプだった……」


 科内深琴、入社三年目の会社員。

 こんなこと誰にも言えないけれど、女の子が好きだ。


 四月、春なのに穏やかな陽気とも恋の出会いとも無縁の、自宅と職場の往来だけの日々が私を燻らせている。 

 自宅アパートの最寄り駅で電車を降りて、日の落ちた住宅街で体を引きずる。


 二年目の後半に入ってからは深夜残業が当たり前になってきて、帰ってきて炊事はおろか食べ物を口にする気力もなく、気絶するように眠り、早朝からまた会社に出かけ。ここのところ数日に至っては、自宅アパートに帰る余裕すらなく、会社に泊まって仮眠室で浅い眠りを繰り返している。


 今日は久々に帰ってこれた。しかし数時間もすればまた出勤である。

 そういえば、ベランダのガラス戸の鍵がぶっ壊れて久しい。大家さんに連絡するのが煩わしくて、長いこと放置している。あれもなんとかしなくては。

 仕事でいっぱいいっぱいで、なにもできていない。


 こんな私の願望は三つだけ。

 おいしいもの食べたい。ゆっくり寝たい。そして。


めちゃくちゃかわいい金髪ギャルに優しくされたい……。


 女の子が好きだ。恋愛的な意味で、自分と同性の、女の子が好き。特に私のような陰キャに無関心の、明るくてかわいい太陽みたいなギャルが好きだ。

 頭の古い会社にも、昭和で止まっている両親にも、友達にも、女の子が好きだなんて絶対に誰にも言えないけれど。


 金髪ギャルとイチャイチャしたいあまりに、うたた寝したら夢に見てしまう有様だ。電車で見た夢の理想の美少女に想いを馳せ、私は遠くを見つめた。

 実際、陰キャに優しいギャルなんて都市伝説なのだから関わる機会もないわけだが、妄想くらいいいではないか。


「うう……さっきの夢の続き、見たい」


 帰って寝たら、またあの子の夢を見られるだろうか。

 アパートに帰り着いた。部屋の鍵を回してガチャリと扉を開けると、数日帰っていなかった八畳半ワンルームが私を出迎える。


「ただいま」


 誰もいない部屋に向かって言うそれは、私の中にいつの間にか根付いた習慣である。ひとり暮らしのワンルームに帰ってきても、「おかえり」が返ってくることはない。

 だがある種の儀式というか、そんな形式ばったものではないが、なんとなく言わないと気が済まない。だから私はいつも、虚空に向かって「ただいま」を唱える。


 ああ。こんなとき、同棲の恋人がいたら。帰ってきた私に「おかえり」と言ってくれる、明るくて華やかなギャルがいたら……。


 などと溶けた頭で鬱々と考えていると。


 テレビの音がする。コンソメの匂いがする。死にかけの頭が、死にかけなりに違和を感知する。

 そして、その部屋の真ん中。散らかったローテーブルの前に座る、背中。

 呆然とする私に、その少女は顔だけ振り向いた。


「おー! おかえり、みことっち!」


 蜂蜜色のロングヘアに、夕暮れのような赤い瞳。ニカッと笑った口から覗く、尖った牙。

 背中から伸びる、真っ黒な翼。


 とすっ。

 と、胸に矢が刺さる音がした。

 ひと目惚れだった。


「帰ってくんの遅すぎウケる。あ、お菓子食べる?」


 イカれたワーカホリック三年目。

 ついに私は、幻覚が見えるようになったようだ。


「……ん?」


 スナック菓子の匂いが充満するワンルームに、見知らぬギャルがいる。


 伸ばした金髪はゆるく巻かれて、毛先に向かってフラミンゴ色に染まっていた。その髪を高く結い上げて、ぱっちりした目は睫毛の先まで抜かりなくメイクが施されている。どこのものだか分からないが学生らしき制服の膝丈十センチくらいのミニスカートからは、きゅっと引き締まった脚が投げ出されていた。

 ギャルだ。さっき夢に出てきたような。まさに、私の趣味のド真ん中の。


 談笑するテレビの雛壇芸人。エアコンで調整された快適な室温。目の前にギャル。思わず、持っていた鞄をその場に垂直に落とした。


 そんな私の反応は対して気にもとめず、ギャルはマイペースに言った。


「科内深琴ちゃん、みことっちだよね」


 しかもよく見たら、いや、よく見なくても、ワイシャツを貫通して背中から真っ黒な翼が伸びている。


 ギャルはスナック菓子を口に運びつつ首を傾げる。


「なんで立ちっぱなの、みことっち。座んなよ」


 いや、その前に君は誰だ。

 私の名前、及び個人情報をご存知のようだが、私の方は彼女の顔に見覚えがない。私は部屋の扉に手を添えた姿勢で、目を擦った。


 なんで私の部屋に、コスプレ女がいる?

 しかも、理想の直球ド真ん中の、明るくて派手な金髪ギャル。


 目を擦ってもギャルは消えなかった。幻覚かと思ったのに、消えていない。


「だ……誰?」


「あたし? あっ、そっか! みことっちからすれば『初めまして』か」


 ギャルは大きな目をぱちくりさせて、思い出したように手を叩いた。


「あたし、悪魔!」


「……あく、ま?」


「そう。悪魔でーす」


 彼女はピースサインを目元に置いて、長い爪の人差し指で、自分のほっぺたをぷすりと刺した。


「世界一キュートでスイートなデビル、にのまえ夕匕ゆうひ! 『ゆっぴ』って呼んでね!」


 対する私の方は、またもや絶句である。なにを言っているのか、この娘は。

 ふいに、短いスカートの裾からぴょんと飛び出す尻尾が見えた。にゅっと細長くて、先端にスペードみたいな棘がついた、ありがちな尻尾である。翼だけでなく尻尾まで。かわいい……じゃなくて、なんだこれは。

 彼女は黒い翼をぱたぱたさせた。


「えっ、なんでびっくりしてるの。みことっち、もしかして悪魔知らない? 悪魔っていうのはね、なんかこういうあたしみたいな、まあめっちゃ漠然としてるんだけど悪いやつのことでー」


「いや、悪魔は知ってる。ていうか本当に漠然としてるな」


 黒い翼といい鋭い牙といい尻尾といい、悪魔のコスプレというわけか。生憎私は、宗教的なことにはあまり興味がない。だから悪魔とか言われても信じるつもりなど毛頭ないのだが……。


 そんなのどうでもいいくらい、めちゃくちゃかわいい。


 猫顔の金髪ギャルというだけでも極みなのに、さらに小悪魔コスプレだなんて、どれだけ私のツボを刺激するつもりなのか。 

 しばらく唖然としていた私だったが、この辺りでようやく頭が働いてきた。


 そうか! 私はどうやら、帰ってきて即行寝落ちしたようだ。そして電車の中で見た夢の続きにアクセスした。

 あの理想の彼女に、また会えたのだ。


「そっかー! 私、夢見るの上手いな。奇跡的に同じ夢を見れたんだから楽しまないと」


「ん? うん! よく分からんけど、楽しむのは大事!」


 ギャル、ゆっぴの方も乗り気だ。私は彼女の隣に腰を降ろした。


「夢だもんね、なら起きる前にやることやらなきゃ」


 家に帰ってきたまでの記憶は確かにあるから、確実に帰ってきてはいる。家で寝ているのなら、電車の中とは違ってアナウンスに邪魔されずじっくり眠れる。今度こそ、この夢を楽しめる。


 目の前のゆっぴの髪を撫で、頬に触れた、そのとき。リップで潤む彼女の唇が割れ、口の中の鋭い牙がちらりと顔を出した。


「ねえ、みことっち。してほしいこと、教えて」


 ああ、これは。


「してほしいこと、したいこと、一個ずつ確認してこ。全部、あたしが叶えてあげる」


 電車で見た夢と同じ台詞だ。

 してほしいこと、したいこと……この美少女を前にしたら、たくさんありすぎてきりがない。

 私は自身の荒れた唇を開いて、閉じた。一個ずつ挙げていくにしても、どれから言えばいいのか。


「みことっち、これは『契り』だよ」


 鼻にかかった甘い声が、私の鼓膜を震わせ、脳を溶かす。


「悪魔との契約。あたしがみことっちの望みを叶えてあげるの」


 契り? 悪魔との契約……?

 よく分からないが、この状況が悪魔的なのは間違いない。


 彼女の頬に触れたままで固まっていると、ぐう、と私のお腹が鳴った。私はびくっとしてゆっぴから手を離す。


「今!? ご、ごめん。実は仕事しててここのところしっかりごはん食べてなくて。今日のお昼も、休憩取れなくて……!」


 折角の夢だというのに、こんなところは現実的だ。目を白黒させる私に、ゆっぴが問いかける。


「お腹すいた? なに食べたい?」


「君の手料理」


 すかさず答えると、ゆっぴは虚空を見上げて唸った。


「なるほどー。じゃ、『一個目』はそれね。『あたしの手料理を食べたい』」


 ゆっぴはすっと人差し指を立て、その指をテーブルに向かって振り下ろした。

 途端に、ビリビリッと火花が飛び、テーブルの上に皿が出現した。


「は!?」


 目を瞠る私の横で、テーブルにぽんぽんと料理が現れる。

 ちょっとだけ焦げくさい、小判型のハンバーグ。レタスのサラダとコーンスープ。ロールパンも現れて、最後にはマグカップに入った紅茶まで出てきた。


 呆然とする私の背中に、ゆっぴの楽しげな声が飛んでくる。


「ジャジャーン! あたしの最強得意料理の、チーズハンバーグ!」


 ハンバーグにはキノコの入ったデミグラスソースがたっぷりかけられていて、その上には蕩けたチーズ。真ん中に振りかけられたパセリの緑が華やかで、食欲を刺激する。


 無から料理が現れた。これは魔法? いや、夢だからこんな荒唐無稽なことも起こっちゃうのか。

 色々な意味でびっくりして、言おうとしたことを全部忘れた。ひとまず、頭に残っていた言おうと思っていなかったことを言っておく。


「し……幸せすぎる」


「あは、そんなにー?」


 ゆっぴは笑っているが、笑い事ではない。こんなにタイプの子と一緒に暮らして、手料理まで作ってくれるだなんて、夢にしたって都合が良すぎる。


「これ、作ったの? 魔法みたいに出てきたけど」


「んー、まあ作ったっちゃ作った。普通の料理の手順とは違うけど、悪魔はこうやって料理するから」


 テレビがわいわいと賑やかに楽しげな話題を流している。ゆっぴの瞳にその画面が反射していた。彼女な広げたままのスナック菓子をひょいと手に取り、口に放り込んだ。


「冷めちゃう前に食べろし!」


「は、はあ。いただきます」


 なんて甘えた夢だろう。とはいえどうせ夢だ。私は促されるまま箸を取り、ハンバーグをひと口大に切った。湯気の漂うそれを、そっと口の中に転がす。

 瞬間、涙が出そうになった。ほかほかに温かくて、肉がぎっしりしていて、ちょっと固い。ソースは味が濃すぎるけれど、チーズが蕩けあうとそれなりに中和する。


 なんというか、作った本人は得意げなわりに、リアクションに困るくらい平凡な出来栄えだ。でも、それ以上のものが胸の奥に染み込んでくる。


「おいしい……」


 無意識的に感想がまろびでる。決して、上等な味ということはない。むしろちょっと料理としては下手なくらいだ。でも、今まで食べたどんなものよりおいしく感じる。夢のはずなのに、しっかり味がした。

 ゆっぴは満足げに笑った。


「やっぱハンバーグって、ちょっとしたご馳走だかんね」


 笑うと、長くて分厚い睫毛がよりふさふさして見える。


「スープもね、体温まるよ。好きな具を好きなだけ入れられるし。あとねー、パンはエネルギーに変わるの早いから、アガんないときにちょうどいいらしいよ」


「うん」


 ここのところ、まともな食事を摂っていなかった。温かい料理がこんなにおいしいと、改めて気付かされた気がする。なんだかたまらなくなり、私はまたひと口またひと口と料理を口に運んだ。

 ちぎって盛り付けただけの野菜のサラダも、粉がダマになっているスープも、体に染み渡ってくる。

 横では派手な顔をしたギャルがスナックを食べている。


「連勤お疲れ様」


「……うん」


「でもねみことっち、忘れちゃだめだよ。お仕事は所詮お仕事。自分を磨くための手段でしかないよ。やりたいことを仕事にして人生かける人もいるっちゃいるけど、みことっちの場合は違うっしょ?」


 パリ、と、彼女の尖った牙がスナックを砕く。


「自分の体以上に大事な仕事なんてないよ。もっと自分をかわいがらないと、お仕事してる意味なくなっちゃうよ」


「でも、そんな余裕ないからなあ」


 ハンバーグを箸でひと口大に削る。肉の境目から、チーズがとろりと皿に広がった。


「定時に上がれる日なんてない。有給消化して休日出勤は当たり前。自分を大事にする余裕なんてないよ」


「はあ!? なにそれ、定時は上がる時間だし、休みの日は休む日だよ!?」


 ゆっぴがいきなり大きな声を出した。彼女の背中で、翼がぴんと開く。力を込めると広がるらしい。尻尾も真っ直ぐに張り詰めている。


「想像以上にやばい会社だね。あたし、みことっちのこと観察してたけどずっと見てたわけじゃないってか、ぶっちゃけたまに様子見てたくらいだから、いつも働いてんなーくらいにしか思ってなかったけど。ブラック企業のそういうの、都市伝説じゃなかったんか」


「おかしいのは分かってるけど、同僚も皆、頑張ってる。私だけさっさと帰ったり堂々休んだりできないよ。上司から睨まれちゃうしさ」


「意味分かんない! その上司バカじゃないの? 自分のこと偉いとでも思ってんじゃない? 所詮ただの人間だし偉くもなんともないんだから、キレててもそんなのほっといていいよ」


 私自身も心のどこかで思っていた、思っていたけれど目を逸らして迎合していた現実を、ゆっぴが私の代わりに怒ってくれている。


「みことっちは頑張りすぎ。頑張るのはいいことだけど、頑張りすぎちゃだめだよ。もっと力抜いて、楽できるところは楽していこう」


 ああ、なんて甘えた夢だろう。先程も頭に浮かんだフレーズが、また繰り返された。

 好みの女の子が手料理を作ってくれて、しかもこんなに優しくしてくれる。こんなに都合のいい夢を見てしまったら、現実に戻ったときに立ち直れなくなる。なんだか無性に胸が熱くなって、気がついたらぽろぽろと涙が零れていた。

 ゆっぴが牙を覗かせて明るく笑う。


「もう泣くなしー! ごはんしょっぱくなっちゃうよ。あ、そうだ!」


 ポンと手を叩いて、彼女は赤い目を見開いた。


「今日は高級なアイスを食べよう!」


「えっ? なんで」


「なんでって、みことっちめちゃ頑張ったから! あたしの奢り!」


 ゆっぴは一方的に決めると、びしっと人差し指を立てた。

 ああ。どうしてこんなに幸せな夢を見ているのだろう。目が覚めるのが嫌だ。このままこの夢の中にいたい。


「あの……ゆっぴ」


「ん?」


「君はどうしてそんなに私を甘やかしてくれるの?」


 純粋な疑問を零す。スナックを咥えた彼女は、しばしきょとんとしてから答えた。


「あたしが悪魔だからだよ」


「悪魔……」


 そうね。こんなに人をダメにする恋人なんて、悪魔に他ならない。黒い翼のコスプレは伊達じゃない。

 かわいいゆっぴをうっとり見つめていると、ゆっぴは眉を寄せて唸った。


「むむむ。さてはみことっち、あたしが悪魔だってこと疑ってるな。天使みたいにかわいいコスプレ女子高生だと思ってるんでしょ」


 覗き込んでくる顔が、吊り目の猫顔。あまりにもストライクで、息が止まった。ゆっぴはマイペースに続ける。


「あのね、あたしはマジのマジに悪魔だよ。証拠はこの翼とか牙なんだけど、やっぱ簡単には信じてくれないよね。まあいいや、たとえみことっちが最後まで信じなかったとしても、結果は変わらないし」


 生脚を組み直し、太腿を重ねた。


「ともかく悪魔は、願いを三つ叶える代わりに魂をいただくもの。あたしはみことっちの願いを叶えに来たの」


 私は数分前のゆっぴの言葉を振り返った。

 これは『契り』。悪魔との契約――。


「ああ、だからこのハンバーグが『一個目』なのね」


 なるほど、私は自分でも知らないうちに、ゆっぴという悪魔に魂を売りかけているらしい。しかもたった三つの願いの内ひとつを、「手料理のハンバーグ」で消費してしまったと。

 ゆっぴはあっさりと頷いた。


「そう。残りの二個はなににする?」


「はは……あと二個言ったら、魂取られちゃうじゃん」


 やっぱり、おかしな夢だ。悪魔な彼女と契約して、魂を売る代わりに望みを叶えてもらう夢、とは。

 私の願望は、おいしいごはんと睡眠と、ギャルに優しくされること。今すでに、ゆっぴに甘やかされている。変な言い回しになるが、夢のような夢だ。


「二個目かあ。じゃあ、私の恋人として、一生一緒にいてほしいかな」


 どうせ夢だと思うと大胆な発言もできてしまう。ゆっぴは目をぱちぱちさせて、首を傾げた。


「へ? なに言ってる?」


「ゆっぴ、好き」


「やば、みことっち壊れた」


 ゆっぴはけらけら笑うばかりで相手にしてくれない。でもその笑顔がかわいくて、満たされる。

 私は本気だよ。もしもこれで魂を売り捨ててしまうとしたら、君のような女の子と最期の時間を楽しみたい。それくらいの贅沢、いいじゃないか……。


 私はハンバーグの最後のひと欠片を口に入れ、飲み込む。途端にすうっと眠くなり、私はその場で意識を手放した。


 *


 翌朝。私は自室のベッドで目を覚ました。昨日の服装から着替えていない様子を見るに、どうやら私は帰宅して早々に寝てしまったみたいだ。


 なにやら幸せな夢を見ていた気がする。かわいいギャルがこの部屋にいて、彼女は悪魔と名乗り、私を蠱惑的に惑わした。

 まだまだあの夢の続きを見たい……けれど、これから仕事だから二度寝はできない。布団から起き出そうとしたそのとき、ベランダのガラス戸がガラッと開いた。


「やばーい! ねえねえ、みことっち聞いてー!」


 甲高い悲鳴で、一気に微睡みから覚醒した。私はびくっと飛び上がり、そして、目に飛び込んできた光景に絶句した。

 金髪ギャルが、ベランダから部屋に上がってくる。


「みことっちー! やばい、あたしめっちゃバカ!」


 彼女は私のベッドへとダイブしてきた。寝起きの頭が大混乱を起こす。


「ぎゃー! 待って待って! 誰!?」


 布団を抱き寄せる私に、ギャルが目を剥く。


「は!? 記憶喪失?」


「君……ゆっぴ! 実在してたんだ!?」


 夢から覚めたはずなのに、黒い翼の金髪ギャルは、今も目の前にいる。彼女は呆れ顔で、尖った牙を覗かせた。


「してるに決まってんじゃん! なんで今更!? イカれてるくらい働いてる人だなあと思ってたけど本当にイカれてるな」


 半開きのカーテンから暖かな日差しが差し込んできている。少し散らかった、いつもどおりの私の部屋だ。

 飛び起きた勢で、固くなった体がボキボキと関節を鳴らしている。


「ここ二階なんだけど、今ベランダから入ってきた?」


「階段上り下りするの怠かったから、ベランダから出入りさせてもらってる。飛べるんだから飛んだ方がショートカットじゃんな」


 ゆっぴはそう答えてから、思い出したように付け足した。


「あ、みことっち、昨日、床で寝ちゃったからベッドに引きずったよ。細すぎてびびったわ。マジで食べてないじゃん」


 次第に脳が覚醒してきて、いろいろ思い出してきた。ゆっぴが用意してくれた食事のあと、私は気絶するように眠ってしまった。そして目が覚めて、これである。

 目の前にゆっぴがいるのだから、昨日の出来事は夢ではなかった……いや、今もまだ夢の中なのか?

 ゆっぴは布団越しの私の膝の上で青い顔をして、スカートのポケットからスマホを取り出した。目が痛くなるようなラメピンクに、黒い悪魔の翼が描かれたド派手なケースが地味な室内で妙に浮いている。


「てかそれどこじゃないんだった。やばいよ、やらかした。見てこれ」


 手に持っていたスマホをずいっと、私に突きつけてくる。

 表示されていた画面には、シンプルなゴシック体が刻まれていた。


『二十六歳・四月X日二十三時四分・過労死』


「か……過労死……?」


 ぞっとする字面を、つい口に出して読む。ゆっぴはスマホを向けたまま、キャンキャンと嘆いた。


「タイムラインが更新されてたの! みことっち、昨日死ぬはずだったんだよー! お仕事から帰ってきて、そのままくたーっと眠って起きなくなる予定だったの! なのに、なのに」


 ゆっぴは打ちのめされた顔で半泣きで続ける。


「あたしが栄養摂らせて、元気にしちゃったのー!」


 彼女の絶叫が、鼓膜をキーンと震わせる。私は数秒固まってから、はあ、と間抜けな返事をした。


「それはどうも……」


「いやいや、どうもじゃないんだよ。みことっちはまたもや死に損なったんだよ?」


「またもや?」


 困惑する私の膝の上で、彼女はすいすいとスマホを操作した。そしてなんらかの画面を表示したらしく、彼女はそれを私に向けた。


『十八歳・八月X日二十一時二分・過労死』


『十六歳・十二月X日一時十八分・凍死』


『十四歳・七月X日十時二十三分・溺死』


「なに……なにこれ!?」


 血の気が引く私に、ゆっぴは半泣き顔で尻尾をへにょへにょさせた。


「これは冥府で死神大先生から共有される『あの世タイムライン』」


 物騒なフレーズがあまりにもしれっと出てきた。


「あの世タイムライン……?」


「うん。世界中の人間たちの生死が、これが更新されていくの。死神大先生が、魔界の皆に共有してるんだ」


 頭がガンガンしてきた。寝起きのせいか、いや寝起きでなくてもなにを言われているのか分からなかっただろう。


「死ぬはずだったのに死ななかった『臨死』の場合、つまりスカも同様にアップされる。本来死ぬはずだった瞬間に死に損なうと、こうして更新されるんだよ」


「本当なら私はそこに書かれてたタイミングで死ぬはずだったのに、運良く生き残ってるってこと?」


「そうだよ。回避してなかったら死んでるから今ここにいないもん」


 私は言葉を失った。かなり軽い口調で、恐ろしいことを言われている。

 いろいろ言いたいことはあるが、ともかくこのタイムラインに上がっている臨死のタイミングを改めて読んでみる。


 十八歳・八月X日二十一時二分・過労死。高校の頃だ。吹奏楽部に所属していた私は、この頃からすでにブラック体質な部活で心身ともにすり減らしており、大会前に意識を失った。休めなくて皆勤したが。


 十六歳・十二月X日一時十八分・凍死。高校一年のとき、冬のキャンプで皆とはぐれて遭難、凍死しかけたことがある。翌朝無事に発見されたけれど。


 十四歳・七月X日十時二十三分・溺死。中学二年のときにプールで溺れて呼吸困難になった。でも奇跡的に息を吹き返した。


 タイムラインに書かれた、それより前の記述も流し見る。中学一年のときに体育祭で熱中症で意識不明になった日。小学校の頃に遊具から落ちた日。


 どれも、事実だ。


「このとおり、みことっちは、死ぬはずだったのに死ななかった体験を何回もしてる。昨日も、眠ってそのままご臨終のはずだったの」


 ゆっぴは私の目の前に突き出していたスマホを自分の方に向け、すらすらと操作した。


「さっき見せたのは検索で絞っただけで、みことっちのは全件だともっとあるよ。ほら」


 改めて画面を見せられる。『二十六歳』で始まる文字の羅列が、だーっと連なっている。轢死、転落死、轢死、失血死、脳死、圧死、転落死……と、死因とその時間がびっしり書かれ、二十六歳のページだけでも百件は超えているようだ。信じられないが、しかし書かれている日付や時間と照らし合わせると、たしかに心当たりがある。


「これ階段から落ちたときの……これは会社の倉庫の備品が崩れてきた日……え、私、こんなに小刻みに死にかけてたの?」


「そうだよ! みことっち、不運に見舞われまくってるのに運良く助かりすぎなの!」


 その出来事自体は本当だった。全部デタラメなら良かったのに、事実私は人生において何度も死にかけている。しかしなにが起きても、無事に乗り越えて今がある。


「やっぱり私、まだ夢を見てる……?」


 だんだん怖くなってきた。幸せな夢のはずだったのに、流れが変わってきた。こんな悪夢……現実ならなおさら見たくない。

 顔を伏せる私をよそに、ゆっぴはマイペースに続けている。


 呆然とする私からスマホを引っ込め、ゆっぴはまた画面を指でつついた。


「でね、みことっちはね」


 スクロールして、再びその画面を私に突き出してくる。そこにはシンプルなゴシック体で、『三歳・轢死』と書かれていた。


「これ! みことっちは本当は、この三歳のときの事故で死んでるはずだったの!」


「あ、この事故も覚えてる」


 私はなぜか妙に感心して、ぽんと手を叩いた。


「保育園の帰りだ。歩行者信号が青に変わって、走って渡ろうとしたら信号無視の車に撥ねられたっていう……」


「そう、それ」


 ゆっぴが見てきたかのように相槌を打つ。

 三歳のとき、母親と手を繋いで歩いていた私は、信号が変わったのを見て、母の手を振りほどいて走り出してしまった。直後突っ込んできた車に思い切り撥ねられて体が宙を浮いた、その感覚までしっかり覚えている。


「でも、なぜか無傷だった」


 すぐに病院に行って診てもらったが、どこにも怪我がなかったのである。ゆっぴはそうなのよと大声で言った。


「科内深琴っていう人間の生涯はここで閉じるはずだったんだけど、なぜか死ななかったの。このきっかけを逃して、次は保育園の遠足で山で迷子になって一週間誰にも見つけてもらえなくて今度こそ死んだと思ったのに生きてた。そうやってみことっちはずーっと死にかけちゃスルーし続けてるの」


「それを何度も繰り返して、現在二十六歳……」


「そう! みことっちは普通じゃ考えられないくらい通知が増えてる! たまに九死に一生しちゃう人はいるけど、ここまで死なない人は過去に例がないんだよ!」


 もともと大きい声をさらに張り上げ、ゆっぴは私にスマホを突きつけた。


「そこで! あたしが直接、みことっちのお傍に舞い降りたってわけ」


 スマホの先が角に触れるか触れないかのところに止まっている。私は数秒、目をぱちくりさせた。


「いや、『そこで』と言われても全然意味が分からないんだけど……」


「簡単に言うと、みことっちが死ぬのを見届けに来たんだよ」


 ゆっぴがにこりと、牙を覗かせる。


「あたしたち悪魔は、魂をいただくついでに死神大先生のお手伝いをしてるの。本来ならほっといても死ぬ人間が必要以上に生きてるのをタイムラインで見つけて、その人間から魂を奪う」


 最初からずっとだが、ますますもってなにを言っているのやら。


「こないだタイムラインを見てたら、偶然みことっちを見つけたんだ。こんなに死んでない人、初めて見た。死神大先生が気づいてるかどうかはさておき、完全に保留案件として溜まっちゃってる状態だったわけよ」


 ゆっぴは赤い目で空中を仰いだ。


「あたしは悪魔だから、みことっちの願いを三つ叶えたら、みことっちの魂を奪える。そしたら流石のみことっちでも死ぬ」


「うん……うん?」


「みことっちが死んでくれればひとつ仕事が片付くのよね。あたしの業績にもなるからランクアップできるし」


「ああ、なるほど。ゆっぴは私に死んでもらいに来たと……」


 言ったあとで、私はハッとした。


「死んでもらいに来た!? 私、死ぬの!?」


「うん、そう!」


 ゆっぴはにぱっと眩しい笑顔を見せ、楽しげに背中の翼を広げた。あっけらかんとした笑顔に、私は何度目かの絶句をした。こんなに悪意のない殺意、初めて見た。

 悪魔とか死神とか、そんなものは全く信じていない。だが仮に彼女の説明が事実であると仮定すると、私はこのギャル悪魔に命を狙われるということで。


「やだよ!?」


「やだじゃないよ。みことっち本当は三歳で死ぬべきだったんだから! ボーナスタイム長すぎだから! 潔く死んでよね」


 ゆっぴはまるで私がわがままを言っているかのように宥めてきた。


「だいたいね、生きてたってみことっち、どうせ歯車のように働くだけでしょ。そんな人生楽しくもなんともないんだし、長生きする必要ないじゃん」


「なんだとお前ー!」


 襟首を掴みそうになったが、ゆっぴはひゅっと体を仰け反らせて躱した。


「図星突かれたからって怒るなし。冷静に考えてみ? 本来あるべき姿に戻るべきだと思わないかい?」


「いやいやいや、なに言ってくれてんの!?」


 全然納得していない私を置き去りにして、ゆっぴは勝手に続ける。


「んで、後出しで分かったけど、昨日みことっちは過労で死ぬはずだったの。でもそれに気づかなかったあたしは、ほっとけば死んだみことっちの命を救っちゃった……」


 彼女の落胆ぶりを見て、私は先程のゆっぴの「やらかした」の意味を理解した。

 死を望まれるのは冗談でも腹立たしいが、だがゆっぴの言うことが本当なら、たしかに私のボーナスタイムは長すぎる。死ぬべき時に死んでいないで、寿命以上に生きているのだ。


「そうだとしても、生きてるからには死にたくないな」


「なんでよ、死ねるときに死んでおこう!」


 ゆっぴはむーっとむくれて、翼を揺さぶった。


「こうなったら意地でもみことっちの願いを叶えて、魂奪ってやるかんね!」


 いろいろ突っ込むべきことはあるが、言葉が出てこない。

 何度も言うが悪魔とか死神とか、そんなものは全く信じていない。だが私の知っている常識では、今目の前で起きているこの状況を説明できかねる。頬を抓っても寝ても覚めても、私の前から「悪魔」は消えてくれない。


 こんな現実が起こりうるのか。現実ではないとしたら、どうしたらこの夢から覚めるのか? 覚めないなら、これは現実?


「そのためにも、みことっちを死ぬほど甘やかして、欲望まみれにしてあげる」


 イカれたワーカホリック三年目。

 私を甘やかす悪魔が、私の魂を奪いに来た。

 それはヒリヒリするのに豊かでもある、デッドオアアライブな日常の序章だったのだ。

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