この子はワタシのモノ

折原さゆみ

第1話

「30歳にもなって、ぬいぐるみを抱いて寝ないといけないなんて子供過ぎるよ。そろそろぬいぐるみは卒業したら?僕たち結婚したんだから、これからは僕を代わりに使ってくれればいいよ」


 くるみは夫の言葉に愕然とした。どうして、そんなことが平気で言えるのか。その場は笑顔でごまかしたが、胸がじくじくと痛んだ。



 夫の葛原(くずはら)は39歳。結婚相談所を通じて知り合い結婚した。出会って3回目で真剣交際。その後、半年もせずに結婚に至った。二人で生活を共に始めると、お互いの生活の違いが見えてくる。その中で、今回のぬいぐるみの件が発覚した。


 くるみは小学生一年生の時に買ってもらったシャチのぬいぐるみを抱いて寝ている。水族館のお土産として母親に購入してもらったもので、大きさは120cmほどでかなり大きなものだ。小学生が買ってもらうぬいぐるみとしては大きいが、ベッドで抱きかかえて眠るととてもよく眠れたため、それ以降、ずっとシャチのぬいぐるみを抱き枕代わりに使っている。


 すでに20年以上の付き合いになるシャチのぬいぐるみは、結婚後も新居に連れていった。夫となる葛原は当然、受け入れてくれると思っていた。それなのに。


「昨日言ったはずだよね?さすがに捨てろとは言わないけど、俺たちのベッドの上に置かないで欲しい。そんなに気になるのなら、床においておけばいいよ」


 次の日から、シャチのぬいぐるみはくるみたち夫婦のベッドの上からいなくなった。寝室の床に無造作に置かれた。


(シャチ子、私はこれからちゃんと寝られるかな)


 夫の言うことに従ったが、その日からくるみは不眠症を患うことになった。


 シャチのぬいぐるみに「シャチ子」と名前を付けて一緒に寝るようになると、くるみは彼女がいないと安眠できなくなった。二泊三日くらいの旅行なら問題はないが、それ以上シャチ子と離れて寝ると、夜に眠れなくなってしまうことが続いた。


「お前、僕の眠りを邪魔しているのか?」


 シャチ子を抱いて寝ない日が一か月ほど続いたある日、寝る前に夫に怒られた。


「別に、邪魔しているわけでは」

「じゃあ、なんで夜にいちいちベッドから抜け出すんだよ!こっちがぐっすり寝ているのを邪魔しやがって」


(それはあなたが私からシャチ子を奪うから)


 夫はため息を吐くと、寝室を出ていった。この日を境に夫は朝帰りが多くなった。



「ねえ、私のシャチ子知らない?」


 たまたま実家に帰省して泊まり、家を離れていたくるみは、自分の相棒のシャチのぬいぐるみがいないことに気づいた。夫婦の寝室に置いてあったはずのシャチ子の姿が見当たらない。


「ああ、あれなら燃えるゴミとして捨てた」

「どうして!」


「どうしてもないだろう!お前は夜に僕の睡眠を邪魔するし、ベッド下にはお前のぬいぐるみがあって、そいつと目が合って気味悪い。最悪なんだよ。そうだ!ぬいぐるみなんかの代わりに、本物のペットを飼うっていうのはどうだ?」


 それがいいと勝手に自分の言葉に納得して頷いている夫に殺意が沸いた。今が料理中でなくてよかった。包丁を持っていたら、夫を刺し殺していただろう。


(どうして私はこんな男と)



 それから一週間後、夫は溺死体で海の中から見つかった。夫の会社は海に面していて、休憩中に海を眺めていて突然、海に落ちたらしい。


「いきなり海から黒い何かが出て来て、彼を海に引きずり落としたように見えたけど、気のせいだったのかねえ。だってねえ、あんな生き物この辺には……」


 目撃者は首をかしげていたが、真相はわからない。


「シャチ子、よかった。あいつは嘘を言って私の気を引こうとしたんだね」


 夫が死んでも、くるみは涙一つ流すことはなかった。葬式が終わり、くるみが家に帰ると玄関でシャチのぬいぐるみに出迎えられる。夫が捨てたと言っていたはずのぬいぐるみが戻ってきた。


 くるみは相棒のシャチ子を抱きしめる。ふわりと潮の香りがしたが、気にすることはなかった。


(この子と私を引き離すことなんて、何物にもできない)


『この子はワタシのモノ』


 シャチのぬいぐるみは、白の模様の中にあるつぶらな黒い瞳でじっとくるみを見つめていた。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

この子はワタシのモノ 折原さゆみ @orihara192

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ