知人

 隣の芝は青いというが、ほとんどの場合、実際、青く見えるのは現状に不満がある「私」という確実な、現実があるからでしょう。逃れない知人がいた。知人には感情がなく、何を考えているのかよくわからない、確かにそれは、知人であり、人間である。ただ、動きがまったくないだけで、木が揺れ枯れ葉は落ちて、その動きが人間っぽくうつる。

 命の定義が難しく、それは物資である全ての反応の成り立ちにしか見えない。死体があり、遠い未来コンピュータで動かせて、喋ることができ擬似的に心臓も動かし、脳みそは、コンピュータです。


 「私」という一人称に、二人称である「彼」が加わり小さいコミニティが私の中にできる。三人称である「彼ら」これが、世間一般的な「集団」であり、居場所となっていると思われているが、実際に繋がりは、木の枯れ葉と「私」の一人称である。そして、それが、「私が人に見る「物」。」である。

 人=モニターで見る現実に、私がうつる。私は必死になって、「現実」と、インターネットである、「仮想」というのがあり、常にそれを模索し、それを疑問に思う。仮想は、どちらが現実らしいといえば、仮想だろう。宗教家があの世や来世に思いを見たこともなく思いを馳せるが、インターネットなる現実に思いを馳せるのに何が違うかしら?

 それは、ずっと前に起こり、終わっていて更にこの逆転は素晴らしいことであることに間違いはないーー居場所をいつでも変えれる、逃げられる点ーー固定されない、いつでも逃げられるということにおいて、「現実」は、弱者の救済でもある。

 ーー知人と個人に私は、違いを感じないが、救われる。楽になるという点で、個人は辛くなる。知人である人たちと付き合うことに、意見はないが、現実になった場合、個人にして集団になるということは、避けたほうがいい。逃れない現実があるから。

「会社をよめろってことか?」

「いえ、ほどほどにしましょうってことです。」

 いつでも、死ねますという人が、いつか死ぬということは決定的に違うように、 

 難しくなりすぎた。

 集団=個人について、話したかったのに。ちょっとこれからやるのを説明すれば、逃げ場の作り方。逃げ場をつくるには、今自分がどこにいるか知ることだからね。

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