「私」という、「物」について。

一葉迷亭

「縮小する世界、拡大する個人」

 ある男は兎を狩り、猪を狩り、血抜きし、燻製するか、焼いて焦がすがそこには、男に血肉と本当の意味でなり、野糞を落とす。臭いは風にのり森林に様々な香りの一つとなり細かく刻まれ、時間を表す一つの指標ともなる、太陽が地球のまわりを回り、学問がうまれる。人がみると、地球は太陽のまわりを回っている。少しして惑星が地球に当たる。それでも、星は、あり回転し、軌道をとめず永遠を覚えるように、だが有限な広がりが、いずれかの想像を企てる。この広さに耐えられない人間がいる。

 地球人である「私。」という「者」だが、これをどうにかするしかなくなってきた。というのも、私という自我が強まれば、強まるほどに年々に死というのが、怖くなってきた。怖いというのは、悪くはないのだが、思考ができなくり、向かってくるものに耐えて、「私」という存在に、全てが気が変になってくるというのも事実。

 死という、恐怖に囚われて思考できずに、「私」という個が向かってくる時間に対して、そこに回避という選択がないのがいけない。「生」から「死」に向かうその、川の水を「私」という個でとめなければいけないもどかしさを、考えるだけでめげるし辛くなる。どうすればいいのだろうか?誰しもが無神経なこの問題に囚われてしまい、発狂とはいかずも、目を背く、背かずに見ればポッカリ空いた暗い暗いこの世のムを見ることができる、それは、発狂に近く、異次元な絶対性を隠し持っている。

 ふとしたときにそれは、寝首を一気に鋭利なナイフでかき血を溢れさせる、それを前にドタバタみっともなくへたり込み、気づけばそれは消えて涙が生きてる限り出てくる。だが、実際のところ、「私」という個から、「集団」という個に変化したとき人間は、この問題に立ち向かうことができている例が、至るところそれは、もう世界中無限に出てくる。「個人」という枠組みから「集団」に移住していかなければならない。そう言って、幸か不幸か、時代はそちらにできた今の現代で起きたのは、激しい承認欲求だ。この承認欲求も一つの説でーーかなりの信憑性をもってーー生存本能であり、という言い方でもう今の世の中でこれが大事かどうかの話ではなく、情報伝達速度が人間の本能を超えるスピードで発達した現代で、「世界は縮小」した。

 生存本能は、あらゆる人間に対して適応され本来なら必要でない違う地方の所属さえしてないそれどころか外国の人間の、承認さえ、人によっては求めてしまう。

「それは、気持ちいいからですよ。」

「まあ、確かに、そうだ。」

 だがそれ以上に、世界が「集団」ではなく、「個人」から、「私」に移行したのではないか、私はそれについて話さなければならない。

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