矛と盾

レン

第1話

 この世には、性別のほかに、矛と盾と呼ばれる性質を持っている人間が存在する。これは生まれた時から決まっていて、矛と盾の人間はその性質に左右されながら生きることになる。矛―もしかすると男性的な響きかもしれないが、女性にも矛の人は多くいるし、逆に男性にも盾の人は多くいる。実は矛と盾のどちらが生まれるかの男女比はほぼ二分の一で、年齢も人種も関係ない。しかし、統計的に合わせて10%程度しかいないため、ニュートラルに分類される人が残りの大半を占めている。

 古来より、日本では理性的な側面を矛と盾に、本能的な側面を星と空に例えられてきた。社会に出す側面は理性側の矛と盾が多いため、星と空の話題はあまり表に出ない。そのため、「君はどっちなの?」と聞かれたら、「盾」と装備で答えることが一般的だ。

 さて、僕は盾と呼ばれる性質を持った人間だ。すなわち、空の性質を持つものである。

「盾のように使用者を守るための強さを、空のように星を許容できる寛大さを持て」

 これは盾として生まれたらずっと言われ続ける文言であり、僕はこれを聞きながら育った。確かに、盾の人間はニュートラルや矛の人間より心身共に頑強な傾向にある。そして、守る対象を選択することで精神の安寧を保つことができる特性を持つ。裏を返せば、守る対象がいなければただ少し丈夫で許容範囲が高い一般人だ。

 一方で、矛すなわち星の人達は、魅力的で才能に溢れている。しかし、その溢れる才能の対価というべきか、精神的もしくは肉体的に脆弱であることが多い。彼らはその才能と光で人々を魅了する。そして人々を導くことに喜びを感じ、人を惹きつけることで精神の安寧を保つ。

「矛のように道を切り開け、星のように人々を照らせ。輝くために空を早く見つけよ」

 これもまた、矛の性質を持つ人、つまり、星の性質を持つ人が常日頃言われるセリフだろう。矛の人々は弱さを補うため、輝くのに疲れたら回復するためなど、様々な理由で盾の人々を頼る。

 矛は恵まれた魅力と指導力で社会的に成功しやすい。一方、盾は打たれ強いという使いやすさから優秀な駒として扱われる。したがって、矛と盾では社会的地位がかなり異なるものだ。矛の人間は脆弱な部分を持つとはいえ、ケアのために盾を雇ってしまえば意気揚々とその実力を発揮できることから、歴史的に盾の人間は慰み者やケアに従事させられてきた。現代は徐々にそのような差別は無くなりつつあるが、それでも「盾は雑に扱っても大丈夫」という誤解から虐げられることがある。

 これらの性質は、性質に合う仕事への就職や、心理カウンセラーとの定期的な面接、そして薬などでコントロールできる。しかし、最もメジャーなコントロール方法はパートナー同士でのケアである。簡単で効率が良いこと、さらにパートナー探しを描くドラマなどの存在から、これが最もメジャーなコントロール方である。

 矛と盾のパートナー関係は、異性でも同性でもどちらでもよく見られる。矛と盾の性質の方が強く、男女の性質を上回りやすいのだ。そして、パートナー関係は互いの合意と信頼で成立し、分離も合意で成立する。星と空まで契約するかは本人たち次第で、矛と盾に留まる人も多い。

 今、浪川修は矛の性質を持つ露口累と、矛と盾という理性的な性質においてパートナー関係を結んでいる。しかし、浪川と露口は星と空の関係まで達していなかった。


 矛と盾はそれぞれの武器と防具のイメージを心象風景の中に持っている。それを覗けるのは当人が心を許している相手か、そもそも隠していない時だ。浪川は露口の持っている心象風景も、矛のイメージをなんども見てきた。職場の飲み会で聞かれたときは、

「露口の矛かー。なんか繊細な感じかなあ。光も優しい感じで。心象風景は軟弱な感じで綺麗な湖畔」

「軟弱ってなんですか!いいでしょう綺麗で。もっとギラギラしていていかにも刺しそうな方が好みとか?」

「うーん、あんまり他の人の見たことないから分かんないけど、これに見慣れちゃったからなあ」

「浪川さんのはあれっすね、聖女の盾的な」

「なんだよ、それ!」

爆笑しながら解説したこともある。露口は色々な芸術的才能に長けていて、独特のセンスで人を魅了する力を持つ奴だ。おしゃれなファッションセンスや、キレる頭で、初めて会う人にも「矛だろう」とすぐに言い当てられている。仕事の能力もとても高いし、素晴らしい矛だと思う。しかし、その一方で妙に天然だったりする。

「いや、お前これって。やばいのまた作ってきたな」

「面白いでしょう」

「面白いかもしれないけどさ、これ誰が理解できるんだよ」

「浪川さん」

「僕一人かよ」

すごく腕の立つ人間なのに、時折訳の分からない作品や資料を作ってきたりするからたまらない。ステータスをぶち壊すような作品を意気揚々と掲げる様子が非常に面白くて、よくそれをネタに二人で大笑いしていた。その瞬間がとても精神的に安心したし、好きだった。

「っていうのは冗談で、こういうデザインでやってみたら面白いかと思いまして。ちゃんと理屈もありますよ。浪川さんっておちょくると面白いからさ」

「僕も忙しいんですけど」

僕を面白いと言ってくれる彼だが、仕事が被らないためあまり接触しない時期もあった。その時はとてもまじめに、まるで馬車馬のごとく働いていたと聞く。何より、かなり静かで見た目通りのクールな雰囲気だったようだ。

 全く今の感じから想像がつかない。どう見ても首輪を付けた黒柴だろ。イヌッコロだよ。

 そして、ある時一緒のプロジェクトにアサインされてからずっと仲の良い矛と盾のコンビになった。

 露口の隣はとにかく居心地がよい。馬が合って、背中を預けて一緒に仕事をし、果てはプライベートでは友達として遊ぶことが楽しくて仕方がなかった。

「流石、露口累さん!発想が常人のそれじゃない!今日もやってくれる!」

露口から手渡された資料のぶっ飛び方、かつそれを現実化させている手腕に大喜びする。すると、露口が急に体をもじもじさせて、デザイナーの若い女性社員に話かけた。

「褒めているようで貶しているよね、やだあん、新潟さん聞いた?この人モラハラあん」

「こら新潟さんを困らせるな!」

そのやり取りに、巻き込まれた新潟も面白がって笑っていた。

「ほんといいコンビですよね」

このセリフは各所から何度も聞いたものだった。

 二人で仕事の展望について語り合うと、時間は飛ぶように過ぎていく。二人で話しているだけでいつも意味不明に盛り上がった。何か実のある話をしているかと言われれば、必ずしも肯定できるわけではないのに、ただただ楽しかった。そして、僕はずっとこの関係が続けばいいとどこかで思っていたし、続くことを願っていた。

 「浪川」と「露口」という「盾」と「矛」の理性的パートナーとしての関係性はとてもうまくいっていて、お互いの持つ性質を満たすことに成功していた。けれども、「修」と「累」が本能的な側面、つまりセックスとか恋愛の側面にあたるが、こちらをお互いで満たすことはなかった。それでも十分、いやそれ以上に日々を満喫していた。いや、していると思いたかったのかもしれない。僕らはこの関係を「矛」と「盾」という関係以上の、「星」と「空」に発展させようとはしなかった。言及しようと思っても、いざその件について話そうとすると気恥しさが勝ってしまって、結局他の話題を振ってしまうばかりだった。露口もあまりその件について触れようとしない。だから、どこかで「そんなものだろう」という感じで安心してしまって、あくまで仲が良い友人として、そしてビジネスパートナーとして何年も一緒にい続けた。

 

 今、すっかり評価が高くなった露口は仕事をやりこんでいる。露口はそんなに体力がある方ではない。まるで盾かのような彼の仕事ぶりを心配していた。

「露口、そろそろ休憩した方がいいよ、酷い顔色してる」

「だめだ、これじゃあまだ誰にも納得してもらえない」

露口はPC画面をもうずっと見続けている。いつも大きな爛々とした目はどこか薄く濁り、目の下のクマはどんどん深くなっている。

「…もう体力的に限界だから一旦家に帰って寝てこいよ」

「まだできます」

「はあ?お前そんな馬鹿みたいにエナジードリンク飲んで死ぬ気か?…ったく。僕ちょっと席外すけどさ、休憩挟んどけよ。絶対だぞ!」

そうして僕は近くのコンビニへ向かった。

 

 露口のあの顔色はかなり危ないと思う。流石に明日はどこか連れだして、野菜とか死ぬほど食わせて、腹いっぱいにして寝かせてしまおうか。それとも、ビタミン剤とか飲ませるか。でも、カフェイン中毒のあいつに、色々のませてしまって変な反応起こされても困る。成人なんだからもう少し自分の体に責任もってくれ、と心の中で悪態を吐いた。

 僕は料理が得意じゃないし、いっそのことちょっと良いヨーグルトでも食べさせるかなあ。腸内細菌は健康状態に大きく作用するっていうからさ。

 浪川はヨーグルトを手に一人頷き、コーヒーと一緒にかごに突っ込んだ。

 最近は異様に忙しかったし、色々な方面からのプレッシャーがかつてなく大きかった。矛は盾に比べてかなり繊細だから、本当は矢面に立たせることをしたくなかった。面倒な顧客からのモラハラ、そして上司からの無茶な指示に露口の顔面が青くなっていったのを覚えている。

 僕はあいつを守りきれているだろうか。今だって、もう何ヶ月無理をさせているのだろうか。

 交差点で信号待ちをしている間に、ビルを見ながらぼうっと考える。空を見上げると、あいにくの曇天で星の光一つ見えなかった。昼間はひっきりなしに行きかう車の台数も少ない。静かで暗い夜に、赤い信号機だけがぼうっと目に映る。

 そういえば、半分勢いで購入してみたけど、あのヨーグルトは美味しいのかなあ。あいつ甘党だから嫌がるか、いや、でも砂糖取りすぎだよな。最近、こっちも与えられた仕事で精いっぱいで、露口にあまり気を遣ってやれなかった。もう一度、徐々に盾としての役割を果たしていこう。自責の念に駆られて、無性に赤信号の交差点に突っ込みたい衝動にかられたがぐっとこらえた。

 浪川がオフィスに到着すると、すでにオフィスは電気が落とされて薄暗かった。薄暗い中にモニターの煌々とした光が見える。

「ただいま。おい、お前さ、電気消すなって」

パチリと電気をつけながら少し大きめの声で呼びかける。返事が何もない。静かな部屋に一人分の声だけが響いた。

「おい、聞いてる?」

彼の席へ向かうと、机に突っ伏している露口の後姿が見えた。寝ているなら起こさない方が良いか。

 後ろ姿をちらりと見て、静かにそこから離れた。

 カップラーメンを作るため給湯室の方へ向かう。カップラーメンの蓋を開けていると、ふと、ぞわりとした悪寒を背筋に感じた。

 なんだ。なんか、凄く嫌な予感がする。

 オフィスへ繋がるドアをゆっくり開ける。そこはしんと静まりかえり、相変わらず電気がついていない。

 カップヌードルを適当に空いてる席に置き、露口のデスクへ向かう。PCの電源はついたままで、Error! が画面に浮かび上がっている。

「…露口さん?」

相変わらず返事はない。静かな暗い部屋に浪川の焦った声が響く。先程同様、画面の電源は落とされることなく、Error!の文字が表示されている。

「おい」

先程は後姿をちらりと見ただけだったが、横から顔を覗き込む。顔を見ると、顔色が土色になっていることに気が付いた。苦し気に眉間にしわを寄せ、呻いている。

「おい!大丈夫か!」

肩を叩くが、依然彼は目を閉じたままである。

「ねえ!」

浪川は露口の症状を見て、いよいよまずいと思い、すぐさま携帯に手を伸ばした。そして、急いで救急に連絡した。

 露口の私物をあさり、貴重品や保険証を持っていることを確認する。きっと救急車に自分も付き添いとして乗ることになるだろう。

 まずい、まずい。

 ずっと画面のError! の文字が瞼から離れない。なんて悪夢だ。

 約十分後、救急隊の足音と話し声が聞こえてきたので、

「こっちです!」

半ば絶叫するような声で救急隊の人を呼ぶ。救急隊の人は手際よく露口の症状と状態を確認すると、露口を担架に乗せて運んでいった。浪川は混乱しながら必死に救急隊の人の指示に従い、救急車に乗りこんだ。


 数時間後、浪川が病院の長椅子に座って待っていると、妹の露口雪さんが血相を変えてやってきた。仕事で東京にいた雪さんはすぐにタクシーを飛ばして病院まで駆け付けられたが、地方のご両親はそうはいかず、明日新幹線で来るらしい。

 雪さんは看護師に促され、露口のいる場所へ向かっていく。浪川は後ろ姿を見つめていた。


 浪川がチャットで上司に報告をしていると

「浪川さん」

と前方から声をかけられた。顔を上げると、先ほど声をかけて来た男性看護師がいた。かがむような姿勢で、こちらの顔を見ている。

「今お時間よろしいでしょうか」

「もちろんです」

跳ね上がるような勢いで立ち上がる。そのままどこかの部屋へ案内された。

「浪川さんをお連れしました」

中に入ると、ポニーテールを揺らして女性医師がこちらを見た。その瞬間、彼女の瞳に勇ましい光が見え、そしてぱっと見えた神々しい両刃の矛に圧倒された。

「担当の斎藤です。よろしくお願いいたします。浪川さん、少し今回の症状について説明したいことと、お伺いしたいことがありますがよろしいでしょうか。そちらにおかけください。」

浪川は促されるまま椅子に腰かけた。

 聞くと、露口は一命は取り留めたが、危険な状態だったらしい。また、先生は矛と盾の性質に関する専門医らしく、普段のパートナーシップについて聞かれた。

「私が仕事上はパートナーでしたが、最近はあまりパートナーらしいケアをできませんでした」

「なるほど。お二人は、星と空までの段階では?」

「パートナー関係ではありません」

「他に空のパートナーがいるかはご存知ですか?」

「いえ。確かいないはずです」

先生は静かにPCを見ながらじっと何か考えていたが、ふと、僕の表情に思うところがあったのかこちらを見た。

「浪川さん。必ずしも盾だからといって、全てを守れるというわけではありません。何より、盾そのものにも限界はあります。忘れられがちですがね」

少し寂し気な優しい微笑みを浮かべた。

「わかりづらいかもしれませんが、盾だから平気という過信は禁物ですよ。なにより、私は貴方の盾も心配です。もしもあなた方の環境が非常に厳しいものなら、環境を変えるか、パートナーを解消することをお勧めします」

「え、本当ですか」

「はい。残念ですが、このままでは浪川さんにもダメージが行くことも十分に考えられます」

衝撃的な発言を医師は続ける。

「ところで、露口さんの状況を確認するため矛の様子を見たかったのですが、あまりにガードが固く、矛の状態を確認することができませんでした。非常に心苦しいのですが、一度今どのような状態になっているのか見てもらえますか?きっとパートナーの貴方なら見せてもらえるのではないかと思うのです」

医者に見せないくらいガードが堅いなんて。

あの優しい矛の光がどうなっているのか。

 …最近確かにあいつは矛のイメージを見せなかったし、妙に隠し続けていた。何度見せろと言っても頑なに嫌がっていた。もしかして、損傷が激しいから見せたくなかったのだろうか。

「…わかりました。心象風景を見てみます」

「本当ですか。ありがとうございます。よろしくお願いいたします」

「こちらこそよろしくお願いいたします」

「篠崎、浪川さんをお連れして。私は後から向かいます」

振り向くと、看護師は既に診察室の扉を開けて僕を案内しようとしている。

「浪川さんこちらです」

僕は先生に頭を下げてから、そのまま看護師に連れられ診察室を出た。

 露口の病室に入ると、目を真っ赤にさせた妹さんと、真っ白な露口の足が目に入った。ベッドの横にあるパイプ椅子に腰かけ、顔面蒼白な彼に意識を集中する。矛のイメージを見せてもらおうと、露口の意識をノックした。

「露口」

矛と盾はそれぞれ心象風景を持っているが、それを他人に見せるかどうかは本人の自由である。星と空と違って、矛と盾は理性の側面だから隠すようなものでない。

 実際のところ、いつでも閲覧可能にしてあるという人がかなり多い。例えば、先程ちらりと見えたが、この看護師は盾の人だった。サイズは特段大きくないが分厚く、誰か一人を絶対に守るという強い意志を感じさせるものだった。

 打って変わって、露口の矛を最近ずっと見ていなかった。そのことに一抹の不安を抱えながら、ぐっと意識を集中させる。

 いつもは簡単に露口の心象風景に入れるのに、今回はかなり時間がかかる。強い抵抗を感じ、脂汗が額に浮き出る。やっと心象風景に入りきったことを感じ取り、恐る恐る目を開けた。

 すると、いつもは入った途端に嫌でも目に入る巨大な矛がどこにもない。周りを見渡すと、荒廃した赤土の地面がただただ広がっているのが見えた。

「え?」

露口はいつもきれいな緑が生い茂った、綺麗な湖畔の心象風景を持っているのだ。しかし、今はどうだ。あの綺麗な森はなく、水は干上がり、硬い地面に岩が転がっている。空にはいつも煌々と輝く星が散らばっているのに、今は空には星一つ見えない。轟々と風が吹き荒れている。

 浪川は絶叫するように露口の名前を呼んだ。

「おい!露口!矛を見せろ!」

しかし、風が吹き荒れるばかりで、どこにもあの矛は現れない。いつもは美しい森の中央に優しい光を放つ矛が鎮座しているのに、どんなにどんなに歩いてもただ赤土が広がっているだけだった。どこが中心かも分からない。浪川は真っ青な顔をしたまま心象風景を歩き回り、一歩一歩進むごとにその世界の有様へ絶望を深めていった。

 僕はこんなになるまでこいつを…?乾いた風が頬をかすめ、砂ぼこりが巻き上がる度に自責の念が強くなっていった。

 一度立ち止まり、大きく深呼吸した。そして、スーツ姿の「浪川」から、パーカー姿でたまに一緒に遊ぶ「修」に自分を変換した。すると、途端に風に乗って小さな石が足元に転がってきた。こつん、と足に当たったそれを取り、掌の上にのせる。慈しむようにそれの表面を撫でながら、

「累。僕だよ。先生でも、警察でもない。僕だけだよ。お願いだから矛を見せてくれ」

浪川と露口というパートナーとしてではなく、大事な友人へ声をかけるように、その石に懇願した。すると、しばらくたってから、観念したように目の前に矛の柄が現れた。下の方から順々にイメージが出てくる。イメージを見せてくれることに一瞬嬉しい気持ちもしたが、その気持ちは次の瞬間には覆されることになった。

「なんだよ。それ…」

惨憺たる有様とはこのことをいうのだ。

 あのすらりと伸びた美しい刃の切っ先はもうない。そこにあるのは、刃がぼろぼろに砕け、輝きを失った無残な矛の姿だった。

 矛はその人の理性、表したい社会的な側面を表す。もし理性ですらこれなら、本能・本性であるこいつの星はどうなっているんだ。

「嘘だ」

震える声が唇からこぼれる。矛に手を伸ばした次の瞬間、僕を現実世界に急激に引き戻す力を感じた。

 あいつ、ここから僕を引きはがしたがっている!くそ!どこからそんな力が!

「待ってくれ!」

絶叫するもむなしく、もう見せたくない、というように彼の心象風景は閉じていった。完全に離脱する瞬間に、

「何で来ちゃったのさ」

いじけた声が耳元で聞こえた気がした。ぶつん、とまるで電源が切れるように心象風景は閉じ、目の前が真っ暗になった。

「はっ」

周りを見渡すと、心配そうにこちらを見る看護師さんと斎藤先生、そして雪さんがいた。前を見るとベッドの上の彼は相変わらず眠っている。浪川がしばらく周りの状況を確認したことを確かめてから

「…どうでしたか」

斎藤先生に静かに声をかけられる。心象風景の状態を説明すると、先生の顔が徐々に険しいものになっていく。隣の看護師も悲しそうな表情を浮かべていた。

「そうですか。ご協力ありがとうございました。」

そう言って、先生は看護師にいくつか指示を出している。それを呆然と見つめる浪川の頭の中には、ずっと今日の夕方見たError!の文字とあの矛の濁った刃が浮かんでいた。




 それから、とにかく忙しかった。精神的にも厳しい。浪川は休みたい気持ちを何とか抑えて、いまの自分にできることをし続けた。

 ある日出社すると、新潟がいた。そういえば、最近新潟とは出社のタイミングが合わずあまり会っていなかった。浪川が新潟に挨拶すると、新潟は驚いた顔で浪川を見た。

「浪川さん、前より少しやせました?ちゃんとご飯食べてくださいね」

「考えすぎですって!大丈夫ですよ」

「いや、でも」

「ほら、僕は大丈夫ですよ」

新潟はとても悲しい顔をした。

「忙しいので難しいかもしれませんが、ご無理なさらないでくださいね」

新潟の心配そうな様子をよそに、浪川は増加し続ける仕事を片っ端から片付けていった。

 バタバタと仕事をしていると、空はとっくに真っ暗になっていた。窓をみてぎょっとする。

 ああ、もう家に帰ろう。

 浪川はきりの良いところまで仕事を片付け、オフィスをあとにした。

 帰宅すると、窓からは月の光が差し込み、淡い光が部屋を照らしていた。

 そうだ、彼の矛の切っ先は繊細で、こんなに光も優しかったのに。

 このまま一緒の仕事を担っていたら、今度こそ彼が死んでしまうかもしれない。盾として最後にやってやれるのは、このまま回復を見守り、そして回復したら手を引くことだろう。浪川は立ち上がり、ベッドへ体を引きずって歩いた。

 翌日、浪川は病院へ赴き、露口と話をした。そして、露口と浪川はパートナーをやめた。




 数か月後。

 夕方、浪川は部屋で露口が作っていたデザインを眺めていた。露口の体調はすっかり回復し、相変わらず素晴らしいデザインを作り続けている。

 浪川が露口の作った書類を確認している時、外線がかかってきた。外線に出ると、露口の顧客からだった。

「若く、将来有望な矛が死ぬのは非常に残念なので、助かって本当に良かった」

と言っていた。

 顧客とは今後の話を軽くした気がする。なんだか内容をあんまり覚えていられなかった。

 あいつを守れなかった盾。盾がいなくても回復して、人々に喜ばれる矛。

「矛が弱いんじゃなくて、盾が使えない奴なんじゃ」

自販機の近くで聞いた会話を思い出し、口元を手で覆った。

 そんなことないよね、だって、いや、いや。

 露口が横たわっている姿が、ゆらゆらと陽炎のように揺れる。

「あ、ああ」

瞼の裏に、あの時見た二つの矛の姿が鮮明に映し出される。あの斎藤先生が持っていた両刃の矛から放たれる勇ましい光と、露口の刃こぼれした鈍い光の差は歴然だった。矛として輝く姿を僕は作ってやれなかった。矛はしっかりメンテナンスすれば本当はあんなに輝けるのだ。

 浪川の口元は慄き、そして震える手が髪の毛を掴む。

「あ、あ。あ」

音が口元から溢れていく。意味のない声が零れていくことを止めることができない。

 突然、視界が暗くなった。

「え」

目の前が点滅する。暗くなると同時に、Error!の文字が瞼の裏に浮かび上がる。

「気を付けてください、浪川さん。ご存知だとは思いますが、盾は守る対象がいなくなると、精神的に不安定になり目の前が見えなくなります。幻覚や幻聴に襲われることもあるでしょう。強い症状に襲われたら無理せずに休んでください」

バチバチと火花のような音を立てて点滅する視界に、病院で言われたことを思い出した。画面が再起動を繰り返すように、世界がぶつりぶつりと途切れていく。繰り返される視界の暗転に動悸が止まらない。汗が体中から噴き出した。



 月の光が浪川を照らす。月光が陰った時、浪川は両手をだらりと下げ、力なく天井を見つめた。浪川の眼には何も映らない。外の雨音が彼を慰めるばかりだった。


矛と盾 第一幕「空白」終

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矛と盾 レン @REN_Noah

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