神よ、かの幼気な青年を救い給え。
レン
第1話
今朝の授業に遅刻したら確実に単位を落とす。一限目の先生は始業時刻にとても厳格な人だ。このままだと単位を落として留年する!
小柳正臣は酒臭い息のまま、必死に走っていた。
昨日、小柳はサークルの飲み会に参加し、酒を浴びるように飲んでいた。飲み会開始前から
「明日は絶対落とせない授業で、このままだと卒業できないかも」
と何度も口酸っぱく自分へ言い聞かせていた。しかし、飲み会が始まったら最後、酒の誘惑に負け、そのまま飲み続けてしまった。
朝、小柳はスマホに表示された時刻を見て、血の気が引いていく感触を覚えた。友達が寝返りを打つ音が鮮明に聞こえるほどだった。
小柳は慌ててカバンを取り、友達の家から飛び出した。友達から言われた通り、鍵を郵便受けに突っ込み、早朝の青い空の下大学まで急いだ。
そして今、死にそうな気持で、瀕死の魚のように口をパクパクさせながら走っている。もう酒臭いとか、恰好がひどいとか、言っている場合じゃない。このままだと死ぬ!社会的に!
必死の形相で、荒い息を整える間も無く、教室に始業時刻前にたどり着いた。
セーフ!若さの勝利!
やったぞ、という気持ちで扉を開けると、席には数名しかいなかった。その中でわかるのは一人しかいない。深沢悠希(はるき)。がり勉、便底眼鏡、そして万年ジャージ。ゼミの同期だ。最近就活をしたとかで、髪型はこざっぱりとしている。
「おっす、今日、授業は?」
荒い息のまま深沢の隣に座る。深沢は何事もなかったかのように、涼しい顔をしてパソコンを叩いている。俺の顔を一瞬見て、黒板を指差した。
「ほら、今日、授業なくなったって。この授業受けている友達いなかったから、俺も休講のこと知らないでそのまま来ちゃったけど」
黒板を見ると、今日の授業は休講になりましたと、デカデカとした文字で書かれている。
「ええええええ、うそ!もう疲れた」
小柳はがっくりと肩を落とした。ぐるぐる視界が回る心地がする。二日酔いで頭も痛いし、酸欠で息が苦しい。あと、今物凄くコーヒーが欲しい。
「飲んでたの?」
「そうだよ。バイト明けにさ…ただ今日この授業があるからって三次会の誘いも断って友達の家で寝ることにしたんだわ。そしたら、今朝、授業開始30分前に友達の家で起きてさ、やばいって思って必死に走って、そしたらこれ。じゃあ俺のさっきの必死なダッシュはなんだったんだ!もっと早く言ってほしかったあのくそ教授!もう学校嫌い!」
「はっ。それはそう思うだろうね」
無味乾燥な返事にイラっとした。
「ひどい。冷たい。もう少し労わって」
小柳は口を尖らせた。
「酒の飲み過ぎは体に毒だから、あまりおすすめしない。特に二日酔いで走ると吐き気とか頭痛とか余計ひどくなるだろう。今は辛いだろうけど、何か飲んで寝た方が良い。あと、一応言っておくと、朝早く出て、学校からのメールに気づいた時には既に電車に乗っていた俺も、突然の休講については被害者だぞ」
う。煽るんじゃなかったと言葉に詰まる。
「はいはい、ったく」
適当にスマホを取り出して、Twitterにでも呟こう。
マジ最悪。
Twitterに呟いてインスタを開いて、ストーリーを眺めた。このまま、机に突っ伏して寝ちゃおうかな。どうせ隣にいるこいつもパソコンから視線などそらさないのだ。深沢もスマホから視線を外さないまま、
「課題ってなんの授業の課題やってんの」
と聞いてみた。
「火曜日の三時限目、xx論。中間課題が出たから。ごめんちょっとトイレ」
「おう」
小柳はスマホから顔を上げることなく、深沢が教室を出ていく音を聞いていた。
あいつ、トイレと言ったくせに、荷物をカバンに入れていた。女子がメイク直しとか生理で荷物必要ならまだしも。もう帰ってこないだろうな。ちょっと、いや、結構腹立った。いくらなんでもあそこまで嫌悪感丸出しにしなくてもよくない?
深沢悠希。俺と正反対。第一種給与型奨学金をもらうほど優秀で、サークルとか入っていなくて、かなりの一匹狼。でも、グループワークでも、ゼミでも、何かといつも矢面に立ってくれるのはあいつだ。先生や先輩と研究についてやり取りをする時の眼差し、口ぶりから、深沢は大学院へ進学するのかと思っていた。あと、俺の研究に対して滅茶苦茶厳しく突っ込んできて怖いし、論破される瞬間は普通にむかつく。
以前、
「研究熱心な小柳君は大学院に入るんだろ?いいねえ優秀で将来有望な人は」
と冷やかしてみたら
「金銭的な問題から無理だし、自立してさっさと稼ぎたい」
とだけ返ってきた。
「そっか」
俺は俺自身が凄く悪い奴に思えて、情けなかった。
その後、聞くところによると深沢は第一志望の大手外資系企業の最終面接を来週に控えているらしい。これはあくまで他の人から聞いた話だけど。てか、もう最終面接なの?化け物?俺なんてこれから髪の毛を黒染めしようとしているところなのに。
深沢と俺は全然違う。どうしてあんなにできるんだろう。でも、ジャージ以外の格好をしないのかな。流行とか全然気にしてない人だよね。いや、装いに無頓着なだけか。
俺は泊めてくれた友達にお礼とお詫びのLINEをして、眠くなってきたので机に突っ伏した。
チャイムの音がして、体を起こす。泊めてくれた友達にLINEしたあたりから記憶がない。顔に机の痕がついてるかもしれん。机から体を起こすと、さっきまでと少し光景が違うことに気づいた。
机の端にはスポーツドリンクとゼリー飲料がおいてあった。ゼリー飲料は元気爽快!みたいなことを謳っている。パッケージを見る限り、エナジードリンクと同じ成分も入っている。
隣には俺が寝る前に見た姿勢と、全く同じ姿勢を保ったままの深沢がいる。トイレから帰ってきていたんだ。もしこいつがトイレへ行くところ見なかったら、動いたことにさえ気づかなかっただろう。俺は深沢にゼリーの所有権を訪ねることにした。
「これ、どうしたの」
口を開けて寝ていたのか、声が掠れていてちょっと恥ずかしい。
「その質問は俺に聞いてるのか?」
低く、ねっとりとした声が跳ね返ってきた。
「ほかに誰がいるんだよ」
「ごめん、独り言かと思った。それやるよ」
「いいの?ていうか、なんで?」
「脱水症状で次の授業ぶっ倒れられても同じゼミの人間として寝覚めが悪いだろ。ちゃんと飲んでまずはしっかり寝ろ」
「カバンもっていくから出て行っちゃったんだ、意地悪なやつと思った!めっちゃ優しい!ありがとうございます。いただきます!」
一人暮らし、バイトを掛け持ちしている俺としては食料の調達は願ったりかなったりである。食べ物を差し出されたら有難くいただく。生物として当然の反応だ。深沢へお礼を言いながら、チューブへ勢いよく口をつけた。パッケージ予想通りの味だ。深沢は漸くPC画面から目を離し、小柳を見た。
「一言多いぞ」
しょうがないやつ、と追加で言われた。でも、不思議と嫌な気はしなかった。
それから、小柳は何かと深沢に話しかけた。
俺と深沢はキャラクターが違いすぎるから、友達からは深沢と一緒にいることをとよく驚かれた。でも、俺としては深沢の隣はなぜか落ち着いて、心地が良かった。どうしてかはよくわからない。
深沢は俺を邪見にすることなく、ちゃんと応えてくれたし、冗談も言う。ゼミや授業中の発言が鋭いから、怖い人かと思っていたが、全然そんなことはなかった。
勉強がわからないと泣きついても、一瞬眉を顰めるだけで、すぐに説明してくれた。また、試験範囲や参考文献もよく教えてくれたし、三年の秋ごろになるとOBOG説明会など案内してくれるようになった。人を小ばかにした態度が癪に障るときもあったが、毎度答えや就活の案内を教えてくれるのだから、最近はむしろ面倒見が良く情に厚い人間なのではと思っている。
ゼミが終わった後、小柳は深沢のもとへ向かった。深沢は指導教官との会話を終え、メモを読んでいるところだった。
「今度この店行きたい!お前以外頼めないんだよ」
スマホで写真を見せ、札幌で有名なパフェ屋に誘ってみた。
ほかの男友達は、男二人だと寒すぎていやだとか、高い金払って甘いもの食べる理由がわからないとかで、行きたがらないやつも多い。それに、俺の彼女には俺が少し少女趣味的なものがあることを言っていなかった。シュッとしたイメージで通したい俺としては、彼女にかわいい物好きを知られて幻滅されたらいやなのだ。そんな中、深沢は他人の視線を良い意味で気にしないため大抵の欲求を飲んでくれる。今回もあっさり了承の返事が出た。来週火曜日に会うことになった。
「火曜は何限まで?」
「四!」
「そしたら、18時に居酒屋予約しておくから、そのあと行こうか。そっちも20時くらいに予約しておくけど」
淡々とした口調だが、楽しみにしているのだろうか。マスクで顔はほぼ見えないが、眼鏡の奥で目がすう、と弧を描いたのはわかった。それに、いつも話をポンポン進めてくれる。
深沢は日程も場所もすぐ決めてくれるから、下手に他の友達を誘って長い時間かけて決めるよりも、いつもぱっと予定が決まるので遊びやすかった。何でもすぐ決めてくれる、仕切りたがり屋。いや、一匹狼なのだから、ただの即決屋なのだろう。また、外に誘うと流石にジャージ上下ではなくなるのも有り難い。大概ジーパンにパーカー、もしくはネルシャツではあるのだが。
深沢との約束を取り付けた後、バイトがあるから、と同期や先生に挨拶をして教室を出た。
大学一年生の頃からカフェや塾講で掛け持ちのバイトをしている。有名チェーン店でのカフェバイトは、このコーヒーの香りと、あまり人に言ったことはないが、おしゃれなことをしている優越感に浸れて好きだった。
今日の札幌は大雪だ。学生や社会人が鼻を少し赤らめ、体のどこかに雪をつけてやってくる。制服姿の学生が、店に入ると寒さで縮こまっていた体を緩め、胸に溜めていた息を吐きだす姿がかわいらしい。
「こんにちは!メニューはお決まりですか?」
俺は強面な自覚があるが、努めて朗らかに笑うと、いつもお客さんは笑ってくれる。この瞬間が好きだ。
「えっと、この抹茶ラテを」
お、抹茶のカフェとかもおいしいよね。果物系もいいけど。
その後、小柳は今夜食べたいものを考えながら慣れた言動を繰り返した。
帰宅して、風呂に入ると、チャットの着信が結構たまっていた。ゼミやバイトの全体チャットも更新されている。チャットを開けようとしたとき、
「火曜、居酒屋N店とパフェ屋のM店の予約を取れた。18時に現地集合。今日の発表お疲れ様。」
と深沢からのチャットが見えた。
「ありがとう!」
返信するとすぐ既読が付いた。
早!スマホ見ていたのかな?ちょっと引くくらい早いわ。
よし、と思って彼女とのチャットを開始した。最近付き合い出したばかりの彼女は、顔も器量も良く、ずっと一緒にいられたらと切に願う存在だ。チャットをしていると少し疲れが飛んだ気がした。
火曜日。居酒屋に行って深沢も小柳も結構飲んだ。刺身がおいしくて、俺はぐいぐい飲んでしまった。
「おいしい!ほら、写真撮ろう!」
「はいはい」
「インスタあげていい?」
「どうぞ」
淡々と答えが返ってくる。それでも、否と言わないのが深沢だった。このご時世、あまりチャット以外のSNSをやらないというのも珍しい。
「深沢はSNSとか彼女とか興味ないの?」
マグロの刺身を醤油につける。
「ないわけでない。SNSが大事なツールとはわかっているし、そういう社会に参加する意欲はある」
「そっか。そういえば、お前就活終わったの?」
マグロの赤身がおいしい。噛めば噛むほど味がある。でも、一緒に頼んだナポリンの甘さにはあってない。早く次の酒を頼みたいと思い、ぐいっと酒を喉に流し込んだ。
「終わったぜ。第一志望の内定をとれた。はあ、ここまでもう何十社やったか。交通費も馬鹿にならなかった」
「そんな優秀なのに苦労するんだ!えー、そんなんじゃ、これからどうしよう!」
なんの世辞でもなく、ポロリと本音がこぼれた。だが、深沢はそれをただの世辞と受け取ったのか、鼻で笑った。そして、
「社会で人様に使われるのと、テストで良い点取れるのとでは能力が違うらしい。大学時代遊んでいたと豪語しているリクルーターに偉そうに言われたよ。だから学歴が良くともホイホイ内定までいけないんだと」
深沢はザンギを咀嚼しながらも、腹立たしそうに口元を歪めていた。
「所謂人事の経験からくる意見ってやつじゃない?リクルーターの言いたいことは俺もわかるし。お前の言いたいこともわかるけど」
まだ就活も碌にしていないのに、なんとも微妙な返答になってしまった。いたたまれず、追加で酒を頼むことにした。店員を呼ぶと、にこにことこちらへやってきた。
「ご注文をお伺いします」
深沢にメニューを見せた。
「グレープフルーツサワー頼むけど、深沢は何飲む?」
小柳はメニューにあった日本酒の名前を指さした。
「このお酒を、ロックでください」
随分強い酒を頼むじゃん。
店員さんも同じことを思ったのか、一瞬目配せをしてしまった。すると、深沢は
「酒、飲みたいんですよ」
残業明けのサラリーマンみたいなことを言った。瞬間、謎の沈黙が流れたが、すぐに持前の愛嬌で追加の食事を頼むと、店員も安心したような表情を見せさっさと奥へと引っ込んだ。
小柳は、深沢の心の機微が漸く分かるようにはなったが、それでもまだ食えぬ人だと思う。それに、今までこれほどまでに打ちのめされた様子を見たことはなかった。
「なに、何かあったの?」
こんな姿を見せるのは俺だけかもしれないのだ。親切心と好奇心がせめぎ合う中、深沢にもう一度問いかける。
「何かあったら相談乗るよ?」
深沢は口を閉ざしたままだった。ただ、様子がおかしいのは確かだった。深沢は運ばれてきたロックの日本酒をぐいっと飲み、ふうと息をついた。そして、
「小柳は?最近の調子は」
と質問を無視して、質問で返してきた。
よほど話したくないのか。少し落胆した。
「俺は…最近就活始めたばっかりでよくわからない…ESの書き方もわからないし」
「教えてやろうか」
「へ!いいの?」
深沢は口角の片側だけ引き上げた。
「ま、こんなわちゃわちゃした居酒屋で講釈垂れるのもなんだから、次のパフェの店言ったら静かだろうしそこで話そうか。すみません、お会計お願いします!」
深沢が見た目にそぐわない大き目な声で店員を呼ぶ。
「うん。それにしても、何かあったの?」
店員が来る前にもう一度差し込む。これ以上やると嫌がられるだろう。すると、さっぱりした顔で
「振られた」
と笑った。初めて見る顔だった。
移動したパフェ店で、深沢はバナナのパフェを、小柳はイチゴのパフェを頼んだ。パフェ店の内装は木を基調としており、照明は橙色で柔らかながらほの暗い雰囲気を醸していた。
深沢の便底眼鏡にはパフェの器のきらめきが反射していて、心なしか彼の目も煌めいているように見えた。
「おいしい」
唇に抹茶をつけながら、パフェをつついている深沢が初めて同い年に見えた。
「どんな人だったの?」
「ただ、優しくて知的だった。でも、どうやらあの人は皆に優しい人だったみたいだ」
深沢が弱さを人に見せるのは非常に珍しい。弱みを握りたいわけではない。だが、やわらかい部分を知っているのが俺だけかもしれないと思うと、突如として甘美な優越感が訪れる。一言も聞き逃したくない。唇の動きをじっと見つめる。
「その女性にそれは恋じゃないと言われた」
「どきどきする感覚とかないの?」
「ない。善い人だと思うし、抱けるとは思った」
口内で粉砕したコーンフレークが気管に入った。ごほごほと咳き込む。
「それは確かにちょっと違うかもね…うーん、でも人によるのかなあ」
「…そうか」
チョコレートムースがおいしい。サクサク、しっとり。パフェの醍醐味は食感の違いを一挙に楽しめることかもしれない。
小柳がイチゴのゼリーを味わっていると、深沢が静かに、しかし、実に興味深そうに質問をしてきた。
「お前は結構歴代彼女いるけど、皆好きだったの?」
「人をヤリチンみたいに言わないで。ちゃんと皆好きだったよ」
「はは、そうか。悪かったよ、光源氏」
「言ってるよね、しかも割と変態の烙印だよね」
「今の彼女は?」
「すきだよ!」
好きなところを一通り上げてみる。ちょっとミステリアスな感じで、俺にだけ優しくて、純粋に好み。性格は猫っぽいかな。なんだかんだお洒落な場所に連れて行ってくれるし。
小柳はかなり情熱的に語った。熱中しすぎたせいで、パフェのアイスを食べることを忘れ、器の中で雪崩が起きた。
折角のアイスが!アイス溶けるまで夢中で長く話すぎた!慌てて口にパフェを入れ、冷たさを味わう。まだ冷たい。液体だけど。
慌てていて深沢の反応を見忘れた。恐る恐る深沢の表情をうかがう。前に座る深沢は、橙色の照明に照らされながら、一定のリズムでコーンフレークの層を熱心に砕いていた。
俺もこいつの反応見てなかったけど、こいつも俺の話を聞いてなかったわけね。
「なあ」
「聞いていたよ。全部」
鋭い眼差しがパフェの器から俺へとむけられた。眼鏡が橙色に反射している。
振られた人に向かって急に惚気をぶちまけるのは、いくら何でも無神経だったかな。最初に俺の彼女への愛を疑うような真似をしたのはそっちだし。
「ちょっと惚気がすぎたかな?ごめんよ」
「いや、参考になった。旨いな、これ」
納得した声色だった。そして、熱心に砕いたパフェを静かに咀嚼し、飲み込んでいた。
なんの参考?とは聞けなかった。
バイトの梯子を終え、夜遅くに家にたどり着いた。今週中に提出の課題があった気がする。パソコンを開けると、明日提出の課題があったことが発覚した。今からやって終わらないだろ。時間的に無理だ。
だらだらと冷汗が出る。動機がする。泣きそうになりながら、深沢にチャットした。
「ごめんこの授業取ってなかった?俺、明日締め切りの課題あったの忘れてて」
数分後、既読が付いた。
「よう、またか」
「ごめんなさい」
「その授業なら前期に取ったぞ、俺の見せてやるから何とかしろ」
深沢から中間課題と参考文献の一覧が送られてきた。神だ。
「ありがとうございます。ありがたく拝見します!」
既読が付いた。深沢からのご支援によって何とかなりそうだ。有難い。
必死に夜遅くにパソコンを叩き、早朝眠りについた。
その日の授業は一応出席した。だが、は、と意識を取り戻すと、全然ノートが取れていないことに気づき慌てた。隣に座っている友人の北見に
「俺、どれくらい寝てた?」
と小声で聞いた。
「おはよ、20分くらいじゃね?」
「起こせよーもう」
「ええ…お前寝不足で死にそうな顔してるしさ。お肌もかっさかさで、なんだかかわいそうで」
北見恭平。俺をなんだかんだ面倒見てくれるひとりだ。同学年だけど一浪しているから、俺の一つ年上。割の良い日雇いバイトとか、単位を取りやすい授業を教えてくれるのもいつもこいつだ。のらりくらり、飄々としてどこか掴めない男だ。
授業後、北見と服を見に市街へ出た。
「正臣さ、よく課題間に合ったよな」
北見が感心したように言う。
「いや、深沢が前期にこの授業を取ってたっていうから、レポート見せてくれて」
「え!俺が助けてって悠希に泣きついたら『知るか自分でやれ』ってあっさり一蹴されたぜ」
北見が肩をすくめた。
「え。マジ?」
「そ、『それにお前は俺以外からも過去問とかあっさり取ってくる質だろうが』って、呆れられたよ、それはほんとなんだけどね!」
北見は愛嬌が良く、大体の場合は広い人脈から過去問やレポートを入手している。俺もその過去問の人脈には何度も助けられた。その分というか、飯や酒は良く奢らされるし、何かとサークルや日持ちのバイトの力仕事を手伝わされるが。
「ほんっと、悠希って正臣に甘いよな」
「そうかな」
「絶対そうだよ」
それ以上深沢の話をすることはなかったが、深沢が俺にだけ甘い評価が妙に頭に残った。
二週間後。小柳はいつものようにカフェのバイトを終え、つま先を帰り道の方へ向けた。今日は夜も曇りで、どんよりとした空が広がっている。明日は晴れるといいなあ。雨の日にキャンパス行くのって面倒なんだよな。帰り道を歩いていると、ズボンのポケットに入っている電話が鳴り響いた。
彼女かな?ポケットからスマホを取り出して画面を見ると、「深沢悠希」の名前があった。
あいつが電話なんて珍しい。
「お疲れ、どうした?」
深沢の声は今どこかクラブにいるのか、人の話し声とダンス音楽で声が聞き取りづらい。
「何?あんま聞こえない、ていうか、お前今どこにいんの?」
夜中に電話かけてきて、しかも全く聞こえない。こいつたまに変なことするよな。
「頼む、助けろ。いまXXXにある、ニッパーって店なんだけど」
深沢の切羽詰まった声が聞こえた。
「は?なんでお前がそんなところにいるの」
店のあるエリアからして、結構ディープなところにいるのがわかる。有名なおピンク街だ。
「一回来てみたかったんだよ」
電話越しに拗ねたような声が聞こえた。
「はあ?てか、早くタクシー捕まえろよ。大丈夫か?」
バイト終わりで疲れているから、迎えには行きたくない。男だし。タクシーまで誘導すれば、あとは何とかなるだろうと思った矢先、
「やめろ!」
深沢が誰かに叫ぶ声が聞こえた。
普段はざらりとした低い声で、ぼそぼそとしか話さない深沢の大きな声にただ驚く。そして、
「やめ」
とだけ残して電話が切れた。
なんで俺が、とか、何があったんだ、とか、あいつなんでそんなところにいるんだよ、とか混沌とした思考のまま、兎に角ダッシュし、捕まえたタクシーも飛ばして迎えに行った。
ニッパーという店へ行くと、低いビートと安い酒の香りがするクラブのようだった。店に入ると、奥のソファーに座っている見慣れた体型を見つけた。
胸を叩くような低いビートに不快感を覚えつつ、ぐったりとソファーにもたれかかる深沢に近づく。深沢の姿を視認できる距離まで来て、初めて見る彼の容姿に瞠目した。
深沢はいつも大学や俺と遊ぶときみたいな恰好じゃなくて、色香にあふれながらでも清潔感もある存在になっていたのだ。ただ、妙に頬を腫らし、色々なところに噛み痕が付いている。それでも、どこか高潔だ。吐き気がするほど男の顔と体格で、眩暈がするほどの艶やかな女性性と色香を醸している。だというのに、深沢の瞳は磨かれたガラス玉のように純粋無垢だった。そして、非常にぐったりしている。
「おい、帰るぞ」
深沢は俺を見上げた。
「あれ、彼氏来た感じ?てか、めっちゃイケメン」
すると、深沢の腿を熱心に触っている女が俺に話しかけてきた。つけまつげ多すぎて絶対目に刺さるだろ。頼む、刺され。
「彼氏じゃないよ、ただの友達」
女は深沢から俺へ興味が移ったのか、胸板を撫でてきた。なんの感情も抱かない目で、その行為をただ眺める。
「あと俺、彼女いるからさ。さっき言った通りこいつ迎えに来ただけだし」
「ふうん。黒猫さん。お迎えだって」
そんな風に呼ばれてんのか。宅急便みたいだな。俺自身も周りの女につつかれながら、深沢の頬を叩いた。
「おむかえ?」
「そう、俺だよ。帰るよ」
深沢は呆けた顔で俺を見ている。霞がかかったような意識なのか、お迎えが来るなんておかしい、と子供のような口調で妙なことを言っていた。よっぽど飲まされたのか、変な薬とか注入されていないよな。いつもと全く異なる様子に心配になる。
「え、じゃ違う人じゃない?ならもうちょっと遊ぼうよ」
女が乳房に深沢の顔を押し付けた。深沢は顔をしかめた。女は気づいていないようだった。
「なんだよもうおしまい?」
そして、後ろから深沢を抱いた男を見て、腸が煮えくり返る心地がした。
「おら!帰るぞ!」
小柳は絶対的な威厳をもって、いよいよ深沢の腕を引いた。
面白くなかったのか、深沢に執心していた男が、俺に突っかかってくる。暫く押し問答を繰り返していたが、向こうが痺れを切らしたか殴ろうとしてきた。俺はそれを躱して、思い切り男の右腕をひねり上げた。痛みに呻く男の耳元で囁く。
「このまま関節外してやってもいいぜ。どうしたい?三秒待ってやる」
ぎちぎちと関節を締め上げる。これでもマイナースポーツのプロだし、さらに柔道は有段者だ。喧嘩なら早々負けない自信がある。
男は返事をしない。俺は殺意を込めて関節を外し、痛みに喚く男をソファーに突き飛ばす。
深沢を見ると、まるで街中で着ぐるみを見つけた子供のように、キラキラと顔を輝かせている。
俺はその表情の意味も分からないまま、イライラしながら深沢の腕を取った。深沢はあっさりと立ち上がり、俺についてきた。
鼓膜を破壊しそうな大きい音と強い光の中で、深沢の腕をじっと握り締めたまま出口へ歩く。強大な音と光の祭り。そこには狂ったように腰を振る者と、酒を浴びるように飲む者、欲求を開放する者が大量に発生していた。
深沢の腕を掴んだまま、夜の街に飛び出した。熱気から飛び出すと、少し冷えた夜風が体に入りこんだ。
こいつをここに放置するわけにはいかない。俺は腕を引っ張って歩き続けた。
「俺、こういうところで、こういう人たちにまみれていると、何か母さん思い出すんだ」
深沢が後ろで何か変なことを言っている。
「俺はお前のお母さんじゃねえぞ」
「うん、神様みたいだなあ」
「何言ってんの」
深沢が後ろで何か変なことを言っている。
深沢は俺の手を振り払うわけでもなく、されるがまま歩いている。酷い眠気に襲われているのか、それとも、今の光景を目に焼き付けているのか、深沢はゆっくりと瞬きを繰り返していた。大きな黒い目だ。きっとお母さんの目も、こんな風にイルミネーションをそっくり反射させたのだろうか。なんとなくそう思った。
「そうなの、でもあんま来ない方がいいぜ。ね、なんか飲もうよ」
道のはずれに自販機を見つけた。スポーツドリンクを買おう。自販機に小銭を突っ込み、乱暴にボタンを押した。がたがたとペットボトルが落ちてくるのを待つ。その間にも、消えちゃいないかと深沢の気配に注意を払った。ちゃんと隣にいるな。冷え切ったペットボトルを手渡した。
深沢は不敵に笑って一気に中身を飲み始めた。ペットボトルの角度があまりに急で口の端から喉へ水が垂れている。透明なボトルの水位が低くなるのに合わせ、喉仏が上下する。
俺も喉が渇くな。
「なんだ、そんな熱心に見て。飲むか?飲ませてやろうか?」
「いいよ、コーラ買うから」
うん、飲みたい、なんて口が裂けても言えなかった。なぜか、代わりにコーラが無性に飲みたくなった。
「そう、コーラ、いいんじゃないか」
小柳はキャップを締めながら肩をすくめて笑った。
俺の分のコーラを自販機で買う。ガランガランと音を立て、黒と赤のペットボトルが出てくる。さて、俺も飲もうとペットボトルの蓋を開けたとき、炭酸のせいでコーラがペットボトルからあふれ出した。
「ぎゃああああ」
スニーカーにつかないように後退する。
「あはは、アンタ考えりゃわかるだろうに」
「うっせ!俺に迎えに来てもらったくせに」
「ほんと助かったぜ、ありがとう」
あれ、生まれて初めてこいつにお礼言われた?
俺の驚きなどつゆ知らず、深沢は俺を馬鹿にしながら腹を抱えて笑っている。
お礼言われたことないってこいつが素直じゃないのか、俺がいつもやられっぱなしなのか。うーん、どっちもかなあ。
「お前いつもそれくらい素直になれよ」
「なんだよ、いつもちゃんとみんなに優しくしてやってるだろ」
「俺にも優しくしてくれー」
俺らの笑い声を聞いたのか、キャッチの男が俺らにすり寄ってくる。
「お兄さんどうですか、かわいい子いっぱいいますよ!」
「ね、この後どうですか?お兄さんも一緒に!」
まずい、キャッチに囲まれてしまった。俺は上手い返し方が分からず、あたふたしてしまう。すると、深沢の、いつもの深くざらりとした低い声が響いた。
「この人そういうの得意じゃないんで、すみませんねえ。また今度お会いしましょ、おら、いくぞ!」
だから普段お前はどこにその張りのある声を閉まっているんだよ。俺びっくりして死んじゃいそう。
俺が突っ込む前に、今度は俺が腕を引っ張られる番になった。深沢の丸く形が良い後頭部を見ながら考える。
本当、こいつは俺がいなかったら、野良猫のように走って夜の街に消えてしまいそうだ。それか、ここで錆びた鉄くずのようになり、バラバラに壊れてしまうかも。こいつの家庭環境ってよっぽどひどかったのかな。確か実家は札幌なのに、一人暮らしだったはずだ。深く家の話を聞いたことはないが、奨学金とか、大学院に進まないとか、家庭の問題なのかな。
腕を引かれたままタクシーに乗り込み、俺は手前の席に座った。隣を見ると、ネオンに照らされ深沢はモデルみたいに美麗だった。まるで知らない大人の男だ。でも、いつも大人びたこいつは、無邪気な子どもみたいでもあった。
深沢は車窓から遠くなっていく煌めきの街を眺めた。
なんで、こいつはこんなところにいたんだろう。
なんで、こいつはこんなにめちゃくちゃなんだろう。
くそ、さっきから、なんでこんなぐちゃぐちゃなんだよ、お前も。
俺も。
「なあ」
袖が引っ張られる感触がした。
「なに」
袖を引かれた方を見ると、いつも勉強を教えてくれる男の顔があった。
「お前、何かあったら俺のところにこいよ。絶対面倒みてやるから」
「それ俺のセリフだろ。心配かけやがって。ったく」
タクシーに揺られ、先に俺の家の前まで送ってもらった。
「じゃ、お休み」
後部座席で笑う男は、やっぱり俺の知らない男だった。
二.
二年後の春。
深沢は就職のため東京へ引っ越し、小柳は地元の企業に就職した。深沢とはチャットで新年の挨拶や誕生日祝いなどはしていたが、大学を出てから一度も会っていない。
小柳も四月から東京へ異動になった。先週引っ越したばかりで、土地勘がまったくない。週末に会えないか連絡を取ってみたら、あっさり
「いいぜ」
と返事が来た。
待ち合わせは渋谷駅、ハチ公口。札幌も人は多いが、渋谷の人の多さとはまた種類が違う。ファッションも色んな人がいて、物珍しさについつい周りをきょろきょろとみてしまう。駅の表示を見ながら、なんとかハチ公口に到着する。チャットに
「着いた」
と送るとすぐ既読がついた。
「もういる。今日はどんな格好?」
今日着ている服の特徴を送ると、
「いた」
とだけ返信が来た。
俺の格好を判別できているのだから、深沢はすぐ近くにいる筈なのだが姿が見えない。ただ知らない人ばかりがいて、うっとうしいばかりだ。
小柳はあの便底眼鏡の全身ジャージを探した。深沢は首都へ拠点を移してからファッション性は磨かれたかもしれないが、どこかそんな恰好をしていることを信じたくもなかった。
「久しぶり」
落ち着いた、聞きなれていた声が後ろから聞こえた。振り向くと、いつかネオン街で見たと同じ、スキニーに開襟のシャツだった。あの頃と違って、背景は春の青空だが。それに、スキニーは濃紺、シャツの色は深緑だからあの日と全く同じではない。眼鏡ではなくコンタクトになっている。特徴的な黒々とした猫目がすっと細められた。
「おお、久しぶり!随分雰囲気が変わったね!」
「はは、久しぶり。お前は相変わらずだな。じゃ、暑いしさっさと映画に行こうか」
こっちへ来い、と深沢に手招きされ、一緒に人をかき分けながら近くの映画館へと坂をのぼった。
春。暖かさで人々が朗らかになる。北海道はまだ寒いが、東京は随分暖かく、人々も軽装だった。桜の淡い桃色が街を彩る。
春の日差しに揺れる深沢の背中が、気づけば全く知らない背中になっていて、人混みの中ですぐ見失いそうになる。
数年見ない間に、深沢はすっかり東京の人間になってしまっていた。便底眼鏡、ネルシャツかグレーのジャージで、一心不乱にパソコンをたたいていたあの丸い背中は、今や春の柔らかな日差しを浴び、肩で風を切り、我が物顔で渋谷の街を闊歩している。スキニーが深沢の長い脚をより際立たせていた。
ネオンと熱気に包まれたあの日を思い出す。
でも今ここは渋谷で、太陽が照っている。その中で、あいつは生気を感じさせず、どこか幽霊のように儚げで、猫のようにしなやかに俺の横をすり抜けてしまう。
だめだ、もうこのままではいよいよ見失ってしまう。
「深沢!置いてくなよ!」
人々の喧噪の中でも、深沢は小柳の声を聴きつけ、ゆっくりと振り向いた。深沢は人混みの中静かに佇み、大きな目でゆっくり瞬きしながら、小柳が追いつくのを待っている。周りの人が突然立ち止まるなよ、と深沢へ悪態をつく。それでも深沢は人の流れに乗って小柳が運ばれてくるのをじっと待っている。
強めの風が吹く。深沢の髪が揺れる。走って小柳が追いつくと、深沢は少しギザギザの歯を見せて笑った。
「は、しょうがないやつ」
胸の動悸が、走ったからか。あの日を思い出したからか。強風のせいで俺の意識も時間軸も吹き飛びそうだった。
その後、二人で見た映画は今流行りのアクションもの。普通人間はそんな風にならんだろと突っ込みながらも、あんなアクションやってみたいなんて相反した思いを抱きながら映画に没頭してしまった。子供連れが少なかったからか、静かに見られて中々良い時間を過ごせた。小柳は映画のエンドロールを見つめながらぼんやりと余韻に浸った。
映画館から出て、ポスターを眺めてさっきの映画の余韻に浸る。横では、深沢がさっさとこの後お茶する場所をスマホで検索している。
「面白かった!お前は?」
この男はあの映画を面白かったと思うのだろうか。俺と全く違う感性を持つ友人がどう解釈する非常に気になった。
「派手だったな、色々と」
深沢は朗らかに笑った。そして、深沢はスマホの画面を小柳へ向けた。
「ここなんてどうだ?」
深沢の画面にあったのは洒落たピザ屋だった。
「え、俺、いつも家だと揚げ物しないからとんかつがいい」
「これっていう希望があるなら先に言えよ」
目力が強い人に睨まれると怖いんだなと、強烈に実感した。
とんかつ屋では、小柳はロースかつ、深沢はヒレカツを頼んだ。さくっとした衣と、厚切りの豚肉に舌鼓を打つ。前の深沢も無心で米とキャベツを食べていた。
…ちゃんとヒレカツも食べるよな…?
小柳は歯ざわりの良い衣、弾力のある肉、そして艶やかでほのかに甘い米とのマッチングを楽しみながら、深沢のことを観察した。
深沢は、コミュニケーション能力が壊滅していたが、有能な人だったと思う。就職活動だってしっかりやっていて、知らぬ間に大手の内定を手に入れていた。今も大手の本社総合職だ。そして、暫く見ない間に、昼間も男前の様相になっていた。黒々として涼しげながら大きな目はかなり人目を引く。この数年に何があったのか、知る由もないのが残念だ。
こいつの隣が心地良かったのは、当時苦学生だった俺にとって丁度良かったのかもしれない。俺が昼間寝ていても何も言わないでいてくれた。俺はこんなことをわざわざ言ったことがないが、バイト代は殆ど生活費に消えていたから。
こうして、大学の頃から、俺らは持ちつ持たれつ仲良くしてきたのだから、どんな時でも気兼ねなく色々話してくれてもよいだろう。本当は、そのはずだ。なのに、なんだろう。最近はいつまで俺と一緒に遊んで、そしていつまで一緒にいてくれるのだろうか、不安が募るばかりだった。
「色々頼ってくれても良いんだけどなあ」
思わず本音が漏れた。すると、深沢は失笑していた。
「その絶対俺は大丈夫みたいな自信はどこから?」
「そんな『あなたの風邪はどこから?』みたいに言われても」
「違う、いつも『なんだかんだ大丈夫でしょ』みたいに構えているから心配なんだ。あ、そうだ、最近嵌っている本の登場人物に、深沢みたいに自己管理が苦手なキャラクターがいて、行動も凄く似ていて、ああ深沢もいつかこうなるかもって思う」
「そんな本の登場人物と一緒にされても」
「読書をしない人に言っても仕方ないかもしれんが、なんか主人公が俺の悩みにマッチしてくれて本当に面白いんだよ。しかも主人公の友達がかっこよくて、主人公が悩んだ時に、胡散臭い慰めの台詞とか言わないでさっと行動で解決していくんだよ。悩みとかをあっさり踏み越えてくる感じがさあ」
深沢は急に捲し立て、持っていた水を飲みほした。しかし、自分はなぜか、今の話があまり面白くなかった。
「それなんて題名の本なの?」
小柳は低い声が出てしまったことに混乱した。
なぜこいつが好きという作品を肯定してあげられないのだろう。俺はバンド音楽で、深沢は書籍。好みの芸術ジャンルの違い、それだけの筈だ。好きなものを貶されるのが嫌いな俺が、なぜ相手の好きなものを批評するような真似をしているのだろう。
「お前本読まないのに?」
深沢が不思議そうな顔で小柳を見た。
「いやいや、もしかしたら読むかもしれないでしょ、教えてよ」
深沢は一瞬悩んだそぶりを見せたが、カバンに入れていた本を取り出し小柳に見せた。
「今読んでいるのは『ベクトル』っていう題名で、作者は白井由紀子さん」
小柳はその本をじろじろと眺めた。
「なんか見覚えあるかも、うーん」
「そういえば今度握手会というか、サイン会あるからそれの宣伝広告とかじゃ」
「あ!Y店でそんな張り紙あったかも!」
思い出した。駅の広告用の張り紙に書いてあった。
「それそれ」
深沢が指さして笑った。
「へえー。なんかアイドルみたいだね」
「アイドルとか言うな、この方は誰かに常に媚び売らなくても実力で食っていけるようなお人だぞ」
「わかった、わかった。ごめんって、好きなもの否定して悪かったよ」
素直に謝ると、深沢は大きな猫目をぱちぱちと瞬かせて驚いている。
「なに」
その反応にこちらが驚いた。
「なにも」
深沢は本をカバンにしまった。
今日はそのまま深沢の二人揃ってタクシーで近くまで運んでもらう。小柳は深沢の家に泊めてもらうことになっていた。
深沢の家は単身者向けアパートなだけあり、部屋はそんなに広くはないが、立地などから住みやすいとは思う。内装はいたってシンプルで、物や色が少ない印象を受けた。よく言えば統一感があり、悪く言えばどことなく冷たい印象だ。
「うお、綺麗」
小柳の口から思わず本音が漏れる。
「東京は家賃が馬鹿にならないがね」
荷物を置き、来客用の布団をテレビの前に敷く。
二人は適当に買ってきたスナックやアイス、ジュースを飲み食いしながらテレビゲームに興じた。
「あ、お前それずるい!」
「うわ、結構卑怯な手使うな」
二人は布団に寝転び、小学生男児のようにはしゃいだ。
布団からフローリングへかけ、素足で投げ出した二人の両足が、キャラクターの動きに合わせて揺れ、強張り、そして弛緩する。指が折れ、丸まり、時に隣の素足にぶつかる。ぶつかられた足は、そのことを気にするわけでもなく、また勝手なリズムで動き始める。足は互いをつつき合い、じゃれあった。
散々テレビゲームで遊び、目が疲れた二人は適当に酒を飲みながら雑談をすることにした。
「なんか、俺こんなに遊んだの初めてかも」
「俺も小さい頃はゲームとかあんまりしなかったからな」
「そうなの?俺も友達の家に行ってやるくらいだったからさあ。でも、深沢はその割にはうまいよね」
素直に褒めると、深沢は嬉しそうに胸を張った。
「センスあるだろ?」
子供のようで可愛いなと純粋に思った。
「そういえば、なんでお前って前はあんな恰好してたの?今はすごくシュッとしてるけど」
「あー、なんていうか。高校の頃は普通にしてたんだが、奨学金のために勉強しなきゃだし、異性相手に目立ちたくなかったんだよ。面倒だろ、サークルの恋愛とかに巻き込まれると。はじめから俺は対象じゃないってしておくと、ラブハリケーンに巻き込まれなくて済む」
ビシ、と深沢が俺の顔を指さす。
「ラブハリケーン」
言葉の響きに笑ってしまう。
「そう、すべてをなぎ倒すあれだ。突如発生し、牛も車も町も壊滅させる」
「牛はやめてやれよ」
「いいか、出くわした時に大事なのは懺悔と賛美だ」
「聞けよ」
深沢は上機嫌で、俺もそれにつられてさらに楽しくなった。
小柳が酒を飲みながら窓の外を眺めていると、深沢は窓をとんとんと叩いた。
「夜桜もなかなか乙なもんだぞ。散歩に行ってみるか?」
「うん」
二人で目黒川沿いを歩く。
適当に空いている飲み屋があれば入ってもいいし、帰っても良い。適当に散策することにした。
「なんかさ、春っていい季節だよな。恋の季節だっけ」
夜桜の下、浮足立つ男女を見て俺も彼女ほしいなあなんて思い始めた。
「なんだよ、藪から棒に。また女か」
「だから俺をすぐ女たらしみたいに言わないで。こう、町の人も軽装になってさ、暖かくて、夜はちょっと寒いけど。日が長くなるのもいいよね」
夜桜が風にそよぐ。今夜は暖かいし、桜も綺麗だし、テラス席もありだ。どこのお店に入ろうかな。どこも混んでいる。もしかしたら、どこも予約なしでは入れないかもしれない。
小柳は人込みに揉まれながらも、春の暗闇に滲む桜の白さを愛した。
「あ、あの店」
美味しそう。喉まで出かかったとき、
「俺は、日は短くてもいい。でも寒いのは嫌いだ」
と深沢が聞こえるか聞こえないくらいの声で言うのが分かった。独り言だったのかもしれない。でも、小柳は聞き流すことができなかった。
「寒いのは嫌いだっけ」
「好きなやつなんかいないだろ。東京の寒さはたいしたことないが、それでも嫌だろ」
深沢は飲み屋の光と人々の笑い声を真っ黒な服に受け止めている。カップルや若者のグループが隣を通り過ぎていく。
「俺も寒いのは嫌だけど。日は長い方が良い」
「そう」
「なんで短い方がすきなの?」
深沢は俺を見たかと思えば、
「生粋の夜型だからさ。活動時間が長くなるだろ」
と心底楽しそうに笑った。
小柳はこの表情に見覚えがある。ぎゅっと胸が締め付けられる感触がした。
そうだ、ここの薄明かりはあの目を焼くようなネオンではない。ここは桜の名所だ。歓楽街じゃない。
頭ではわかっているのに、電灯に照らされた桜が不自然に白く、最北の歓楽街に連れ戻された気がした。俺は時を逆行しようとする自意識を必死に戻す。
「夜更かしが得意って?大学時代から俺もバイトで散々夜更かししたけどな」
「お前、バイト滅茶苦茶掛け持ちしてたもんなあ。よく大学出られたよな、頑張ったと思うぜ。アハハ」
「は?馬鹿にすんなよ」
「してないよ。俺は人様の家のことを馬鹿にできるほどお育ちは良くないんでね。それで、さっき言いかけた店ってあれか?」
深沢が指さす。指さした先にあった店は、確かに先ほど俺が美味しそうだから行きたいと言おうとした店だ。
「え、よくわかったな」
仰天して深沢を見る。
「お前、わかりやすいからさ」
「さっきから急になんだよ」
「さあ?俺はいたって普通だぞ。昔からこんなだろ」
深沢は肩をすくめた。
小柳は頭を振って、あの日の亡霊を消すことに専念した。
三.
幼少のある日、深沢悠希の父は家から出て行った。
失業したか、借金か。それとも浮気なのか。理由は未だに不明だ。ある雨の朝、父が仕事に行ったと思えば、数日帰ってこなかった。
「お父さんは?」
当時小学生だった俺は、父の不在の理由を純粋に疑問に思い、母に尋ねた。母は
「いつか帰ってくるよ」
といった。俺は納得し、固くなった食パンをかじった。
母の不在の日が続く中、俺はキッチンにある固くなった食パンやカップ麺などを適当に食べていた。父が家にいる間、今まで食パンがここまで固くなったことはなかった。変な味に顔をしかめながらも、身近にあるすぐ食べられる食料がこれしかないので、むしゃむしゃと固いパンを咀嚼した。
母は俺が明日の食事の話をしても、パンが固いといっても、何もかもが上の空だった。母はすっかり生気が抜け、俺のことなど見向きもしなくなった。ついには、家にいる時間が極端に少なくなった。
ある日、母は意気揚々と帰ってきた。
母の後ろには、知らない男の人がいた。その男はいつしか家に居座るようになり、俺は家に居場所がなくなった。
次々変わる男に囲まれ、時に暴力を受け、俺は子供ながらに、父は俺と母を捨てたのだと体に刻み付けられた。
母は男と別れて意気消沈し、俺に優しい言葉を投げかけたかと思えば、新しい男を連れて、俺を無下に扱った。
母は狂乱への道を辿る。いつしか、かつて俺に向けていた母性は消滅し、若い娘が持つような性欲を男に向けるばかりになった。
俺は母が豹変していく様があまりに恐ろしかった。父が出て行ったばかりの頃は、息子がいるからと連れ込んだ男たちとのセックスを嫌がるそぶりを見せていた。だが、ある時から俺の存在ですら興奮材料となったか、俺がいようと獣のような喘ぎ声をあげて男に抱かれるようになった。独特の粘液の香り、グロテスクな色、獣二匹分の熱気。あの頃、俺は早く夜が明けることばかりを願っていたように思う。
夜はよく寝られないから、学校の休み時間に寝るようになった。俺の境遇を知ってか、担任の教師もクラスメイトも文句を言うことはなかった。遠巻きにはされたが、殴られないなら問題はない。学校の休み時間、降り注ぐ日差しの中で寝るのが好きだった。
放課後はできる限り学校で過ごし、公園で遊ぶか、近所の図書館で勉強や本を読んで過ごした。夜になれば、握らされた千円札で弁当やカップ麺を買い、ひっそり食べていた。息を殺して、物音もできる限り立てないように、それでも息はつづけた。
部屋の端で学校の図書館で借りた本をじっと読んでいた。本だけが慰めだった。いくら放課後を学校で過ごしても、家に帰れば俺を殴る男か、壊れた母がいるのだ。
俺は必死に母を治そうとした。いつか、俺に卵サンドを作ってくれたやさしい母に戻ってくれるのではないか。子供ながらにずっと思っていたのだ。
今は男がいなくて、母が落ち込んでいる周期だ。男がいないなら丁度良い。卵を買って、サンドイッチを作ってあげよう。それに、卵は焼いても煮ても、何をしても美味しい。それに良いタンパク質源になる。母も少しは元気になるかもしれない。
和える用のマヨネーズがないから、取り敢えず卵を焼くことにした。調味料はその辺にあったものを適当に入れた。塩味が効きすぎたかもしれないが、無味よりはマシだろう。
「母さん」
賞味期限が近く、スーパーでとても安くなっていた食パンに挟んだ。
「食べようよ」
泣いてばかりの母の前に差し出す。
母は虚ろな目で俺をみた。母の目を見つめる。深淵を覗き込むような心地だった。母は、突如、獰猛な獣のようにサンドイッチを貪り始めた。動物の食事風景を見ているようで、居心地が悪かったが、なんとなく母が元気になった気がして嬉しかった。
週明け、学校から帰って、俺はまた玉子焼きを作った。今日は買い出しに行かないと愈々食べるものが何もない。でも、買いものに行く前にこれだけは作っておきたかった。母が帰ってきたら一緒に食べよう。これなら食べてくれるみたいだから。
ここ最近ずっと着ているジャージを羽織、買い出しに出かけた。
スーパーで買い物をしているとき、近所の人は俺を見て驚いた顔をするか、憐れみの視線をよこす。俺は周囲の反応にあまり興味がなかった。
どうせあんた等が俺を哀れんで、何を思ったところで、この毎日は何も変わらないのだ。何もできないくせに勝手に感情を傾けるな。
俺は周囲の大人に念じながら、買い物を続けた。
帰宅すると、玄関に男物の靴があった。あれ、新しい人来たんだな。
居間を見ると、何度か見た男の人がいた。小手川仁、という名前だった気がする。一度来なくなった男が、再来することは珍しい。衝撃のまま男の手元を見ると、俺が作った玉子焼きを食べている。母はいないようだった。
「僕、それ母と食べる予定で作ったんですけど」
俺は初めて母が連れてきた男に対抗した。
「へえ、お前人語喋れたんだな」
小手川が鼻で嗤った。
「あの、だから」
「うるっせえ、黙れクソガキ!」
思い切り頭を叩かれ、髪をつかまれた。
「痛い!痛い!」
普段は叩かれても何も言わないが、今日は痛みのあまり叫んだ。
「お前、普段死にそうな顔で黙ってるからさ、あんま見たことなかったけど、お母さんに似て意外とかわいい顔してるんだな。俺ってバイだからさア」
俺は喚くのも、呼吸さえ忘れた。瞬間、男は俺を突き飛ばし、俺は畳の上に仰向けに倒れた。俺が立ち上がる前に、男が俺の上に乗り上げてくる。このままでは、俺は母と同じになると悟った。
俺は全身全霊で体をよじり、抵抗した。
「やめろ!嫌だ!」
「淫乱の子供が何言ってるんだよ、毎日見てんだろ」
「黙れ!母さんをそんな風に言うな!」
俺は近くにあった酒瓶を持ち、渾身の力で小手川の顔を殴った。
小手川は予想だにしていない反撃を受け、ぐらりと横に倒れた。俺は小手川の生死など気にせず、外へ逃げ出した。
走って、転んで、立って、また駆け出した。痛みを覚えるほどに寒い夜の街を、体をめぐる血潮と衝動に任せ走り続けた。肺が焼ける心地がする。顔が冷たい。手はかじかんで動かない。もう何も見たくない。何も聞きたくない。
俺は女じゃない、俺は男だ、男だ、俺は人を殺したかもしれない、違う正当防衛だ、断じて俺は人殺しなんかじゃない!
俺は恐怖のあまりその日家に帰れなかった。公園のベンチで横になって、一夜を過ごした。
翌朝、学校の持ち物を取りにいかねばと死にそうな思いで帰宅した。死体が転がっていたらどうしよう。警察に行くことになるのかもしれない。心臓がバクバクと音を立てる。アパートの部屋の前に立つ。腐敗臭はまだしない。日数的な問題か?
冷たくなった鍵を鍵穴に差し、恐る恐る回転させた。鍵が開く感触がする。そのままゆっくりとドアノブを回し、家の中を覗いた。
…妙に静かだ。誰もいないのか?
扉の裏に隠れているかもと、警戒しながら進む。誰もいない。狭い部屋には相変わらず物が散乱しているだけで、小手川も母の姿もない。俺は不思議に思いながら、小手川が嫌な息子がいると母に愛想をつかして逃げ帰ったのだろうと結論付けた。ざまあみろ。
母がススキノの水商売で働き始めたのもそのころだった。水商売に出るようになり、母はかなり元気になったように思う。昼間は一人で寝ているだけで、俺は心も楽だった。
俺が中学二年生になった冬のある夜、母親は青ざめた表情で俺に縋った。水商売から帰ってきた母の目はずっと焦点が合わない。
「もうだめだ、一緒に死のう、早く」
母が俺の胸にすがる。
「母さん、やめてよ。どうしたの?」
母の手を取る。
「私にはもう何も」
「俺がいるよ」
「だめ、ダメなんだよ」
母親は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で、痣だらけの息子の胸に縋る。
掠れた声が俺に纏わりつく。今までにない母の反応に焦りが足元から這い上がってくる。俺がいると何度言っても母は聞かなかった。俺は要らない存在なのだと、毎秒骨の髄に書き込まれている感触がした。
遂に、母は
「お前はあの人に見つかったらどうなるか知らないから」
支離滅裂なことを叫びながら、家を飛び出した。
「どういうこと」
乱暴に閉められた扉を見ながら呟いた。
暫く部屋の隅で待っていたが、母は帰ってこない。今のうちに今日の夕飯用のカップ麺を買いに行こう。俺は少ない小遣いをもって買い出しへ出かけた。
コンビニで最も安価なカップ麺を探す。短時間にできて、かつ処理も楽な奴がいい。味は、ちょっと食欲がなくても食べられるカレー味にしよう。
レジを済ませて、コンビニを出る。ビニール袋を片手に、家に帰りたくなくてプラプラ街を散歩した。コロッケとか食べたいな。男に腹を殴られないうちに揚げ物を食べておこう。カロリーも高いから生き延びられる。何よりおなかがすいた。
肉屋で揚げたてのコロッケを一つ買った。
「まいど!」
ふくよかなおばちゃんの笑顔がまぶしくて、同じ人間でもこんな表情が違うんだなと神妙な気持ちになった。
手に持ったコロッケは温かく、冬の風に当たってコンビニのビニールがバサバサと音を立てる。衣の香りが食欲をそそる。
近所の寂れた公園に行き、ベンチで一人コロッケを齧った。さくっとした衣に、しっとりとしたジャガイモとひき肉の質量が心を満たす。空は灰色に陰り、雨や雪が降りそうな見た目をしていた。
隙間風が吹き抜ける家に住んでいるから、寒さに耐性はある。でも、雪が降るとさすがにより冷え込むだろうなあ。コロッケの温かさが腹に染みる。ふかしたジャガイモの甘さが脳を活性化させる。
コロッケを食べていると、鳩が近くにやってくるのが見えた。鳩は帰巣本能を持つという。帰る家があるということか。
「家、か」
考えたくなかったのに、母に拒否されたことを強く思い出した。涙が突如としてあふれ出した。
「母さん、俺がいる、い、るのに」
あのコロッケを渡してくれたおばちゃんみたいに、笑ってくれる人がいたら。俺が先に帰宅していたとしても、そのあとちゃんとおかえりと言ってあげられる人がいたら。寒空の下、小さな呟きは鳩にしか届かなかった。じっと鳩がこちらを見ている。わらわらと集まってくる。地面を突いている。
食べ終わったコロッケの包装紙を手の中で力いっぱい握りしめ、深沢少年は群がる鳩の前、ベンチで泣き続けた。
体の芯から凍えるような冬だった。
その後、母は飲酒運転の車にはねられ、あっけなく死んだ。俺は祖母の家に引き取られ、裕福でないながらに殴られることも蹴られることもなく、学生らしく過ごす機会を貰った。
ぐれることはなかったが、大人びた印象になってしまったのか、あまり友達付き合いはできなかったと思う。中には、ミステリアスな雰囲気がいいとすり寄ってくる女はいたし、祖母を心配させないように身だしなみにも気を配っていた。だからか、高校時代は、それ相応に女子生徒に人気があった。
俺は、寄ってくる女性たちが俺で満足するならいいかと思い、大抵の場合は付き合うことを了承していた。
「俺で良いなら、一緒にいるよ」
十八番の告白だった。ただ、そこにそれ以上の感情はなかった。
高校の頃、初めて女を抱いた。二人で旅行に行ったらするものだ、と世の中になんとなく刷り込まれてきたから、した。
いや、本当は母親が心酔していた行為に興味があったからかもしれない。行為の最中、体を欲求のままに動かしながら、目を閉じた。定期的な音と振動、熱い体温、そしてこの香り。
後頭部を殴られたように、部屋の端で小さくうずくまっていた子供のころを思い出した。
生理的に熱く赤くなっていた意識が、理性的に冷え青くなっていく感触がする。このままではまずいと思い、目を開けてただ女の体を貪ることに集中した。
朝起きて、柔らかい女体を撫でながら、なんだこんなものか、と思った。瞬間的に性的興奮による高揚感はあるが、それ以上でもそれ以下でもない。母が白目を剝きながら没頭していた行為はこの程度の行為なのか。
「はる君も私も大人になったね」
そういって笑う彼女に、
「うん」
と適当に相槌を打った。こんなことなら、あの人たちと同じ「大人」になんてなりたくなかった、とは言えなかった。
数週間後、彼女には、冷たい態度が気に食わないと振られた。そして、私じゃあなたを救えないとも言われた。
そうか、と淡々と事実を受け取った。涙ながらに感情を吐露する女の顔を見つめる。
俺はこの人に何かしてあげられただろうか。
真っ黒い闇が後ろから襲い掛かる。息ができない。何も見えない。だが、さみしくはない。悲しくもない。もう二度と、この人と朝寝をすることはないのだなと思った。
何番目かの彼女には振られ際にこんなことを言われた。
「あなたゲイよ」
すごいことを言う人もいたもんだ。女の体に勃起するのに、俺はゲイなのか?
俺は愈々自分がわからなくなった。
大学に入り、小柳正臣に出会った。
長身の部類にはいる俺よりも、小柳はさらに数センチ背が高い。黙っていると強面だが、愛想が良く、笑うとさわやか。スポーツ万能で、カラオケなんかも実はうまい。一般的にいう、陽キャのイケメン。それも最高クラス。芸能事務所のスカウトも来ているとか、いないとか。
こんなことを、小柳と言語のクラスが一緒だったか、ゼミの仲間が羨ましそうに話すのを適当に聞き流した記憶がある。
そんな少年漫画の主人公みたいなやつがこの世に存在するんだな。俺のゴミみたいな人生とは関係のない話だ。
新学期のある時、そのキラキライケメンがうちのゼミへ入ることを聞かされた。
俺はその太陽みたいな美男子をすっかり忘れていたが、俺に文句を垂れていた男はその美男子が入ることがかなりショックなようだった。何かショックを受けることがあるのか、と俺は首をかしげていた。別に女が欲しくてゼミに入るわけではないだろうに。
新学期、新しくゼミに入る小柳が自己紹介をする最中、同じゼミの男は
「まぶしい!」
とチャットしてきた。
うん、お前みたいなやつにはまぶしいだろうよ。小柳は無垢に魅力を振りまいているだけだが、女と話すときにいつも下心のあるお前なんかと根本的に違うさ。小柳の全勝だからもうやめようぜ。
ま、それでも、俺は関係のない話だ。
俺はファンの女に睨まれながらも、ゼミではよく小柳の痛いところをついていた。そのうち、小柳も返してくるようになり、互いに突きあうようになった。俺のことは嫌っているだろうなとなんとなく思っていた。
ある日、朝一の講義がなくなった。やることもなく課題を仕上げていると、ドタバタ走ってくる足音が聞こえた。
かわいそうに、今日のこの授業は休みだぜ。ちなみに、現在進行形で、俺も同じ目に遭っている。お互い不幸だな。
さて、どいつが今回の急な休講の餌食になったのか。
ドアの方を見ると、小柳が肩で息をしながら立っていた。
あれ、教えてやる友達いなかったのか。休講に未だ気づいていないらしい。あーあー、その体躯で、お綺麗な顔をぐっとしかめて、ぜえぜえと荒い息をしていれば、周りの人間が恐怖するぜ。
ずかずかと俺の隣に来た小柳に、今日は休講だと教えてやる。すると、隣に来たガタイの良いその男はわかりやすく落胆した。
話を聞けば、飲み会明けで二日酔いの中走ってきたようだった。小柳は雨に打たれ、草臥れた犬のようになっていた。しおしおと尻尾を垂れるような姿に憐憫の情が湧き、思わずスポーツドリンクを差し入れた。すると、それから何かと話しかけてくるし、一緒に色々な場所へ行きたがるようになった。なんだか、大型犬に懐かれた気分だ。悪い気はしない。
小柳は引き際も心得ているため、一緒にいても鬱陶しいと思うことはない。あいつ自身、交友関係は広いし、バイトで多忙で俺ばかりに構うこともない。昔、飲みに行ったときにバイトで忙しくしている理由を聞いたら、
「俺んち貧乏なんだよ」
と寂しそうに笑っていた。境遇にめげない好青年か。通りで誰もが甘やかしたくなるわけだ。人気がある理由がわかる気がした。
人気者の小柳に、女との関係を聞いたことがある。こいつは今まで付き合った女性はみんな好きだったといった。そして、抱けるは好きという方程式でもないといった。光源氏みたいにモテるこいつは、押しなべてすべての元カノを愛していたというのか。どういうことだ。あんな身を亡ぼす熱情を抱いていないのか?じゃあ、こいつが良く引き連れているそれはなんだ?よくわからない。
いや、普通そうなのかもしれない。
俺も、もう一度、女を抱いて、そして不本意だが男に抱かれてみたら、何かわかるかもしれない。
一時期、男の勧めで水商売で働いていた母に会うためにススキノに通ったこともある。幼いながらに色々な意味でよく可愛がられたと思う。行くと大概母も上機嫌で、俺もそれを見るのがうれしかった。女たちに褒められた格好が、黒一色で染め上げた、体のラインがわかるものだった。
「黒猫みたいだね」
当時、短髪だった髪の毛を知らない母に撫でられ、そうかと思った。
かつて褒められた時と同じ、体のラインがわかる黒いスキニーに、黒の開襟シャツ。眼鏡も外し、普段ぼさぼさの髪をワックスでセットする。俺は「黒猫」と名乗り、真相究明のため夜の街を走った。
たまに飲み物にドラッグを混ぜてくるバカがいたが、味と匂い、そして相手の態度で分かるので、奇跡的に回避できていた。
しかし、一度だけ、かなりな手練れにレイプドラッグを飲まされたことがある。あまりに自然で全く判別できなかった。
「ちょっとトイレ」
不自然に視界が回った感触がし、急いでトイレへ駆け込む。誰かに助けを呼ばねば、と思ったときにはもうすべてが手遅れだった。追いかけてきた男が俺のスマホを奪い、俺の膝の裏を蹴飛ばした。神経が表皮に現れたのではないか、と錯覚するほどの激痛が全身に走った。膝が崩れ、床に倒れこむ。
倒れたまま、刺激が来た方角を見ようとするが、地面に顔を押し付けられ身動きができない。
「お、まえ」
髪をつかまれ強制的に顔を上げられる。顔を上げると、ヤンキー座り、頬に傷をつけた、見るからにカタギではないおっさんがいた。
「悠希君。やっぱ、お母さんに似てお顔が綺麗だねえ」
「こ、のや、ろう!」
小手川仁。生きていたのか!
「はは、誰がそんな口きいていいって言ったんだよ」
バチン!
「っああ!」
右頬をぶたれた。神経過敏になっている今、普段なら耐えられる痛みも頭を割るほどの刺激になる。
「お、ほんと、いい顔するよね」
頬を撫でられる。ここでゲロ吐いてこいつの靴汚してやろうか。
「は、ちんぽでしかもの考えられない変態がよ」
吐き捨てると、もう一撃ビンタされた。
「いっ!」
全身に刺激が走る。体制を立て直す間もなく、今度は手下に強制的に引き上げられた。そして、手下二人にずるずるとどこかへ引きずられていく。
後ろから靴音を鳴らして、斎藤が付いてくる。
「かわいいんだけど、昔から口が悪いんだよなあ。よおし、そろそろもう頭回んねえから大丈夫だよ。ははっ、勃起してるなあ。かわいいなあ、黒猫ちゃん」
衝撃の事実を告げられ、深沢は赤面した。
指摘されるまで一切気づかなかったが、確かに今中心に血液が集まっている感触がする。なんで、俺は変態じゃない!くそ、感情が上下しすぎて、まともに頭が考えられない!
「放せ!やめろ!」
光が眩しく、がなる音楽が耳障りで、他人の体温が鬱陶しい。体も頭もあまり動かない。神経が過敏になり、服の擦れる刺激でさえ頭をかき混ぜられている気分だ。
「はなせ!」
俺は声の限り叫んだが、何にも届かなかった。
それからはあまり覚えていない。精神をむしばむ激痛と、理性を八つ裂きにする快楽と、嫌悪と幸福感。混沌とした強烈な刺激が全身を駆け巡ったはずだ。
「はるくん」
その呼び方は母親だけがしていいんだよ。俺を揺さぶる男にかみつきたかった。
少し意識が正常に戻ったころ、俺は意識があるときに来た、元居た店に戻っていたことが分かった。女がしきりに俺の腿を撫でている。さっき、男の背中に爪を立てて絶叫していた気がする。それも夢のようで、真かわからない。あれは本当のことか?
この夜は夢かうつつか。この常夜に沈めば、黒いキャンパスへ溶解されるのではないだろうか。ああ、体があちこち痛い。
意識が暗くなっていく。そろそろ、またあっちに行かねば。あれ、どこだ。そうだ、「仁さん」のところに行かないと、俺はまた叩かれて、仕置きされる。そう思ったとき、
「おい、帰るぞ」
正しく俺の腕を取る存在がいた。
なんて眩しく、美しい存在なのだろう。逞しい胸板、高い鼻梁、光を反射する獰猛そうな目つき。
神様みたいだ。
あの中学生の頃望んだ存在がそこにいるような気がして、俺は助けを求めて、子供みたいに泣きながら縋りたかった。ただ、なぜだかそれはしなかったんじゃなかったと思う。なんとなく。
あの日。俺はドラッグのせいで、眩い太陽の化身が誰だったか認識できなかった。そして、今もずっと探している。ただ、仁さんが俺の耳元で囁いた
「悠希。どこへ行っても、俺はわかるからな。逃げられると思うなよ」
この言葉と体温だけはずっと体にこびりついて取れないのだ。
神よ、かの幼気な青年を救い給え。 レン @REN_Noah
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