消えたいわたしたちのまじない

外並由歌

“stuffed toy”

 掃除の時間を終えて帰りの会を待つ間、机の中身を整理していたら覚えのない紙切れがあった。すこし汚れのある安そうな便箋には同年くらいのこどもの字で「じぶんをころすおまじない」という一文があり、その後にはハートマーク。一から順番に手順が示され、最後には「やってみたら」と薦める言葉に強調するようなエクスクラメーションマークと、強制するようなクエスチョンマークが踊っていた。宵は鳩尾のひりつくような感覚を抱えながら、その紙を丁寧に折って鞄に仕舞った。

 自分なんて居なくなっちゃえばいいのにな、とよく考える。皮膚が千々に裂けて、粉々になって、風に飛ばされて消えてなくなってしまえたらいいのに。その夢想は泣きながら膝を抱く夜に寄り添う。あるいは、突然目の前が真っ暗になって、それで終わらないだろうかと。こちらは息を止めながらトイレから出る朝の祈りで、教室にいる昼には、空間が自分の大きさぶん摘まれるようにしてなくなってほしかった。とにかく、自己のあることが辛かった。

 そんな宵にあの悪意の手紙はぴったりだった。なるほど、自分を殺してしまったらよかったんだ。望まれているなら丁度いいし、こんな簡単な方法なら。足早に辿る帰路、胸は不吉に高鳴り、鼻を通る空気は湿っていて頭は妙に晴れていた。


 家に帰ると宵は早速お気に入りのぬいぐるみを出してきた。宵の両てのひらで抱えるのがぴったりの大きさのアッシュグレイのテディベアを絨毯の上に座らせる。宵はその正面に正座した。締め切った遮光カーテンの傍からこぼれるわずかな夕あかりの残った部屋の中、三角に切った白い紙に「うるまよい」と自分の名前を丁寧に縦書きする。それをテディベアの鼻先にあてがって、深呼吸をしてから目を閉じた。

 これでいいだろうか。ほんとうに。

 不安に思いながら、紙にくちびるを寄せて、息を長く吹きかけた。


「――厭」


 身を引いた宵とテディベアの間で、形代がひらりと落ちる。目を開けてはいけない、というまじないのルールを破って宵は目を見開いていた。

 声がした。確かに、今、テディベアから。

 驚きに暴れる心臓を押さえつけるように胸元でぎゅっと拳を握る。どうしたらいいかわからず、混乱したまま震える手でもう一度紙を拾いテディベアへかざそうとする。


「乱暴よ」

「あっ……!」


 再び驚愕した宵は火傷したときのように形代の紙自体から手を引いた。勝手にぽろぽろと流れる涙の意味がわからず、後退って今度こそ身を守るように体を縮める。なんで泣いているんだろう。息が苦しくて、だけど拒まれたことだけがわかって悲しくなった。悲しさを糧に堰を切った涙はぬいぐるみから声のしたことの驚きを押し流して、幼い頃からずっと一緒にいたのに、どうして私のすることを拒むのかという思いの濁流に呑まれる。しかし、それが一通り流れると徐々にかわいそうなことをした気になってきて、また重く昏い気持ちが戻ってきた。幼い頃からずっと一緒にいたのに、お気に入りのくせに大切にできない。こんなひどい自分なんて、バラバラになって、粉々になって、消えてしまえばいいのに……消えてしまおうと思ったのに。「どうすればいいの……」

 絶望に暮れた宵の呟きに、案外にもするりと答えが返ってくる。


「何にお悩みですの?」


 声は確かに、テディベアのものだった。宵はもう驚かずに、促されたままに自身の悩みを打ち明ける。「消えちゃいたいの、死んじゃいたいの。どうすればいいの?」


「それでどうして身代わりのまじないを?」

「みがわり、? 教えてもらったの、自分を殺すおまじないって……」

「違いますわ。貴女の執り行っていたものは身代わりのまじない。依代に宿る魂に自分の身体を明け渡す術ですの。代わりにあなたの魂は依代へ移るのよ」


 まあ、そうねぇ、その対象物に魂が宿っていなかったら、結果的に自分を殺したことにはなるのかしら。対外的には。

 流暢に話すぬいぐるみはしかしぴくりとも動かない。宵は意識の端で、これでは幻覚ゆめなのか現実なのか区別がつかないな、というようなことを考えた。その思考の寄り道はさておいて、生きることに惑っているたった八つの少女の心は吸い込まれるように、ぬいぐるみの言葉に聴き入っている。


「どこで覚えたの?」

「えっと、今日、学校の机をのぞいたらやりかたの紙が入ってて、」

「いいえ、術の話ではなくてよ。『消えたい』とか『死にたい』なんて発想を、いつ覚えたの?」


 宵は戸惑った。記憶を遡ってみてもいつからそういったことを思うようになったか覚えていなかった……いや、正確には自死を意識したのは今日が初めてだ。それを思い出して伝えると、テディベアはおそらく聞こえるように大きなため息をついた。「悪意の言葉を信仰してどうするの」


「それはあなたの望みではなくて、あなたの受けた傷なのよ」


 きず、と口の中で反芻する。視線を側に置いていたあの手紙に向けると、じわじわと、胸に何かが迫り上がってくる。

 傷付いた、なんて、言ってはいけないような気がしていた。言ったところできりがないのだ。クラスメイトの誰かは私のことが嫌いだし、こういった悪戯をされることを相談したって大人たちは困ってしまう。そういうことを、宵は利口に理解していた。行き場のない傷は飲み込んでしまうほうが、俯瞰して見たときに平穏に思えた。だけど、そう、確かにあのとき宵は傷付いた。


「胸と……お腹の間が、いたかったの。この手紙をもらったとき」

「それはどんなふうに?」

「ひりひり……した。あと、背中が……うしろが、こわかった」


 こわかった。言葉にしてみて宵は自覚した。傷付いたし、それ以上に怖かったのだ。誰かに死を望まれているらしいという事実のことが。その後ずっと胸がどきどきしていたのもそうだ。目元の空気が湿っていたように感じたのは泣き出したかったからだし、頭が晴れていたように思ったのはショックでただ、他のことが何も考えられなくなっていたからだった。

 怖かった。もう一度確かめるように口にするのを、テディベアは繰り返してくれる。「怖かったわね」と。



 気がつくと宵闇の中で眠っていて、母親が部屋の電気をつけてようやく目覚めた。帰っていないのかと思って心配した、と胸を撫で下ろした彼女があの悪意の手紙を見つけてまた狼狽してしまったので、これを貰って傷付いて、眠ってしまったのだと話す。「怖かったの。でもね、もう大丈夫」

 あなたは状況の都合のいいように言葉を選んだり、隠したりする癖があるから、もっと沢山の言葉で自分の気持ちを表現できるようになったほうがいい。闇に沈むなかで彼女が最後に教えてくれたことを思い出した宵は、丁寧に自分の気持ちを確かめて、それから付け足す。


「だけどね、あのね……ちょっとだけ、ぎゅってして欲しいな」




***




 よくできました、とエルナは心中でつぶやいた。

 彼女の依代の持ち主は利口で大人しく、そして彼女から見れば割を食う性格をしている。厭な巡り合わせだと思いつつもある種のさだめだろうと割り切って少女の孤独な夜を慰める存在として見守っていたわけだが、まさかここから引き摺り出されかけてしまうとは。

 もう二千年くらいは人間なんて二度と御免だ。せっかくこうして平和に過ごしているのだから、若き少女には多少苦労しても上手な生き方を見つけてもらって、この平穏を守っていただきたい。

(それにしても、なんだか懐かしいものですわね)

 消えたい、あるいは死にたい、という感情。それはエルナにも親しみのあるものだった。彼女もまた、他者の悪意や自傷感情に苛まれて散々惑った挙句、それらを苦労して解いて得た答えは「人間に向いてないからいっそのことぬいぐるみにでもなってしまいたい」という投げやりな思いつきで、しかし存分に思い詰めてもいたから呪術を学んで万全の準備を整えた上で、彼女の実家で制作されているテディベアへと魂の棲家を移したのだった。彼女の両親が相談した街の神父にもエクソシストにもバレることなく無事に出荷されてここまでやってきたので、原因不明の昏睡状態に陥った身体がどうなったのか彼女自身は知らない。が、さして気になりもしなかった。エルナは結局、ぬいぐるみでいることを気に入ってしまったので。

 だけど今思えば――早まってはいたのかもしれない。なぜそう思うかって、彼女は宵に「その術を使うなら別の依代にして」と言ったっていいはずなのだ。けれど言わなかった。再度彼女と話す機会を得たとしてもきっと言わないだろう。それでは忍びない、と感じる心があるから。では自分にだって本当はそのはずだ。

 私はまだ、私自身のことを大切にはできていないのかもしれない。こんなところに閉じこめてしまって、今後望んだって容易に出ることは叶わないのに。

 ――とはいえ、今後しばらくは。エルナよりもまだ不器用な愛すべき少女のことを見守っていよう。それで得られる答えもあるかもしれないのだから。

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