最終話 二人の劇場

「あの、すいません。ありがとうございました」


 その声で目を覚ました。どうやら眠ってしまっていたらしい。目の前にいる少女は今日最後に迎え入れたお客さんだ。入館する時一緒に居た少年の事を聞くと先に出たのだと教えてくれた。私が眠っているのに気付いた少女は、立ち去る前に声をかけてくれたのだろう。去っていく背中に、外で待っているだろう少年の姿を思い、いつかの自分達の姿を重ねた。

 一応、劇場の中に誰も残っていない事を確認した後でシャッターを下ろし、入口を施錠した。明日は定休日だ。全てをもう一度確認してから上映室に入る。階段状になった座席の中央の席に私は腰を下ろした。

 彼女の指定席。僕らは営業が終わってから二人で映画を見ていた。映像も音もなくても、目を閉じれば二人で過ごした日々の光景が鮮明に浮かぶ。


 映画を作ることはなかったけれど、それでも彼女は確かに名監督だった。

 それが大半の人にとっては取るに足らないホームビデオだったとしても、私の心にはありありと響いたからだ。彼女は名監督であり、名カメラマンであり、名役者だった。息子や娘だってそうだった。写り込む自然な表情。それに比べて私は、いつだってカメラに向かってぎこちない笑みを浮かべている凡庸な役者だ。それは最後まで変わらなかった。

 思い出がたどり着くのは、白い小さな病室とベッドに身を横たえた、すっかりやせ細ってしまった彼女の姿。私は横に置いた椅子に座って、彼女の手を握っていた。話していたのは、一緒に見た映画の話や、子供たちの近況。それから二人で過ごした日々の思い出。彼女が起きている間、私達はずっと何かを話していた。それは時間がもうとても限られたものである事を知っていたからだ。彼女には告げていなかったが、そんな事は言わなくても伝わってしまっていたのだろう。

 最後の日に、私を見て微笑んだ彼女は言った。


「私ね。今、ホッとしてるんだ。何処かでずっと、君以外の誰かを突然好きになってしまうんじゃないかって思ってた。あの日いなくなった母さんみたいに……でも、そんな事はおこらなかった。私は今でも君が好き。自分の人生で、それだけはほこれるんだ。君はどうかな?後悔して無い?」


 その言葉に強く頷きながら返事をして、枯れ枝のようになってしまった指をしっかりと握った。


「なら、良かった。ずっと後から来てね。私が待ちくたびれちゃうぐらいずっと……。そしたらその時は君の物語を聞かせて、私の知らないこの先の物語を」


 絞り出すような声を聞いて、握った手に力を込める。去ってしまおうとしている彼女をどうにか留めようと、必死で握りしめる。堪えようとしていた涙が零れると、彼女は申し訳なさそうな顔をした。


「ごめんね」


 それを否定する為に何度も首を横に振る。彼女の所為じゃない。それを伝えたいのに言葉にならない。彼女が伸ばした指が僕の涙に触れる。

 泣くな

  泣くな

   泣くな

    泣くな

     せめて笑顔を……。

 そう思っているのに、涙が止まる事は無かった。


「ありがとう。君に会えてよかっ、た……」


 何も言えない僕が、その言葉に頷くと、それを見て満足したように彼女のまぶたがゆっくりと閉じ始め、そして閉じ切ってしまった瞬間、握っている手から力が失われ、体温が急速に遠ざかっていった。


 葬儀にはあいつも来てくれた。全てが終わった後。あいつはただ黙って私の側にいてくれた。仕事もあっただろうに、夜が明けるまで静かに酒を酌み交わしてくれた。

 そんなあいつも突然逝って、気がつけばあの日々を過ごした友人は誰も居なくなってしまった。変わっていく世界に自分だけが取り残されたような感覚を抱えながらそれでも生きて、ずっと彼女が迎えに来てくれるのを待っていた。


 閉じていた眼を開けると、二人で作った劇場の見慣れた光景が映る。その筈なのに、飛び込んできたのは懐かしい、いつかの光景だった。初めて二人で映画を見たあの劇場。照明が落とされてスクリーンに光が灯る。思わず視線を動かすと、隣の席に誰かが座っていた。まだ上映の始まっていないスクリーンの灯りでは、その表情が分かる程の光は得られない。けれど、それが誰だかは確認しなくても分かった。組まれた足の先が上映開始を喜ぶように揺れている。僕の視線に気付いた彼女がこっちを向いたのが分かった。


「酷いよ。君のエンドロールなんか見たくなかった。僕は君の物語の中で死にたかった」


 ずっと言えなかった非難を口にする。僕の人生はきっと退屈で、君が居なかったのならきっと酷い出来になっていた。だから君を失くした後は全部蛇足だそくで、それでも君はそんな物語でも幕が下りるまで見ていてくれたのだろう。


「ようやく迎えに来てくれたんだね」


 彼女は何も言わず微かに照らされた口元に、少しだけ意地悪な笑みを浮かべた。その口元が動く、何かを言おうとしている彼女の顔に触れたくて手を伸ばした。


「おじいちゃん」

 目を開けると、そこは見慣れた私と彼女の劇場で、そっくりな顔をした二人の少女が此方を覗き込んでいた。


「またこんな所で寝て、風邪引いちゃうよ」


「全然上がってこないから心配していたんだよ」


 少しだけ重なって左右から告げる声に、微笑んで見せる。どうやら夢を見ていたらしい。なかなか上がってこない私を心配して二人は住居のある上階から派遣されてきたようだ。


「ああ、そうか、それはすまなかった」


 謝罪を口にしながら肘掛を持って立ち上がる。それに合わせて、彼女たちがきびすを返し、跳ねる様に劇場の階段を下りた。


「私、アイス食べたい」


 振り返りながらそう言われ、いいよと返事をしようとすると反対の方向から、それをたしなめる声が響いた。


「こんな遅くに、アイスなんて食べちゃダメだって、それにおじいちゃんにあんまりねだるなって母さんが言ってたじゃない。この劇場は大赤字なんだからね」


 悪気のない彼女の指摘に、いたたまれなくなって頭をく。


「内緒にしてれば大丈夫だよ。おじいちゃんは秘密にしてくれるよね?ね?」


「ダメだって、嘘をついちゃいけないって母さんが」


「黙ってるだけだから嘘じゃないし」


 喧嘩を始めそうな二人の会話に割って入る。


「何味がいい?」


 そう口にすると「やったー」という声に喜びを浮かべた顔と、それは悪い事だと言いたげなしかめっつらがこっちを向いた。


「ちょうどおじいちゃんもアイスが食べたい気分なんだ。これは二人をそれに付き合わせてしまっただけ。それに、お店のアイスも売れ行きが悪いから在庫が余ってるんだ。捨てるよりは食べた方が良い」


 そこまで言うと、未だ葛藤かっとうしつつも誘惑に負けたのだろう、渋々という感じでしかめっ面が消えていった。


「苺とバニラの合わさったやつー」


 劇場に響き渡る元気な声の後で「私も」と小さな声が響いた。二人の性格はかなり違うけれど味の好みは似ている。


「じゃあ、そうしよう」


 二つの手が、私の両手をそれぞれ握った。いつまでこんな風に両手に花を持たせてくれるのかはわからないけれどそれでも良かった。

 劇場のドアを潜り最後に一度振り返る。勿論もちろんそこに彼女の姿はなかったけれど、もう少しだけ待っていてくれと、心の中で口にして、私は引っ張られた手に従って歩き出した。

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200枚のチケット ‐僕と映画好きな先輩の恋‐ 祈Sui @Ki-sui

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