第6話 半券

 先輩と正式に交際を開始してからあっというまに日々は過ぎていった。映画はそれまでと同じように見に行って、その後に食事をしながら感想を語って、先輩の家で先輩の考えた映画の構想を聞いたりした。時には二人で意見をぶつけ合った。

 やがて大学を卒業した先輩は映画を作る為に映画製作会社に就職して、全ては順調に進んでいるように思えた。けれど、先輩が映画を撮る事は無かった。業界の衰退と、それに伴った会社の経営不振。経費と人員の削減。そこに流行の変化まで加わって、先輩の考えた企画は通る事が無かった。そして、最終的に先輩の就職した映画製作会社は多額の負債ふさいを抱えて倒産した。運が無かったといえば、それだけの事なのかもしれない。けれどそんな言葉では済ませられるものでは無くて、先輩にかける言葉が思いつかなかった。先輩は僕に会ってくれなくなって、映画を二人で見に行く習慣も途絶えた。それなのに、何故か僕は一人で映画を見に行って、でも作品にのめり込む事なんて無くて、ただどうしたらいいのかをずっと考えていた。


 そんなある日、先輩から家に呼ばれた。合鍵は貰っていたけど、僕は呼び鈴を鳴らした。すぐに現れた先輩は僕を見ると「上がって」と僕を促した。

 久しぶりに上がった部屋の中は、綺麗に片付けられていて、無数の段ボールが置いてあった。


「もう此処に居る意味は無いから」


 僕の視線に気付いた先輩が呟くように言った。


「座って」


 言われるがままに座布団の上に座ると、キッチンに行った先輩が、二人で買ったお揃いのカップにコーヒーとカフェオレを入れて持ってきた。カフェオレを僕の前に置いて先輩も座った。数秒の沈黙があって、それから先輩は口を開いた。


「別れよう。今日呼んだのはそれを伝えたくて、それから合鍵を返してもらわなきゃいけないから……」


「どうしてですか?」


 問いかけると、先輩は悲しげに笑った。


「君の事をもう好きじゃなくなっちゃった。ごめん」


 僕はそれに何も言わず。ただ持っていた合鍵を財布から取り出して机の上に置いた。先輩の手が伸びてきてそれを掴む前に問いかける。


「もう映画は良いんですか?」


 先輩の背後、その壁際に並んでいるゴミ袋には、映画のディスクやパンフレットが詰め込まれている。


「うん、もういいんだ。断ち切れたよ。映画は……好きじゃなくなった。どうでもいいただの娯楽になった。もしかしたら本当は最初から好きじゃなかったのかもね。今日は呼び出してごめんね。それから今までありがとう」


 そう言いながら、今度こそ合鍵を掴んだ先輩に告げた。


「先輩は一つ嘘をついています」


 先輩の顔が上がる。


「嘘なんかついてないよ」


「いいえ、嘘です。僕の事が好きじゃなくなったのは、本当かもしれません」


 それを否定するだけの論拠は思いつかず、そこには自信がない。


「でも、映画が嫌いになったなんてのは絶対に嘘ですよ。先輩はきっとまだ映画が好きだから、嫌いになんてなれていないから」


 絶対的な確信と共に言い切ると、先輩は僕を睨みつけた。


「君に何が分かるの?」


「だって今、泣いているじゃないですか」


「そんな筈ない」


 先輩は否定したけれどその頬には確かに一筋に涙が伝っていた。映画の事を好きじゃなくなったと言った時、それが目からこぼれたのだ。


「嘘、なんで……」


 もしかすると自覚していなかったのかもしれない。頬に手をやった先輩が自分の指に涙が触れたのを感じて戸惑っていた。


「もしも本当に好きじゃなくなったなら、どうでもよくなったなら、そんなふうに涙なんて流す筈がない。悔いがあるから、捨てきれないから、だから泣いているんでしょう?」


 僕の言葉を聞いた先輩の目が一瞬大きくなり、そしてその唇が歪んだ。何も言わない先輩に向けて続ける。


「思い描いたものになれなかったとしても、それでも好きでいればいいじゃないですか、だって好きなんですから、不様ぶざまに思えても、みじめに思えても、きっとそれをくだらないと切り捨ててしまうより、そう振舞うより、ずっとカッコいいです。僕が好きになったのは……。僕が好きなのは、好きな映画の事を誰よりも楽しそうに話す先輩です。凛としてるように見えて、本当はただ不器用なだけのそんな先輩です」


 先輩の腕が自らの肩をきつく掴み、何かに耐えるように上体をちぢこまらせた。そんな先輩に向けて持ってきた容器をポケットから取り出して、中に入っている半券を見せる。


「それに僕はまだこれを持ってます。もしもこれを渡してくれた時の気持ちがまだ先輩の中にあるのならどうか僕に、先輩の物語を見続ける権利をください」


 半券を見た先輩は、顔を歪めた。


「それはずるい。ずるいよ」


 弱々しい非難は、僕に半券を返せとは言わなかった。それは先輩が嘘をついている事を示していた。きっと僕の為にと先輩が考えた、僕を遠ざける為の嘘。いつか先輩を助けようとした誰かを拒んだ嘘。だからさらに踏み込む。


「いつか言いましたよね。きっと映画館はそのうちなくなるって、映画は残っても劇場は消えるって……」


「……言った」


 震えた掠れ声で、辛うじて呟かれた声を捉える。


「だったら僕と劇場を作りませんか?きっと小さな劇場です。観客だってまばらで、最新の大作なんて上映できなくて、経営は火の車かもしれません。でもそうやって、二人で足掻あがいてみませんか?」


 問いかけた後の静寂を酷く永く感じた。


「まるで、プロポーズみたいに聞こえるよ」


 涙を拭った先輩が、呆れたように笑った。


「だってプロポーズですから」


 冗談にされたくなくて言葉を強めると、先輩が一瞬驚いて、それから困ったような泣き笑いに変わった。


「……本当に?でも、もう私には何もないよ?お高くとまってて、愛嬌だって無いし、料理もろくにできない」


「知ってます」


「酷いな……普通否定するところだよ」


「さっきもそう言ったじゃないですか先輩が不器用だなんてのは解りきっていますし、それに、嘘はつかないって約束しましたから」


 僕の言葉を聞いた先輩は視線を下げて、ゆっくりと息を吐いた。


「私を選べばきっと君は苦労して、そして不幸になるよ」


「苦労はするかもしれません。でも不幸にはなりません。隣に先輩がいてくれるのなら絶対にそうはなりません。僕の不幸は先輩と別れる事ですから、先輩は僕じゃ駄目ですか?」


 一息に言いきってその顔をうかがった。


「駄目じゃ、ないかな……うん。駄目じゃない。私も君がいい。そうしてくれるなら隣に君がいて欲しい」


「良かった」


 その返事に胸が熱くなって、だけど同時に申し訳なさが溢れてきた。


「ああ、でも、すいません。その、がっかりさせちゃうかもしれないですけど、指輪とかはないんです。まさか今日言うことになるとは思わなかったので」


 一瞬不安そうな顔をした先輩は残っていた涙を拭って、吹き出すように笑った。


「そういうところ君らしいな、うん、すごく君らしい」


「ごめんなさい。締まらなくて……」


「ううん。いいよ。それでいい。なんか安心するし、それに、私はたぶん君のそんなところを好きになったんだ」


 先輩が向けてくれた微笑みに僕も笑い返した。


「そうだ。じゃあ何もなくていい。君が用意する筈だった指環を今、私の指に嵌めて」


 差し出された、指をぴんと伸ばした左手。僕はその手をうやうやしく取って、その細くしなやかな薬指に、見えない指輪をそっとめた。


「ああ、それから、もう先輩って呼ぶのは無しね。もう先輩じゃないし、名前で呼んでよ」


 楽しげなその要求に、僕は「はい」と返事をした。

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