第5話 再演

 卒業式で先輩を送ってから、僕はすぐ進学の為の勉強に取り掛かった。バイトを止め、先輩から貰ったお金で参考書を買った。先輩に連絡する事はなかったし、先輩から連絡が来る事も無かった。

 そんな様子を「律儀りちぎだねぇ」と悪友に揶揄からかわれながらひたすら勉強した。一年、そんな風に過ごした結果、僕の学力は飛躍的に向上、する事は無かったが、辛うじて先輩と同じ大学に合格する事が出来た。


 受験番号が張り出された掲示板を見て、歓喜と共にガッツポーズをした後、震える手で端末を取り出して、先輩の連絡先を開こうとしていたら、肩を叩かれた。邪魔だったのかもしれないと思い、謝る為に振り返るとそこに先輩が立っていた。


「やぁ、一年ぶりだねぇ。それにどうやら合格したみたいだ。おめでとう」


 芝居じみた口調で先輩が拍手をしてくれた。その首からは小さな双眼鏡がぶら下がっている。どうやら、どこか見つからない場所から僕の様子をうかがっていたらしい。


「ちゃんと約束を守ってくれたね」


 改めてそう言って微笑んだ一年ぶりの先輩は、驚くほど変わっていなくて、それに安心した。都会に染まっていて、僕の事などどうでもよくなっていたらどうしようと少し不安に思っていたのだ。


「はい」


 少し涙ぐみながら返事をすると途端に先輩に抱きしめられた。


「ちょっ、先輩。ここじゃ人に見られて」


「良いの、もうここは地元じゃないんだから、それに、さすがの私も君成分の不足におちいってて、だからやめるのは無理ー」


 僕を抱きしめたままふざけるみたいに先輩が回転を始めた。どうやら改めて告白の答えを聞く必要はないらしい。


「なんで回るんですか?」


「だって、私じゃ胴上げが出来ないからー」


 先輩がたのし気に叫ぶ。景色が回る。周りの人が奇異な視線と共に避けていく。入学よりも前に僕と先輩の関係が知れ渡った筈だ。

 息を切らして、ついでに目を回し、フラフラしている僕を見て、同じような状態になった先輩が笑った。


「ねえ、さっそく映画を見に行こうよ。一年の間に探索して幾つか良い劇場を見つけたんだ。丁度とっておきの映画もやってるし」


「とっておき?」


「それはついてからのお楽しみです」


 悪戯っぽく先輩が笑みを浮かべて、僕はそれならと頷いた。


「その後は食事に行って、街も案内してあげる。ああ、大丈夫。今日はお祝いだから、全部私のおごり。君はただついて来ればいいよ」


 そう言いながら歩き出した先輩の後に続く。駅から電車に乗って、街の中心に、立ち並ぶ高層ビル群の間を抜け、途中で小さな路地に入ると、そこには半地下になった古い劇場があった。狭いエントランス。チケット売り場の奥に書かれていた上映中の映画は、初めて先輩と一緒に見たあの映画だった。


「先輩、これ」


吃驚びっくりした?奇跡みたいな偶然でしょ?」


 僕の反応が想定通りだった事を喜んだらしい先輩は二人分の料金を払って、上映室にうながした。

 小さな上映室の中央あたりにある年季の入った椅子に腰を下ろす。しばらくするとブザーと共に照明が落とされ、現れたスクリーンに光が灯った。

 二回目の映画、でも前回は、スクリーンなんてほぼ見ていなかった。照らされた先輩の横顔をうかがうのに夢中で、だから、ほとんど一回目だ。そう思いながら今回はスクリーンを注視する。僕と先輩の始まりの映画、そして先輩と先輩のお父さんの思い出であり、先輩の両親の思い出の映画。その全てを救い上げようと、目を凝らした。静かに始まった物語は、物語が進むのにつれて盛り上がり、結末に行き着いて、エンドロールが流れ始めた。やがて全ての文字が消えて照明が戻る中、ただ白い幕に成ったスクリーンを僕は見つめていた。


「どうかした?」


 先輩がそう言って、肩に触れるまで、僕は我を忘れていた。


「ああ、いえ、なんていうか、凄い喪失感そうしつかんが……」


 自分でも戸惑いながら口にする。けれど確かにそう感じていた。去って行った主人公達を追いかけたくて、或いは置き去りにされたような気がして、何も映さなくなったスクリーンを見つめていた。


「え?でも二回目じゃない。一回目の時は別に……」


「すいません。あの時は、その……ちゃんと見てなくて」


 怒られるかもしれないと思いながら口にすると、予想に反して先輩は表情を和らげた。


「ああ、なんだ。そういう事か……それじゃあ今回はちゃんと見てくれたんだ」


「はい、しっかり」


 そう言いながら立ち上がる。それから劇場を出て、先輩の案内に従って飲食店に向かった。落ち着いたたたずまいの雰囲気のいい飲食店。奥にあるテーブル席に座って、メニューから料理を注文した後で、僕は今見た映画の話を先輩に振った。自分が抱いた気持ちを今度こそ先輩と共有したくて、それ以上に映画そのものに感動していて、そんな僕を見た先輩は嬉しそうに、話を聞いてくれた。


「なんていうか、まるで……恋をしているみたいでした」


「恋?」


 首を傾げた先輩に頷く。


「知らない役者さんなんですけど、物語が進むにつれて、この人しかいないって思うようになるというか、主人公の気持ちと一緒に、自分まで彼女を好きになっていくような……」


 それはまるで僕が先輩に抱いた気持ちの変化のようでもあった。先輩に惹かれた時、僕はただその姿に惹かれただけで、ある意味においてただ劣情を抱いていただけだった。けれど、先輩と映画を見て、言葉を交していくうちにそれは変わっていった。自分が経験した一年半の出来事を、二時間ちょっとの映画の中に僕は見たのだ。


「ああ、なるほど。君の言いいたい事分かるよ。あの映画の役者さんはね。知名度がある人じゃないんだ。でもあのキャラクターを演じられたのは、たぶん当時の彼女しかいない。そう思えるぐらいはまってる。それはたぶん。役者さんとキャラクターが重なる瞬間にこの映画が撮られたから、もし、一年でも違っていたらきっとこうはならなかった。私はねそういう瞬間があると思ってるの。どんな有名な役者さんでもなし得ない、奇蹟みたいな偶然だけが可能にする。そんな配役がね。そしてそれは強力に私達を物語の中に惹き込む、まるで自分が主人公に成ったみたいに思えるぐらい」


 先輩の言葉を肯定する。映画を見ている時、僕は主人公と同じ気持ちに成っていた。


あわせてそれを可能にしたのは、上手い脚本と演出。大作映画みたいにお金はかけられていないんだけど、劣るどころか勝っているようにすら感じる。それは上映から時が経った今も変わってない」


「確かに、必要なものがしっかりとあるというか、むしろ必要なものしかないというか、派手なアクションがあるわけでも、凄い映像技術が組み込まれている訳でもなくて、とても静かな映画なんですけど、でも、何故か強く印象に残るというか……」


「そうそう、物語の世界観がとてもよく表せているよね。主人公やヒロイン以外の配役も完璧で、それにね。吹き替えもそうだけど、字幕だって完璧なの。言葉の選び方一つにしても、例えばヒロインが主人公の部屋を訪ねてくるシーン。一見すると、彼女が冬の野外から入ってきたから、身体が冷えてしまっているのだと思うでしょう?でも違うの、それを台詞せりふで説明している」


「ああー」


 そう言われて気付いた。


「もしかして、ヒロインのメイクがシーンごとに変わるのも、あっ、匂いもそれで」


「うん。言及はされていないけれどおそらくヒロインは食事をしないと、本来のありように戻ってしまうの」


「生きる為には人を殺さなくてはならない」


 僕がそう呟くと先輩は深く頷いた。


「そう、それもある意味では現実を極限まで単純化した視点として捉えられるよね。生物が生きていくためにはエネルギーを摂取しなくちゃならない。例えば、私達がこうやって食事をするみたいに」


 先輩がフォークで刺した一口大の鶏肉を持ち上げてみせる。


「自分でエネルギーを生成できない命は他の命を犠牲にする事でしか保つ事が出来ない。生きる事は食べる事。食べる事は殺す事」


 先輩が鶏肉を口にする。


「僕たちは人を殺して食べたりはしないけれど、酷く単純化すればそれば同じ事だって訳ですね」


 鶏肉を咀嚼そしゃくし終え、唇に付着したソースを舐めとりながら先輩は頷いた。


「うん。そして私達が生き物を食べているのに自らの手で命を奪う事をいとうように、ヒロインだってそうなの。それをヒロインの切実な台詞せりふしめしてる。ヒロインは、本当は人を殺したくなんてないの。そうじゃなかったらあの台詞せりふは出てこない」


「それで協力者に……」


 頷いた先輩が僕の言葉を継ぐ。


「自分でやればもっと簡単にできるのに、そうしない理由はそこ。それにね。これは映画を見ただけじゃわからないんだけど気付いたかな?協力者だった人間が、地面に落ちたシーン。あそこで彼はまだ息をしていた。映画では、あそこで死んだように描かれているけれど、原作では死なないの」


「え?そうなんですか?」


「そうなんだ。だからね。これは私の想像だけど、もしかすると撮影時には原作に沿ったストーリーを描く事も考えていたのかもしれない。だけどそうはしなかった。それがこの物語のテーマを、簡潔かつ強力なものにしたの。もしも原作通りに作っていたとしたら、映画自体が長くなり、恐らく冗長じょうちょうでテーマが薄れたような印象を受けた筈。それに映画だけ見た人の中には勘違いして、主人公と協力者の立場を同じものと考えてしまう人もいるんだけどそれは違うんだ」


「それはやっぱり原作を読まないと解らないって事ですか?」


「ううん。そんな事ないよ。映画にもそれをしめすシーンと台詞せりふがある。だけどちょっとした事だから気付かれにくいんだ。ほら、主人公がプレゼントを渡すシーン」


「ああ、ありましたね」


「あそこでヒロインは、プレゼントをもらった事が無いって言うでしょ?それが協力者と主人公の違いを明確に表している」


「成程、協力者が主人公と同じ経緯けいい辿たどっているなら一つもプレゼントを渡していないのは確かに変ですね」


「そうなんだ。だから解らない人にはきっと単なるホラー映画に思えて、一歩踏み込めた人には恋愛映画に思える。だけどね。より深く理解できたなら、これはヒューマンドラマだと気付くの」


 先輩の言葉に納得する。


「生きると言う事、それを選び続けるヒロインと、それを拒んで人のままに死ぬ人間の対比に、主人公が抱えている問題と、主人公とヒロインの二人に共通している孤独」


「うん、主人公は父親も母親も好きで、二人も主人公の事を愛しているのに、二人の関係が元に戻る事は無いし、主人公に対して社会は協力的だけど、それでも主人公の問題を解決してはくれない」


 小さく響いた声は、まるで先輩自身の事を表しているようにも聞こえた。


「それで最後には二人だけで街を出る事を選ぶ。他に誰も登場しない光景が印象的だね。何処に進んでいるのか分からない車両が、まるでここではないどこか遠くへ二人を運んでいくような、とても美しい終わり方」


「はい、とても綺麗で、でもなんていうかどことなく哀しい」


 そこまで言って僕は視線を下げた。机の模様を見ながら、ちょっと躊躇ためらって、それでも聞いて貰いたくて口を開いた。


「なんていうか、こんなこと言うと変に思われるかもしれないんですけど、僕にはなんか、物語の結末が、まるでとても美しい自殺のような気がしました」


 何故だかは分からないがそう思った。もしもこの映画を一人で見ていたら見終わった後に立ち直れない程の喪失感そうしつかんに襲われていただろう。そんな事を考えながら視線を上げると先輩が目を丸くしていた。


「あ、やっぱり変ですよね」


 おかしな事を言ってしまったと思い。笑って取りつくろうとした。


「……いや、そう、そうなんだよ」


 先輩の声がかすかに震えていた。


「初めて見た時、私もそう思ったんだ。これがもし、現実の人間の物語だったら、きっとどこまでも美しい自殺だって……」


 そう言って先輩は目をこすった。その目が僅かに涙ぐんでいるのを見て、ポケットからハンカチを取り出す。


「ああ、大丈夫。君が私と同じように感じてくれた事が、ちょっと嬉しくて……」


 残っていた涙を拭った先輩が微笑み。そしてまた口を開いた。


「ああ、あとこれは字幕にもなってないんだけどね。最後のシーンで主人公が……」


 たのしそうに弾んでいた先輩の声が突然途切れた。不思議に思ってその顔を凝視する。


「あーーーーーー」


 突然先輩が声を上げた。


「なんですか?忘れものとか?」


 驚きながら、もしそうなら急いで店を出なくてはならないと、立ち上がりかける。


「そう!普通に連れてきちゃったけど、私、君に確認してなかった。君は今も私の事好き?」


 始めてみる取り乱した先輩の姿に思わず笑ってしまった。座りなおして口を開く。


「大丈夫です。ちゃんと好きですよ」


「良かった」


 安堵したように先輩が溜息をついた。


「先輩はどうですか?」


 問う必要はないと思ったけれど、口にして欲しくて聞いた。


「私も、君が好き」


 僕の頬が緩むのに合わせて、先輩も微笑む。


「いやぁ、当初の予定では合格してたら、近づいた後で冷静に挨拶して、そこで確認するつもりだったんだけど、いざ君の喜んでる姿見たらすっかり忘れちゃってさ」


「そんな事あります?」


「それぐらい嬉しかったって事。本当言うとね。ちょっと不安だったんだ。君が変わってしまってないかなとか、自分はまだ君が好きでいてくれるような私かなとか。だけど、一年ぶりに見た君が、私の想像していた通りの君だったから」


 それで、先輩も自分と同じ不安を抱えていたのだと知った。


「僕もおんなじ事を思ってました。でも杞憂きゆうでした。先輩は僕が想ってた先輩のままだったから」


「それならよかった」


 先輩が嬉しそうに目を細める。


「あー、でも少し、先輩は子供っぽくなりましたね」


 少し揶揄からかうように口にする。僕もきっと浮かれている。


「そういうこと言う?そこはもっとこう、綺麗になりましたねとか言うべきじゃない?」


「先輩は出会った時からずっと綺麗ですから」


 少しだけ頬を膨らませた先輩にそう言うと、その頬が少し赤くなった。


「言うようになったね君―。さては会わなかった間に、経験を積んだんじゃなかろうね?」


 その軽口に応じる。


「違いますよ。決してそんな事はないです」


「冗談、冗談、信じるよ。だけど実際、私の事を子供っぽく思うようになったのは君が大人になったからなんじゃない?合わなかった間に君の方が成長したから、私との距離が縮まってそう感じるの」


 もし本当にそうだったら、一年前よりも先輩に近付いているならいいなと思った。


「そうだと良いんですけど」


「きっとそうだよ。でも、まぁ、他にも一年ぶりに君に会えて自分でも想定してなかったぐらい私が高揚してる事による影響とか?或いはそもそも今の私が本当の私なのかも、もしそうだとしたら君は嫌かな?」


「嫌じゃないですよ」


 その可能性のが高いかなと思いながら、でももしそうだとしたら、先輩は僕にを出せるようになったと言う事で、それはそれでいいと思った。どちらにしろ距離が近づいたと言う事だから……。


「そっか」


 先輩は少しだけ目を伏せて頷いて、微笑んだ。


「ところで君は私のどんなところが好きなの?」


 唐突にそう聞かれて言葉に詰まった。好きなのは間違いないのに、いざ問われると何と答えればいいのか分からない。学校で見かけて好きになったのだから容姿は勿論好きなのだけど、それではチケットを渡した時の下心からくる好きと同じだと思われそうな気がして……。


「そんなに悩む事?」


「あっ、いえ」


「じゃあ聞かせてよ」


 先輩はまだ楽しそうにしているけれど、このまま黙っているのは最悪だと思って、とにかく思いついた事を声に載せていく。


「えっと、その、凛とした姿に最初は一目惚れしたっていうか、そんな感じだったんですけど、それが間違っている事に気付いたというか、本当は、いろんな面があるのに、それをあまり表に出さないだけなんだって分かって、一緒に過ごしている内にいろんな先輩を知って、それが魅力的で、もともと好きだったんですけど改めて好きになったというか、もっと好きになったというか、好きの形が変わったというか、他にも、僕を信じてくれた事とか、待っていてくれた事とか、えっと……」


 言いたい事がまとまらなくて、きっとうまく伝わってなくて、せっかくの雰囲気を台無しにしたと思って窺うと、先輩は楽しそうな表情を浮かべたままだった。


「下手くそ」


 意地悪く笑った先輩を見て、少しだけ反発心が生まれる。


「じゃあ先輩は僕のどんなところが好きなんです?」


「うーん、そうだな~。百回も映画に誘い続けて、その後一年何の連絡もしなくても、約束通り追いかけてきて、まだ私の事が好きだとか言う馬鹿なところ。あと気持ちが隠せなくて露骨に表情に出ちゃうところと、変なところで真面目すぎておかしな事を言ったり、したりするところ」


「なんかけなしてません?」


 少し不満げに言うと先輩は揶揄からかうように口角を上げた。


「そんな事ないよ。さて、じゃあ、そろそろ次に行こうかな」


 先輩が請求書を掴んで立ち上がる。今日はその厚意に甘える事にして、僕は先輩の後について店を出た。


「ねぇ、せっかく正式に交際を開始したんだし、恋人らしい事をしようよ」


 日が暮れるまで街を散策して、夕食もご馳走になり、そのお店から出た所で突然そう言われた。もう今までやっていたのがそれっぽい事だと思ったけれど「いいですよ」と答えると、喜んだ先輩に連れていかれたのは、高層ビルの上にある。大きな観覧車の前だった。


「此処の観覧車で夜景を見るのが流行はやりらしいよ」


 その言葉を裏付けるように、観覧車乗り場には長蛇の列が出来ている。


「でも、その……すごく込んでますよ?」


 電子掲示版に表示されている待ち時間は45分だった。


「待ってる間に体が冷えそうですし」


 厚手の上着を着ているけれど、頬を撫でる風は冷たい。


「それはこうしてー」


 級に手が引っ張られて身体が密着させられた。同時に先輩が巻いていたマフラーが、僕の首にも回される。


「これなら、そんなに寒くないでしょ?それに、こうみえて私だって恋人と夜景を見るような事がしてみたいんだよ。ちょっとだけ……まぁ待つのが嫌だって言うなら」


「いえ、乗りましょう」


 僕の返事を聞いた先輩が嬉しそうに微笑む。それは意外だったけれど、僕だってそういう事がしたくない訳じゃない。ただ観覧車というものに躊躇ためらいを覚えるだけだ。でも、それは口にしなかった。嬉しそうにしている先輩の気持ちに水を差したくなかったし、なにより僕が少し耐えればいいだけの事なのだ。だから、断頭台に続いているように思える列の最後尾に並んだ。先輩と言葉をかわして、気をまぎらわせる。前の人に合わせて、一歩進む。断頭台までの距離が少しずつ短くなる。その時が確実に近づいてくる。でも、たぶん大丈夫だ。流石に今は昔とは違う筈だ。今日は先輩だっている。大丈夫。そう言い聞かせていると、遂に前に人がいなくなり、係の人がやってきたゴンドラの扉を開けて中に入るようにうながした。動揺を悟られないように胸を張り、先輩の腕を引いて乗り込むと扉が閉められ、施錠されたゴンドラはゆっくりと上がっていった。段々と地上が遠くなってそれにつれて、身体から血の気が引いていく。足元に空いた小さな穴の先にどんどん離れていく地表が見える。想像と違いまるで克服できてなかった。


「あ、ほら、見て、あっちの方、夜景がきれいだよ。ってどうかした?どこか調子悪い?」


「いえ、なんでもないです。本当。綺麗ですね」


 一瞬夜景の方に視線を向けた所為で眩暈めまいがした。


「いや、でも顔真っ青だよ」


 酷く心配そうな顔をした先輩を安心させたくて躊躇いながら口を開く。


「その、実は、高い所は苦手で……」


「なんで先に言わなかったの?」


 僕の言葉を遮って先輩は責めるように言った。


「ガッカリさせたくなかったので」


 自分でも情けないと思う。


「そんな気遣いはいらないよ」


 あきれた顔でそう言った先輩はゴンドラを揺らさない様にゆっくりと動いて僕の手を握った。


「私を見て」


 言われたままに、先輩の顔を見る。


「今君は、とても高い所にいると錯覚しているけれど、実は地表からほんの少し上にいるだけです。下には分厚いクッションが引いてあるし、ゴンドラは、今日念入りに点検したので、一番安全な状態です。だから何も怖い事はありません」


 先輩が胡散臭うさんくさい占い師みたいにささやいた言葉を、頭の中で反芻はんすうさせて自分に言い聞かせる。それでも、一瞬動いた視線が、遠くの夜景を捉えて、身体が震えた。


「あ、駄目だって、ちゃんと私を見て」


「はい、すいません」


「窓の外に見えるのは、SFXスペシャル・エフェクツです。それにほら段々下がってきています」


 先輩が言う通り、もう頂上は越え、ゴンドラはゆっくりと下降しつつあった。


「もうちょっと。もうちょっとだよ。はい着いたー」


 先輩の言葉と共に、係員さんが扉を開いてくれた。


「よく頑張ったね」


 そう言った先輩に手を引かれ、僕は十五分ぶりに地に足を付けた。


「すいません。情けなくて」


 観覧車乗り場から離れて、謝罪する。


「いいよ。そういう人だっている。高い所に恐怖を覚えるのはむしろ人としては自然な反応だよ。人は飛べないし、落ちたら無事じゃすまない。君は実際に危険なものを危険だと判断してるだけ、それを臆病だという人もいるかもしれないけど、勇敢なだけが言い訳じゃないよ。そうだ。ネズミの話をしてあげよう」


「ネズミ?」


「うん、ネズミは一度にたくさんの子供を産むでしょう。でもその性格は様々なの、勇敢で行動的な子や、臆病で引っ込み思案な子。食べすぎて大きくなる子や、あんまり食べない小さな子って感じにね。それでね。これは両親の性質には左右されないの、勇敢なネズミ同士の子にも臆病な子が生まれてくる。だけどその子が劣っているって訳じゃない。例えば、住んでいる環境が、食料が十分にあって外よりも危険の少ないものだったら、勇敢で外に出かけてしまう子よりも、臆病でその場に留まろうとする子の方が高確率で生き残れる。勇敢な子は天敵に襲われやすくなってしまうからね。でも、ある日、住んでいる環境が一変して、近くに食料が無くなってしまったら、臆病で動かない子は飢えて死んでしまう。つまりね。環境によって、ある性質が有利に働くときもあれば不利に働くときもあるの、君のそれだって同じって事。それに私は、今日君と観覧車に乗って良かったと思ってるよ」


「なんでですか?全然夜景なんて楽しめなかったのに」


「確かに夜景は見れなかったけど、君の新しい一面を見れた。それは私にとっては夜景なんかよりずっといいものだよ」


 そういって先輩は笑った。


「だけどこれからは、嫌な事や苦手な事があったら必ず言ってね。あと嘘を吐くのも禁止。これは付き合う上での約束ね」


「わかりました。でも、さっき先輩は嘘をつきましたよね?」


「うん?」


「ほら、観覧車の中で」


 意地悪な言葉に、先輩は困ったように笑った。


「ああ、まぁ、そうか。あれも嘘か、じゃあ、相手の為になる嘘はついても良いって事にしよう」


「結構いい加減な約束ですね」


「そうかな?あーでも、浮気とかそういうのをして、知らない方が相手の為になるとかいうふざけた理屈は駄目だからね」


「はい。肝に銘じます」


「よろしい」


 そう言って笑んだ先輩は、それからその笑みを悪戯いたずらっぽいものに変えた。


「それじゃあ、この後は私の家に来るって事でいいかな?」


 伸ばされた人差し指が、僕の唇を押した。


「約束通り、一年前の続きをしてあげる」


 その宣言に、唾を飲み込んで頷いた。

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