第4話 約束


「お前まさか、このまま何もせずに終わらせるつもりじゃないだろうな?」


 悪友はブランコをこぎながら言った。


「それでいいのかよ?」


 あれから都合のいい雨の日は無くて、季節は流れて先輩の卒業の日が近づいていた。


「いけないとは思うよ。でもなんて言ったらいいんだよ。連絡先は知ってるし、会おうと思ったらきっと……」


「それは逃げだろ」


 その言葉には何も返せず、ただ力なくブランコを揺らした。さっきまで晴れていた空は、いつの間にか厚い雲に覆われつつある。確かに逃げだ。僕はこの気持ちを伝えて、拒まれる事を怖れていた。それならいっそ伝えない方が可能性は残るし、思い出だって楽しいまま残るとか、あわよくば今の関係がずっと続いたりはしないかとか……

 時が流れれば状況もうつろい、全ては変わっていく、嫌でも歳をとって、とどまる事などできないのだと解っていても、それでもそうできないかと考えていた。

 そんな僕の心を見透かしたように、悪友は静かに、けれどはっきりとした声で、さとすように言った。


「俺は、お前みたいに映画をたくさん見たりはしてない。だけど物語がどういうものかは知っている。どんな物語の主人公だって、何かを選択し、実行するんだ。そこにいつも確信があるか?ないだろ。だけど少なくとも何もしない奴なんていない筈だ。おまえだってそうだったじゃないか、例え俺がそう仕向けたものだったとしてもおまえは、あの人を映画に誘った。お前が誘ったんだ。そして次に繋ぎ、続けた。それはおまえの選択であり、行動だろ」


 悪友の言葉にハッとした。自分は今まで何を見てきたのか思い出す。先輩と見た映画の主人公たち。そしてその物語。


「いけ、行って全部伝えてこい」


 悪友の声が背中を強く押した。頷いて立ち上がり、悪友の目を見た。


「お前、良いやつだな」


 心の底から、そう思った。


「いつもそう言ってるだろうが」


 冗談のように返された声に笑い返す。本当に良い奴は自分で自分の事を良いやつだなんて言わないっていつも返していたけど、実際、本当に良いやつ過ぎてこいつが友達で良かったと思った。


「今度何かおごる」


 自分には過ぎた友人に告げながら走り出す。


玉砕ぎょくさいしたら俺がおごってやるよ」


 背後から聞こえた声援を受けて、より足を速める。鼓動が早くなり、息が上がる。それでも心は軽い。空を覆っていた厚い雲から、雨が降り始めて、舌打ちしながら僕は笑った。止まる気は無かった。遅刻しそうだった朝も、学園祭のリレーの時ですら使わなかった全力疾走で僕は走った。


 先輩の住んでいるマンションまで辿たどり着いて、息を整えた後で呼び鈴を押した。扉の向こうから先輩の声が響いて、僕の姿を確認したらしい先輩がすぐに顔を覗かせた。


「急にどうしたの?って、うわ、びしょ濡れじゃない。傘もささずに来たの?」


 先輩は僕の姿に目を丸くしていた。


「突然すいません。でも、どうしても……どうしても先輩に伝えたいことがあって」


「ああ、うん。良く分からないけど、とりあえず上がって、そのままじゃ風邪ひいちゃうよ」


 先輩は僕をそのまま浴室に案内しシャワーを浴びるように言った。雨に濡れた服を脱ぐと何とかパンツは無事だった。言われるがままにシャワーを浴びたのは良いけど、パンツ以外の服はどうしようかと考えていると、脱衣所の方から先輩の声が響いた。


「着替えは置いとくから、下着は大丈夫だった?駄目だったならコンビニで買ってくるけど」


「すいません。ありがとうございます。パンツは大丈夫でした」


 叫び返すと「わかった。じゃあ着替えを置いとくねー」という声が返ってきた。

 先輩がいない事を確認しながら、浴室から脱衣所に出る。用意されていたバスタオルで身体を拭いて、無事だったパンツをはく、先輩が置いておいてくれたのは、学校のジャージだった。男子も女子も同じデザインで良かったなぁなんて思いながらズボンに足を通して、ふとこれを先輩が来ていたという事実に思い至り、急に恥ずかしくなった。生まれた気持ちは飛躍し、背徳感にまで至る。それを振り払うように急いで上着を被って息をんだ。先輩の匂いがする。仄かに甘く爽やかな匂い。やばい。やばい。やばい。やばい。急いで脱ごうとした瞬間、脱衣所の扉がノックされた。


「着替え終わった?」


 脱ぎかけていた上着を急いで着ながら返事をすると扉が開けられた。


「うん。なんとかいい感じだね。君の背がそんなに高くなくてよかったよ」


 喜んでいいのかどうかわからない言葉に頷きながらお礼を言う。でも、心臓は跳ねまわっていて、正直それどころじゃない。

 少しでも早く平静さを取り戻す為に深呼吸を繰り返しながら、先輩に続いて部屋の方に移動した。


「君が此処に来る日はいつも雨が降ってるね」


 窓の外を眺めながら先輩が懐かしむように呟いた。うながされるままに机の前に座ると、電子レンジで温めていたらしい牛乳を注いだカップを先輩が持ってきてくれた。


「それで?どうしても伝えたい事って?」


 先輩の問いかけに、思考が一気に落ち着く。


「ああ、そうです。それは、えっと……」


 かすかな躊躇ためらいが口を止めてしまおうとする。首を傾げた先輩がじっと僕の顔を見た事で、その躊躇ためらいは大きくなる。けれど、それを悪友の激励げきれいを思い出して押しのける。


「先輩の事が好きです。だから僕と、僕と付き合ってください。このままさよならなんて嫌です」


 思いの限りを叫ぶと、先輩は酷く驚いたような顔をした。


「え?それを言う為にわざわざ雨に打たれながらここまで来たの?なんだ。なんかとんでもない事があったのかと思ったよ」


 安堵したように息を吐いた先輩がカップの中の牛乳をすすった。その態度に、ほんの少しの腹立たしさと圧倒的な悲しみを抱く。


「先輩にとっては、大した事じゃないかもしれないですけど、僕には」


 思わず呟くと先輩は、それを否定するみたいに慌てて首を横に振った。


「違う、違う。……でもそうか、君にはそう感じさせちゃったか。だとしたらごめん。全面的に私が悪い。その事は卒業式が終わったら此処に呼んで話そうと思ってたんだ」


「え?」


 呆気あっけに取られると先輩は困ったように笑った。


「君に何も言わずにいなくなるわけないでしょ」


 だとしたら、全て早とちりだったと言う事になる。


「……じゃあ、今日こんなに必死になる必要は無かったって、事です、か?」


「まぁ、そうなるね」


「うわっ」


 恥ずかしすぎて、両手で顔をおおう。


「でもいいじゃない。映画みたいだったよ」


 たのしそうな先輩のフォローは僕の羞恥しゅうちを晴らしてはくれなかった。


「さて、じゃあ、せっかくだからこれからの事を話そうか。とりあえずまずはこれね」


 そう言った先輩は立ち上がると、机の引き出しから厚みのある封筒を取り出してきた。


「はい」


「なんですかこれ?」


 差し出されたそれを受け取って、中身を確認すると、そこにはお札が詰まっていた。


「ずいぶん時間を使わせちゃったからね」


 お札と先輩の言葉が意味するところを考える。


「これで……おしまいって事ですか?」


「は?待って、待って、君はたぶんまた勘違いしてるよ」


「勘違い?」


「そう、それは君が今まで出してくれてたチケット代の私の分。多く感じるのは全部千円札だからで、返すのは関係を清算する為とかじゃなくて、流石に額が大きすぎて、返さなくちゃいけないと思ったから」


 その言葉に安堵しながら、封筒を先輩に向けて差し出す。


「そういう事なら大丈夫です。僕がそうしたくて勝手にしてた事ですから」


「そういう訳にもいかないよ。だってチケット代を捻出する為に必死でバイトしてくれてたでしょ?ずいぶん時間を使わせちゃったっていうのはそういう意味」


 先輩の言葉を不思議に思った。


「何で知ってるんですか?」


「どう考えても、そうじゃなきゃお金続かないでしょ。それに確認したら君が急にバイトを始めたって」


「誰がそんな事を?」


「ほら、君とよく一緒にいる子。ちょっとチャラそうな」


 あのやろう。そんな事一言も言わなかったじゃねぇか……。心の中で毒づきながら全てを理解した。


「どうせ面白おかしく伝えたんでしょう?」


 あいつの事だ。下手したらそれに加えて先輩を口説いたりもしたかもしれない。


「そんな事なかったよ。すごく丁寧に教えてくれたしそれに、釘を刺されちゃった。もしも君をもてあそんでるんだったらやめて欲しいって、あの子、良い子だね」


 その言葉に後でめてやろうとちかう。


「それでね。一度だけこっそり見に行ったこともあるんだよ。ブカブカの制服を着た君が頑張ってた。お世辞にも似合ってはなかったけど、でもなんか嬉しかったんだ。私の為にそうしてくれてるんだと思って、それで私も頑張って貯めたんだ。だから遠慮なく受け取ってよ」


「でも……」


「これは私がそうしたくて好きでやってる事だから」


 そう言われると返せる言葉は無く、仕方がないから押し返された封筒を受け取った。


「……わかりました。じゃあ、ありがたくもらっておきます」


「うん。さて、あとは君の告白の返事だけど……」


「はい」


 姿勢を正して、先輩の言葉を待つ。


「返事は決まってた」


 過去形である事に疑問を抱いた僕を置いて、先輩は続けた。


「私と一緒に見た映画の回数知ってる?」


「いいえ」


 唐突の質問に困惑する。回数なんて考えた事も無かった。


「百回だよ。この間ので丁度百回」


「数えてたんですか?」


「うん、半券も取ってある。欲しかっただろう見返りなんてないって分かっても、君は私を映画に誘った。最初は自分の目的が下心だったっていうのを誤魔化す為なのかなとか、その内終わるんだろうなとか思ったりしたけど、君はずっと私を誘い続けた。それでね思ったの。もし君が、このまま百回私を映画に誘ったら、そんな救いようのない馬鹿で、その時君が私の事を好きだって言ったら、付き合ってあげても良いかなって……」


「それじゃあ……」


 想像した答えに喜びが生まれた僕を、先輩が手でとどめた。


「でも、ごめん。考え直したんだ。それは君が合格したらにしようって……。私とおんなじところに来てくれるんでしょ?」


 どうして?と言いかけて止めた。考え付く理由は一つしかない。


「それもあいつから?」


「うん。少し前に学校で教えにきてくれた。その目的を達成するには少し学力が足りない事もね」


「あー」


 うめきながら視線を逸らす。余計な事まで言いやがって……。


「待ってるから、きっと来年、私のところまで来てよ。そうしたら君と付き合ってあげる。自分で設定したゴールを勝手に動かすなんて最低だと思うかもしれないけど」


「そんなこと思いません。僕はきっと先輩の居る所に行きます」


 力強く宣言すると先輩は微笑んだ。


「じゃあ目を瞑って、もう一つあげたいものがあるの、驚かせたいから、良いよって言うまで目を開けないでね」


 言われるがままに目を瞑ると、途端に唇に柔らかな何かが押し当てられて、そして離れた。驚いて目を開けると先輩の顔が遠ざかっていくところだった。


「びっくりした?」


 戸惑いと気恥ずかしさから、顔が赤くなっていくのを感じながら頷くと先輩が笑った。


「じゃあ成功だね。今日はここまで、続きは君が私と同じところに来たらしてあげる。そうだ約束の証しに……」


 そう言いながら立ち上がった先輩は、机の奥から大事そうに小さな箱を取り出してきた。開かれた箱から古びた半券が現れる。


「これを渡しておく」


「これは?」


 戸惑ったまま、それでも丁寧に受け取りながら聞く。


「これはね。父さんに連れられて見にいった最初の映画の半券」


 その言葉で、それがどれほどの意味を持つものか理解する。


「そんなに大切なもの」


「いいんだ。君に持っていて欲しい。私は君が約束を果たしてくれるって信じてる。これはその信頼の証しであり、私の物語を見る為の鑑賞券。……なんてね」


 冗談めかす様に付け加えた先輩の顔をじっと見つめる。


「きっと見せてもらいますからね。先輩の物語を」


 僕が軽口を返すと先輩は優しく目を細めて「うん」と頷いて、それから表情を変えた。


「あっ、でも、もしも私を好きでなくなったら、その時は返してね」


 念の為とでもいうように付け加えられた言葉に、そんな事はありえないと思いながら、逆の場合はどうなるのだろうと考える。


「じゃあ、もし、先輩が僕の事を好きでなくなったら?」


 そう言うと先輩は真っすぐに僕の目を見た。


「その時は必ず伝える。黙っていなくなる事だけはしない。絶対に、そう約束する。君は私の交約者こうやくしゃだからね」


「こうやくしゃ?」


 上手く聞き取れなかったかと思って聞き返す。


「結婚の約束をした二人を婚約者っていうでしょ?私達は交際の約束をしたから」


「ああ、それで」


「うん。よろしくね」


 差し出された手を僕は握った。

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