第3話 相合傘

 いつものように映画を見終わって、劇場から出ると雨が降っていた。


「朝の予報では、夜までは降らない筈だったんだけどな」


 空を見上げながら、先輩がつぶやく。


「どうします?」


 雨はそれなりの勢いで降っているし、でも待っていても止むかは分からない。


「大丈夫、念のために折り畳み傘持ってきてるから」


 売ってそうな所まで走って傘を買ってこようかと考えていた僕の前で、先輩は鞄から小さな折り畳み傘を取り出して、広げながら外に出た。

 それなら自分はどうしようかと思っていると振り返った先輩が持ち上げた傘を、かたむけてみせた。


「ほら、入って」


 うながされた傘の下に「すいません」と言いながら遠慮がちに踏み入む。


「もっと寄って、れちゃうから」


 歩き出した先輩の声に少しだけ身を近づけると、それでも不十分だったらしく肩が触れる程先輩が身を寄せてきた。あまりの近さに心臓が跳ねる。劇場の隣席などとは比べ物にならない、ほぼゼロの距離と、二人で一つの傘に入っているという気恥ずかしさから少し距離を取りたかったけれど、傘は僕が濡れないように傾けられていて、もしもそんな事をしたら、今ですら少し傘の下からはみ出している先輩の肩は、雨に濡れるしかなくなってしまうから、そうする事が出来なかった。

 歩きながらふと、先輩に傘を渡してもらって僕がさせば、距離を取りながら先輩が濡れないように出来る事に気付いたけれど、それを提案する勇気が無かった。だから、軽く持ち上げた手を開いては閉じた。いや或いは、そう言い訳して僕はこの距離を保ちたいのかもしれなかった。同じように傘をさして、通り過ぎていく人たちから、僕たちは恋人のように見えているのだろうか?そうだとしたら、やっぱり気恥ずかしくて、それでいて嬉しい。できるならこの時間がずっと続けばいいのに、そんな事を思いながら歩いた。ずっとそんな風だったから、僕は自分が何処に向かって歩いているのか全く把握してなかった。


「はい、到着」


 そう先輩が声を上げた時、辺りを見回すと全く知らない場所だった。目の前には知らないマンションがある。


「どこですか此処?」


 僕が傘を買えるようにコンビニにでも向かっているのだと思っていたのに見渡した限りにそんなものは無かった。


「私の住んでるとこ」


 それを聞いて理解する。きっと傘を貸してくれると言う事だろう。そうすればわざわざ傘を買わなくても済む。


「良かったらちょっと寄ってく?」


 成程な、と思っていたところに、響いた声に耳を疑った。


「いいん、ですか?」


 躊躇いながら問いかける。


「うん、あ、やっぱり突然は嫌かな?」


「いえ、是非、おじゃましたいです」


 首を傾げた先輩の言葉に食い気味に答える。


「じゃあ、そうしよう」


 先輩はそう言いながらマンションの入り口まで進み、軒下で傘を畳んだ。階段を上がる度に脈が速まる。廊下を進み、辿り着いた扉の前。鞄から取り出した鍵を先輩は鍵穴に差して回し、扉を引いた。


「どうぞ」


 うながされるままに、小さな玄関に踏み込む。


「おじゃまします」


 失礼の無い様に声を張り上げると先輩は笑った。


「そんな大きな声出さなくてもいいよ。一人暮らしだから」


 脱いだ靴を揃えて上がっていく先輩の姿を追いながら、緊張感が増した。なんだか、とんでもない事をしているような気持で、靴を脱いで廊下に上がる。短い廊下の途中にはトイレと浴室のものだろう扉があって、廊下の先にはキッチンが併設へいせつされた広めの部屋があった。いわゆるワンルームマンションというやつだろう。部屋の奥にはベランダへ続く窓があって、壁際にはベッドが一つ、その横には学校で使うものがまとめられていて、部屋の中央には小さな机と座布団が並んでいる。ベッドと反対側の壁際には、小型テレビがあって、隣に並べられた棚には沢山の映画のディスクが収まっていた。


「そこに座って」


 しめされた座布団の上に座る


「コーヒーでいい?」


 僕を置いてキッチンの方に向かった先輩に問われる。


「あー、えっとコーヒーはちょっと、その……飲めないです」


 情けなさと共に答えると先輩が振り返った。


「苦いから?」


 肯定すると先輩は笑った。


「じゃあカフェオレにしてあげる」


 電子レンジの動く音がして、じきに目の前にマグカップが置かれた。お礼を言ってそれを手に取りながら、何を話したらいいか必死に考える。いつも映画を見て、せいぜいその感想を語り合うだけだからこういう時何を話せばいいのか分からない。カフェオレが無くならないように、出来る限りちびちびとすする。対面に座った先輩はコーヒーを飲みながら窓の外を見ている。もしかすると先輩は別に沈黙も苦にならないのかもしれないけど、それではいけないような気がして、話題になるものがないか視線を彷徨さまよわせている内に、お腹が鳴った。忘れていたけど時間も時間だし、なにより摂取せっしゅしたカフェオレが、胃の活動をうながしてしまっていた。恐る恐るうかがうと先輩が僕の方を見ていた。


「もしかしてお腹空いてる?」


「……少し」


 顔が火照るのを感じながら正直にそう言うと、先輩は優しい笑みを浮かべた。


「何か作るよ。何がいい?」


 咄嗟とっさに遠慮しなければと思ったけれど、むしろそれは失礼になるかもしれないとか、先輩の手料理が食べられるという期待から、違う言葉を選んだ。


「すいません。ちなみに何ができます」


 先輩はあごに手をやって首をひねった。


「うーん、そうだなぁ、ご飯は炊いてあるし、冷蔵庫の中には豚肉があるから、後はそれを塩胡椒で焼くか、しゃぶしゃぶにするか、ああ、すき焼きのタレで甘辛く煮る事もできるよ」


 その答えに、自分の認識が間違っていた事に気づいた。何でも完璧にこなすような気がしていた先輩も、料理に関してはたぶん駄目な人なのだ。


「じゃあ塩胡椒で焼いてください」


「りょうかーい」


 僕の期待を打ち砕いた事に気付いていないだろう先輩は、弾んだ声でそう言った。

 料理はすぐに並べられた。「野菜も取らないといけないからね」と千切ったレタスにミニトマトをのせた小皿も置かれる。みそ汁はレトルトだった。


「先輩の分は?」


 並べられた料理が一人分しかない事を不思議に思って問う。


「食器が一人分しかないからね。私は後で食べるよ」


 その答えに納得する。一人暮らしなんだから二人分の食器なんてある訳が無い。先輩が気にしないでと言ったから「いただきます」と手を合わせてから箸をつける。


「すごく美味しいです」


 一口咀嚼そしゃくした後で口にする。料理は褒めろと聞いたからだ。


「そりゃあ、焼いた肉に塩胡椒ふったんだもの、ましてお腹が空いてたら美味しいよ」


 先輩の指摘に、嫌な汗が噴き出すような気がした。


「でも、肉の焼き加減とか、塩胡椒の塩梅とか、このトマトだって新鮮ですし、レタスだってこんなに瑞々みずみずしくて……」


「ほとんど誰がやっても肉はそうなるし、野菜は農家とそこからの運送技術、それとスーパーの仕入れの人が目利きだったんだよ」


 冷静なその言葉に何も返せなくなって愛想笑いをしながら視線を逸らした。最悪だ。酷く後悔した僕の耳に、先輩の笑い声が聞こえた。


「流石に下手すぎるでしょ」


 視線を戻すと先輩が腹を抱えていた。


「そんなにですか?気を悪くしてたりしません?」


「してないしてない。だって私が料理できないのは事実だし。自分でも褒められるところなんて見当たらないよ。それなのに君はそんな無理を押し通そうとするんだもん、可笑しいよ」


 先輩はしばらく笑った後で、呼吸を整えて僕に向き直った。


「ごめんごめん。ちょっと笑いすぎた。でも、こういうの慣れてないんだなって、なんか安心したよ」


「そういう先輩はどうなんですか?」


「さて、どうでしょう?」


 先輩は意味深な笑みを浮かべて僕の問いをはぐらかした。


 食事を食べ終わってから、自分が使った食器を洗い。それからその食器で先輩がご飯を食べるのを僕は見ていた。その時ふと聞きたい事を思いついて先輩がご飯を食べ終わってから口を開いた。


「そういえば、どうして先輩は映画が好きなんですか」


「うーん。そうだなぁ、映画が人に力を与えるもの、だからかな?」


「力?」


「そう、勿論それは映画だけじゃなくて、歌や小説、それに絵、人が芸術とか娯楽とか呼ぶものはきっとみんなそうだけど。その中で私は映画が一番好きになったっていうだけ」


 先輩はそう口にしてから、少し考えこんだ。そして一度閉じた口が再び開かれる。


「ほら、映画って色々あるでしょ。ジャンルも全然違ういろんな物語。それは誰かにとって取るに足らなかったり、もしかしたら軽蔑にさえ値するかもしれない。けど、別の誰かにとっては、紛れもない名作で、支えになるぐらいのものかもしれない。例えば感動的な物語だったら、それに心を打たれた人は、ほんの少しだけ優しくなれるかもしれないし、バカバカしい喜劇が、辛い現実にさいなまれている人の心を少しだけ軽くするかもしれない。だから私は映画が好きなの。……たぶんね」


 先輩は少し気恥ずかしくなったように笑った。きっと先輩は映画に力を貰った一人なのだ。そしてそれはなんとなくなんかでは無くて本当ははっきりした理由があるような気がしたけれど、そこにはまだ踏み込んではいけないような気がして、僕はそれ以上聞かなかった。


◆◆◆


「で?まさかそれで、そのまま帰ってきたわけか?」


 月曜日の学校の帰り、いつもの公園で僕の話を聞いた悪友の声は信じられないと言った響きを伴っていた。「そう」と肯定しながらブランコを漕ぐ。


「お前馬鹿だろ」


 悪友が頭を抱えて、溜息を吐いた。


「それは押したらやれた」


 絶好の機会を逃したとでも言いたげな悪友の声に、それでも僕の気持ちは弾んでいた。


「いいんだ」


 そう答えながら、反動をつけて昔は上げられなかった高さまでブランコを持ち上げる。


「わからん」


 呆れたような悪友の呟きを聞きながら、そうかもしれないと思った。自分でも良く分からない。もしかするとそれは経験豊富な悪友とは違う子供っぽさなのかもしれない。けれど、それでいい気もしていた。関係を持ってすぐに消えてしまう想いよりも、ずっといいんじゃないかと……。

 だから、僕はそれからも先輩とのそんな関係を続けた。

 少しだけ変わったのは、映画を見た後の食事中に映画の事以外も話すようになった事と時折端末で映画の約束とは関係のない文章を送り合うようになった事。それから雨が降った日は、先輩が僕を家に招いてくれるようになった事だった。

 勿論、朝から雨が降っている日は駄目だ。映画館に行くまでは雨が降っていなくて、映画を見ている間に雨が降り始めた、そんな日だけ。

 劇場の外に出た先輩が「雨降ってるね」と言ってから僕に「傘持ってきた?」と聞く。「忘れました」と答えると「仕方がないなぁ」と口にしながら、先輩は自分の折り畳み傘を広げ中に入るように僕をうながす。一本しかない傘を貸す為にはそうするしかないから先輩は僕を連れて借りている部屋まで戻って、僕がお腹を空かせているから、部屋に上げて、得意じゃない料理を振舞ってくれる。

 勿論そんな日はまずなくて、数か月に一回あるかどうかだった。だから、ようやく巡ってきた数回目のその日、僕は先輩に他の何かじゃない映画が特別に成った理由を尋ねた。


「たぶんあんまり楽しくない話になるよ?それでも聞きたい?」


 食後のお茶を啜った先輩の問いかけに頷いて見せると、少しだけ沈黙した後に先輩は話し始めた。


「私が中学校に入学してすぐ母さんがいなくなったの。理由はたぶん他に好きな人が出来たから、でも当時の私にはそれが分からなくて、ただ、父さんに離婚した事と、これからは二人で暮らしていく事を教えられた」


 そこで言葉を区切った先輩は、視線を動かして、窓硝子の上を伝っていく雨粒を眺めた。


「理解は出来ていたけど、すぐには受け入れられなくてね。そんな私を見かねたのか、ある日ふさぎ込んでいた私を父さんが映画に誘ったの。それが私の初めて見た映画」


 立ち上がった先輩が、テレビの横にある棚のところまで行って一つのディスクを取り出し、僕に見せた。


「それが、これ。ほら君がくれた最初のチケットの映画だよ」


 そんな奇跡的な偶然があったのかと驚きながら、疑問に思った。


「でも、それがあるならなんで……」


「ああ、それはね。この映画を見る時は劇場でって決めてるんだ。それはたぶんあの日の、失くしてしまった人との思い出を、確かめたいから……かな」


「それじゃあ……」


 少しだけ言いにくそうに、発せられた言葉におおよその事を察し、口から洩れた僕の呟きを肯定するように先輩が頷いた。


「うん。中学を卒業する前に父さんは死んじゃったんだ。それから父方の祖父母の家で少し生活して、高校に進学してからはこうして一人暮らししてるって訳」


 何と言っていいか分からず、ただ先輩の方を窺った僕を見て、先輩は表情を明るくした。


「ああ自殺したとかじゃないよ。病気。突然倒れてそのまま。だから悲しいというよりは実感が湧かなかったんだ。今も多分、それは残ってる。時間さえあればきっとそれも違ってて、もう少しいろいろな事が聞けたのにと思うけど、まぁ仕方がない。それに私の悪い噂を知られずに済んだのは、良かったと思うんだ」


 なんでもない事のように口にしたけれど、だとしたら先輩は心無い噂と好奇の目にたった一人で耐え続けた事になる。それはどれだけ辛い事だっただろうと思ったけれど、先輩の眼差しにはそんな色はまるで浮かんでいなかった。


「そういえば、この映画ね。父さんと母さんとの思い出の映画だったらしいんだ。初めて上映された時に付き合っていた二人は一緒に見に行ったんだって、亡くなるちょっと前にそんな話を聞いて、この映画の再上映を知って私を連れだしたのは、母さんに対する未練だったのかな?とかそれともそれを断ち切るためだったのかな?とか、そんな事を考えて……。もしかしたらそれを知りたくて再上映された時は劇場まで行くのかもね。何度足を運んだって分かる筈がないのに……」


 弾んでいた先輩の声が段々と力を無くし、最後は独り言のようになったのを聞いて、あの時、この映画をしっかり見なかった事を後悔した。もしも、しっかりと見ていたら何か言えたかもしれない。先輩の欲しい答えは口にできないのだとしても、少しだけでも寄り添う事は出来たかもしれない。僕の後悔に気付かず先輩は、言葉を続けた。


「だけどね。上映される限り、私はそうするつもりなんだ。今はまだ上映してくれる劇場があるけど、いつかきっと無くなっちゃうから」


「無くなる?」


 僕の問いに先輩は頷いた。


「映画というものは残るだろうけど、配信サービスも増えてきているし、劇場まで足を運んで見るという事はもう時代に合わなくなっているから、だから新しい映画ならともかく、古い映画が再上映される事はそのうち無くなっちゃう」


 先輩と見始めるまで、映画を劇場で見ると言う事はほとんどしてこなかったけれど、確かに、そういうニュースを見た記憶があった。大きな劇場と違い、小さな劇場は新作を上映してもそんなに人が来るわけではないし、古い映画を態々わざわざ見に来る人も少ないから、経営が成り立たなくなって閉めてしまう劇場も多いと。


「だから、僕の誘いを迷いながら受けたんですね」


「そう、もしかしたら、それが最後に成っちゃうかもしれないからね。って、ごめん話が脱線してるね。君が知りたいのは私が他の何かじゃなく映画を好きな理由だった。その問いの答えはつまり、父さんと見た思い出によって私は映画が好きになったって事だね」


「先輩」


「何?」


 呼びかけておいて、口にする言葉を考えていなかった。ただ何か伝えたくて、僕ごときが言えることなど何もないかもしれなくても、そう思って、つい呼びかけたのだ。


「あの……、話してくれてありがとうございます」


 僕の言葉を聞いた先輩は、優しく笑った。


「こちらこそ聞いてくれてありがとう……。他人ひとに話したのは初めて……何で話しちゃったんだろう。もしかすると本当はずっと誰かに聞いてほしかったのかもね」


 戸惑っている様にそう言った先輩は、ゆっくりと息を吐いた後で「この事は誰にも言わないでね」と人差し指を唇の前で立てて笑った。僕は深く頷くと、先輩が思い出したように口を開いた。


「ああ、そうそう、君の映画の誘いを断らなかったのはね。この映画は劇場で見るって決めてること以外に、もうひとつ理由があるんだ」


「もうひとつ?」


 首を傾げながら問いかけると、先輩は悪戯いたずらっぽい顔をした。


「うん。それは君が騙しても謝ったら許してくれそうな顔をしてたから。なんていうかチョロそう?な顔」


「チョロそう……」


 復唱した僕を見て先輩が笑う。


「そう。でも悪い意味じゃないよ。いい意味。優しそうな顔って事」


「それなら、まぁ、いいんですけど」


 なんだか失礼な事を言われているのに、どこか褒められた気がして、僕の頬は緩んだ。それにたぶんそれは、重くなってしまった空気を払おうという先輩の軽口だった。だから一緒に笑った。

 それから次の映画の約束をして、いつも通り夜が深くなる前に先輩の傘を借りて、家に帰った。そしてまた、次の都合のいい雨を待った。けれどそんな雨が来る事はもうなかった。



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