セントロメア

藤井咲

全編


 女は美しかった。

つるりと傷一つない白い肌に宝石の如くキラキラと光る瞳、瑞々しさを感じさせるびっしりと生えた睫毛。肩甲骨あたりで切り揃えられた黒髪と悩まし気なうなじのコントラスト。どこをとっても感嘆の溜息を落とす事しか出来ない女の容貌は、神経質な職人が命を惜しまず作り上げた芸術品のように誰もを魅了し誰もが賞賛を送ったが、その美しさを誰よりも知っているのはその女本人であった。どの環境に入り込んでも異質な自分の美しさは醜いものと美しいものの境界線をはっきりと引き、女の潔癖と自己愛を助長させ酔わせた。女の部屋には女が選び抜いた美しい物のみがそこに存在することを許され、中心に特注の全身鏡が置かれている。一点の曇りもなく女の美しさを映すその鏡が女はいっとう好きだった。太陽と月が女に賞賛を送る一日をその鏡の前で終わらせることが女の日課となっていた。

 一糸まとわぬ身体を鏡に向けまずは全身をべたりと押さえつけ、ゆったりとした動作で鏡の冷たさを確認する。目の前に現れる美しい顔をうっとりと眺めた後、朱く熟れた食べてと誘う唇にそっと口を落とす。舌を出し合って自分の唾液の味を染み込ませながらその唾液を顔へと滑らせる。乾くと少し匂う酸味の効いたそれは女を興奮させ次の行動へと移させた。全身に手を滑らせ、時にねぶり、鏡の前の自分の豊かな乳房をこねくり回す。眼下に見える卑猥さに冷たかった鏡がみるみる熱をもつのが分かる。普段は変わることのない表情はすっかり悦の顔を見せ下の刺激を求めていた。じっとりと濡れているそこはぴくぴくと動きながら期待に満ちている。女は美しい顔を苦悩に染めその自分の顔で今夜も果て、満足気に眠りにつくのであった。


 女の名は舞子といった。舞子は朝目覚めるといつものように支度をしていつもの電車に乗る為等々力駅へと向かう。道行く人々はやはり醜く、隣を足早に通り過ぎた男のすえた匂いが鼻を掠めると舞子は顔を青くした。きつく唇を結びながら顔を下に向け、内在の意識に逃げ込む。ホームに着きふと顔を上げた舞子の目の前に自分と瓜二つの後姿が飛び込んできた。まるで鏡を通して自身をみるような感覚だった。舞子は驚きのあまり足を止め、前を歩く女の姿を食い入るように見つめる。ほのかな期待と恐れ、胸打つ今まで感じたことのない感情に舞子は戸惑いながらも足を動かし始めた。偶然を装うようにその女の隣に近づいていく。舞子はようやく横並びになった女をちらりと横目で盗み見た。すると隣の女も舞子を見ていたようで予告もなく二人の目が合う。その女の顔はとてもじゃないが舞子に似ているとは言えなかった。厚ぼったい瞼に斜視を持つ目、肌にはニキビ跡が赤く滲みほうれい線が目立つ。しかし、顔以外の全ては恐ろしいほどに舞子と瓜二つだった。

その女は戸惑ったように舞子に声をかける。

「あの、こんなこと言うと本当に失礼だと思うんですけど、…私たち似ていますね。」

舞子はその言葉を心の底から肯定した。

「…、ええ、本当に。似ていると思います。」

二人は妙な会話をし終えると目の前で開くガラスと薄い鉄板の扉を静かに待ち電車に乗り込む。両者とも反対方向の角席に座ると乗車アナウンスをなんとなしに聞いていたが、舞子は全意識をその女の座った方へ向けていた。しかしどういうわけか羞恥を感じ、どうしても女を見ることが出来ず意を決し顔を上げたときには女はいなくなっていた。


 舞子はその夜、朝に見たあの、顔以外瓜二つの女のことを考えていた。鏡の前に立ってあの顔を思い浮かべてみる。自分の美しい身体にあの醜い顔を思い浮かべるとぞくりと鳥肌がたつような、ざわりと胸に塵を落とすような不思議な気分が交差した。その日は初めて舞子の世界に人が入ってきた夜となった。


 それから舞子は近所を歩くときや電車のホームに行く度にあの女を探すようになった。見慣れた景色の中で無意識にあの後姿を探している自分に驚きながらも舞子はそれをやめず、鉄のレールとコンクリートの道路が一緒になった駅に向かう道は舞子にとって特別な時間へと変わった。

舞子が二度目にその女を見たとき、舞子は声を掛けることが出来ずぼんやりと歩くその女の様子に苛立ちを覚えた。三度目に見かけたときもやはり声はかけられなかったが、女の後ろを歩きこちらを向かないかという念にも似た思いで目を離すことなく女を凝視した。四度目は堪えることが出来ず舞子の方から話しかけた。

「あの、この前は、」

か細い糸の様な声は誰にも聞こえることなく、舞子の声は空中にとどまったまま浮遊している。一人でかっと顔を赤く染めた舞子はその女の肩に手を置いた。突然引き留められた女は驚いた様子で後ろを振り向く。そして舞子をみた。

「あ、どうも、また会いましたね。」

にこやかに笑う女は舞子の美しさにもう慣れてしまったといわんばかりの、あっさりとした様子で挨拶をよこした。

「何度かお見かけしたので、話してみたいと思って。」

舞子はうっそりと笑いながら自慢の美貌を咲かせるが、女は意に介さない。

「嬉しいです、なんだか他人に思えないといいますか、少し不思議に思えますね。」

そういってその女は香澄と名乗った。二人のころころとした少し甘い声が広がる。

「香澄さん、よかったら今度食事でも如何ですか?」

舞子は背にじんわりと汗をかくのを感じながら香澄を誘う。

愛想のよい顔を浮かべた香澄はすぐに頷き話はとんとん拍子に進んだ。二人は次の夜に等々力駅近くのビストロで会うことになった。


 美しさで威圧感すら感じさせる舞子と、どことなく既視感があるけれど誰もが醜いと感じる香澄の組み合わせは店の中で人々の目に異様に映った。二人は細い軸のワイングラスを傾けてはお互いの今までを話している。舞子は好んで酒を飲むタイプではなかったが、その日は目の前の香澄を見ると飲まずにいられなかった。酒の余韻を楽しむフリをして目をつむり、目の前に自分がいることを想像すると今までに感じたことのない高揚感に見舞われるのだ。くいくいとグラスを開ける舞子に対し香澄は笑顔を絶やさず、話はユーモアに富み始終和やかな時間が二人を包んでいた。一軒目の店を出て興が進んだ舞子が二軒目を申し出た。香澄も嬉しそうに受け入れ、歩いて五分程の近さにあったほの暗いバーに入る。店内には客が一人もおらず、ぴったりとしたベストを着た店主が黙々とグラスを磨いている。『過ぎし春』が音をしぼられながら流れていた。

舞子は店主に勧められたラフロイグ14年をロックで頼み、香澄は季節のフルーツカクテルの中から苺を選んで頼んだ。二人は先ほどの店とは違い静かにお互いを見ては何かに想いを馳せ口を開かなかった。暫く沈黙を続けていたが、舞子は頬を淡いぴんくに染め、うるうるとした目を香澄に向け、酒に酔った頭で口を滑らせた。

「ほんとうに、顔以外全て私だわ」

その言葉に香澄は目を細めてひとしきり笑い、舞子に提案を持ちかけた。

「ねえ、私舞子さんのお家に行ってみたい。このまま朝まで飲まない?」

舞子はその言葉に喜び茶色のとろりとした液体と溶けた氷が浮かび上がるグラスをぐいっと飲み切ると香澄の手を引いて店を出た。

舞子の家は駅から15分程離れた場所にあり、その途中のコンビニで酒を買い二人は恋人同士の甘さで家路を歩く。舞子の細い腕に香澄の朝露に濡れた百合の花のように白い手が絡まり、よく似た二人の髪が風に揺れながらじゃれあっている。


 家に着くころには舞子は半分眠りについているかの如くかろうじて目を薄らと開け扉を開き香澄を招き入れた。建物の外装からは想像がつかない程美しい物だけで作られた舞子の部屋に香澄は息を潜め、場違いな気分を背で感じながらも舞子を支えながら部屋に足を踏み入れた。舞子は朧げで夢心地の中、お気に入りの鏡を目にすると香澄の存在を忘れ服を取っ払いいつもの日課を始める。香澄は突然行われる自分と顔以外そっくりな女の猥褻な行為に驚きながらも舞子を止めることはせず、顔も身体も美しい女の一種愚かな行為をじっくりと見つめた。そして香澄は、もしかしたら自分はこの為にこの部屋に来たのではと錯覚するほど自分の役目を明確に感じ取った。香澄は舞子同様服を脱ぎ捨て、鏡の中で自身との性交に夢中になる舞子に後ろからそっと近寄る。舞子は突然の許容できない刺激に一瞬心臓が止まる程驚いたが、鏡に映る自分を触る手は見慣れた自分の手であった。鏡ごしに自分の身体の裏から、もう一人の自分の身体が自分を襲う。鏡の無機質な冷たさと違い、血が通ったもう一人の自分の腕がまるで甚振るように、誘うように、もっと、と舞子の興奮を底上げしていった。後ろから聞こえる小さな吐息と熱い息、そして幾度も舐った乳房の粒が舞子の背中をつんと健気に突いてくる。首筋に舌を迎え入れると舞子の耳を食べてしまうのではと思うほどその舌は執拗に舞子を責めた。感じたことのない自分と自分だけの性交に舞子は溺れ、我慢がきかないように後ろに立つ自分を抱きしめようとした。すると、後ろにいた自分は舞子のか細い力に抵抗することなく舞子の目の前に現れる。そこにいたのは美しい自分と同じ身体を持ち、美しい自分とは似ても似つかない醜い顔を持った香澄だった。舞子は顔を見合わせた途端夢に入り込んだ目を現実に戻し一気に体温を下げる。

「香澄、あなた、」

ふるふると唇を震わせながら何か言葉を言おうとする舞子に香澄は顔を見せないように舞子の首筋に顔を埋めた。

「―このために私たち出会ったんだわ。私はあなたを見ることで美しくなれる。あなたは私を使うことで自分と愛し合えるの」

そういうと香澄は間違っても舞子に顔を見せないよう、鏡に舞子を押し付け今一度舞子の背後に戻り愛撫を始めた。舞子は戸惑いながらもされるがままに目線は鏡の中の自分と、自分とよく似た身体の動きに捕まったままだ。


 その夜が終わっても舞子と香澄のそれは続いた。日を追うごとに舞子は快楽を追い香澄は美しさの分身を追った。そして顔だけが違う似通った女たちはそれぞれ違う方向へ火を見ることを覚えた。舞子はこれまで持つことの出来なかった感情を得ることで益々美しさを増し、香澄は影を纏った。舞子は自分に幸福だけを与えてくれる香澄を美しさという観点ではない部分で認め始め、抱き合う時分に香澄の顔を見て愛し合ってもいいとさえ思い始めた。舞子の脳はドーパミンで溢れ香澄の醜い顔ですら自身の興奮材料になり、そしてその香澄を愛してもいいとさえ、そう思い始めたのだ。持つべき者は全て無意識に傲慢で持たざる者を理解することは出来ない。舞子はどう足掻いても二人の狭間に育つ悲しさに気づくことは出来なかった。


 その日は満月が美しく見える静かな夜だった。風も吹かず、雲もなく、晴れているはずなのに一番星すら見えない。

「ねえ、今日は真正面からしてみない?」

一種の高慢さを無意識に垂れ流しながら事も無げに舞子はいう。どんな状況下であろうとこの女が美しいことに変わりはなかった。

「平気なの?」

香澄は能面のような顔を舞子に向けて言った。

「平気よ、どうしてそんなことをいうの?」

舞子のその言葉に香澄は答えることはせず、無言で服を脱ぎ捨てると見慣れた鏡の前に立った。いつもは鏡を向いている舞子が目の前に立つ香澄の顔を見る。舞子は初対面の時に感じた鳥肌のような感覚を感じることはなくなっていた。舞子自身の奥深くに入ってきた人間は香澄が初めてで、舞子なりに香澄を愛し始めていた。香澄の視線には舞子の奥に鎮座する鏡が見える。ゆっくりと目を開けると目の前には輝かんばかりの、愛されて当然というべき美しさを持った顔、そして奥に映る鏡にはどれだけ愛想をよくしても、どれだけ愛されようとしても愛されなかった自分の顔が映った。

毎晩夢中になって繰り返した行為は位置を変えただけで猛烈な違和感を感じさせる。しかし二人は徐々に欲に飲み込まれていった。美しい女の身体たちが絡まり、ぎゅっと強く抱きしめるとお互いの心臓がリズムを同じく刻む。押しつぶされた乳房と小さく潰された臍は本当に一寸の狂いもなくそっくりな形をしていた。お互いにお互いの足先から頭のうえまで唾液を滴らせ身体を味わっていく。奇妙な程に興奮と静寂が際立つ空間だった。段々と濃厚な匂いを纏っていく女の香りが二人の境目をなくし、舞子と香澄は舌と舌をくっつけながら長い長い夢幻を味わった。二人の視線は鏡ではなくお互いに向かい、熟れきったお互いの官能に「このままとけてしまう」と二人の女は間違いなく同じ気持ちを持っていた。夜は長くどろどろになり、どちらの汗かも分からなくなる程交わった女たちは小さな窓から入ってくる朝陽によってようやく自分たちの様相に気づいた。

まず初めに気づいたのは香澄だった。彼女は鏡に映る自分を見てときめいたのだ。朝起きて、醜い自分の顔を悲観することから始まる苦しい朝が、自分の顔があの美しい女の顔に変わっている。香澄は驚きながらもこの幸福を笑い転げるほど喜んだ。その様子をみてようやく事態に気づいたのが舞子だった。どこかいつもより視界が悪く、肌もつっぱっていると感じる舞子は鏡を見てそれはもう驚いた。絶望という恐怖を味わうことがこんなにも心の中に虚無を作り出すことを舞子は生まれて初めて知った。舞子は香澄に、香澄は舞子に変わっていた。変わっていたのは顔だけだ。なにせ二人は顔以外なにも違うところがなかった。

言葉もなく震えている舞子に香澄が笑いながら言う。

「あなた、醜いわね。」

涙を流して心底面白そうに笑う香澄は間違いなく舞子の美しい顔を持ち、その美しい顔に似合う高慢な表情を浮かべていた。それは今までの香澄の持っていた表情とは全く違うものだった。

「返して!」

突然掴みかかる舞子をひょいと躱しながら香澄が笑う。

「なんて醜いの、あなたの顔。」

そう言って香澄はさっと服を着ると颯爽と扉を開け一度も部屋を振り返ることはなかった。朝陽がきらきらと女を迎え自信を漲らせ歩く女は美しく、部屋の中で一人醜い顔を持つ女はその美しさに見惚れる。外から見る自分の顔を持った女はやはり美しかった。                      

                                                          

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