埃の遺産
綺瀬圭
黒ずんだ箱の中に
母が死んだ。八十四だった。
数年前から持病が悪化し、去年から病院で寝たきり状態。最後に声を聞いたのはいつだったのかもう思い出せない。
母の虚ろな目の焦点が私に合うことも、私の名をもう一度呼ぶこともないまま、あっけなく亡くなった。苦しまずに死んだことだけが救いだ。
残されたのは、母が去年まで住んでいた私の実家。父も十年前に亡くなり、兄と私も結婚しそれぞれの家庭があることから、完全なる空き家となった。葬儀後に兄と相談し、この家を売りに出すことに決めた。
社会人の娘が、迷いなく実家の整理を手伝うと言い出したのは、きっと幼いころに母に可愛がってもらった記憶があるからだろう。
「ねえお母さん、おばあちゃんの服って全部捨てちゃうの?」
寝室の
「そうね……捨てちゃって。残したって仕方ないから。使えそうなものとか、売れそうなものだけこっちにまとめて」
予想通り、娘は納得いかない様子だった。無感情のままに遺品を捨てる断捨離作業が心苦しいのだろう。しかし一つ一つ思い出に浸る暇はない。娘がいる週末は貴重だ。効率よく片付けなければ一生終わらない。
「よし、じゃあ次は庭の倉庫片付けちゃおうか」
衣類の仕分けがあらかた終わったころに提案すると、娘はげっと顔を曇らせた。
「あの、何十年も開けてない開かずの扉でしょ? 業者に任せちゃダメなの? 何入ってるか分からなくて怖いんだけど」
「もしかしたらお宝が眠ってるかもよ。欲しいのあったら持って帰っていいから、さっさとやっちゃおう」
軍手を持ち、例の場所に向かう。田舎特有の広い庭の隅に、ぽつんと建てられた六畳程度の倉庫。昔は畑道具などが入っていたが、いつしか母の私物を保管する場所になっていた。
その引き戸に手をかけると、ギギギ、と音を立てて扉が開いた。久々に陽の光を浴びたその空間は、古い木製の匂いと、埃臭さで充満していた。
「うわあ、なんだこれ。ガラクタばっかじゃん」
埃塗れの三輪車や竹馬、ベーゴマや雑誌を見つけた娘が言った。本来の色を失ったそれらは、確かに私と兄が幼いころに触れてきた者たちだった。
おかしい。てっきり母のものが入っていると思っていたのに。これじゃまるで、私と兄のコレクションじゃないか。
そうだ。この虫かごで、父が私と兄を近くの公園まで連れて行ってくれた。カブトムシが採れるまで夜遅くまで付き合ってくれた。
懐かしい。竹馬なんてまだあったのか。いつまで経っても乗れるようにならなくて、大泣きしながら練習したものだ。兄は呆れて家に戻っていたのに、母は私が納得いくまで練習を見守っていたっけ。
これは兄の鉄道模型だ。汚れさえ落とせば、リサイクルショップに出せるだろうか……。
「ねえ、このダンボールに入ってるのってお母さんの?」
娘の声に反射的に顔を上げると、倉庫の奥底、乱雑に置かれた一つのダンボールが目に入った。何が印字されているのか読み取れない、埃や土が被り、黒ずんだ箱。
娘と同じように箱の中を覗くと、あるものが目に入った。
「これ……」
黄ばんだ布。ほつれた縫い目。顔を出している綿。それでも満面の笑みをこちらに向ける無邪気な刺繍。
走馬灯のように、電流が走るように、脳裏に遥か昔の情景が蘇った。それは、私が切り捨て忘れ去ってきた過去だ。
こんなへんてこなの、いらない。わたしもリカちゃんがほしい。
遠慮も配慮も建前も知らない。わがままで傲慢で自己中心的だった私。母がどんな想いを込めて私に贈ったのか、一切考えもせずに。
私という命が芽生え始めたころ、父は職を失ったばかりで、母はなけなしのお金で家を支えていたという。
服や手提げも自分で手縫いしていた母が、布の切れ端で作ったのがこのクマのぬいぐるみだった。
私は、仲良しグループの中で自分ただ一人が手作りのぬいぐるみだったのが恥ずかしくて。自分だけがリカちゃんを買ってもらえていないことが悔しくて。母の想いを拒絶したのだ。
そんなものが、こんなところにあったなんて。
「お母さん、これはどうする? 捨てる? めっちゃ汚いし、臭いし……」
「そうねえ……」
母がこのぬいぐるみを作り始めたのは、私の性別が女だと分かった日から。
「でもなんかこの子、お母さんが私にくれたのと似てるね」
「えっ?」
きっとあの頃の母も、私と同じことを祈ったのだろう。私が目の前の宝を宿した時と、同じことを。
「お母さんが昔私にくれた、手作りのぬいぐるみだよ」
どうか、無事に生まれますように。どうかどうか、この子が幸せでありますように。例え平凡でも、愛に恵まれた人生を送れますように。
埃の遺産 綺瀬圭 @and_kei
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