令和六年の素描

 夕刻、食材の買い出しに行く。

 帰宅後にレシートを確認すると、一玉だけ買ったはずのキャベツが二玉購入したことになっていた。店側に訴え出るべきか。とはいえ……その場で間違いを指摘できなかった自身の不手際を責めるべきであって、日を改めて返金を求めるのも筋が違うように思われる。自身に疚(やま)しいところがなんらなくとも、本当は二玉買ったのに一玉分の値段をごまかそうとする嘘つきではないかと疑われる可能性を排除したいがための自己犠牲だった。

 ふだん行く売り場でも、声を荒らげる高齢者の姿を見受けることは多かった。レジ係の些細なミスをあげつらって、ネチネチと執拗に攻撃する独善家。もうすこしおおらかに、寛容に。人の失敗も大きな心で包んで笑って許せるような余裕が欲しいよね。心の中につぶやくわたしですらも、その場面に至っては助け舟を出せないでいる。

 キャベツ一玉168円。168円くらいのはした金、どうでもいいよといえるくらいの高給取りだったらどんなにかいいだろう。実際は自分の働きは時給いくらで換算され、県の最低時給に毛が生えたくらいの賃金しか支給されていない。それでも他のクレーマーが悪目立ちするからこそ、過剰な一玉分のキャベツのお金には目を瞑っておこうかという判断が成り立っている。正直者はバカを見る。いやいや、真に正直者だったら、わたしは一玉しか買ってませんよとちゃんと店舗側に訴えるんだろうけどね。これはたんにわたしが惰弱に過ぎるだけなのだろう。


 休日に当たっているきょうは、夜も10時を過ぎてから晩御飯の準備を進めた。ふだんであれば夜勤に従事している時間帯。九時間の拘束時間に口にするものといえばノンカロリーのブラックコーヒーや無糖の紅茶くらい。仕事のある日は一日二食、オフの日は三食ということになっている。塩をした黒豚ミンチ肉を捏ね、調味料と薬味を加えてタネをつくる。さすがに皮まで自家製というわけにはいかないので皮は市販品で代用する。25枚入りの餃子の皮の半量――きょうは13粒だけ包んでフライパンで火を入れることにした。皮の底部にうっすら焼き目がついたところで少量の水を加え蓋をする。蒸気の力でタネの中まで火を通す。頃合いを見計らって蓋を外し、あとは鍋の中の水分を蒸発させ、餃子の底部に程よい色付きを加えて皿に盛り付ける。

 地元の醤油にラー油を加えたたれで食す。

 もちろん、チェーンのラーメン屋の餃子にもユニークな品はある。一粒食べたときにうまいと感じさせる味付けが工夫されていることは認める。それでも脂分であったり甘味であったり旨味であったりに過剰なものを感じることが多い。単純な調味料を組み合わせて作ったならば、絶対にそうはならないであろうという味のバランスが仕立てられている。たとえば、豚肉の旨味が美味しい。カリッとした皮自体に旨味がある。けして、そうはならない。調味料の配合のもやっとしたなにかが食べ手の感覚を狂わせて、今自分が食べているものは美味しいに違いないと錯覚させる作用を及ぼすかのごとくである。

 識者の弁に、適量の塩を決めればそれが最良の味付けである、ということがある。片栗粉でとろみをつけるのが面倒だから、増粘多糖類で疑似的にとろみをごまかすといった手法は食品業界で大いにまかり通っている。自然由来の旨味を加えるには予算が嵩むから、手っ取り早く旨いと思わせるために、人工甘味料に頼る手法もありふれている。自分で料理をしていればわかることがある。この調味料を加えたから完成品の味はこんな風に変化したのだと、自分が作ったものがちゃんと手に取るように把握される感覚。生活するのに必須ともいえるこの感覚の失われたとき、生活は実態を失ったものに成り果てやしなかっただろうか。


 一番搾りをあけ、作りたての餃子をつまむ。この夏のうちに、自分はなにをか達成したか。部屋と職場の往復に明け暮れる毎日。たまの読書、たまのゲーム。日々溜まってゆくYouTube動画の視聴履歴。大厄も過ぎて今年、年男の自分には、何が残っているだろう。財産といえば、少年期、青少年期、この国の景気の良かった時代とともに成長することのできた体験だけだった。昨日よりも今日、今日よりも明日。未来はいまよりも着実によくなっていると信じぬくことのできた時代。もちろん小中高時代だってあまりの周囲の無理解に、「お前らいい加減にしろ」と言いたくなるときはあった。それでも来たるべき未来には、あらゆる人種の垣根が取り払われ、当時は紛争を繰り広げているばかりの地域の人たちであってさえ、相互理解が成り立ち、どこかのメディアが掲げていた「世界市民」という標語が真に実現するものと、無反省に信じることができたくらいにはわたしもお人よしではあった。


 あれから幾星霜。多くの震災があり、多くの経済危機が生じた。度重なる経済政策の失敗ののち、日本という国は勢いを失った。未来に希望をつなぐ人の割合はどの国よりも低いといった世論調査の結果が提示されて久しい。希望の失われた国。かつての栄光は幻に。その栄光ですら、虚栄心のなせる業でしかなかったことはすでに歴史が明らかにしている。

 自分はひとり部屋で一粒ずつの餃子を箸でつまみながら、啜る一番搾りに気持ちを鼓舞されている。見たくないものが多すぎる。見たいものだけ見て過ごすしかない。目の前の餃子だけを見つめて、ほかのことは忘れて、ただ自分の味覚から得られる喜びのみに感覚を満たそうと心がける。


 ヒグラシが盛んに鳴きかわす夕間暮れ。一日外を駆けずり回って、虫を捕まえ、魚を掴み、山に、川に、野原にと、へとへとになるまで動き回った小学5年の夏休み。あそこの川原のそばの木の幹の穴は毎年、クワガタが住処にするから狙い目だ、と教えてもらったあの年から、毎年思い出したように木によじ登って穴を確認することが習慣になった。水切り用のざるを手にして、用水路の流れに泳ぐコブナやモロコといった小魚を摑まえる遊びにはまったのもこの時期だった。自分の興味の赴くままに、したいことをして一日過してなんの後悔もなかったのは、世の中はちゃんとした大人が回していて、世の中はあるべき方向にしっかり向かいつつあり、昨日よりも今日、今日よりも明日こそが、これまでよりもよい社会へと変わっていくのだろうと素直に信じることができたからだった。

 それでも不正はあった。不義もあった。同級生はなぜ付和雷同して、不正を糺すことなく受け身に回るのだろうと疑問だった。おかしいことにはおかしいと声を挙げる。そんな単純なことができない同級生の日和見気質に自分とは異なる人種なのだという意識が日々強まった。そうして、そう考えてみて、夕方、レジ係に声を荒らげていた高齢者に対する自分の態度を思い返した。あの子供のころに感じていた違和感は、おそらく叱責されていたレジ係がわたしに対して思っても不思議ではない違和感と共通ではないかと。わたしも知らず識らずのうちに、当時の同級生と同じ、あの無批判に現状を受け入れる事なかれ主義の日和見体質に呑み込まれてしまっていたのではないかと。

 泥をひっかぶるのは勘弁願いたい。余計な苦労は背負いこみたくない。目の前に問題が立ちあがっても、うまくやり過ごせるように祈る生活無能者。これがよりよい生き方と決めつけている面が今の自分にあるのじゃないか。困ってる人に手を差しのべる勇気すら持てないいまの惰弱。これが、すでに初老の年を越した人間の、身内に保持している生き方のファセットなのかと思うと情けなくなる。


 エアコンのきいた部屋で涼んでいる。皿も空になり、ビールも飲み終わってしまった。今自分は毎日を生きることにどれくらいの我慢を強いられているのだろう。我慢というのか、大人になるや世の中の不景気を被った世代としては、何が我慢で何が我慢でないのかその境界があやふやになっている。いまのこの最低時給と大差ない生活であっても、足るを知るという言葉を受け止めれば、自分の出来る範囲で生活の自由はきいている。もちろん、一か月間の休暇をとって海外旅行に行くとか、リゾート地に連泊してイベントを満喫するみたいなことはできない。ただ、自分の可能な範囲でやりたいことができる自由を体験すれば、窮屈な日常ですら、適度な苦労を体験するアトラクションのように受け止められるし、事実、わたしはそのような感覚で日々を過ごしている。ストレスは少ないし、余計な責任も負わないから生きやすい。


 夜半、遠くでサイレンの音が聞こえる。一週間のうちに二度も三度も聞くことのある救急車の音だった。うちの地域も住民に占める高齢者の割合が高くなっている。若い人たちは生まれ育った実家を捨てて、ある人は都会へ、ある人は地方都市での独り暮らしを、という風に離れてしまった。かろうじて残っている若い人――といっても高齢者に対しての「若い人」だから、そこには40代や50代も含まれる――も、実家住まいで未婚のまま不遇を託つ人も少なくはない。これはわたしがこの文章を書くきっかけになった出来事だが、先日ご近所でわたしの数歳年上の男性が自決されたらしい。

 何がもとでの自決なのか、近所にも理由はあきらかにされなかった。氷河期の非正規労働者である自分の立場から類推させてもらうならば、これから先の未来になんら明るいものを見出せなくなった、仕事で過度のストレスがかかって生きているのが嫌になった、自分がなんのために生きているのか、その意義がわからなくなった、周囲に味方と言える人がひとりもいなかった。理由はいくらでも想起される。その人を自死にまで追いやった原因はいったい何だったのだろうか。


 夜勤帰りに家路に急ぐときにも、ご近所の家々の窓の二階の一室に明かりがついているのをよく見かける。時刻は午前4時である。午前4時に明かりをつけて起きていること自体、普通の感覚でいえば異常なことである。と、まあ、高校時代から夜更かしからの学校での授業中のつっぷし寝常習のわたしが言えた義理でもないのだけれど、それでも、田舎の夜更かし率の高さはなかなかのものがあると思っている(当社調べ)。隣は何をする人ぞ、という言葉も古の語録になったかもしれないが、いまや、誰もが何をしている人なのかそうそうわからなくなってしまった。なにをしているのか、どんなことを考えているのか、どんなことに興味を持っているのか、どんな趣味を持っているのか、いま楽しいのか、辛いのか、笑いたいのか、そっとしておいてほしいのか、誰もが誰もを拒みたがっている、そして誰もが誰もと気持ちを通じ合わせたいとひそかに願っている。そんな願いは夢と消えるに決まっているから、多くの人は偶像にその代替行為を迫っている。


 この国にこれから先はあるのか。この先はさらに闇の中へと突きすすむのみの袋小路。それでも一玉168円のキャベツの負担を理不尽だといって店側に訴える日はわたしにはこないように思う。その場で気が付かなかった自分の不手際を責めるだけで、いったん帰宅してからクレームをつけること自体、店側に迷惑だと感じてしまうような臆病なたちであるだけに。きっと社会の生きにくさはまだ底をついていない。自分が耐えられるだけの我慢はきっとまだまだ重ねるだろう。我慢していることを意識しないために、気持ちを散らすすべもすでに習得している。いざ爆発させなければならないときには、神経の回路をその発火点に直結すれば足りる。それだけでこれまでの積もり積もった欝憤は一挙に外へと押し出ることになるだろう。

 この国の人たちがなにをどこまで我慢しているのか、増税を口にする為政者や行政官はきっと想像も及ばないことだろう。国民の多くは相当な我慢を超してまだ耐え続けるから、あぐらを掻いているのだろうけれど、いまはもうこの方々がどこまで国民を締め付けて顧みないのか、その程度を観察して、「人でなし」とはこういう人たちを差す言葉なんだなと冷静に観察している。


 思えば、平成の一桁台、とくに95年の阪神大震災にオウム事件が起こるまでは、まだ未来に希望の萌芽が垣間見えていたようだ。そんな希望のよすがも、しかし、たとえ育ったとしても徒花にしかならなかったろう。バブルの好景気の終焉の責任をトカゲの尻尾きりで乗り切った。当事者ではなく、これから社会に出るはずであった若者たちの雇用を絞ることによって、既存の働き手の稼ぎの保持に躍起になった。


 あの頃からこっち。度重なる震災や、東日本の原発事故の対応についても、被災者の側に立ったケアが十分に取られなくなったように思う。夏の暑さにも冬の寒さにもプレハブ住宅に詰め込まれ、エアコン一台で過ごせと命じられる。地方民は切り捨て。「棄民」という言葉がちらつく。人の苦しむさまを横目に、その上澄みをすすって生きるいわゆる「特権階級」、いわゆる「上級国民」。政治家の上層部は、「国会議員は特権階級」という考えを口にするほどに驕(おご)っている。オレたちは特権階級だから下層民にはなにをしてもかまわない。搾れば搾り取るだけ出た油で私腹を肥やす。話は議員だけに限らない。企業を含む世の中の大半の経済団体、広告媒体、詐欺団体、大学の研究、NPO、とにかく人の営為のほとんどが自分がいかに楽をして儲けるかということに終始している。「虚業」の最たるものである。


 米だって、キャベツだって、豚肉だって、ネギだって、そのほかなににしても、一次産業をほとんど保護せず、中抜き業者が跋扈する。あらゆる階層であらゆる中抜きが行われて、社会構造は穴だらけのスカスカになり果てている。よくいままで骨粗鬆症にならなかったなと感心する始末だ。このガタガタの世の中の行く末を見守ることが、今後のわたしたちの世代の使命になるのだろう。わたしもいつまで自分の好きに材料を買って調理した料理を食べられるかわからない。いったん進みだした破滅への助走を押しとどめることは困難を極めるだろう。


 しかし心の中にはもうひとつの諦めもある。ここまで自分のことしか考えられない人間を増やしたのが日本の現代社会であるのならば、この社会にはぐくまれた人間の一人であるわたしもまた、沈みかかったこの船のなかで同様に沈没するその日まで静かに余命を過すしかないのではあるまいかと。


 あくまで人を恨まず。数多の人の幸福を願いながら、前を見ることだけは諦めないでいようと自己を鼓舞してやまない。

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そうげんの短篇集 そうげん @sougen01

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