彼女と僕の、本屋さんって・・・(KAC20231本屋さん)

ninjin

第1話

 そういえば学生時代、デートコースといえば「本屋」さんが組み込まれていることが多かったような気がする。

 彼女と僕が本(読書)が好きであらかじめデートコースに組み込んでいた訳ではなく、しかも当時付き合っていた彼女とのデートは、僕に行き先を決める権限はほぼ皆無と言ってよかった。

 しかし、何となく、デートの度に、気付けば僕は実用書コーナーで立ち読みをしながら彼女の買い物を待ち、そして必ず手に取った書物に中途半端に引き込まれ始めたところで、本屋の紙袋を抱えた彼女がお迎えに来るのが常だった。


「お待たせぇ」

「もう買い終わったの?」

「うん、終わった」

「欲しいもの、あった?」

「うん、あったよ、ハリーポッターの最新刊とan・anに、あと可愛い猫の写真集とレターセット」

「へぇ、それは良かったね」

「うん、読み終わったら貸してあげるよ。それとも先に読む?」

「え? an・anを?」

「違うよ、ハリーポッターの方だよ」


 クスクス笑いながら『行こう』と促す彼女に、僕は読みかけの本に後ろ髪引かれる想いながら、それでも何とかその本を元の棚に戻すと、彼女の手に持った重そうな紙袋を『持つよ』と言って受け取る。


「あとで写真集は一緒に見よ。可愛いのばっかりだよ、きっと」

「ああ、そうしよう」


 そう、彼女は読書が好きなのではなかった。僕に対して『ハリーポッター、先に読む?』と言ってしまうくらい、実は読書には余り関心が無くて、流行りものと可愛いものに興味があっただけなのだと思う。

 実のところそれは僕も似たようなもので、実用書コーナーで手に取るものといえば、『おしゃべり心理学』とか『マーフィーの法則』みたいな、他愛もないおもしろ雑学書ばかりで、僕の場合、読書というより、ネタ集めに近かった。

 それでも彼女と僕は、待ち合わせの喫茶店から出て街をひと歩きすると、決まって彼女の方から『ねぇ、本屋さん、寄って行かない?』と切り出してくるのだ。


 僕にとっては別に読書が好きな訳ではないのだけれど、だからといって本屋に行くことを憚る理由もない。

 彼女が行きたいと言えば、僕は『いいよ』と付き合うだけだし、行ったら行ったで何かしらの興味を惹く(ネタ集めとしての)書籍が在りはするものなのだ。

 但しひとつ困ったことは、毎度毎度のことながら僕が立ち読みしていると、決まって彼女は所謂『良いところ』のちょっと手前で僕を迎えに来てしまうので、僕は手に持ったその本を買おうか買うまいか迷った挙句、結局はすごすごと元の棚に戻すことになるのだった。


「いいの? その本、買わなくって」

「あ、いや、うん、今日はいいや。また今度で」

「そう。じゃあ、ご飯食べに行こう」

「あ、うん。そうしよう」


 毎回そんな調子だった。

 そして彼女は、毎回必ずレターセットを買い、その後立ち寄ったレストランやカフェバーでそれを取り出し、嬉しそうに眺めるのがお決まりのパターン。


 ずっと不思議だったのは、彼女はあんなにも毎回レターセットを購入しているのに、僕はただの一度も彼女から手紙を貰ったことがなかったということ。

    ◇


 彼女との交際が始まって約二年が経った夏を過ぎた頃、彼女は彼女の地元の小学校の教員採用試験に合格した。


「おめでとう、頑張った甲斐があったね」

「うん、ありがとう」

「そっかぁ、来年の春から、美由紀は小学校の先生かぁ。でも、ずっと言っていたもんね、学校の先生になるのが夢だったって」

「・・・うん・・・」


 合格の報告を受けたその日、彼女と僕はいつもは行くことのない、ちょっといいレストランでお祝いをした。


 分かってはいるのだ。


 もっとはしゃいで、『おめでとう』ってたくさん言って、彼女のこれまでの頑張りをこれでもかっていうくらい労って、そして彼女の明るい前途を盛大にお祝いしてあげなくちゃいけないってことも、頭では分かっているのだけれど・・・。


 空回り・・・。


 そして、もうひとつ分かっていることがあった。


 これから春までの間、恐らく全てのことが、彼女と僕との『最後の・・・』になるってこと・・・。


 僕は少し前の夏の段階で、今年の就職活動を諦め、大学院に残ることを決めていた。

 だから僕は・・・

 だから彼女と僕は・・・


 彼女は故郷に帰り・・・


 僕はここに残る・・・


 飲み慣れない赤ワインが、その甘い香りとは裏腹に、酷く苦く感じられた。


 僕が無理に微笑みかけると、彼女も僕に微笑んで見せる。


 僕は上手に笑えているか?

 僕はこの先、上手く笑うことが出来るか?


 ・・・恐らく、それは難しいことだ・・・


 分かってる、そんなこと。

    ◇


 それからの約半年間、僕には殆ど彼女との記憶がない。

 実際にはそんなことはない筈なのだけれど、上手く思い出せないと言った方が正しいのかも知れない。

 当初、そう、彼女の就職が決まったあの日には確実に『最後の・・・』を、全て胸に刻み付ける決心をした筈だった。


 秋が来て、紅葉とススキを見たこと、冬の初めに銀杏の落ち葉で埋もれた公園の遊歩道を歩いたこと、彼女が僕の部屋の窓辺に飾ったポインセチアの赤い色、街のイルミネーション、寒かった初詣帰りの人混み、三年ぶりに積もった雪の朝、近所の公園の梅の花の白、少しずつ暖かくなり春めいた陽射しの中・・・


 それまでと同じように、いや、それまで以上に彼女とずっと一緒に過ごした筈なのに・・・。


 お互いにやがて訪れる『別れ』を意識していたからなのか、どちらから言い出すでもなく、彼女は自室のある大学近くの私営の女子寮には帰らず、僕のアパートの部屋に泊まることが多くなった。


 最期の思い出が欲しかったのか、それとも『別れ』を回避する何かが起こることを期待していたのか・・・。


 それでもお互いに分かっていた筈なのだ。

 それまで共有していたレールが、少しずつ離れて行き、それはそのうち平行に走り出し、あと少し先に行けば、もう再び交わることのない別の路線を走るふたりのことが・・・


 移りゆく季節の感じは思い出せるのだけれど、そこにあった筈の彼女の言葉、仕草、表情が思い出せない。


 そして、やはりその時はやって来た。時間は前にしか進まないのだ。


「じゃあ、身体には気を付けて。春だっていっても、まだまだ寒い日もあるだろうしね。いや、あっちはもう温っかいのか? でも、気を付けて」

「うん、貴史くんも元気で・・・」

「ああ」

「落ち着いたら、連絡するね」

「ああ」

「私たち・・・。ううん、何でもない」


 彼女が言い掛けて、それを途中で止めたのは、高知便最終チェックイン締め切り10分前のアナウンスが流れたからなのか・・・。

 ゲートを潜る前にもう一度振り返った彼女に、僕は思わず彼女の名前を叫ぶ。


「美由紀っ・・・」


 だけれども、その先の言葉が続かない。紡げない。言いたい言葉が、言わなければならない言葉が、出て来ない。


 彼女は泣いているのか、笑っているのか、眼鏡を忘れてきた僕には、遠すぎて、彼女の表情は分からなかった。

    ◇


 彼女を空港まで見送った帰り道、僕はコートのポケットを探って、コインロッカーのカギを取り出した。

 彼女がゲートを潜る直前に手渡されたそのカギは、大学最寄り駅のコインロッカーのもので、彼女から『帰りにでも受け取って』と言われていた。


 僕は勝手に予想していた。


 二年半ほどの交際、最後の思い出のプレゼント。


 万年筆か、腕時計か、それとも僕に似合いそうなジャケットか・・・そんなに、気を遣わなくていいのに・・・。


 まぁ、貰って嬉しくない訳ではないけれど、お別れした後に使うことって出来るのかな、俺・・・


 しかし結果からいうと、僕の予想は全く以て大外れだった。


 ロッカーを開けて中を覗くと、そこには見覚えのある紙袋。

 ああ、あの本屋さんのだ。

 しっかり封がしてあって、中身が何なのか分からないのだけれど、少し振ってみるとカサカサっと音がして、中途半端に重いでもなく軽いでもなく。


 なんだろう?


 全く予想が付かない中身に、僕は恐る恐るその封を破ってその正体を確かめる。


 ‼ 

 中には封筒がビッシリ‼


 僕は慌てて紙袋を引っ掴み、その勢いそのままに飛んでアパートに戻ったのだった。

    ◇


 アパートの部屋に帰って三時間後、ベッドに仰向けになって天井をボンヤリと眺める僕は、すっかり疲れ果てていた。

 だってそうだろう。

 僕は三時間ずっと、泣いて、笑って、心震わせ、懐かしさに浸り、思い出を噛み締め、脳裏を過る美由紀の笑顔、そして今にでも聞こえそうな美由紀の囁き、息遣いに笑い声、そんなものと過ごしたのだ。

 今、やっと頬の涙が乾き始めたところだ。


 ベッドから少し見下ろすローテーブルの上には、開封された封筒が表に記された日付順に綺麗に並んでいる。

 1999・7・29 ~ 2001・3・4 全部で53通。


 最初のやつはこんな書き出しだった。

 1999・7・29

『アンゴルモアの大王、降って来ず! 多分。(あと二日残ってるっけど(^^))

 代わりにあなた(貴史くん)が私の前に降ってきた♡・・・』


 それから二年と半年分の手紙。それは彼女がデートの度に買っていたレターセットに綴られた、彼女と僕の、歳時記ダイアリー


 そして、最後は

 2001・3・4

『・・・貴史くん、たかしくん、タカシくん、今まで、本当にありがとう。

 私、勇気がなくって、怖くって、言い出せなかったけど、

 今でも貴方が大好きです。

 ごめんなさい。

 居なくなる私が、勝手な言い種ですね。

 でも、やっぱり、大好きです。』


 最期の便箋をもう一度読み返して僕は、跳ねるように飛び起きて、あの本屋に向かった。

    ◇


 もちろん僕は本屋で本を買う訳ではなく、当たり前のようにレターセットを買って部屋に帰ると、僕にとって人生初めてのloveletterを書き始めた。


 勇気がなくて臆病だったのは美由紀ではなく僕の方で、恐らく美由紀が僕のことを好きな以上に、僕が美由紀のことを愛している、って、そんなことを書きたくて、伝えたくて、下手くそな文字で一生懸命に書いたのだよ。

 でも、書いた文章に自信がない僕は、最後にこう書き記した。

『・・・僕は文才がなくって、この手紙じゃあ何も伝わらないと思うから、この手紙が届く頃を見計らって、内容説明の電話をするし、今度の夏にはもっとちゃんと伝える為に、そちらに会いに行きます。良いですか? 良いですよね?(笑)

 それから、恐らく、二年後にはきっと、君を・・・』


 やっぱりちょっと気恥ずかしくって、最後の部分は濁してしまって・・・。

    ◇


「ねぇ、パパぁ、あたし欲しいの決まったよ」

「お、そうかい? どれどれ、何を選んだのかな?」

「えっとねぇ、ぐりとぐらのおきゃくさま」


 今年5歳になる娘が、僕のズボンの裾を引っ張る仕草をする。

 僕は手に持った本を元の棚に戻し、娘に訊ねた。


「ママはどこ?」

「おてがみのところ」

「そっかぁ、じゃあ、先にぐりとぐら、買っちゃおうか」

「うんっ」


 今でも妻は、年に数回、僕に手紙をくれる。今は溜めたりしないで、その都度渡してくれるのだけれど。


 そして、僕のお迎え係は娘になり、行き先を決める係も娘の担当になった。


 娘が小さな体にはやけに大きく見える紙袋を両手で抱えて、母親のところへ駆けて行き、そのまま妻のお尻の辺りに頭からゴンっと衝突する。


 僕はそんな二人の後ろ姿を笑って眺めながら、先ほどまで立ち読みしていた本を、さて買うべきか買わざるべきか、何となく迷っていた。



              おしまい

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