でる

香久山 ゆみ

でる

「出るというんです」

「うん。……俺も、出そうだ」

 ついそう呟くと、「やっぱり出るんですね」と、店主の詩織が顔を上げる。ほっとしたように見えるのは、相談できる相手がいなかったせいだろう。

 詩織は、この本屋の店主だ。個人経営の小さな店で、配架数はそれ程多くないが、並んだ本棚は整然とジャンル分けされており、『推理小説』や『時代小説』、『児童文学』、『受験対策』コーナーもある。とくに『純文学』は充実しておりセンスもいい。「前店主である父の趣味ですよ」と詩織は笑顔を見せた。

 詩織が本屋の経営を受継いで半年。最近、客から妙な噂を聞くという。

「店内で幽霊を見たっていうんです」

 それも何人かの客から言われた。私自身は見たことないんですけれど、と詩織が困ったように言う。何かの見間違いではないかと思ったが、店内はきれいに保たれており、本棚には埃ひとつ見当たらない。鼠が潜んでいる気配もないし、古書店のように稀少本を扱っているわけではないので不審者というのも考え難い。やはり本当に幽霊なのか――、そう思ったから、彼女は俺に依頼してきたのだろう。

「幽霊に心当たりは?」

 努めて落ち着いて尋ねる。

「……あります」

 詩織は小さく頷き、搾り出すように言った。

「父ではないかと思います。半年前に亡くなりました。長年やってきた本屋を、私がちゃんと引継いでいるか心配しているのかもしれない。それに……」

 彼女が言い淀む。俺は先程から脂汗が止まらない。ぎゅっと腹を抑え、冷静を装って、続きを促す。

「それで? どうしました?」

「……父は怒っているのかもしれません。この店の本棚は、父が強いこだわりを持って整備しました。けれど私が受継いだ際、一角だけ本棚を入替えたんです。私の趣味のジャンルのコーナーを作りました。父はあまりそのジャンルを読みませんでしたから、気に入らないのかもしれない」

 詩織はかなしそうに唇を噛む。俺は店内を見回して、訊く。

「ハードボイルドのコーナー?」

「そう! そうなんです! 昔から好きで、でもなんとなく気恥ずかしくて、こっそり読んでたんです。けど、思い切ってハードボイルドコーナーを作ってみたら、男性客が増えたんですよ。私が自信を持ってお勧めできるものばかり並べていますし。なんで分かったんですか――」

 キラキラした表情でそこまで早口に言ってから、はっと表情が固まった。

「……いるんですね……? そこに、父が」

 やはりそのコーナーが気に入らないのかと、詩織が肩を落とす。俺はじっとハードボイルドコーナーを見やる。詩織によく似た面立ちの男性が立っている。

「娘が自分に似て本好きで、店まで継いでくれて、嬉しくない親なんていないよ」

「では、どうして父はそこに?」

 真剣な眼差しで本棚を見つめていた男性が、そっと一冊を抜き、頁を捲る。

「娘が何を読んでいたか知りたかったんだろう。生前は互いに気恥ずかしくて聞けなかったことも、今なら堂々と知ることができる」

 俺は、視ることができるだけだ。その姿を見つめて、思いを汲みとるしかできない。

 先程本棚に向かった様子から、彼はコーナーの本を一冊ずつ順に読込んでいっているようだ。扱う手つきや頁に落とす視線から、本を大事にしていることが分かる。いや、大事にしているのは本だけではなさそうだ。読書に集中しきれない様子で、ちらちらとこちらの様子を窺っている。詩織のことを心配して、見守ってもいるのだろう。

 そう伝えると、詩織は声を震わせた。

「確かに最近、悪いお客さんも減りました。父が見守ってくれていたんですね。……お父さん、ありがとう」

 詩織が本棚に向かって声を掛ける。

「お父さんが全部読みきって成仏しちゃわないように、私、ハードボイルドコーナーをもっと充実させますね」

 涙を拭った詩織が、冗談めかせた調子で笑顔を見せる。愛らしい人だ。

 父親の複雑な心境は察するに余りある。彼が心配しているのは本屋の経営だけではない。むしろ、娘に悪い虫が寄り付かないように気を揉んでいる。が、当の本人は男性客が増えたと無邪気に喜んでいるのだから、そりゃ心配だろう。

 俺も、彼にいらぬ心配を掛けぬよう早々にお暇したかったが、そうも言っていられそうにない。脂汗は止まらないし、軽く目眩さえする。我慢しすぎた。青木まりこ現象――、紙やインクのにおいが原因ともいわれる。麗しい女店主にこんな頼みはしたくなかったが、不本意ながら俺は震える声で言った。

「すみません、トイレ借してください」

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