循環

秋冬遥夏

循環

 学習塾は生きている。電気看板の目立つ、大きな正面玄関が、もちろん「くち」にあたる。そこに一台のボックスカーが停まったと思えば、生徒がそろっと降りてくる。これが「ごはん」だ。いただきます。

「こんにちは」

 事務の藤田さんがやわらかく挨拶をすると、生徒は緩やかにそれぞれの消化管に送られる。ここでいう消化管とは、教室のことだ。第一教室は個別指導室、口腔。第二教室は英会話教室、食道。第三〜五は集団授業教室、胃。第六は予備校、小腸。第七と第八は自習室、大腸。といったところ。

 この「京進学院」は、未就学児から高校生まで引き受ける、いわば雑食の塾である。私はここで個別指導塾講師として、はたらいている。


 教室が消化管なら、私たち講師は消化酵素だ。もっと言えば、生徒たちを「作り変える」成分である。授業をして、宿題を出して、定期テストまでのスケジュールを立て、受験勉強に寄り添う。そうすることで、生徒が点数を上げたり、第一志望校に受かったりする。それを実績として、春に吸収する。実績こそがエネルギー源であり、塾が生きていくパワーになる。


『3月1日(水)担当講師、金澤』

『次回の授業、3月2日(木)20:00コマ』

 授業記録簿を書いていると、教室に足音が流れ込んでくる。あ、生徒だ。食べものだ。

「長瀬くん、こんにちは!」

「……こんにちは」

 そっけない生徒にも、とびっきりの笑顔を見せる。私の顔はもう、そういう風にできている。

「宿題やってきた?」

「……はい」

「すごい! がんばったね」

 私は、褒める。とにかく褒める。これが業務の基本だ。授業をすることよりも大切だと、研修会でも耳が痛くなるほど言われている。

「先週は『一般動詞の過去形』をやったんだけど、覚えてるかな?」

「はい」

「いいね! さすが、長瀬くん」

 また、褒める。はじめは気恥ずかしかった言葉も、いつの間にか、反射的に出てくるようになった。2年と働くうちに、私も立派な「先生」に生まれ変わったのだ。


①基本はedをつける。

②最後がeで終わる単語はdだけつける。

③studyのような最後が「子音+y」の単語は、yをi に変えてedをつける。

④それ以外に「不規則動詞」がある。


 テキストを指でなぞりながら、先週の範囲をざっと振り返る。ここで時間を取ってはいられない。今日はまた新しい部分を、教えなくてはならないのだ。

「えっと、大丈夫そう、かな?」

「はい」

「よし! じゃあ今日は次の『be動詞の過去形、過去進行形』に入るね。先週よりは簡単だと思うから、一緒に頑張ろう!」

 こうして、私の消化活動は始まる。知識とモチベを与えることで、長瀬くんを作り変える。これは、私の意思ではない。会社の意思だ。ここの地下にある「脳」が私たちを動かしている。


 私はこの塾に足を踏み入れて、この春で7年目になる。しかし講師としては3年だ。つまりどういうことか。元はというと、自分も生徒だったのだ。

 中3の受験期に、この塾に食べられた。どの塾でも別によかったのだが、あの塾には元カレがいる、あそこは嫌いな子が通ってる、と消去法でここに行き着いた。


「こんにちは……」

 そう口にして、はじめて教室に入ったときのことはよく覚えている。たしかあの時の私の声は、いまの長瀬くんと同じで、気だるげな若いものだった。

 そのとき、誰も「こんにちは」とは返してくれなかった。みんな前だけを向いて、授業準備を進める。クラスの優等生だけを集めました、みたいな「つん」とした空間。そこに遅れて先生がやってきて、何事もなく授業が始まった。思えばこの先生が塾長で、のちに私を塾講師として雇ってくれることになる。


 はじめ、私は塾が嫌いだった。というのも私は、じっとしていられなかったからだ。それはまわりが静かであればあるほど大変で、ひと言でいえば「問題児」だった。小学生のころから授業中に立ち歩いたり、消しゴムを先生に投げたり、学校を抜け出して公園に行ったり、そんなことばかりする子どもだった。

 その日も気づいたら、身体が塾を抜け出して、近くのコンビニに足を運んでいた。お利口に座っていることが、どうしてもできなかった。塾から逃げ出した私は、「じゆうだ!」なんて両手を広げては、叫んでいたものだ。


 コンビニでパンを買った私は、そのあとまた玄関に戻って、この教室に帰ってきた。もう一度、食べられて消化された——つまり反芻されたのだ。

「なにしてたんだ」

 クリームデニッシュを持って再び現れた私に、先生が眉を寄せて聞く。こわい顔だった。

「えっと……これが欲しくて、」

「そんなん授業終わってから買わんかい!」

 先生は笑っていた。みんなも笑っていた。それは「叱り」ではなく「ツッコミ」だった。私の失態を笑いに変えてくれたのは、はじめてだった。心がふっと温かくなり、すぐに塾が居場所になった。私はここにいていいんだ、と思った。


 そんなこんなで、まんまと消化されて「受験生」になった私は、より勉強に打ち込んだ。勉強さえしていれば、あとは自由なこの場所が、心地よかった。毎日と放課後、家にも帰らずにこの塾に足を運んだ。

 そうして勉強に打ち込んだ私は、県内の公立高校に進学して、その後、順調に実家から通える私立大学に受かった。合格、と書かれたパソコンの画面を見て、すぐ塾に報告しに行った。


「先生、大学生になれました」


 私がそう言うと、受付の全員が立ち上がる。プログラミングされたロボットのように「おめでとう」と誰もが言った。事務の藤田さん、受付バイトの土屋さん、個別講師の先生と、塾長。みんなが私の実績を喜んだ。

「おめでとう」

 同じように拍手する塾長が、ゆっくり近づいてきて、私の肩に手を置いた。

「ところで、金澤さん。ここでバイトする気はないかい。受付でも、個別講師でも、なんでもいいんだ」


 今思えば、懐かしい。あのときは嬉しかった。心の拠り所だったこの塾に、まだ身を置けることに安心した。あれから、あっという間に2年が経ち、いまもこうして授業をしているのだ。

「いま『現在進行形』を復習したけど、このときのbe動詞を過去形にするだけで『過去進行形』になるの。簡単でしょう?」

 長瀬くんは、こくっと頷いた。ちなみに彼は、食べものでいえば「魚」という感じがする。若くて、細くて、さっぱりしてる。

「じゃあ、このページの問題、いったん解いてみよう! わからなかったら、すぐに呼んでね」

 それだけを残して私は、ゆうなさんの丸つけに向かった。


 基本的に個別指導は、先生ひとりに対して生徒がふたり置かれる。いま私が見ているのは、長瀬くんと、ゆうなさん。ひとりが問題を解いてるときに、もうひとりの丸つけ解説をする。効率よく授業を進めていく必要があるのだ。

「ゆうなさん、できた?」

「うん」

「じゃあ丸つけするね!」

 そう教室に響く私の声は「生徒」のときとは違う。もっと高くて、やわらかい、私じゃない声だった。


 授業が終わっても業務は終わらない。LINEでの授業報告を保護者に送る仕事がある。本当は講師がそれぞれ、自分の授業について報告するのだが、時間の都合上、全講師分を私がやっている。つまりゴーストライトをしているのだ。

「じゃあ、お先。失礼しまーす」

「あ、おつかれさまです」

 そんな会話も何度かすると、オフィスは私と塾長だけになる。ふたりだけの空間は、静けさが鳴る。


『本日、授業を担当しました講師の葉山です。本日は算数「帯グラフと円グラフ、規則性の問題、正多角形」を行いました。グラフの百分率の計算もすんなり解け、次の単元にスムーズに進めました。規則性の立式も、正多角形の作図もよくできています。次回の授業は3/4(土)20:00〜です。お待ちしております』


 送信を押して、あと4人。この作業をしているとふと、私は立派な「先生」になったように感じる。「問題児」から「受験生」になり「高校生」になり「大学生」までなったら、次は「先生」になる。そうやってこの塾に作り変えられてきた。

 思えば昔から、私は変わるのが得意だった。粘土のように、まわりにつくり変えられて、固められて「私」ができていく。いつもそうだった。

 よし、これで最後。送信を押して、記録簿を片付けて、授業報告が終わった。30分かかった。

「お先、失礼しまーす」

 みんなと同じトーンの声を残して、その場を去った。それが、モノマネをしてるみたいで楽しかった。


 それから同じように、授業をしてはLINEを送る毎日を過ごして、数日が経ったある日。ソファに沈む母が、のそっと起きて、言った。

「あんた、バイトもいいけど。将来のことは考えてるんでしょうね」

「いや、考えてるよ。公務員になるって」

「そう? なら、明美さんにいいバイト聞いたんだけど。どうよ、やらない?」

 明美さんとは、母のママ友仲間で、この町で教員をしてることもあり、いろんな「つて」を持っている人だと聞いている。

「なんのバイトなの」

「児童館よ。ほら、そこの公園に設置されてる。市が運営してるから、公務員就活に有利に働くかもよ」

「へえ」

 私は乗る気じゃなかった。新しい場所に行くというのは、新しい自分になるということだ。私にとって自分を作り変えるのは、学習塾でなくては心配だった。

「ごめん、いい話だけど、余裕がないから……」

「いいから、やってみなさいよ」

 私の声は、母には届かない。母親とはそういうものなのだ。子どもが自分の思い通りにならないと、気が済まない。そういう生き物なのだ。

「あのね、この話を蹴るってことは、就職を諦めるってことなのよ。わかってるの。あんたがやらなかったら私、明美さんになんて言えばいいの」

 それから母は、同じことを何度も言った。就職に有利に働く。明美さんになんて言えばいいの。大したバイトじゃないわよ。やってみなさいよ。


 そして、やることになった。履歴書を書いて、面接に足を運んだ。面接をしてくれた館長は、ずいぶんと優しい雰囲気を抱えていた。

「えっと、金澤さん、ね」

「はい!」

「来てくれてありがとうね。基本的には、もう働いてもらおうと思ってるから」

「ありがとうございます!」

 精いっぱい「先生」の声を出した。明るくて柔らかい、私じゃない声は、きっと印象がいいはずだ。

「いい高校出てるじゃない。大学は社会福祉学科。じゃあこれから社会福祉士の国家試験を取るのかな?」

「はい、取る予定です!」

 館長の名札には、名前の上に「社会福祉協議会」と小さく書かれている。私はまた作り変えられるんだと悟った。先生じゃなくて、もっと違うなにかに。


 面接はすぐに終わった。児童館の自動ドアが開いて、春の香りが頬を撫でた。目の前の公園にはピンクの桜と、黄色いたんぽぽが揺れている。

 春だから、みんな新しい形になるんだ。花が色づくように、蛹から蝶になるように、私も変わらないといけない。この気持ちは、成長期の戸惑いと似ているかもしれない。自分が、自分の形じゃなくなっていく、そういう戸惑いだ。

『3/10(金)児童館』

 カレンダーアプリにそう登録して、新しい私になることに決めた。消化される、春だから。これから私は、どんな風になるんだろう。


 やはり人間は声から変わる。児童館の職員は、塾よりもずっと声が高かった。例えるなら、アミューズメントパークのお姉さんのような、エンターテイメント性の高い声だ。

「わあ、金澤さん、こんにちは! 今日からだよね? 一緒にがんばろうね!!」

 みんな、元気がよかった。子どもたちからパワーを吸い取っている、といった様子だった。そんな彼女らは、午前9時になると一斉に開館に向かう。そして間もなく、子どもの足音が流れ込んでくる。塾よりも大きなバタバタとした、雑な音だった。

 ここに来るのは、生徒じゃない。みんなは「利用者」と呼ぶ。下は乳幼児から、上は中学生まで、いろんな子がいるらしい。私は自動ドアの前で「ねえ、新しい先生がいる」とひそひそ話している小学生たちに、近寄って、精いっぱい「児童館職員」の声を出した。

「こんにちは! 私、今日から来た金澤って言います。みんな、仲良くしてね!!」


 いつの間にか、バイトを掛け持ちしてしまった。今日は塾のバイト。生徒は深澤くんと、宮内くん。ふたりは仲がよく、お喋りして授業が進まないため、離して座らせなくてはならない。

「深澤くん、できた?」

「ううん」

「えー、がんばってよ!! ほら」

 深澤くんがじっと私を見る。子どもながら、世の中を達観しているその目は「私」という存在を見抜いてるようだ。

「先生、なんかいいことあったでしょ」

「え、そんなことないよ! 毎日、一緒だよ」

「彼氏できた?」

「だから、違うってば!」

 彼は気づいたんだ。私が「先生」じゃなくて「児童館職員」になりかけてるということに。どっちつかずの私。生卵でもなく、目玉焼きほど火の通ってない、そんな微妙な状態の私。

「ほら、そんなことはいいから! この問題解いて」

「いやだ」

「いやじゃないの。先生とがんばろう?」

 深澤くんを見ていると胸が痛くなる。この子はまだ「生徒」じゃない。作り変えられてない。いつまでもそんな彼でいて欲しいけど、私は授業をする。消化をする。それが仕事だから。


「お姉さん! 見て、シンデレラ!」

「すごい! あやさんは塗り絵、じょうずだね!」

 そして一か月後。私は「児童館職員」として落ち着いた。つまり塾講師のバイトをやめることになった。理由は簡単で、余裕がなかったから。大学が始まって、課題に追われる中で、ふたつの役割を演じきれなかったのだ。

 しかし、長くお世話になったとは思えないほど、あっさりとした最後だった。藤田さんに辞めたい旨の話をすると、すぐに辞めることになった。

「あら、そう。じゃあ4月末で終わりにするね。新しい講師も入ったから、心配しないでね」

 散々と消化された「私」が行き着くのは、やっぱり排泄だった。いままでも色んな人が食べられては、いなくなった。私も同じように、消えていくんだ。そう悲しくなったのもつかの間で、いまは児童館で楽しく働いている。


「ねえ、お姉さん! 見て、怪獣!」

 ふと、児童館の子どもが私を引っ張る。男の子は怪獣が大好きだ。今日もきっと絵を書いたり、ブロックを積み上げたりして、独自の「怪獣」を作ったのだろう。

「どれどれ、そうたくんはどんな怪獣を作ったのかな?」

「ちがうよ、お姉さん。外だよ」

 そうたくんは窓の外を指さす。そこには、怪獣がいた。鉄筋コンクリートの殻を破って生まれた、大きなカワウソのような怪獣だった。背中には、青い看板が刺さっている。そこにはよく見慣れたフォントで「京進学院」と書かれていた。

「お姉さん! こっちくるよ」

「やだ、こわい!」

「いやよく見たら、かわいいよ」

 子どもたちは大騒ぎだった。よく見ると、カワウソは辺りの家や学校を、片っ端から食べている。身体もどんどん大きくなっている様子だ。食べてくれてるんだ。私が飲み込めないものを、代わりに消化してくれているんだ。


「ここです! 私は、ここです!」


 私は外に駆け出し、叫んだ。カワウソはウインクをして、一直線にこちらに近づいてきた。子どもたちはすぐに避難させられ、気づけば、警察や消防がまわりを囲んでいた。

 大きなカワウソは近くで見ると、間違いなく塾だった。口はいつもくぐっていた玄関だったし、身体にはめられた窓からは教室が見える。中にある椅子も机も、間違いなく働いていた塾のものだった。

「オマタセ、シタ」

「助けに来てくれたの?」

「ウン、モウ、ダイジョウブ」

 カワウソは身体を伏せて、背中に乗るように言った。途中、警察が止めに入ると、カワウソは強く威嚇した。グルル、という地響きのような声があたりに響いた。私はゆっくりと近づいて、前足に生えた梯子から背中に上った。

「あ、ありがとう」

 そう言って頭をなでると、カワウソは嬉しそうにその場を走り回った。家も病院も、公園の遊具も全部がぺちゃんこになった。そしてそれを、食べるのだ。私は楽しくなった。全部なくなってしまえばいい。消化されてしまえばいいんだ。


 後に自衛隊も到着し、戦車が私たちに向かってミサイルを撃った。しかしそんなものは効かない。すべてを跳ね除けて、ふたりではしゃいでいた。

「ねえ、カワウソさん。なんで来てくれたの」

「自由ダカラ、ダヨ」

「どゆこと?」

「君ガ、コレカラ、ドウ変ワルノカ。ソレハ君ノ自由ナンダ」

 カワウソは真面目な顔で話した。誰モ君ノ邪魔デキナイ。消化スル。全部、作リ変エル。ミンナノ、ナリタイモノニ。


 カワウソは食べたものを、今度は出した。第一教室から第八教室まで、食べたものが順に送られていくのが、窓越しに見えた。そして最後はお尻から、消化されたものが、形が変わって出てきた。公園の遊具は、科学博物館になった。駅は、さくらの森公園になった。学校は、ガソリンスタンド。病院は、温泉施設になった。

「すごい!」

「ミンナ、ナリタイモノニ、ナルンダ」

 私は町が変わっていくのを、ただひたすらに見ていた。そして、私は何になろうかと考えた。生徒でもなく、先生でもなく、児童館職員でもない私は、一体どんな「私」なんだろう。最後に、児童館があった周辺に、大きな商店街ができた。


  ◇◆◇


 それは、穏やかな春の日。私は、下の子を幼稚園に送ってから、商店街で買い物を済ませて、帰ってきたところだった。これから仕事だ。結局、私は「SF作家」になった。そして「二児の母」でもある。家族が帰ってくるまで、小説を書くのが日課だ。

 小説を書きながら、買ってきたパンを食べようと思い、紅茶を淹れた。そのパン屋さんはクリームデニッシュが名物だと聞く。かくいう私も、寄ったらいつも買ってしまう。その懐かしい味が、なぜか私の心を奪って離さないのだ。


 パソコンを開いて、執筆に取りかかった。いまは文芸雑誌に掲載する『カピバラ寿司』という短編を書いている。パンをひと口食べて、小説を書く。コーヒーをひと口飲んで、小説を書く。そうやって、自分の世界を文章にしていく。


 小説の内容はこうだ。

『魚の漁獲量が減っている現代。なんとか経営を立て直そうと、ある寿司屋が「肉寿司」を提供を始める。はじめは、牛、豚、鶏といった馴染み深い肉だったが、猪、鹿、鴨といった「ジビエ寿司」を出すようになり、それがよく売れた。しかしある日「カピバラ寿司」を出したことを境に非難が殺到する』というディストピア文学である。

 私自身、なぜ自分の文章が売れるのかは、見当がつかなかったが、私の小説の帯には「未だかつて見たことがない」や「奇天烈! 金澤ワールド全開」といった文字列が並ぶ。


 私は、小説をキリのいいところまで書くと、ソファに寝転がって、そのまま眠りについてしまった。次に私が起きたのは、ランドセルを背負った長男が帰ってきたときだった。今日は早帰りの日で、珍しく幼稚園より帰りが早いらしい。

 ただいま、という気だるげな声を聞いて私は、おかえり、と起き上がった。

「ねえ、カナト」

「なに?」

「今日、幼稚園にナギを送ったとき、なっちゃんママに会ったのよ。そしたらね、なっちゃん中学受験するんだって」

 カナトは聞いてるのか、聞いていないのか、ランドセルを投げ捨てて「うん」と言った。早帰りだから友だちと遊ぶことで、頭がいっぱいなのだろう。

「ねえ、聞いてる? ママはね、カナトにも中学受験してほしいの。どう、やってみない?」

 クリームデニッシュのカスタードが、胃のなかをバニラの香りで満たす。あ、もうこんな時間。ナギを迎えに行かなくちゃ。

「じゃ、考えておいてね」

 そう言い残して、玄関に手をかけたとき、カナトは「おれ、勉強したくない」と言った。この世は勉強がすべてなのに。この子は何言ってるのかしら。

「カナト、塾は実はすごい楽しいところなのよ。お母さんは昔、働いていたことがあるの。カナトも一回行ってみたらどう?」

 その後も私は、長く話してしまった。思い入れがある分、口調も強くなってしまった。いけない、ナギが待ってるんだった。


 助手席にカナトを乗せて、車を走らせた。目指すはさくらの森公園の近くにある、学習塾だ。今日はカナトの体験授業初日だった。

「カナト、筆箱とか持ってきたんでしょうね」

「うん、持ったよ」

「消しゴムとかもしっかり入ってる?」

「入ってるよ」

 そんな会話をするうちに、すぐに着いた。行ってらっしゃい、楽しんで。そう言って、カナトを見送った。カナトはゆっくりと玄関に向かっていく。いまだに学習塾が生きているのかは、私にはわからない。

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循環 秋冬遥夏 @harukakanata0606

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