最終日に檸檬を添えて

サトウ・レン

最終日に檸檬を添えて

 きょう私は長年、勤めていた書店を辞める。病気が原因だ。すくなくともいまの仕事は継続不可能だ、と感じたからだ。ちいさな本屋で、閉店業務を行うのはいつもひとりで、一週間のうち、五日は私の役目だ。鍵は後日、店長に渡しに行くことになっている。実際に渡せる日は来るだろうか。自信はない。病気のことを伏せたまま、店長には辞めると伝えたので、かなり強引な引き止めにあったが、頑張って断り続けた。店長は元ヤンだけあって、その迫力はちょっと怖かった。懇意にしていた出版社の営業さんや取次の担当者へのご挨拶をした時は、優しい言葉を掛けてもらえて、嬉しかった。


 入り口の鍵を閉め、薄暗くなった店内をぐるりと回る。本好きが高じて書店員になった身としては、寂しさがある。漫画、児童書、理工書、人文書……、そして最後に足を止めた場所は、もちろん文庫棚だ。長く私が担当していたこともあり、好きとは別の感慨がある。

 

 ちくま文庫のコーナーから一冊の本を抜き出す。『梶井基次郎全集』だ。棚差しになったものを平積みになった文庫の上に置き、表紙を撫でる。


 いま私の手には、檸檬がある。当然、果物のレモンのことだ。


 病気をきっかけに、この書店に憎しみしか抱けなくなった頃から、私には考えていたことがある。

 ただ憂鬱な心持ちのまま、本を並べ、レジを打つようになった頃から、私には考えていたことがある。


 梶井基次郎「檸檬」だ。いっそこの書店が爆発してしまわないか、という夢だ。


 私は本のうえに、檸檬を置く。

 私はむかしから最後の覚悟を持てない人間だ。ぎりぎりまで悩んだ。本当にこんなことをしていいのだろうか。辞めるならば、綺麗に辞めるべきではないのか。きりり、と強烈な胃の痛みを感じて、私はもう一度、檸檬を見る。檸檬だけを見る。怖いものから眼を逸らすように。


「やめろ」

「なんてひどい奴だ」

「それでも本好きか」

「恥を知れ」

「怖い。怖いよ」

「いまならまだ間に合う」

 聞こえてくる本たちの声は、幻聴だろうか。彼らに罪はない。その通りだ。私はいつからか坊主が憎けりゃ袈裟まで憎い、という気持ちになり、本まで憎んでしまっていたのかもしれない。そう言えばこの病気になってから、本を一冊も読んでいない。


 我が愛しの本たちよ、心の弱かった私を許してくれ。

 もう、こんなことはしないから。

 病気がつくり出した憎しみは、きょうすべて忘れるよ。


 病院に一回すら行かず、自分で勝手に付けただけの、この『店長嫌いイヤイヤ病』は、どうせきょう治るのだから。


 私は檸檬の横に一緒に置いて、意識しないようにしていた時限爆弾をリュックの中に戻して、店を出ることにした。


 次に働く書店を、すぐに見つけないと。

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